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星海の灯火 〜英雄は星を救わない〜  作者: セルヴォア


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18/25

沈黙の時

共和国艦隊が完全に後退へ入ったと確認されたのは、その十分後だった。


十分しか経っていないのに、もっと長く感じられた。


解析室ではまだ誰も席を立たない。表示板の赤は消えていないし、通信も続いている。戦闘は終わったと言い切るには、残響が多すぎた。


「共和国機動戦艦三隻、外縁側へ離脱」


解析員が読み上げた。


「情報巡航艦二隻、後退。無人機母艦、回収行動に移行」


コルネリウスが短く頷いた。


「通行枠境界の保持を継続。輸送艦各艦の針路を安定させろ。後方護衛艦との合流状況も見る」


声はいつも通りだった。


いつも通りの声だからこそ、終わったのだと少しだけ分かった。


リオは表示板を見ていた。


共和国艦隊の線が遠ざかっていく。完全に消えたわけではない。まだ索敵圏内にいる。だが、こちらの前を横切る線ではなくなっていた。


輸送艦一番から三番は補助航路で姿勢を戻し、後方護衛艦と輸送艦四番も第二変針点で合流を始めている。


守れた。


その事実が、遅れて体に届いた。


指先から力が抜ける。


表示板の光が一段暗く見えた。


「リオ」


ユーリの声が近かった。


「今度こそ終わりだ。手を離せ」


リオは返事をしようとした。


口を開いたつもりだったが、喉が動かなかった。


代わりに、視界の端が沈んだ。


黒い影が左右から寄ってくる。表示板の中央だけが遠く光って、その周りが急に深くなる。


「メルク」


コルネリウスの声も聞こえた。


「聞こえるか」


聞こえる。


そう思った。


でも、その答えが外へ出る前に、体が前へ落ちた。


椅子の補助具が腰を止める。そのせいで完全には崩れなかったが、上半身だけが解析卓へ倒れ込む。


額が表示板の縁に触れた。


痛みは、少し遅れて来た。


「手をどけろ」


ユーリの声が荒くなった。


誰かが椅子の脇へ退く音がする。


リオは自分の手がまだ端末に触れていることに、その時やっと気づいた。指がうまく開かない。力を入れているつもりもないのに、離れない。


「リオ、こっち見ろ」


顔を上げようとした。


重かった。


体が、自分のものではないみたいに遅い。


「瞳孔……反応はある。脈が速い。冷汗がひどい」


ユーリの声はもうリオではなく、周りへ向いていた。


「担架いらない。歩かせると余計に悪化する。補助板を持ってこい」


「医療区画へ搬送か」


コルネリウスが聞いた。


「搬送だ。今すぐ」


「了解」


コルネリウスはそれ以上何も言わなかった。


代わりに、解析室の誰かへ短く命じた。


「メルクの表示系は切るな。直前の戦闘ログを固定保存。帰還機兵の損害と前方護衛艦の防壁記録もまとめておけ」


仕事の声だった。


その声が聞こえたのは、不思議と少し安心した。




医療区画へ運ばれる途中の記憶は、途切れ途切れだった。


艦内通路の照明。


壁を流れる配線の光。


遠くで誰かが「前方護衛艦、中破まではいってません」と言った声。


別の誰かが、「グライフ二番と三番は行動不能、ただし操縦者は帰還済み」と報告していた。


人が死んでいないなら、それでいい。


そう思った。


思ったはずなのに、その次の瞬間にはもう別の場所だった。


医療区画の天井は白かった。


解析室の表示板みたいな赤も青もない、艶のない白だ。


その白がやけにまぶしくて、リオは一度目を閉じた。


「閉じるな」


ユーリの声が真上から落ちてきた。


「寝るのは後だ。今は起きてろ」


「起きてる」


ようやく声が出た。


掠れて、ひどい声だった。


「嘘だな」


ユーリはそう言いながら、手は丁寧だった。


胸元に測定具を当て、手首の脈を取り、灯導補助具の固定を外していく。補助具が外れた瞬間、腰から脚へ重さが落ちて、リオは息を詰めた。


「痛いか」


「少し」


「少しで済む顔じゃない」


ユーリはベッド脇の器具を操作した。


柔らかな支持板がリオの背中に沿って膨らみ、腰を持ち上げる。今度は艦の補助具ではなく、医療区画の姿勢保持具だった。


「魔力回路の過負荷と疲労の合わせ技だ。胸の痛みは」


「さっき、少し」


「今は」


「重い」


「息苦しさ」


「少し」


「視界」


「戻ってきた」


「戻ってきた顔色じゃない」


悪態ばかりだった。


でも、一つ一つ確認する指先は乱れなかった。


リオは横を見た。


隣の簡易隔離台に、小さな灯導吸入器が置かれている。


救助した子どものものだとすぐに分かった。


「あの子」


「生きてる」


ユーリが答えた。


「居住艇の家族三人、荷役艇の二人、連絡艇の二人。全員、今のところ死なせてない」


今のところ、という言い方がユーリらしかった。


安易に大丈夫と言わない。


その代わり、守れる範囲はちゃんと守る。


「よかった」


「お前は今、自分の心配をしろ」


「した」


「足りない」


ユーリは補液を繋いだ。


冷たいものが腕から入ってくる。


「言わんこっちゃない」


その言葉には、怒りより疲れが混じっていた。


「七になったら止めるって言った」


「三番艦が出た」


「知ってる。見てた」


「止められなかった」


「だからって、お前が止まらなくていい理由にはならない」


リオは黙った。


反論は浮かんだ。


でも、どれも途中でほどけた。


止まれなかったのは事実だ。


あそこで自分が画面を離れていたらどうなったか、今でも分からない。


けれど、こうして医療区画のベッドにいるのも事実だった。


「怒ってる?」


「怒ってる」


即答だった。


「でも、怒ってるのと診るのは別だ」


それも即答だった。


「お前が倒れた時、腹が立った。馬鹿かと思った。次にまた同じことをしたら殴る」


「医療士官が?」


「医療士官だからだ」


リオは少しだけ笑った。


笑うと胸が痛んだ。


「笑うな」


「難しい」


「難しくしなくていい」


ユーリは測定具を見たまま、少しだけ声を落とした。


「でも、よくやった」


その一言は、さっきの怒った声より静かだった。


静かだから、余計に残った。




医療区画の入口が開いたのは、その少し後だった。


足音は重くない。


だが、迷いがなかった。


リオが顔を向ける前に、ユーリが振り返った。


「艦長」


オスカー・ライナー大佐は、扉のところで一度だけ医療区画の空気を見た。


戦闘中の艦橋にいたまま来たのか、軍服の襟元に薄く煤がついている。目の下には疲れがあったが、姿勢は崩れていなかった。


「状態は」


「死にません」


ユーリが答えた。


「ただし、しばらくは起こしません。起こしたいなら俺が止めます」


「止めてくれ」


オスカーはそれだけ言った。


それからベッドの脇まで来た。


リオは上半身を起こそうとしたが、ユーリに肩を押さえられた。


「そのまま」


「すみません」


リオは言った。


何に対する謝罪なのか、自分でも少し曖昧だった。


倒れたことか、勝手な判断をしたことか、艦長をここへ来させたことか。


オスカーは数秒、何も言わなかった。


その沈黙が長くなりすぎる前に、リオは口を開いた。


「自分でも、理由が分からない部分がありました」


声はまだ弱かった。


けれど、そのことだけは言っておきたかった。


「三番艦が出ると分かった時も、全部が数値で説明できたわけじゃありません。流れが、先に分かった感じがして」


オスカーは頷きもしなかった。


ただ、聞いていた。


「分かっている」


やがてそう言った。


「だから限定採用だと言った」


リオは息を止めた。


責める声ではなかった。


甘やかす声でもなかった。


事実だけをそのまま置く声だった。


「今回、お前の分析は当たった。艦隊の損害は抑えられた。輸送船団は守れた。民間船の人的被害も最小限で済んだ」


オスカーの声は低く、静かだった。


「だが、艦を動かす側は、次も同じように当たると決めつけてはならない。次は数値で説明できるようにしろ」


「……はい」


「説明できない感覚を捨てろと言っているわけではない」


その一言に、リオは顔を上げた。


オスカーの目は真っ直ぐだった。


「感覚で気づいたなら、そこから数値を掘れ。手順を作れ。再現できる形にしろ。お前一人が倒れたら消えるものでは、艦隊の判断には足りない」


ユーリが横で何も言わずにいた。


リオの胸の奥に、その言葉がゆっくり落ちた。


倒れたら消えるもの。


その通りだった。


さっき解析室で、自分の画面を他の班員へ渡した時のことが浮かぶ。支えられて続いた。自分だけで終わらなかった。


「はい」


今度は、さっきより少しだけましな声で答えた。


オスカーは短く頷いた。


「よくやった」


それだけだった。


派手な賞賛ではない。


艦長室で言われたら重すぎるような言葉が、医療区画の白い明かりの中では、妙に静かに胸へ落ちた。


リオは何か返そうとして、結局うまく見つけられなかった。


「ありがとうございます」


ありふれた言葉しか出なかった。


でも、オスカーはそれで十分だという顔をした。


「休め。報告書は後でいい」


「……でも、戦闘記録の整理が」


「班でやる」


オスカーは即座に言った。


「お前が残した予測点も、機関部の出力記録も、砲術班の射角記録も残る。消えない。今は寝ろ」


その言い方は命令に近かった。


ユーリが珍しく満足そうに鼻を鳴らした。


「そういうことだ」


オスカーは入口へ戻りかけて、そこで一度だけ止まった。


「前方護衛艦は中程度の損傷で持ちこたえた。グライフ二番と三番はしばらく動けんが、操縦者は無事だ」


リオは息を吐いた。


知らないうちに詰めていたらしい。


「よかった」


「そうだな」


オスカーはそれだけ言って、医療区画を出ていった。


扉が閉まる。


白い部屋に、機械の小さな音だけが残った。


ユーリが補液の流量をもう一度見直した。


「聞いたろ。寝ろ」


「うん」


「素直だな。気味が悪い」


「怒られる元気がない」


「ならちょうどいい」


ユーリはそう言って、ベッド脇の椅子へ腰を下ろした。


完全に仕事を終えた顔ではない。


まだ何かあればすぐ動く顔だった。


でも、さっきまでの戦場の顔ではなかった。


リオは天井を見た。


白い光の下で、さっきまでの採掘帯の閃光が遠くなる。


共和国三番艦が予測点に現れた瞬間。


ミナの「そこへ艦を向けるわ」という声。


コルネリウスの「お前の言った通りだった」。


オスカーの「よくやった」。


全部が混ざって、胸の奥に残っていた。


体は重い。


痛みもある。


それでも、今日、自分は役に立ったのだと、ようやく少しだけ思えた。


目を閉じる直前、隣の台から小さな咳が聞こえた。


救助した子どもだ。


生きている音だった。


リオはその音を聞いたまま、ようやく力を抜いた。

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