針路の重さ
解析室に戻った時、最初に聞こえたのは警報ではなかった。
低い機械音と、通信卓の短い応答と、誰かが息を飲む音だった。砲撃はまだ再開していない。共和国艦隊は距離を取り、帝国側も次の動きを探している。
その静けさが、かえって怖かった。
「戻りました」
リオが言うと、コルネリウスが一度だけ視線を上げた。
「席に戻れ。主力の再展開を追え」
叱責はなかった。
それが意外で、リオは少しだけ返事が遅れた。
「はい」
椅子に座ると、灯導補助具が腰と膝を支え直した。支えられた瞬間に、体が自分の重さを思い出した。
廊下を歩いただけなのに、呼吸が少し浅い。
ユーリが横に立ち、携帯端末を開いた。
「数値を取る。手を出せ」
「今?」
「今だ。艦長室まで行った分、負荷が乗ってる。嫌なら俺に文句を言いながら出せ」
リオは左手を差し出した。
ユーリは指先に小さな測定具を当て、脈と体温と魔力回路の揺れを確認した。顔はいつもの軽さを保っていたが、手つきは急いでいなかった。
「まだいける。ただし、長くはない」
「わかった」
「わかった顔をするな。お前のわかったは信用が薄い」
その声が少し大きかったのか、近くの解析員がこちらを見た。
リオは小さく息を吐いて、主力画面に向き直った。
共和国の機動戦艦三隻は、採掘帯の内側へ入る角度を保っている。情報巡航艦二隻は、その前方で薄く散開していた。無人機母艦は距離を置き、帝国護衛艦の射界外を回るように動いている。
輸送船団を沈めに来ている動きではなかった。
さっき艦長室で口にした推論が、画面の上でさらに形を持っていく。
「クライセンブルク艦橋より第三解析区画」
通信が入った。
コルネリウスが応答した。
「第三解析区画」
「艦長より命令。メルク少尉の通行枠分析を指揮系統へ接続。主力表示に投影できる形で整理せよ。所要時間」
室内の空気が一瞬止まった。
コルネリウスはリオを見た。
「メルク、できるか」
「できます。三分ください」
「二分で出せ」
「はい」
リオは画面を切り替えた。
機動戦艦の攻撃ベクトル。情報巡航艦の先行位置。輸送船団の現在針路。リュミナ・ノードの評議会管轄宙域。グラン・カンデラへ向かう直通ルート。
それらを一枚の戦術図に重ねる。
表示板の光が目に刺さった。頭の奥が痛む。痛みを無視しようとすると、別のところに力が入る。肩が硬くなり、指の動きがわずかに遅れる。
ユーリが隣から小さな器具を机に置いた。
「水分」
「今は手が」
「口だけ動かせ」
小さな吸い口が横から差し出された。
リオは画面から目を離さずに飲んだ。甘くない補液の味が舌に残った。
「助かる」
「今だけは素直でよろしい」
リオは応じる余裕がなかった。
戦術図の最後に、予測線を引く。
共和国艦隊がこのまま進んだ場合、評議会管轄宙域の境界をどこで越えるか。帝国輸送船団が現行針路を維持した場合、どこで押し出されるか。迂回した場合、どの位置で先回りできるか。
数値だけなら弱い。
しかし、星灯素炉の揺らぎの周期を重ねると、予測線に意味が出た。
ミナが送ったデータを隣に置く。
波形は共和国機動戦艦の速度変化と似ている。完全一致ではない。それでも、採掘帯内側へ向かう動きの前に、炉の揺らぎがわずかに先行している。
リオはそこに印を付けた。
「出せます」
コルネリウスが画面を見た。
短く息を吸った。
「艦橋へ送れ」
「はい」
リオは送信した。
送信完了の表示が出た瞬間、手が止まりかけた。
これで、もう戻せない。
さっきは艦長室の中だけだった。今は艦隊指揮の線に乗った。画面を見た人間が増える。疑う人間も増える。
外れたら、ただの失敗では済まない。
体が弱い新人が、証明しきれない感覚で艦隊を乱した。
そう記録される。
「顔色」
ユーリが言った。
「悪い?」
「悪い」
「いつもより?」
「いつも悪いが、今は別方向に悪い」
リオは少しだけ笑いそうになった。
笑えなかった。
艦橋から、艦隊通信会議の音声が解析室にも流された。
全ての会話ではない。艦長判断に必要な部分だけだ。それでも、護衛艦長たちの声は十分に聞こえた。
「クライセンブルクより各艦。現行針路を変更し、採掘帯外縁の補助航路へ迂回する案を提示する」
オスカーの声は落ち着いていた。
砲撃の合間に通信しているとは思えないほど、乱れがない。
「理由を確認したい」
前方護衛艦の艦長が答えた。
「共和国艦隊の目的が輸送船団撃滅ではなく、評議会管轄宙域における航路通行枠の実効支配である可能性が高い。現行針路を維持すれば、帝国船団は共和国艦隊に押し出される形で通行枠記録上の不利を負う」
「可能性、という言葉が聞こえたが」
別の声が割り込んだ。
後方護衛艦の艦長だった。
「確定ではない」
オスカーが答えた。
「確定してからでは遅いと判断している」
「根拠は」
「機動戦艦の攻撃ベクトル、情報巡航艦の先行位置、採掘帯内側への進入角、星灯素炉の揺らぎの連動記録だ」
「星灯素炉の揺らぎ?」
「機関部からの報告だ。戦術図と合わせて送る」
少し間があった。
各艦がデータを受け取っているのだと分かった。
リオは画面を見ていた。
自分が作った図が、艦隊の通信線を通って他の艦へ渡っている。それだけのことなのに、胸の奥が詰まる。
「分析担当は誰だ」
後方護衛艦の艦長が尋ねた。
艦橋側で一瞬だけ沈黙があった。
「第三解析区画、リオ・メルク少尉」
オスカーが答えた。
解析室の中で、何人かが息を止めた。
「少尉か」
通信越しの声に、わずかな硬さが混じった。
「新任の解析士官だな。確か、医療士官の確認を要する状態で乗艦している」
リオの指が止まった。
医療士官の確認を要する状態。
間違いではない。
軍の書類にはそう書かれている。長時間勤務には医療士官の確認が必要で、姿勢保持補助具の使用が前提で、戦闘時にも負荷監視が推奨される。
書類にある事実だ。
ただ、通信の中でその言葉が出ると、別の意味を持った。
「その士官の感覚に、艦隊行動を乗せるのか」
誰かが言った。
コルネリウスがわずかに眉を動かした。
ユーリが何か言いかけた。
リオは画面から目を離さなかった。
「感覚だけではない」とオスカーが言った。
声は変わらなかった。
「提出された分析には、数値で示せる部分がある。示しきれない部分も報告書に明記されている。私はその不確実性を含めて採用する」
「不確実性を含めて、ですか」
「そうだ」
「戦闘中に輸送船団を迂回させる。燃料消費が増える。護衛隊形が崩れる。共和国艦隊の本命が現行針路上にあるだけなら、こちらが勝手に弱い形へ動くことになる」
「理解している」
「では、現行針路維持の方が堅実では」
「堅実とは、分かっている危険だけを避けることではない」
オスカーの声が、わずかに低くなった。
「採掘帯の中で敵が作ろうとしている記録を見落とせば、今日沈まなかった輸送艦が、明日以降その航路を通れなくなる。私はその危険を重く見る」
また沈黙が入った。
その間にも、共和国艦隊は動いている。
リオは主力画面を拡大した。
機動戦艦の先頭艦が、わずかに角度を変えた。輸送船団へ向かっているように見える。しかし、延長線を引くと船団そのものではなく、その後方にある評議会管轄宙域の境界へ向かう。
やはり、そうだ。
「共和国先頭艦、角度修正」とリオは言った。「現行針路の後方境界に向かっています。送ります」
コルネリウスが即座に確認した。
「艦橋へ」
「送信」
艦橋側の音声に、通信士官の声が重なった。
「第三解析区画より追加データ。共和国先頭艦、評議会管轄宙域後方境界へ向けて角度修正」
「受け取った」
オスカーが言った。
「各艦、追加図を確認せよ」
前方護衛艦の艦長が先に返した。
「確認した。こちらの戦術卓でも同様の延長線が出る。クライセンブルク案に従う」
リオは息を止めた。
一隻。
一隻が、従うと言った。
「前方護衛艦は輸送艦二番、三番の右舷側へ移る。補助航路へ入るなら射界が狭くなる。こちらで穴を塞ぐ」
「了解した」
オスカーが答えた。
後方護衛艦の艦長は、まだ黙っていた。
「後方護衛艦、判断は」
「現行針路を維持したい」
解析室の空気が重くなった。
「理由を」
「後方の輸送艦四番に炉出力低下の兆候がある。迂回航路への急な変針は負担が大きい。さらに、共和国無人機母艦が外縁側にいる。迂回すれば無人機圏に近づく」
その理由は正しかった。
リオにも分かった。迂回すれば全てが良くなるわけではない。燃料も使う。隊形も変わる。護衛の穴もできる。
「了解した」とオスカーが言った。「後方護衛艦は輸送艦四番を現行針路側から支えろ。ただし、境界線に押し出される前に第二変針点で合流すること。独断で深追いするな」
「了解」
「各艦に告げる。クライセンブルクは補助航路へ変針する。前方護衛艦および輸送艦一番から三番はこれに続け。後方護衛艦および輸送艦四番は第二変針点で合流。責任は私が負う」
短い沈黙のあと、通信士官たちの応答が続いた。
「輸送艦一番、了解」
「輸送艦二番、了解」
「輸送艦三番、了解」
「輸送艦四番、第二変針点合流、了解」
リオは画面を見つめた。
艦隊の針路線が変わっていく。
白い線が、現行航路から外れ、採掘帯外縁の補助航路へ向かって曲がる。共和国艦隊の予測線と、帝国船団の新しい線が、ぎりぎりの距離で交差せずに離れていく。
まだ成功ではない。
ただ、動いた。
自分の言葉が、ミナのデータが、ユーリの強引さが、オスカーの責任が、艦隊を少しだけ動かした。
その事実が、怖かった。
嬉しいより先に、怖かった。
「メルク」
コルネリウスの声だった。
「はい」
「迂回航路の障害物密度を出せ。外縁の採掘塔、管制ブイ、漂流物、全部だ。共和国無人機の予測圏も重ねろ」
「はい」
「それから、今の通行枠分析を記録用に分けて保存しておけ。後で検証する」
責める声ではなかった。
検証する、という言葉が、今は少しだけ支えになった。
失敗しても成功しても、感覚だけで終わらせず、後で確かめる。
それなら、まだ仕事の中に置ける。
リオは手を動かした。
採掘帯外縁の補助航路を開く。浮遊岩塊の位置。採掘塔の稼働範囲。管制ブイの通信圏。戦闘の余波で流れた破片。
それらを重ねた時、画面の端に小さな反応が出た。
民間船の識別符号だった。
一つではない。
複数の弱い反応が、リュミナ・ノード外縁の採掘塔群の陰に散っている。
リオは瞬きをした。
「民間船反応を確認」
声が少し掠れた。
コルネリウスが振り向いた。
「位置は」
「補助航路の外縁、採掘塔群の陰です。戦闘の余波で流された可能性があります。推進反応が弱い。漂流しています」
ユーリが隣で端末を閉じた。
「民間人か」
「識別符号は民間船です。数は……少なくとも三。小型船が二、中型が一」
艦橋へ送る前に、リオは一瞬だけ画面を見た。
補助航路へ動いたから見えた反応だった。
現行針路に残っていたら、採掘塔の陰に隠れて見落としていたかもしれない。
しかし、そのことを今、成功の証拠のように扱う気にはなれなかった。
そこに人がいる。
それだけだった。
「艦橋へ送れ」とコルネリウスが言った。
「はい」
リオは漂流反応を送信した。
艦橋からすぐに応答が来た。
「受信。救難優先度を確認する。第三解析区画、誘導支援準備」
「第三解析区画、了解」
リオは返事をした。
手の震えはまだ残っていた。
画面の中で、クライセンブルクの針路線がゆっくり曲がっていく。輸送艦一番から三番がそれに続く。前方護衛艦が右舷側へ入り、後方護衛艦が残った輸送艦を支える。
共和国艦隊の予測線は、まだこちらを追っていた。
何も終わっていない。
決断は始まりでしかなかった。
リオは深く息を吸って、漂流船の周囲にある障害物を一つずつ洗い出した。
外れたらどうなるかという声は、まだ胸の奥にあった。
それでも、今は目の前の反応を見失わないことだけを考えた。
そこにいる誰かが、まだ灯りを失っていないうちに。




