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星海の灯火 〜英雄は星を救わない〜  作者: セルヴォア


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クライセンブルクの日常

解析室の一日は、記録の照合から始まる。


前日から処理されたデータが解析卓に積み上がっていた。

星海流の変動ログ、周辺宙域の星灯素濃度計測値、他艦からの航路情報共有、哨戒記録の更新分。

それぞれを専用の様式に整理し、翌日の航路判断に使える形に直す。

地味で、数字を追う忍耐が要る仕事だ。


リオにとっては、苦にならなかった。


数字を見ていると落ち着く。

感覚の話ではなく、記録の話ができる。

比較できて、照合できて、結論が出せる。

身体が安定している時間は、この作業に集中することで時間が速く過ぎた。


ただし、安定が続く時間には限りがある。


灯導補助具が腰を支えている間は集中が持つが、三時間を超えたあたりから身体の奥に鈍い疲労感が溜まり始める。

関節が張る。頭の後ろが重くなる。

今朝は六時半から入って、すでに二時間が経っていた。


まだ動ける、とリオは思う。


解析室には自分以外に三名いた。

奥の卓でフォルスト上等兵が紙の記録をデジタルへ転記している。

窓側ではクライン技術曹が機器の診断ログを読んでいる。

もう一名、中央卓のエット士官は今日は朝から艦橋への書類運びで不在だった。


フォルストとクラインは、リオに対して特段の敵意はなかった。

挨拶すれば返ってくる。昨日は輸送任務の概要について短く話した。

それ以上ではないが、それ以下でもない。


問題は、班長だった。


コルネリウス・ズール少佐がドアを開けて入ってきたのは、七時を少し過ぎた頃だった。

短く刈った栗色の髪、厚い金縁の眼鏡、几帳面に手入れされた顎鬚。

脇には書類の束を抱えていて、書類を抱えた姿が板についている男だ。


「おはようございます」


リオが声をかけると、コルネリウスは視線だけをちらりとこちらへ向けた。


「ああ」


それだけだった。

フォルストへは「昨夜分の転記は終わったか」と確認し、クラインへは「昨日の診断ログと比較しておけ」と指示した。

リオには何もない。


コルネリウスは一台ずつ卓を回っていく。

リオの卓に差し掛かった時、表示板の上に展開されていた分析グラフへ一瞬だけ目が留まった。

財閥巡察艦の六週間分の位置記録を時系列で可視化したものだ。


三秒ほど見て、コルネリウスはそのまま次へ向かおうとした。


「ズール少佐」とリオは呼び止めた。


コルネリウスが振り返る。


「財閥の巡察艦の位置記録なんですが、過去六週間で協定の保安位置から段階的にずれが続いています。

一日単位では誤差内ですが、傾向として確認しておく価値があるかと思いまして」


コルネリウスはリオを見た。

表情は変わらない。

眼鏡の奥の目が、数秒、リオを測るように動いた。


「数値が誤差内であれば、問題ない」


「はい、数値は。ただ、傾向として六週間を重ねると——」


「六週間分を足しても、誤差内のものは誤差内だ」


リオは言葉を止めた。


「メルク少尉」


コルネリウスの声は穏やかで、感情が乗っていなかった。


「報告書に書けるデータだけを上げてくれ。

数値で説明できないものは、今は要らない」


それだけ言って、コルネリウスは自分の卓へ戻った。


リオは表示板に目を落とした。


数値で説明できないものは要らない。

そういう言い方をされると、反論の手がかりが消える。

コルネリウスは嘘をついているわけではない。

数値上は問題がない。それは事実だ。

ただ、その言葉の向こうに何があるかを、リオは知っている気がした。


説明できないなら、信用できない。

身体制約のある人間の感覚は、なおさら信用できない。


そういう空気が、言葉の形になる前にそこにあった。


輸送任務の全体像を確認するため、リオは朝の業務報告書を開いた。


今回の任務で運搬する星灯素の精製品は、圧縮充填型の輸送コンテナ換算で二百四十基。

換算すると帝国艦隊の中型戦隊が約三ヶ月間展開し続けられる量の燃料になる。

届け先は帝国第七補給基地、正式名称をカルタス後方支援拠点という。

ルメン中立採掘帯を抜けた先、帝国辺境域の中継点に設けられた基地だ。

そこから前線の各分艦隊へ再配分される。


輸送艦四隻のうち一隻に損傷が出ただけで、届く量が変わる。

届く量が変われば、前線の展開が変わる。

展開が変われば、誰かが死ぬ確率が変わる。


地味な任務だが、地味だからこそ止まれない。


リオはそのことを、改めて数字として確認した。


正午を少し過ぎた頃、ドアが開いて白衣の人間が入ってきた。


ユーリ・バルツ中尉だった。


「お疲れ。定期確認の時間だ」


そう言いながらクリップボードを掲げたが、目は笑っていた。


ユーリは細身で背が高く、くせのある赤茶の髪をいつも雑に束ねている。

顔つきは穏やかだが、口から出てくるものは大抵そうではない。


「今日の体調は?」とユーリは言いながら、フォルストとクラインに向かって軽く手を上げた。


「変わりないよ」


「その『変わりない』の内訳を聞いてるんだが」


ユーリはリオの隣の椅子を引いて、許可を取らずに座った。

医療士官として定期確認に来るのは正当な業務で、コルネリウスも表向きは文句を言えない。

もっとも、コルネリウスは今は自分の卓で書類を読んでいて、こちらを見ていなかった。


「関節の張りは」


「朝からある。三時間を超えたあたりで少し増えた」


「頭痛は」


「後頭部が少し重いかな。機器を長く見てるせいかも」


「食事は?」


リオはわずかに間を置いた。


「朝は食べたよ」


「昼は?」


「……今から行くつもりだった」


「十二時二十分だぞ」


ユーリがクリップボードに書きつけながら言った。

書いているのが本当に医療記録なのか、ただの落書きなのかはよく分からない。


「飯抜きで数字を追い続けると、感覚が鈍る。知ってるよな」


「知ってる」


「じゃあ行ってこい。俺も一緒に行く。

ちょうど外来が一件キャンセルになって、時間がある」


「医療区の仕事はいいの?」


「さっき言っただろ、キャンセルがあったって」


ユーリが立ち上がって、リオの肘をつついた。


「お前が飯を食うかどうかを確認するのも、医療士官の仕事のうちだ」


リオは表示板を閉じた。

閉じながら、コルネリウスの方をちらりと見た。

班長は書類から目を上げなかった。


食堂は艦の中央部にある。

輸送艦隊の護衛艦である以上、クライセンブルクの食事は量が多く質は標準的だ。

リオは汁物と固形食を選んだ。


「コルネリウス少佐と何かあったか?」


向かいに座ったユーリが、スプーンを持ちながら言った。


「なんで分かるの」


「顔」


「そんな顔してたかな」


「してる。口は笑ってるが、目がしてない」


リオは汁物を一口飲んだ。


「財閥の巡察艦の位置ずれの話を上げた。

誤差内だから問題ないと言われちゃった」


「それだけか」


「数値で説明できないものは要らないってのも」


ユーリは少し黙った。

スプーンを置いて、腕を組んだ。


「コルネリウス少佐は、悪い人間じゃないんだよな」


リオは頷いた。

それは本当だと思う。


「誠実に規則に従う人間だよ。数値で説明できないものを危険な根拠にしてきた事故も、昔はあったんだろうね。

だから数値以外を弾く。その判断基準は、間違っていない部分もあると思う」


「そうだな」とユーリは言った。「でも、それがお前への対応になると話が変わる」


リオは何も言わなかった。


「お前の感覚が特別かどうかは、俺には判断できない。

でも、数値で説明できない感覚を全部切って捨てていいかどうかも、俺には分からない」


「証明できないんだよ」とリオは言った。「感覚だから」


「今は、な」


ユーリがまたスプーンを持って、固形食を割った。


「お前が今まで感じたことで、外れたことがあったか」


リオは少し考えた。


「……覚えてる限りは、ないと思う」


「だったら俺はお前の感覚を信じる。俺はそれだけだ」


他愛ない言い方だった。

証拠でも論理でもなく、ただそう言った。


リオは汁物をもう一口飲んだ。

食堂の空気はうるさくもなく、静かすぎもなかった。

テーブルの端で誰かが笑っている声がした。


昼食を終えて解析室へ戻ると、午後の作業が待っていた。

今度は過去データとの照合よりも、現在の航路状況のモニタリングが主になる。

ルメン採掘帯の第十七区を通過中の艦隊が、今日中に第十八区との境界を超える予定だ。

その境界付近は、過去に星海流の乱れが記録された区画でもある。


リオは記録を引き出しながら、集中を取り戻していった。


日が傾いた頃、通信端末に表示が出た。

発信元は機関部、送信者はM・クラウゼとなっている。


非公式ルートだった。

業務連絡ではなく、艦内の个人間通信を使った連絡だ。


「繋いでいい?」という短い文字が来た。


「うん」とリオは返した。


少し間があって、通信が繋がった。


「お疲れ」


ミナの声だった。

機関部の音が背後に微かに聞こえる。


「お疲れ。今は時間あるの?」


「三十分だけ。点検のすき間」


ミナ・クラウゼは艦載機関技術者で、星灯素炉、推進機関、艦内補助系の調整を専門にしている。

士官学校の機関学実習で出会ってから三年、今は婚約している。

同じ艦に乗ることになったのは、リオが今回の輸送任務に配属されて偶然に分かったことだった。


「技術的な話が先でいい?」とミナが言った。


「うん」


「星灯素炉の出力値に揺らぎがある。昨日から気になってて」


リオは手を止めた。


「どんな揺らぎ?」


「通常誤差の範囲内ではあるんだけど、周期が少し規則的すぎる」


「振動の周期に規則性がある、ってことか」


「そう。ランダムなノイズじゃなくて、何かに合わせてるみたいな感じ。

プログラムエラーなのか、外部からの何かなのか、今のところ原因が分からない」


リオは一瞬、昨夜の星海流のデータを思い出した。

あの感覚。身体の奥を走った細い糸のような揺らぎ。


「それって星海流の動きと連動している可能性はある?」


通信の向こうで、少し間があった。


「……考えてなかった」とミナが言った。「でも、そうかも。どうして分かったの?」


「分からない。なんとなくそんな気がしたってだけだよ」


「リオらしい答えね」


ミナが少し笑う気配があった。


「これは私の方でもう少し調べる。データが何かに引っかかったら共有するわ」


「ありがとう」


通信が少し静かになった。

機関部の音だけが低く聞こえる。


「今日、ちゃんと食べた?」


「食べたよ。ユーリと一緒に昼飯を」


「またユーリが来てたの」と言って、ミナはまた少し笑った。


「あの人、結局リオの面倒を見るのが好きなのね。本人は認めないけど」


「僕も同じことを思ってる」


「身体は」


「今日は、悪くない方だよ」


「本当に?」


「本当に」


「してる顔だよ」とミナが言った。


「顔、見えてないでしょ」


「声で分かるのよ」


リオは少し黙った。

声で分かる、という言葉の意味を、否定できなかった。


「もう少し、大丈夫だから」


「頑張らなくていいところは頑張らなくていい」


「分かってるよ」


「分かってないから言ってる」


静かな声だったが、力があった。


「そろそろ時間ね。また通信する」


「うん。ありがとう」


通信が切れた。


解析室は静かだった。

フォルストはすでに退勤していて、クラインが一人、別の卓で何かを処理している。

コルネリウスの卓は今は無人だった。


リオは表示板を開いた。

今日の記録をもう一度通しで見る。


財閥巡察艦の位置ずれは、今日の更新でも続いていた。

誤差内、と処理されている。


星灯素炉の揺らぎ。

星海流の変動ログ。

巡察艦の軌道。


それぞれに根拠がある。

それぞれに説明がある。

しかしリオには、三つが別々の話に見えなかった。


なぜそう思うのか、言葉にできなかった。


言葉にできないものを報告すれば、また「数値で説明できないものは要らない」と言われる。

それが分かっているから、黙っている。


黙っていることと、間違っていることは、別だと思いたかった。


窓のない解析室に昼夜はないが、艦内の照明がわずかに色を変えて夜の時間を告げていた。

今日の当番を終えて立ち上がると、膝の裏に鈍い張りがあった。


廊下を歩きながら、リオは思った。


なぜ自分だけが、こういう身体で生まれたのか。


その問いに答えはなかった。

あるとしたら、誰かが教えてくれるものではない気がした。


ただ今日は、ユーリが飯に連れて行ってくれた。

ミナが通信をくれた。

それだけが確かだった。

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