夜明け前の数値
夜明け前の解析室は、音がない。
換気の微かな流れと、端末の駆動音と、艦体が星海流を受ける低い振動だけがある。夜番の担当者が交代するまであと一時間。外はまだ暗い。
リオは解析卓に座っていた。
正確には、座り続けていた。昨夜から体勢をほとんど変えていない。椅子の補助具を何度も調整したが、どこに合わせても腰と背中の重さは消えなかった。
頭が重い。
首から肩へかけて、締め付けるような痛みが続いている。関節の奥の感覚が鈍くなっていた。これは疲れのせいだ、と思った。疲れのせいに違いないと。
画面を見ていた。
昨夜のデータの続きを追っていたが、一時間前から新しい情報はない。採掘帯の状況は平静で、共和国の反応は検知範囲に入っていない。財閥の巡察艦は三隻とも前回と同じ距離に停泊している。
何も起きていない。
それでも、解析卓を離れる気になれなかった。
ドアが開いた。
「まだいるのか」
ユーリだった。
早朝の医療巡視の前に寄ったらしい。白衣の下に私服が見えていた。完全に起き上がってきた顔ではなかった。
「顔色が悪い」と入るなり言った。
「普通だよ」
「普通じゃない。灯の色で見てもわかる」
ユーリはリオの隣に立って、顔を横から見た。
「目が充血してる。頭痛があるだろ」
「……少し」
「少しじゃないだろ」
「少しの多めかな」
「お前は正直に言わない時に言葉を足す」
リオは答えなかった。
「今日は交代しろ」とユーリは言った。「夜番は別の担当に回せる。俺が話をつける。今すぐ横になれ」
「もう少しだけ」
「昨日もそれを聞いた」
「今日のは本当にもう少し」
「お前のもう少しを全部足したら何日になると思う」
リオは少し考えた。
「……足さないで」
「足したくないから今言ってる」
ユーリの声に棘はなかった。ただ、真剣だということがわかった。怒っているのではなく、心配している時の声だとリオは知っていた。
それでも、立てなかった。
「何かが来る気がするんだ」
「何かって」
「わからない。でも昨日の夜から、何かが引っかかってる。データじゃなくて、体で」
「体で、というのは」
リオは少し考えた。うまく説明できる言葉がなかった。
「頭痛と、関節の痛みが、いつもと少し違う。いつもの疲れの感じじゃなくて、何か外側から来てるみたいな感じがして」
「それは今すぐ横になるべき理由だ」
「違くて。その感覚が強くなった時に、データが動いたことが前にある。誤差として処理されたけど、その直前に体が先に反応してた気がして」
ユーリはしばらく黙った。
「証明できるか」
「できない」
「俺にはお前の感覚が正しいかどうか判断できない」
「わかってる」
「わかってて、それでも離れないのか」
「うん」
ユーリは椅子を引いて、隣に座った。
「俺も残る」
「巡視は?」
「後でやる」
「そんなわけにはいかないよ」
「俺が決める。俺の仕事の優先順位は俺が決める」
それ以上は言い合いにならなかった。
ユーリはリオの隣で自分の端末を開いた。別の仕事をするつもりのようだった。付き合うが邪魔はしない。そういう種類の在り方だとわかった。
リオは画面に戻った。
採掘帯の周辺データを開き直した。
頭痛の重さが少しずつ変わっていた。増えているのか減っているのかではなく、質が変わっている。圧迫される感じから、何かが引っ張られるような感じに変わった。うまく言葉にならないが、違う。
関節の奥の痛みも、位置が変わっていた。
腰から背中だったものが、肩と首の後ろに移っていた。
移動している。
そんなことが起きるのかどうかリオには医学的な知識がない。痛みが移動するというのがどういう意味かもわからない。ただ、今朝はそうだった。
画面を見た。
何も変わっていない。
変化は突然来た。
星海流の航路データが、一瞬だけ跳ねた。
数値が通常の計測範囲を大幅に超えて、また戻った。時間にして一秒以下だった。
画面の端にポップアップが出た。
「計測誤差として処理されました」
それだけで終わった。
しかしリオの体はその前から変わっていた。
跳ねる数秒前から、頭の後ろに違う圧力が来ていた。関節の引っ張りが急に強くなった。それが先で、データはその後だった。
リオは立ち上がった。
立つことで全身に痛みが走ったが、立った。
「来ます」
声が出た。
コルネリウスが振り向いた。今日の朝番は早く来ていた。
「何を言っている」
「共和国艦隊が来ます。採掘帯の陰から展開します」
「データに反応はない。メルク少尉、落ち着け」
「誤差として処理されましたが、一瞬跳ねました。体も、さっきまでと違います」
「体が戦術情報になるか」コルネリウスの声が低くなった。「根拠のない発言は——」
警報が鳴った。
艦内全域に、戦闘警戒の音が走った。
同時に艦橋からの通信が入った。
「艦橋より全艦。採掘帯外縁に複数の艦影を確認。識別開始。戦闘配備に移行する」
探知画面が切り替わった。
ルメン採掘帯の縁から、複数の輝点が現れていた。採掘帯の星雲に紛れて接近していた艦隊が、距離を詰めたところで姿を現した。輝点の数が増えていく。機動戦艦の反応、その背後に大型艦の出力が続く。
リオはデータを見た。
一隻、二隻、三隻。
情報巡航艦の反応が二つ。大型艦が一つ。
前回より多い。
「来た」
声は小さかった。
誰かに聞かせる言葉ではなかった。ただ、そう言わずにはいられなかった。




