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星海の灯火 〜英雄は星を救わない〜  作者: セルヴォア


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光の届かない家の記憶

輸送任務に就いて、五日が経った。


解析室に一人でいる時間が増えていた。

夜番の引き継ぎが終わると、フォルストとクラインが退勤し、コルネリウスも書類を持って出ていく。


リオはそのまま卓に残って、翌日分のデータ整理を続けた。

別にしなければならない理由があるわけではない。

ただ、空室の方が作業しやすかった。


画面に並んでいるのは過去三日分の星海流データだ。

変動率、揺らぎの周期、星灯素濃度との相関値。

それを左から右へ順に確認して、様式に整理する。


体は、少し重かった。


関節の奥の張りと、足の裏のぼんやりとした重さが夕方から続いている。

今日は悪化していない。増えてもいない。

ただ、ある。


ある、ということを受け入れようとしてきた。

うまくいっているかどうかは、まだよく分からない。


データを処理しながら、リオはふと手を止めた。


画面の角に、小さな光が映り込んでいた。

採掘帯の外縁から差し込む星灯素の輝きが、モニターの隅に反射したものだ。

白金色に近い、静かな光だった。


その光を見た瞬間、子どもの頃の台所の明かりが、頭の中で重なった。


父トマは、港湾の艦艇整備が仕事だった。


錆と油と、宇宙を行き来する艦の部品に囲まれた現場で、朝から晩まで手を動かしていた。

家に帰ってきても、また何かを直していた。


あの日は、台所の床だった。


段差がある。入居したときからある、古い家のわずかな段差だ。

床板が少し浮いていて、引き戸の枠と高さが合っていない。

普通の人間には問題にならないが、リオには足を引っかけやすい場所だった。


気がつくと、父が道具箱を開いて床に座り込んでいた。

鑿を使って、木の端をゆっくり削っている。


「何してるの」とリオは聞いた。


「段差をなくす」とトマは言った。


それだけだった。

リオが黙っていると、「お前が躓かないように」と付け加えた。

視線は床に向いたまま、工具を動かしながら言った言葉だった。


子どもだったリオには、うまく返せなかった。

「ありがとう」と言ったか、「うん」と言ったか、もう覚えていない。


ただ、父がその作業を続けていたことは覚えている。

段差を削り終えると、今度は廊下に低い手すりを取り付けた。

解析の作業がしやすいように、机の高さを変えた。


トマは一度もリオに「よくなったか」とか「治るのか」とか聞かなかった。

ただ、家の中の不便を見つけると、自分の手で直していった。


母エリナは、小さな食堂で働いていた。


忙しいはずなのに、エリナはいつも一冊の手帳を持ち歩いていた。

症状の記録だった。


「今日の膝の張りはいつから」「頭痛の場所はどこか」「何をした後に出やすいか」

エリナはリオに聞いて、答えた内容を丁寧に書き留めた。


医師に診せるとき、エリナはその手帳を持参した。

数ヶ月分、数年分の記録を医師の前に広げて、「この子の症状はこういう経緯があります」と説明する。


最初の医師には「お母さん、心配しすぎですよ」と言われた。

「この年齢の子どもが疲れやすいのはよくあることです。運動させてみましょう」


エリナは「そうですか」と言って帰った。

帰りの道で、一言も余計なことを言わなかった。


別の医師を探した。また別の医師を探した。

その度に手帳を持っていった。


隣の家のおばさんの声は、今でも時々耳に残ってる。


「あの子、また休んでるの?」

「あんなに動けなかったら、怠けてるんじゃないかと思うのよね、正直」


壁を挟んで聞こえてきた声だった。リオは七歳か八歳のころだったと思う。

自分のことを言っているのは分かった。


エリナの返答は、静かだった。


「この子の痛みは本物です」


それだけだった。

怒ってもなく、言い訳もなく、ただはっきりとそう言った。


会話の続きは聞こえなかった。

エリナがどんな顔をしていたか、リオには見えなかった。


でも、その声は覚えている。


リオがその言葉の意味を本当に理解したのは、もっと後のことだ。

母はあのとき、医師にも隣人にも、何度も同じことを繰り返してきたはずだった。

それでも諦めなかった。


士官学校の受験は、十七歳のときだった。


前夜、リオは眠れなかった。

体の調子が悪い日に重なったこともあるが、それ以上に、ただ怖かった。


落ちたらどうしよう、という恐怖ではなかった。

受かっても、軍でやっていけるのかという恐怖だ。


こんな体で、どこまでできるのか。

迷惑をかけるだけではないか。

入ったとして、本当に役に立てるのか。


夜中に水を飲みに台所へ行くと、トマが起きていた。

暗い台所で、テーブルに肘をついて何かを考えていた。


「眠れないのか」とトマは言った。


「うん」とリオは答えた。


父は少し黙った。コップに水を入れて、リオに渡した。


「無理するな」とトマは言った。「でも、お前ならやれる」


それだけだった。


うまい励ましではない。理由も、根拠も何もない言葉だ。

それでもリオは、あの台所でそれを聞いてよかったと思っている。

今でも。


解析卓の前で、リオは姿勢を直した。


軍に入ったのは、生活のためだ。

奨学金は士官学校まで出た。分析士官として採用されれば、給与が出る。

家族に送れる額は多くないが、なにもないよりはずっとましだ。


入隊を告げたとき、エリナは手帳を閉じて言った。

「体を大事にしなさい。あなたの体は、あなたのものだから」


トマは何も言わなかった。

ただリオの肩に一度、手を置いた。


それで十分だったと、今は思う。


リオは解析卓の前で、目を開けた。


画面に、現在時刻のデータ更新通知が出ていた。

定時のリアルタイム同期だ。財閥警備艦隊の位置情報も含まれている。


リオはそれを開いた。


手が、止まった。


財閥の巡察艦の位置が、変わっていた。


一隻ではない。三隻すべてだ。


ルメン共同保安協定の保安位置から、財閥巡察艦が後退していた。

後退の量は小さくない。位置記録の時刻を見ると、数時間前から段階的に動いていたことが分かった。


——なぜ退く。


今まで少しずつ内側にずれてきた巡察艦が、今度は逆方向に、ずっと大きな幅で動いている。


後退する理由が、分からない。

ただ、後退している。そして、それを誰も報告していない。


「全艦、警戒態勢に入れ」


艦内スピーカーから、オスカー艦長の声が響いた。


「共和国機動艦隊の反応が複数、我が艦隊の東方宙域に確認された。哨戒レベルを引き上げる。各区画、配備を確認せよ」


解析室の照明が変わった。

通常の白い光が、警戒色の橙色に切り替わる。


リオは財閥巡察艦の位置記録をもう一度見た。

後退の開始時刻は、共和国艦隊の反応が記録された時刻より、一時間早かった。


一時間。


財閥は、帝国艦隊より一時間早く、今夜のことを知っていた。


艦橋からの呼び出し音が端末を鳴らした。

「解析区、全員配備につけ」


リオはデータを記録ファイルに保存した。

財閥の後退と、共和国艦隊の接近と、一時間のずれ。

三つを別々の話として処理することが、どうしてもできなかった。


身体の奥で、揺らぎが走った。


波ではない。痛みでもない。

ただ、来る、という確信だけが細い糸のように通り抜けた。


今夜は、止まらない気がした。

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