沈黙の時
共和国艦隊が完全に後退へ入ったと確認されたのは、その十分後だった。
十分しか経っていないのに、もっと長く感じられた。
解析室ではまだ誰も席を立たない。表示板の赤は消えていないし、通信も続いている。戦闘は終わったと言い切るには、残響が多すぎた。
「共和国機動戦艦三隻、外縁側へ離脱」
解析員が読み上げた。
「情報巡航艦二隻、後退。無人機母艦、回収行動に移行」
コルネリウスが短く頷いた。
「通行枠境界の保持を継続。輸送艦各艦の針路を安定させろ。後方護衛艦との合流状況も見る」
声はいつも通りだった。
いつも通りの声だからこそ、終わったのだと少しだけ分かった。
リオは表示板を見ていた。
共和国艦隊の線が遠ざかっていく。完全に消えたわけではない。まだ索敵圏内にいる。だが、こちらの前を横切る線ではなくなっていた。
輸送艦一番から三番は補助航路で姿勢を戻し、後方護衛艦と輸送艦四番も第二変針点で合流を始めている。
守れた。
その事実が、遅れて体に届いた。
指先から力が抜ける。
表示板の光が一段暗く見えた。
「リオ」
ユーリの声が近かった。
「今度こそ終わりだ。手を離せ」
リオは返事をしようとした。
口を開いたつもりだったが、喉が動かなかった。
代わりに、視界の端が沈んだ。
黒い影が左右から寄ってくる。表示板の中央だけが遠く光って、その周りが急に深くなる。
「メルク」
コルネリウスの声も聞こえた。
「聞こえるか」
聞こえる。
そう思った。
でも、その答えが外へ出る前に、体が前へ落ちた。
椅子の補助具が腰を止める。そのせいで完全には崩れなかったが、上半身だけが解析卓へ倒れ込む。
額が表示板の縁に触れた。
痛みは、少し遅れて来た。
「手をどけろ」
ユーリの声が荒くなった。
誰かが椅子の脇へ退く音がする。
リオは自分の手がまだ端末に触れていることに、その時やっと気づいた。指がうまく開かない。力を入れているつもりもないのに、離れない。
「リオ、こっち見ろ」
顔を上げようとした。
重かった。
体が、自分のものではないみたいに遅い。
「瞳孔……反応はある。脈が速い。冷汗がひどい」
ユーリの声はもうリオではなく、周りへ向いていた。
「担架いらない。歩かせると余計に悪化する。補助板を持ってこい」
「医療区画へ搬送か」
コルネリウスが聞いた。
「搬送だ。今すぐ」
「了解」
コルネリウスはそれ以上何も言わなかった。
代わりに、解析室の誰かへ短く命じた。
「メルクの表示系は切るな。直前の戦闘ログを固定保存。帰還機兵の損害と前方護衛艦の防壁記録もまとめておけ」
仕事の声だった。
その声が聞こえたのは、不思議と少し安心した。
医療区画へ運ばれる途中の記憶は、途切れ途切れだった。
艦内通路の照明。
壁を流れる配線の光。
遠くで誰かが「前方護衛艦、中破まではいってません」と言った声。
別の誰かが、「グライフ二番と三番は行動不能、ただし操縦者は帰還済み」と報告していた。
人が死んでいないなら、それでいい。
そう思った。
思ったはずなのに、その次の瞬間にはもう別の場所だった。
医療区画の天井は白かった。
解析室の表示板みたいな赤も青もない、艶のない白だ。
その白がやけにまぶしくて、リオは一度目を閉じた。
「閉じるな」
ユーリの声が真上から落ちてきた。
「寝るのは後だ。今は起きてろ」
「起きてる」
ようやく声が出た。
掠れて、ひどい声だった。
「嘘だな」
ユーリはそう言いながら、手は丁寧だった。
胸元に測定具を当て、手首の脈を取り、灯導補助具の固定を外していく。補助具が外れた瞬間、腰から脚へ重さが落ちて、リオは息を詰めた。
「痛いか」
「少し」
「少しで済む顔じゃない」
ユーリはベッド脇の器具を操作した。
柔らかな支持板がリオの背中に沿って膨らみ、腰を持ち上げる。今度は艦の補助具ではなく、医療区画の姿勢保持具だった。
「魔力回路の過負荷と疲労の合わせ技だ。胸の痛みは」
「さっき、少し」
「今は」
「重い」
「息苦しさ」
「少し」
「視界」
「戻ってきた」
「戻ってきた顔色じゃない」
悪態ばかりだった。
でも、一つ一つ確認する指先は乱れなかった。
リオは横を見た。
隣の簡易隔離台に、小さな灯導吸入器が置かれている。
救助した子どものものだとすぐに分かった。
「あの子」
「生きてる」
ユーリが答えた。
「居住艇の家族三人、荷役艇の二人、連絡艇の二人。全員、今のところ死なせてない」
今のところ、という言い方がユーリらしかった。
安易に大丈夫と言わない。
その代わり、守れる範囲はちゃんと守る。
「よかった」
「お前は今、自分の心配をしろ」
「した」
「足りない」
ユーリは補液を繋いだ。
冷たいものが腕から入ってくる。
「言わんこっちゃない」
その言葉には、怒りより疲れが混じっていた。
「七になったら止めるって言った」
「三番艦が出た」
「知ってる。見てた」
「止められなかった」
「だからって、お前が止まらなくていい理由にはならない」
リオは黙った。
反論は浮かんだ。
でも、どれも途中でほどけた。
止まれなかったのは事実だ。
あそこで自分が画面を離れていたらどうなったか、今でも分からない。
けれど、こうして医療区画のベッドにいるのも事実だった。
「怒ってる?」
「怒ってる」
即答だった。
「でも、怒ってるのと診るのは別だ」
それも即答だった。
「お前が倒れた時、腹が立った。馬鹿かと思った。次にまた同じことをしたら殴る」
「医療士官が?」
「医療士官だからだ」
リオは少しだけ笑った。
笑うと胸が痛んだ。
「笑うな」
「難しい」
「難しくしなくていい」
ユーリは測定具を見たまま、少しだけ声を落とした。
「でも、よくやった」
その一言は、さっきの怒った声より静かだった。
静かだから、余計に残った。
医療区画の入口が開いたのは、その少し後だった。
足音は重くない。
だが、迷いがなかった。
リオが顔を向ける前に、ユーリが振り返った。
「艦長」
オスカー・ライナー大佐は、扉のところで一度だけ医療区画の空気を見た。
戦闘中の艦橋にいたまま来たのか、軍服の襟元に薄く煤がついている。目の下には疲れがあったが、姿勢は崩れていなかった。
「状態は」
「死にません」
ユーリが答えた。
「ただし、しばらくは起こしません。起こしたいなら俺が止めます」
「止めてくれ」
オスカーはそれだけ言った。
それからベッドの脇まで来た。
リオは上半身を起こそうとしたが、ユーリに肩を押さえられた。
「そのまま」
「すみません」
リオは言った。
何に対する謝罪なのか、自分でも少し曖昧だった。
倒れたことか、勝手な判断をしたことか、艦長をここへ来させたことか。
オスカーは数秒、何も言わなかった。
その沈黙が長くなりすぎる前に、リオは口を開いた。
「自分でも、理由が分からない部分がありました」
声はまだ弱かった。
けれど、そのことだけは言っておきたかった。
「三番艦が出ると分かった時も、全部が数値で説明できたわけじゃありません。流れが、先に分かった感じがして」
オスカーは頷きもしなかった。
ただ、聞いていた。
「分かっている」
やがてそう言った。
「だから限定採用だと言った」
リオは息を止めた。
責める声ではなかった。
甘やかす声でもなかった。
事実だけをそのまま置く声だった。
「今回、お前の分析は当たった。艦隊の損害は抑えられた。輸送船団は守れた。民間船の人的被害も最小限で済んだ」
オスカーの声は低く、静かだった。
「だが、艦を動かす側は、次も同じように当たると決めつけてはならない。次は数値で説明できるようにしろ」
「……はい」
「説明できない感覚を捨てろと言っているわけではない」
その一言に、リオは顔を上げた。
オスカーの目は真っ直ぐだった。
「感覚で気づいたなら、そこから数値を掘れ。手順を作れ。再現できる形にしろ。お前一人が倒れたら消えるものでは、艦隊の判断には足りない」
ユーリが横で何も言わずにいた。
リオの胸の奥に、その言葉がゆっくり落ちた。
倒れたら消えるもの。
その通りだった。
さっき解析室で、自分の画面を他の班員へ渡した時のことが浮かぶ。支えられて続いた。自分だけで終わらなかった。
「はい」
今度は、さっきより少しだけましな声で答えた。
オスカーは短く頷いた。
「よくやった」
それだけだった。
派手な賞賛ではない。
艦長室で言われたら重すぎるような言葉が、医療区画の白い明かりの中では、妙に静かに胸へ落ちた。
リオは何か返そうとして、結局うまく見つけられなかった。
「ありがとうございます」
ありふれた言葉しか出なかった。
でも、オスカーはそれで十分だという顔をした。
「休め。報告書は後でいい」
「……でも、戦闘記録の整理が」
「班でやる」
オスカーは即座に言った。
「お前が残した予測点も、機関部の出力記録も、砲術班の射角記録も残る。消えない。今は寝ろ」
その言い方は命令に近かった。
ユーリが珍しく満足そうに鼻を鳴らした。
「そういうことだ」
オスカーは入口へ戻りかけて、そこで一度だけ止まった。
「前方護衛艦は中程度の損傷で持ちこたえた。グライフ二番と三番はしばらく動けんが、操縦者は無事だ」
リオは息を吐いた。
知らないうちに詰めていたらしい。
「よかった」
「そうだな」
オスカーはそれだけ言って、医療区画を出ていった。
扉が閉まる。
白い部屋に、機械の小さな音だけが残った。
ユーリが補液の流量をもう一度見直した。
「聞いたろ。寝ろ」
「うん」
「素直だな。気味が悪い」
「怒られる元気がない」
「ならちょうどいい」
ユーリはそう言って、ベッド脇の椅子へ腰を下ろした。
完全に仕事を終えた顔ではない。
まだ何かあればすぐ動く顔だった。
でも、さっきまでの戦場の顔ではなかった。
リオは天井を見た。
白い光の下で、さっきまでの採掘帯の閃光が遠くなる。
共和国三番艦が予測点に現れた瞬間。
ミナの「そこへ艦を向けるわ」という声。
コルネリウスの「お前の言った通りだった」。
オスカーの「よくやった」。
全部が混ざって、胸の奥に残っていた。
体は重い。
痛みもある。
それでも、今日、自分は役に立ったのだと、ようやく少しだけ思えた。
目を閉じる直前、隣の台から小さな咳が聞こえた。
救助した子どもだ。
生きている音だった。
リオはその音を聞いたまま、ようやく力を抜いた。




