閃光
艦内通路が、走る足音で満ちていた。
上甲板から機関部、補給区から医療区まで、あらゆる方向で乗員が動いていた。
警戒令が発令されてから五分が経っていた。
リオは航路解析室の卓についていた。
通常の解析装置に加えて、戦闘時専用の出力画面が展開されている。
艦隊全体の位置情報、周辺宙域の探知データ、他艦との戦況共有。
データが次々と更新され、画面が点滅する。
体が、重かった。
配備への移動で、関節に余分な負荷がかかった。
廊下を早足で歩いただけだが、それで足の裏の感覚が鈍くなっていた。
椅子の補助具を調整して、深く息を吸った。
今は身体のことを考えている場合ではなかった。
リオは財閥巡察艦の位置記録を戦闘システムに読み込んだ。
三隻すべての後退が、共和国艦隊の接近反応より一時間早かった。
この事実を、誰かに伝えなければならない。
「ズール少佐」
コルネリウスが隣の卓で戦況データを展開していた。
画面を見たまま、リオの方を向かない。
「財閥巡察艦の後退開始が、共和国艦隊の反応より一時間早いんです。
財閥は今夜のことを事前に知っていた可能性があります」
コルネリウスは一瞬、画面から目を上げた。
「今はそういう話をしている時間じゃない」
「でも、この情報は今の戦況に関係する可能性があります。
財閥の巡察艦が退いた方向に——」
「メルク少尉、今は目の前の仕事をしろ」
それだけだった。
コルネリウスはすでに別の画面に移っていた。
間違っていない。今は全員が目の前の脅威に集中すべきだ。
それは分かっている。
ただ、一時間のずれが頭から離れなかった。
「艦長より全艦へ」
オスカーの声が艦内に流れた。
「東方宙域に共和国機動艦隊を確認した。機動戦艦三隻。護衛艦が前出する。クライセンブルクは輸送艦隊の直前位置を維持し、灯導砲による牽制射を行う。輸送艦は現在の航路を保て」
クライセンブルクが動いた。
加速の感覚が足の裏から来た。
床が微かに震え、艦内の空気が一段重くなる。
星灯素炉が出力を上げていた。
探知データを展開すると、共和国機動艦隊の反応が画面に現れた。
三つの輝点が、帝国艦隊に向かって来ている。
機動戦艦は帝国の標準型巡航艦より細く、速い。
高速機動と情報戦を組み合わせた共和国の主力戦艦だ。
護衛艦二隻では、正面から当たれば押し込まれる。
「共和国機動艦隊、速度上昇」と解析区の誰かが読み上げた。
「間合いを詰めています」
「情報巡航艦の反応は」とコルネリウスが確認した。
「今のところ確認されていません」
やりとりが続く。
リオは画面を見ながら、共和国艦隊の動きを追った。
三隻が一直線に来ていない。
一隻が正面、二隻が斜めに展開しながら間合いを詰めている。
輸送艦隊の護衛艦を、左右から挟もうとしている動きだった。
「挟撃の形です」
無意識に声が出ていた。
コルネリウスが一瞬こちらを見た。
「正面の一隻が牽制に入り、側面の二隻が護衛艦を抜きます。
本命は護衛艦の死角から輸送艦に直接向かうつもりだと思います」
コルネリウスは何も言わなかった。
画面を見て、少し黙った。
「艦橋に送れ」と言った。
否定しなかった。
リオはデータを艦橋へ転送した。
転送が完了した直後、光が走った。
補助モニターの外縁に、白い閃光が飛んだ。
護衛艦が灯導砲を発射したのだと、データが示している。
艦内が揺れた。
着弾ではない。近傍を通過した何かによる空間歪みの伝播だ。
棚の上のクリップボードが落ちた。誰かが机の縁を掴んだ。
「護衛艦ライゲル、共和国艦隊と交戦開始」
戦闘が始まっていた。
リオは戦況を追いながら、財閥巡察艦の現在位置を横に開いた。
三隻は協定範囲の外縁まで退いている。今の戦闘圏から完全に離脱した距離だ。
見ている。この戦闘を、安全な場所から見ている。
「最大出力は使うな、炉の揺らぎに注意しろ」
オスカーの声が入った。
炉の揺らぎ。
ミナが言っていた揺らぎだ。
灯導砲の発射準備音が、艦内に低く響き始めた。
艦体が小さく震える。
次の瞬間、轟音だった。
壁を通して体に来る振動ではなく、空気そのものが圧縮されるような重さだった。
クライセンブルクが主砲を放った。
音は解析室まで、骨に響いた。
光が走って、消えた。
データ画面に着弾記録が出た。
命中ではない。共和国艦はかわしていた。
しかし共和国艦の動きが変わった。
正面の一隻が速度を落とした。
「正面艦、減速。交戦を維持する模様」
「側面の二隻は」
「継続接近中。一隻、方位を変えました。輸送艦隊側に向かっています」
輸送艦に来る。
リオは輸送艦四隻の現在位置を確認した。
護衛の二隻が左右で動いている。共和国の側面艦が護衛艦の隙間を狙っていた。
データ上では、隙間がある。
「護衛艦の間隔が広がっています」
リオは声に出した。
「共和国の側面艦が通り抜けられる幅です。輸送艦隊の第三、第四輸送艦に直線コースです」
コルネリウスは確認した。
「護衛艦ライゲルへ転送する」
リオはデータを送った。
応答は来なかった。
戦闘中に通信の余裕があるかどうかは分からない。
データが届いたかどうかも分からない。
役に立っているかどうかも、分からない。
ただ、やれることをやっていた。
また閃光が走った。
今度は近い。艦内照明が一瞬、揺れた。
補助モニターの中で、共和国の側面艦の一隻が速度を急激に落とした。
護衛艦ライゲルが、コースを変えていた。
転送したデータが届いたのか、艦長の判断なのか、分からない。
ただ、護衛艦が動いた。
侵入コースに、帝国の艦が入った。
共和国の側面艦が牽制射を受けた。
閃光が連続した。解析室の壁が震えた。
リオは右舷の探知データに目を向けた。
小さな反応がある。
大型艦ではない。機動戦艦ほどの出力反応でもない。
輝点の大きさと動き方から、情報巡航艦の可能性があった。
後方に待機し、戦闘記録を収集しながら帝国艦隊の対応を分析している。
正面の三隻が陽動なら、この艦がいる意味がある。
「コルネリウス少佐、右舷の反応を確認してください。
情報巡航艦の可能性があります。正面三隻の攻撃が陽動で、情報収集が本目的かもしれません」
コルネリウスは少し考えた。
「艦橋に送れ」
リオはデータを転送した。
椅子の補助具をもう一度調整した。
背中から腰にかけて、締め付けるような張りが出始めていた。
今日はこんな日になるはずではなかった。
それでも、体はまだ動いている。
もう少し、やれる。
データを開き続けながら、リオは思った。
これが自分のできることだ。
また閃光が走った。
今夜は、長くなる。
右舷の反応が動いた。
「右舷の輝点、速度上昇」と別の解析担当が読み上げた。「近づいています」
情報巡航艦だとしたら、後方に留まるはずだった。それが前に出てきている。
「陽動が崩れた、ということか」とコルネリウスが言った。「それとも——」
「本命が来た、かもしれません」とリオは言った。
二人の視線が重なった。一瞬だけ。コルネリウスがすでに艦橋への通信を開いていた。
「右舷接近艦、正体不明。至急確認を要請」
応答が来た。
「艦橋より。右舷の反応、確認した。情報巡航艦と判断、迎撃機動に移行する」
クライセンブルクが傾いた。
進路を変えた。
航路解析室の中で、リオは机の端を掴んだ。重力が斜めにかかってきた。足の裏から座面へかけて、加速の力が押してくる。
「対象、更に速度上昇」
「右舷護衛艦、追尾開始」
通信が重なり、画面の輝点が動く。
リオはデータを見続けた。
右舷から来ている情報巡航艦と、正面で交戦中の機動戦艦三隻の動きを同時に追った。
何かが引っかかった。
正面の三隻が、わずかに動いている。正確には、退いていない。退くのではなく、斜めに動いた。護衛艦が右舷対応に割かれた分、輸送艦隊の側面に新しい角度が開く。
「少佐」
「今は右舷を——」
「正面の三隻も動いています。右舷艦が囮です。本命は輸送艦の側面です、今」
コルネリウスが画面に目を向けた。
一秒あったかどうかの沈黙だった。
「艦橋へ。正面三隻、左側面へ展開中。輸送艦隊の左舷が無防備になる。対応を要請」
「輸送艦隊、緊急左旋回」
オスカーの声が艦内に流れた。
輸送艦四隻が一斉に動いた。
重い艦が向きを変えることで、帝国側の防衛陣形に隙間が生まれた。しかし輸送艦が向きを変えることで、標的としての側面が共和国艦隊から外れる。
「護衛艦ダインスレイフ、左舷前方へ展開」
「クライセンブルク、右舷艦の迎撃に移行。輸送艦隊との距離を保て」
命令が続く。
リオは戦況図を更新し続けた。
輝点が動く。閃光が走る。着弾記録が数値として流れてくる。データの上では、今何が起きているかが見えている。
それでも、自分の転送したデータが実際の戦闘をどう動かしているのかは、画面の向こうの話だった。
コルネリウスが転送した、とリオは思った。正確には、コルネリウスが判断して転送した。それが繋がっている。
閃光が連続した。
今度は解析室の照明が落ちた。一瞬だけ暗くなって、非常灯が点いた。赤い光が室内に満ちる。
「被弾」と誰かが言った。「どこだ」
「艦首外装に接触、直撃ではない」
「損傷報告を待て」
暗い中でリオは画面を見た。非常灯のせいで画面が見にくかった。目を細めてデータを追う。
右舷から来ていた情報巡航艦が、速度を落としていた。
護衛艦が間に入っている。
正面の機動戦艦三隻のうち、一隻が後退していた。輸送艦への側面機動を試みたが、輸送艦が向きを変えたことで標的の角度が変わった。残り二隻は正面で交戦を続けている。
「正面の二隻、交戦を継続。ただし前進が止まりました」
「右舷艦も——速度が下がっています。護衛艦の牽制が入っています」
「後退する動きは」
「まだありません。形勢を見ています」
数分が過ぎた。
リオには数分だったが、体感では違った。背中の張りが頂点を超えていた。肩から首にかけて筋肉が固まっていて、画面から目を離すたびに視界が揺れる気がした。
意識を画面に戻す。
それだけを繰り返した。
「共和国機動艦隊、後退開始」
報告が入った時、解析室の空気が少しだけ変わった。
誰かが息を吐いた。
長く、深く、音を抑えた息だった。
リオも同じように息を吐いていた。肩から力が抜けた。少し抜けた。完全には抜けなかった。右舷の情報巡航艦がまだ引いていない。
「右舷の情報巡航艦は後退したか」
「速度落としたまま、停止に近い状態です。方位は変えていません」
「記録収集を続けているということか」
「可能性があります」
リオは考えた。
記録収集が本来の目的だとするなら、三隻の機動戦艦はその護衛兼陽動だった。帝国側の対応を引き出して記録する。どの防衛パターンを使うか、どの速度でどの艦がどう動くかを、全部記録する。
そのために今夜の戦闘があった。
被弾した側からすれば洒落にならないが、共和国の意図としては効率的な情報収集だ。
「情報巡航艦の記録範囲に入らないよう艦隊配置を変えてください、という上申はできますか」とリオは聞いた。
コルネリウスが横を見た。
「何の根拠で」
「今夜の戦闘が、帝国の対応を記録することが目的だった可能性があります。三隻の攻撃パターンが段階的に変わったのは、帝国が各段階でどう反応するかを見ていたからだと思います。そうだとすれば、情報巡航艦は今も記録を続けています」
「証明できるか」
「できません。でも、その艦がまだ引いていない理由は他に思いつきません」
コルネリウスは少し黙った。
「上申は艦長の判断だ。データとメモを一枚にまとめて出せ。報告書として処理する」
「はい」
照明が戻った。
非常灯の赤から、通常の白い光に切り替わった。
解析室の床に落ちたクリップボードが、誰かの足元に転がったままになっていた。誰も拾う余裕がなかったものだ。
「情報巡航艦、後退開始」
報告が来た。
共和国の全艦が、採掘帯の外縁の向こうへ退いていった。
戦闘が、終わった。
リオは椅子に背を預けた。
補助具がきしんだ音を立てた。それほど強く寄りかかっていたらしい。背中が痛かった。腰は感覚が鈍くなっていた。今夜の中でいつの間にかそうなっていた。
指先がかすかに震えている。
集中しすぎると、こうなることがある。体の余分なところに力が入り続けて、気づかないうちに限界を超える。
「損傷報告まとめろ」とコルネリウスが言った。「各艦の被弾記録、今夜の戦闘記録、一時間以内に上へ出す。手の空いた者から処理に入れ」
解析室が動き出した。
リオも端末に向かった。
今夜のデータを整理しながら、報告書用のメモを作る。情報巡航艦の件は別に一枚まとめる。証明できない推論だが、コルネリウスは上に出すと言った。
それがどう扱われるかはわからない。
報告書の片隅に残るかどうかもわからない。
ただ、やれることをやった。それは確かだった。
後片付けが一段落した頃、コルネリウスがリオの卓の前に立った。
「今夜の動き方を見ていた」と言った。
リオは顔を上げた。
「側面の穴を報告した時の判断は速かった。根拠が薄くても声を上げた。それは正しかった」
褒め言葉だとは受け取りにくい言い方だった。「正しかった」というのはつまり、結果として間違っていなかったということだ。次は間違うかもしれない。そういう含みがあることはわかった。
「ありがとうございます」
「ただ、体調管理は徹底しろ」とコルネリウスは言った。「お前が崩れると解析が止まる。解析が止まると艦が困る。個人の問題ではない」
「わかりました」
コルネリウスはそれで終わりにして、別の担当者の方に歩いていった。
個人の問題ではない、という言い方は、優しくはなかった。でも正しかった。体を管理するのは義務だという話で、そういう受け取り方ができるなら、今夜の言葉は悪くなかった。
リオは手元のメモを端末にまとめた。
窓の外は暗い。採掘帯の星雲が、光の中に静かにある。戦闘が終わった後の宙域は、何もなかったように見えた。
どこかの艦が損傷を受けて、修繕作業が始まっているはずだ。
輸送艦が航路を保ち直して、荷を運んでいるはずだ。
今夜ここで何が起きたかを、誰もが把握しているわけではない。リオも全体は見えていない。自分のいた解析室から見えた範囲だけだ。
それでも、自分のいた場所で、自分にできることをやった。
今夜のことは、それだけだと思った。




