80 すれちがう想い
クモの襲撃から一年以上が経ち、蜜葉乃はすっかり回復した。
小さかった巣は、本当に大きくなった。
娘たちも次々に才能を発揮して、それぞれの役目を果たしてくれる。
みんな健康で大きな事故もない。
仁もいつも側で支えてくれる。
蜜葉乃は、しみじみと幸せをかみしめていた。
その知らせを持ってきたのは、一葉だった。
「蜜葉乃さまを襲撃したクモの怪我を見て欲しいだって?」
仁は思わず バンッと机を叩きつけた。
「あのクモ、生きていたのか……」
そう言って憎々しげに呟いた。
仁の大きな声など聞いた事がない。
その凄まじい怒りに、周りのものたちは、その場から動けなかった。
最初に口を開いたのは蜜葉乃だった。
「仁、怒りを抑えてちょうだい。皆が怖がっているわ」
そう言って仁の手をそっと握ったあと、毅然として顔を上げた。
「一葉、事情を説明してちょうだい」
今日の一葉は、タマムシ夫婦と一緒に、青い池の様子を見に行った。
そこで偶然、工事の時に仲良くなったカエルに会った。
タマムシ夫婦の羽の模様を見たカエルが不思議そうに言った。
「長年色んなタマムシを見てきたが、そんなに美しい模様を見たことはない。夫婦揃って素晴らしい。発色も他とは違う」
気をよくしたタマムシが答えた。
「羽と脚が折れかけたのを、蟻人の薬で治して貰ったんだ」
「私の羽の擦り傷もよ。あの薬を塗ってから、艶が良くなったのよ」
夫婦は誇らしげに羽を広げた。
「薬と言えるかどうかはわからないけど、硬い部分の補強には向いてるみたいだね」
一葉の答えに、カエルは少し考えていたが、やがてゆっくりと話し始めた。
自分は長く生きている。
水路を遡った、少し上流の鍾乳洞で生活してきた。
そこには昔から、一匹のクモが住んでいる。
彼の一族は遠い遠い昔からこの地の門番だ。
一年ほど前、脚を折る大怪我をして、ずっと療養している。
彼の怪我を見てやってくれないか。
とても無口なクモで、カエルにしかあまり話をしない偏屈者だが、真面目ないい奴なんだと。
「いつもオレが一方的に話すだけなんだけど、青い池の工事の話をしたら急に興味を示したんだ。蟻人と仲良くなった話をしたら、『まだいるのか』って言ってたけど、知り合いなのか?」
その言葉を聞いて、一葉は気づいたらしい。
一年前、怪我、蟻人。
彼は以前に蜜葉乃を襲ったクモではないかと。
「とりあえず、今日は固め苔を持っていないって言って帰ってきたんだけど、どうしようか……?」
皆が沈黙した。
蜜葉乃を襲った犯人を治すなんてとんでもない。
また襲われるかもしれないではないか。
どうやって断ろうか。
いや、そもそもクモが住むという『上流の鍾乳洞』は、もしかして巣の近所ではないのか。
警備計画を見直さなければ。
いや、討伐に出るべきなのでは。
仁の頭の中では考えがぐるぐる回っていた。
先に蜜葉乃が口を開いた。
「この地の門番って、どういうことかしら?何の門を守っているの?」
……誰も答えを知るものはいない。
長い長い沈黙のあと、仁が重い口を開いた。
「私がクモに会って事情を聞いてきましょう」
すると、いつもは仁の意見に賛同する蜜葉乃が言った。
「いいえ、これは私も行きましょう。巣の存続に関わる問題です」
そこからの仁の猛烈な反対と、意見を曲げない蜜葉乃の争い。
お互い一歩も引かず、議論は平行線のまま終わった。
今は静かな冷戦を継続中だ。
お昼の食堂では、娘たちがどんよりとした空気で食事中だった。
「夫婦喧嘩って初めて見たよ」
一葉の言葉にみんなが頷いた。
「どっちも頑固だからね…」
「いつもなら仁が折れるだろうけど、今回は……」
過保護な仁が、蜜葉乃を敵の元に連れて行くはずがない。
娘たちは揃ってため息をついた。
「どうしたらいいのか……」
結局、先に動いたのは蜜葉乃でも仁でもなかった。
「私がしっかりしなくっちゃ」
責任を感じた一葉は、護葉を護衛にタマムシ夫婦に仲介を頼んだ。
そして再度、カエルに会いに行ったのだった。
カエルに会ったまではよかったが、結局この前以上のクモの情報は得られなかった。
ただ一つ 「クモが治療ではなく、女王との面会を求めている」らしい。
「そもそも、クモは突然襲いかかるような奴じゃないんだが……蟻人を餌にはしないぞ」
カエルがそういうが、納得できるはずもない。
「クモは、なんの門番なのですか?」
護葉の問いにも、
「この地の門番としか聞いてない……そういわれると、なんの門番なんだ?」
カエルも首を傾げるから、もうお手上げだった。
タマムシが言った。
「なんかお互いに誤解があるんじゃないのか?当人同士会わせてみるしかないだろう」
「でも、そんな危険なクモに、女王さまを合わせるなんて……」
一葉が尻込みしていると、カエルが言った。
「クモだって怪我したんだから、危険はお互い様だろう。心配ならタマムシやオレが立ち合いの元、話し合ってみるのはどうだろう?」
たしかに、皆の前なら危険が少ないかもしれない。
「クモは動けるの?」
「オレが責任を持って連れて行くよ。世界樹で会うのがいいんじゃないかな?」
カエルの提案に、一葉と護葉が頷いた。
一週間後の早朝、世界樹で話し合おうと決まった。
巣に帰った一葉は、姉妹たちに協力を求めた。
このまま夫婦が冷戦状態なのは良くないことを。
カエルとタマムシが間に入ってくれるので、蜜葉乃とクモを会わせたいことを。
「問題は仁よね。説得できる人なんかいる?」
「……神様とか?」
「仁の方が強いでしょ。余計に拗れそう」
悲観的な意見しか出なかったが、
「夕飯の後で、みんなで話しましょう。小さな妹たちを部屋に帰した後に」
結葉がそう決めた。
夫婦が冷戦中の夕飯は、ギスギスした空気が漂う。
なんとなく、みんな会話が弾まない。
仁は定期的にチラチラと蜜葉乃の様子を伺い、蜜葉乃もソワソワしているのだが、最低限の短い会話しか交わさない。
心配で堪らない仁と、絶対に自分が行くと譲らない蜜葉乃。
そんな二人のフェロモンが、辺りに充満している。
いつもは騒がしい小さな子蟻までもが、しょんぼりとしていて、そそくさと食事を済ませると、世話役の子蟻に連れられて部屋に引き上げていった。
部屋に帰ろうとした女王を引き止めたのは千葉夜。
口を開いたのは、結葉だった。
「女王さま、巣の雰囲気が最悪です。仁ときちんと話し合ってください。フェロモンの会話では、細かい気持ちは伝わりませんよ」
「フェロモンって、そんなつもりはないんですが……」
「いいえ、現に小さな子蟻たちまで元気がありませんでした」
そう言われて、蜜葉乃の触覚がへにょんと下がった。
結葉が今度は仁の方を向いた。
「いつもの仁らしくありません。女王さまの意見ももっともですよ。仁がすべきことは、女王さまを閉じ込めることではなく、安全確保です」
仁の触覚がそわそわ揺れた。
今度は風葉が口を開いた。
「仁の心配もわかるよ。私たちだって、女王さまの苦しむ姿を見てきたからね。でも今日はちゃんと話し合おう」
そうして一葉が今日のカエルとの約束を説明し始めた。
カエルに会いに行ったこと。
カエルは詳しい事情をしらなかったこと。
世界樹で立会人の元、話し合おうと決めたこと。
「カエルの言うことは、もっともだと思う。お互いに大怪我をしているんだから、危険はお互い様だと言われて、その通りだと思ったよ」
仁は、黙って聞いていたが、目を閉じて項垂れた。
「つい感情的になってしまい、申し訳ありませんでした。私がすべきことを、一葉が代わりに……」
「いいですよ。外交は私の得意分野ですからね」
「いつのまにか立派に育って……」
「女王さままでやめてください。話を戻して、世界樹での話し合いはいかがですか?」
蜜葉乃と仁はしばらく二人で話しあっていたが、やがて頷いた。
「一葉の決めた通りにいたしましょう」
こうして夫婦喧嘩は終わったのだった。
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仁の日誌
一週間後に、世界樹にてクモとの会談が決定した。
一葉の外交調整能力に感服した。
蜜葉乃さまを襲ったクモは危険との認識は変わらないが、たしかに事情の確認は必須だ。
執事として、反省するばかりである。
それにしても「この地の門番」とは何を示しているのだろうか……




