星海流の朝
宇宙の深部にあるルメン中立採掘帯には昼夜がない。あるのは光と影だ。
この採掘帯を満たす光は、星海流の照り返しと、岩礁の底から滲み出す星灯素の輝きが重なったものだった。
白金色と呼ぶほか言葉がない光が、浮遊岩塊と粒子の霧の合間を縫うように流れ、帝国巡航艦クライセンブルクの外壁を静かに染めていた。
美しいと思う暇がないほど、それは当たり前の光景として乗員たちの前にあった。
星海流とは、人が名付けた自然の現象だ。
宇宙を走る魔法的エネルギーの帯が幾筋も重なり、光の川のようにうねりながら宙域を貫いていく。
星間を行き来するすべての艦が、この流れを読み、乗り、時に押し流される。
流れに乗れば省エネルギーで遠くへ行ける。逆らえば燃料を大量に消費する。乱れれば、どんな艦でも航路から押し出される。
乗員たちが星海流を読む目を育て、各艦に航路解析の専門士官を置くのも、そのためだった。
クライセンブルクは、帝国標準型の星鋼巡航艦だ。
全長は帝国主力戦艦の三分の二ほどで、護衛艦や輸送艦よりひとまわり重い。
星灰色の装甲板が分厚く張られ、艦の中央部から後方へ向かって艦橋塔が立ち、左右に灯導砲の砲列が並んでいる。
艦尾近くの星灯素炉排熱口がわずかに発光して、採掘帯の白金色の光の中に溶け込んでいた。
帝国艦隊の中では、主力戦艦に続く中堅に当たる艦種だ。
艦隊決戦の主役ではないが、星灯素の輸送護衛、採掘帯の哨戒、補給線の維持といった止められない仕事を担う。
今回の艦隊においては旗艦格であり、この艦が全体を束ねる立場だった。
クライセンブルクの後方、帝国第三灯路輸送艦隊の残りの艦が続いていた。
護衛艦が二隻、前方と後方の外縁を固めながら、輸送艦四隻を挟む形で進んでいる。
輸送艦の腹には、帝国補給基地へ届けるべき星灯素の精製品が積まれていた。
採掘帯を行き来する輸送任務は地味で目立たないが、この資源が届かなければ帝国艦隊の動きは鈍る。
輸送路を守ることが、そのまま戦線を支えることになる。誰もが知っている事実だった。
艦橋に立つ人間は六名だった。
艦長席のオスカー・ライナー大佐が、腕を組んだまま前方表示板を見ていた。
四十代前半、がっしりとした顎に白髪の混じった短い銀髪、目の奥だけが静かに動いている男だ。
二十年以上の現場経験が体の芯にまで染みた人間に特有の、重心の低さがあった。
声を荒らげたことがなさそうに見えて、その代わり一言一言の重量が普通ではなかった。
「財閥の巡察艦の現在位置は」
副長のカール中佐が確認した。
「三時方向、遠距離。協定の保安位置から内側に入っています。ただし許容範囲内です」
「記録しておけ」
オスカーが短く言った。指示でも問い詰めでもなく、ただ事実として処理しろという声だった。
「第十七区、通過。航路に異状なし」
航路士が読み上げる。
「第十八区との境界まで、あと四十分」
「了解。針路維持」
艦橋の後部、通信卓を担当する士官が、隣の計器担当に小声で話しかけた。
「財閥は今日も協定の端っこを歩いてる」
「いつものことだろ。あそこは条文の解釈が広すぎるんだ」
「問題はそこじゃない。あの位置からだと、万が一の時に動ける範囲が変わってくる」
「考えすぎだよ。不滅の灯守様でもあるまいし」
笑いが一瞬こぼれた。
不滅の灯守。帝国艦隊の最高指揮系統の果てに存在すると言われる影だ。
正式な継承役職の名は星海の灯守といい、帝国の創立以来途絶えることなく継承されてきたとされている。
ただし本人が表に出ることはほとんどない。
勝利した戦場に必ず何らかの形で関わっていたとか、一晩で三つの宙域の戦況を変えたとか、戦艦を素手で止めたとか、話が大きくなるほどに人々の口の端を離れなくなっていった。
艦乗りたちの間では、困り果てたときの定型句になっていた。
「灯守ならどうする」「灯守が来れば解決する」、そういう使われ方をする存在だ。
通信士官は「そうだな」と言って計器に目を戻し、それきり話は続かなかった。
艦橋の一個下の甲板に、第三解析区画があった。
狭い通路の奥、防音材が薄く張られた室内に、航路解析室があった。
艦橋より機器の密度が高く、ハム音が絶えず低く鳴っていた。
外の輝きが遮られるぶん、室内は計器の明かりだけで満たされていた。
リオ・メルク少尉は、解析卓の前にいた。
卓の面には複数の表示板が展開している。
星海流の強度データ、財閥巡察艦の軌跡記録、過去の星海流パターンとの比較グラフ。
リオはそれを左から右へゆっくり目で追い、ときに指で特定の区画を拡大し、また元に戻した。
動作に迷いはなかった。軍入りから日が浅くても、解析の手順は身体に入っていた。
座席には、細い機械的な支持枠が組み込まれていた。
背当てから腰、そして座面の外縁にかけて、星灯素を光源とする補助系がリオの下半身をわずかに支えている。
灯導補助具と呼ばれる設備で、この艦の機関部が乗艦時に設定した。
解析業務で長時間座り続けるとき、身体への負担を分散させるための仕組みだ。
乗艦当初、機関部の担当士官が確認しに来て、「使いにくい点があれば言ってください」と言った。
リオはひとまず礼を言った。有難いと思った。
同時に、何かが胸の底に石を置いたような感覚もあった。
その石の名前を言葉にしようとすると、うまくいかなかった。
廊下の向こうで、声がした。
「あそこにいる新人、何者?」
「航路解析の子。しばらく乗ることになってるって」
「身体が悪いんだって。なんで艦に乗せてるんだ」
「知らん。上の話だろ」
足音が遠ざかった。リオは顔を上げなかった。表示板の数値を指で展開して、別の軌跡と重ね合わせた。
聞こえていないふりをするのは、もう慣れていた。
聞こえていないふりと、本当に気にしていないふりは、少し違う。
どちらを使っているかは、自分でもはっきりしなかった。
採掘帯を通るたびに、リオは星海流の生データを自分で確認する習慣があった。
機器が自動処理した後の数値ではなく、ノイズと判定された値も含めた元のログを引き出して眺める。
大抵は何もない。あっても、確かに誤差だと分かる。それでも見る。なぜかは、うまく言えなかった。
今日のデータは、表示上は平穏だった。
ルメン中立採掘帯の第十七区、星海流の強度は過去七十二時間の平均と一致していた。
揺らぎの周期も標準範囲内。機器のアラームは鳴っていない。
財閥警備艦隊の巡察艦は協定の保安位置の内縁に静止し、その位置も許容誤差の範囲に収まっている。
異状なし、と処理するべきデータだった。
しかしリオは、財閥巡察艦の過去三ヶ月の位置記録を横に並べて、もう一度見た。
最初から今日の場所にいたわけではなかった。六週間前から、少しずつ、じわりとずれていた。
一日あたりにすれば判断に迷う量だ。
しかし六週間分を重ねると、軌跡には向きがあった。
巡察艦は、ある宙域に向けて、ゆっくりと動き続けていた。
根拠、と呼べるものがなかった。
数値はある。記録もある。ただし全て「誤差内」と処理されている。
ずれを問題と呼ぶには、何かが足りなかった。
リオは自分の感覚というものを、どこまで信用していいのかを、入隊してからずっと問いかけている。
身体の具合が悪いときは感覚もずれることがある。頭痛があれば判断が曇る。疲れていれば焦りが出る。
それは分かる。分かった上で、それとは別に、データを見ていると何かが引っかかることがある。
数値では説明できない、しかし確かにそこにある引っかかりだ。
今日も、あった。
星海流の平穏なデータの中に、小さな何かが。
——思いすごしかもしれない。
指先が止まった。リオは記録のコピーを手元に保存して、表示板を閉じようとした。
その瞬間だった。
身体の内側で、何かが走った。
波ではなかった。痛みでもなかった。
言葉にするなら——揺らぎ、とでも呼ぶしかない感覚が、胸の奥から足の先まで、一本の細い糸のように通り抜けた。
一瞬で消えた。データには何も出なかった。機器のアラームは鳴っていない。
リオは表示板の前で、動かなかった。
指先が冷たかった。
艦外の景色を映す補助モニターの隅に、銀色の船体が一隻見えた。
財閥の巡察艦だった。遠く、静止していた。
艦がいる位置は、ルメン共同保安協定の地図に定められた保安位置より、ほんの僅かだが内側だった。




