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星海の灯火 〜英雄は星を救わない〜  作者: セルヴォア


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夜の解析卓

あの夜から三日が経っていた。


輸送艦隊は帰投した。損耗は軽微だったとの発表があったが、リオには正確な数字は知らされていない。艦の修繕がどの程度かも、乗員の報告がどうだったかも、公式には流れてこなかった。


知らされないということは、そういうことだとリオは思っていた。


航路解析室の夜番は、通常二名体制だ。今夜は別の担当者が艦医局の診察で抜けていて、リオ一人になっていた。頼むと残してくれた報告書が一束あったが、それは二時間前に終わっていた。


その後もリオはまだ席を立っていない。


端末の画面には、公開されている共和国艦隊の行動記録が開いてある。直近六ヶ月のルメン中立採掘帯周辺での哨戒記録だ。記録そのものは誰でもアクセスできる。整理している者がいなかっただけで、データはある。


リオは三ヶ月前から並べ始めていた。




最初は気になった程度のことだった。


共和国の哨戒艦隊が採掘帯の外縁を回る時、通常は一定の軌道を取る。どの艦隊も似たような経路を通り、季節的な変動の範囲内で動いている。それが基準だった。


ところが四ヶ月前から、一部の動きが少しずれている。


「ずれ」というのも、言い方が難しかった。明確な逸脱ではない。数値として異常とは判定されない。ただ、見ていると何かが引っかかる。


通常の哨戒は往復が均等だ。行きと帰りで速度がほぼ等しい。それが、特定のルートだけ帰りが速い。速度の差は誤差と言えば誤差だが、月を追うごとにその差が少しずつ広がっている。


何かを確認している。


それがリオの感覚だった。




椅子の背当てに体を預けながら、リオはデータを一行ずつ見ていった。


腰の辺りが重くなり始めていた。夜番の前から一日中座っていたので、正直なところもう限界に近かった。灯導補助具の圧力を少し調整して、背中の張りが一番楽になる位置を探した。


しばらく試してから、どこにしても同じだと気づいて手を止めた。今日はもう疲れている。それだけのことだ。


画面に目を戻した。


共和国の記録だけではなく、財閥巡察艦の位置記録も開いてある。公式には「通常の保安配置」とあるが、あの夜の動きをリオはずっと気にしていた。本来いるはずの場所にいなかった。なぜそこにいなかったのか、正式な説明はない。


財閥の艦隊行動は完全には開示されない。当然のことで、それを問いただす立場にリオはない。


ただ、いなかったことは事実だ。


共和国艦隊の動き方が変化した時期と、財閥の配置記録を重ねてみると、ある時点から少し噛み合わなくなっている。もともと一致していたかどうかも確かめようがないが、何かが変わった時点があることは見える。


これは感覚だ、とリオは思った。


数値ではない。証明できる根拠でもない。コルネリウス少佐に報告しても「精度が低い」と返ってくるだろう。あの夜の報告でもそう言われた。


そしてコルネリウスは悪意があるわけではない。基準に従っているだけだ。証明できないものは根拠にならない。それは正しいことだ。


正しいとわかっていても、リオの感覚は消えなかった。




ドアが開いた音がした。


「まだいるのか」


ユーリ・バルツが顔を出した。


片手に布袋を提げている。診察室の消灯時刻はとっくに過ぎているはずで、夜回りの経路にここは入っていない。


「夜回りじゃないよね、それ」


「何が」


「その袋」


ユーリは少し考えるふりをしてから、「差し入れだ」と言った。


「袋に入ってるだけで夜回りとは言ってない」


布袋から魔法瓶と包みを出して、卓の端に置いた。包みの中身は非常食の固形パンで、温かくはないが軽食として充分なものだった。


「食ったか」


「夕方に」


「夕方と今は違う」


ユーリは空いている椅子を引いて座った。消灯後に解析室に長居する理由はないが、それについては何も言わなかった。


リオは魔法瓶を開けた。中身は薬湯で、甘みを足してある。ユーリが医療士官として処方する薬湯の配合は、いつも少し甘い。本人は「飲みやすくしてやってる」と言うが、リオにはそれが何かの配慮だとわかっていた。


「調子はどうだ」


「今日は普通かな。昼は少し辛かったけど」


「ちゃんと報告してるか」


「してる。してるけど、夜の解析を終わらせたくて」


「どっちが大事かわかるか」


「……身体のほう、かな」


「かなじゃなくて確実にそうだ」


ユーリはそれ以上は言わなかった。言い方はきついが、終わらせないでいる理由があることはわかっているのだと思う。




「見てるのは何だ」


「共和国の行動記録」とリオは言った。「ここ半年の。哨戒軌道が少し変わってる気がして」


「少し、か」


「数字の上では誤差の範囲なんだ。でも月ごとに重ねると、同じ方向にずれてる。それって、感覚なんだけど」


ユーリは画面を横から見た。


表の数字は整然と並んでいる。素人が見てもどこが問題かはわからない。それでもユーリは少しの間黙って見てから、何も言わなかった。分析の専門家ではないので、正しいとも間違いとも判断しない。


「報告しないのか」


「……精度が低いって言われると思う」とリオは言った。「あの夜もそうだったし。証明できないものを上に上げると、また体調のせいだって思われるかもしれなくて」


「体調のせいって言われた経験があるのか」


「直接はないんだけど。でも、気になって」


ユーリは魔法瓶の蓋を取って、自分でも薬湯を少し飲んだ。


「僕の感覚って、信じていいのかな」とリオは言った。


言ってから、少し自分で恥ずかしくなった。何を聞いているのかと思ったが、ユーリは変な顔をしなかった。


「俺はお前の感覚を信じてる」


「……え」


「お前の感覚は今まで外れたか」


リオは少し考えた。


「……外れてない」


「じゃあ信じろ」


それだけだった。


ユーリは補足しなかった。理由も説明も加えなかった。ただ「じゃあ信じろ」と言って、包みのパンを一つリオに押しつけた。


リオはパンを受け取って、少しの間それを持っていた。


「ありがとう」


「食いながら続けろ。飯も食わずにデータ見ても精度は上がらない」




ユーリとの最初の出会いは、士官学校の入学直後だった。


健康診断の順番待ちで、リオは長椅子に座って番号を待っていた。並んでいる学生たちの大半は普通に立っていた。リオが座っていることを気にする者もいたが、多くは気にしないふりをしていた。


診察室の前まで来た時、検査用の台の高さが合わなかった。


標準の体格を前提にした台で、リオが乗ると腰への負担が大きかった。検査を担当していた軍医は見た目で判断せず、ただ「何か問題ありますか」と聞いてくれた。


リオは「少し高いです」と答えた。


「どのくらい下げれば楽ですか」


「具体的に教えてもらっていい?」


隣から声がした。白衣ではなく学生服の男が、同じく補助検査の担当として立っていた。同期の一年生で、医療系に希望を出して補助当番に入っていた。後で知ったことだが、士官学校の医療補助当番は任意で、彼は自分から手を挙げていた。


「え、と。あと十センチくらい」


「わかった。調整する」


それがユーリだった。


検査が終わった後、廊下で少し話した。ユーリが先に「さっきは助かったか」と聞いてきた。助かったと答えると、「次からも言え。毎回言わなきゃ対応されないのは変な話だから」と言った。


変な話、という言い方がリオには少し新鮮だった。おかしいとも当然とも言わず、ただ変だと言った。


後になってリオは、ユーリが医療士官を志した理由を聞いた。


「祖母が流行り病で亡くなった」とユーリは言った。「間に合わなかった。医療が届いていたら間に合ったかもしれない地域だった。だから」


それ以上は言わなかった。感傷的な話し方をしない人間だということは、その頃にはもうわかっていた。


感情は言葉より行動で示す。ユーリはずっとそういう人間だった。




パンを食べながら、リオは画面に戻った。


データの続きを開いていくと、ある月だけ記録の形式が少し変わっている部分があった。担当者が変わったか、集計方法が変わったか。原因は何でもいい、ただそこだけ数字の粒度が違う。


そこを飛ばして次を開いた。


共和国の哨戒軌道が、最近の二ヶ月で大きく変化している。変化の幅は誤差と言えば誤差だ。しかし方向が一定だった。採掘帯の外縁から、帝国の輸送路と交差する宙域への方向に、じわじわと近づいている。


次が来る、という感覚が積み上がっていた。


今夜だけの話ではない。一度の交戦で終わる話でもない。何かが動いている。それが何かはまだわからないし、証明もできない。


「……次があると思う」とリオは言った。


「根拠は」


「ない。でもある気がする」


「感覚か」


「うん」


ユーリは黙って聞いていた。


「証明できないと報告できないから、証明できるまで見ておきたいんだ。数字になるまで待って、それで遅かったら意味がないから」


「遅くなる前に言えるようにしたいってことか」


「そう」


ユーリはまた黙った。


しばらくして「俺には専門的なことはわからない」と言った。「でも感覚を積み上げてる人間の話は聞く。お前が何かを見てるなら、見続けろ」


それだけだった。




深夜の一時を過ぎた頃、ユーリは「そろそろ戻る」と言って立ち上がった。


「お前も早く休め」


「もう少しだけ」


「もう少しが一番信用できない言葉だ」


「わかってる」


「わかってないから言ってる」


ユーリは布袋を手に取った。魔法瓶はリオの卓に残していった。残りを飲めということだろう。


ドアが閉まった。


解析室に一人になった。


艦の夜は静かだった。設備の低い駆動音と、換気の微かな流れと、端末の画面の光だけがある。


リオは温くなった薬湯を飲みながら、データを見ていた。


共和国の記録をもう一度最初から開き直した。六ヶ月分を一枚の表にして、月ごとの変化を重ねる。座標の変動を折れ線で引いてみる。


折れ線は緩やかに、しかし一定の向きに動いていた。


確信が積み上がっていた。証明にはならない。数字は「誤差の範囲内」を示し続けている。それでも、積み上がっていた。




画面の端に、別のウィンドウが開いていた。


星海流の航路記録だ。艦の航路解析システムが常時収集している背景データで、本来の業務では参照しない。今夜は念のために開いておいた。


ある座標のデータが、一瞬だけおかしな数字を出した。


通常の星海流のパターンではあり得ない揺れ方だった。一ヶ所だけ局所的に歪んで、また戻る。星海流はそういう動き方をしない。


リオは体を起こした。


数字を確認しようとした時、システムの自動処理が入った。


「計測誤差として記録されました」


という表示が出て、そのデータは補正されて消えた。




リオはしばらく画面を見ていた。


消えた数字が何だったか、もう確かめようがない。システムが誤差として処理した以上、記録には残らない。


ただ、見た。


あの瞬間の数字は、確かに見た。


それが何を意味するのかはわからない。星海流の歪みと今夜の感覚が繋がっているかどうかも、今は考えようがない。


リオは端末を保存して、ウィンドウを閉じた。


腰の張りが限界だった。続けるのは明日にする。


椅子を引いて、ゆっくり立ち上がった。灯導補助具の補圧機能を最弱にして、廊下へ出た。


艦の夜が続いていた。

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