7 執事さんは牧場主
巣の朝は以前よりずっと騒がしくなった。
通気孔から流れ込む空気が少しだけぬるみ、土壁の湿り気が夜の冷たさを手放しはじめるころ。
部屋の一角では卵ではなく、いまや幼虫の娘たちが、それぞれ好き勝手に身じろいでいた。
くに、と丸まる子。
寝返りのつもりなのか、隣の妹に頭をぶつけてしまう子。
その拍子に「ふみ」と小さく鳴いて、ぶつけられた方も「み」と返す子。
蜜葉乃は卵の頃にはなかった種類の慌ただかさに、半分呆れ、半分うれしそうに目を細めた。
「朝からにぎやかですねえ」
「はい」
いつもの落ち着いた声で答えたのは、もちろん仁である。
彼は今、創設室の隣に新たに増設された小部屋――通称、アブラムシ牧場――の前にいた。
その手には、細い植物の茎を何本も束ねたものと、小さく切った葉片、そしてよく見ると、ごく薄い膜のようなものまで抱えている。
創設巣に似つかわしくないほど、装備が本格的だった。
「仁」
「はい」
「それは何をしているのです?」
「朝の給餌と清掃、ならびに飼育環境の点検です」
「飼育環境」
「はい。アブラムシ牧場の湿度が夜間にやや上昇しましたので、茎の配置を調整し、甘露を収集し、若虫の偏在を是正します」
「……あら」
蜜葉乃は瞬きをした。
「それはもう、完全に牧場主さんでは?」
「恐れ入ります」
「褒めているのではなく、少し驚いています」
「光栄です」
「会話が噛み合っているのか、だんだん自信がなくなってきましたねえ……」
けれども仁は少しも気にした様子がない。
黒い衣の裾を汚さぬようきれいに捌きながら、彼は新設した牧場区画へ入っていく。
そこは、もはや創設巣とは思えない光景だった。
土の壁に沿って、いくつもの植物の茎が丁寧に固定されている。
乾きすぎないよう湿り気を保った土床。通気を妨げない絶妙な間隔。倒れないよう補強された支柱。若い葉を日持ちさせるための保湿材。
そしてその茎に、ぷつぷつと淡い緑色や乳白色の、小さなアブラムシたちが群れていた。
しかも、以前より確実に増えている。
「……増えましたねえ」
蜜葉乃がぽつりと言うと、牧場区画の中から仁の淡々とした返事が返ってきた。
「はい。昨日時点で三十七。今朝の確認では四十九です」
「四十九」
「ええ。順調です」
「順調なのですね」
「非常に」
そう答えながら、仁はまるで高級温室の管理人のような顔で、茎の角度を数本調整した。
その指先は無駄なく正確で、アブラムシを潰さないように、それでいて葉の重なりだけをそっとずらしていく。
蜜葉乃はしばらくそれを見つめていたが、やがて小さく笑った。
「仁、なんだか楽しそうです」
「そのように見えますか」
「はい。とても」
仁は少しだけ手を止めた。
「……否定はいたしかねます」
「まあ」
「管理対象が明確で、増減が把握しやすく、成果も可視化される環境は好ましいかと」
「ずいぶん理知的なお返事ですが、要するに楽しいのですね?」
「……ええ、まあ」
認めた。
しかもほんの少し、間が悪そうに。
蜜葉乃は思わず肩を揺らし、すぐに腹を押さえる。
もうかなり回復したとはいえ、無理に笑うとまだ少し傷に響くのだ。
「女王さま、笑うのは結構ですが、せめて壁にもたれてください」
「はい、執事さん」
素直に返事をすると、仁はひとつ頷き、また牧場区画へ戻っていった。
その背を見ながら、蜜葉乃はふう、と小さく息をつく。
襲撃のあと、栄養不足でふらつくことも多かった身体は、ここ数日で少しずつ持ち直してきていた。
一葉が連れ帰ったアブラムシから採れる甘露は、量こそ多くないものの、弱っていた女王の身体には思った以上に効いた。仁が集めてくるわずかな餌と合わせて、なんとか底を打たずに済んでいる。
まだ万全ではない。
けれども、卵の世話をし、娘たちの様子を見て、少しなら巣内を歩けるくらいには回復していた。
――その代わり。
娘が増えると、静かな時間は減る。
「かあさまー!」
元気いっぱいの声がして、次の瞬間、ふわりと軽いものが蜜葉乃の膝に飛び込んできた。
一葉だった。
「おはようございます、かあさま!」
「おはようございます、一葉」
一葉は蜜葉乃の膝にしがみついたまま、得意げに胸を張る。
「きょう、わたし、いもうとたちにあさのごあいさつ、ぜんいんぶんしました!」
「まあ、えらい」
「あと、あの子がねむってるときに、おふとんがずれてたので、なおしました!」
「まあ、えらい」
「それから、仁のおしごとを見にいって、すごくふえてるっておもいました!」
「それはたぶん、アブラムシさんのことですねえ」
「はい!」
きらきらした返事である。
一葉は、働きはじめたばかりの長女らしく、いま何もかもが楽しくてたまらない時期らしかった。
妹たちの様子を見に行っては報告し、保温材を運んでは「できました」と胸を張り、仁の作業を横で眺めては「すごいです!」と目を輝かせる。
可愛い。
とても可愛い。
ただし、元気があり余っている。
「一葉」
牧場区画から仁が顔を上げる。
「はい、仁!」
「今朝の巡回報告をお願いします」
「はいっ」
一葉は蜜葉乃の膝からぴょんと飛び降りると、ぴしりと背筋を伸ばした。
その姿勢が、微妙に仁の真似なのが可笑しい。
「えっと、ようちゅうぐみは、みんなげんきです。さんばんめの妹が、ちょっとだけおねしょしました」
「失礼ながら、それはおねしょではなく排泄かと」
「はい、はいせつです!」
「他には」
「ごばんめの妹が、わたしのあし先にひっついて取れなくなりました」
「それは事故です」
「あと、ろくばんめの妹が、わたしのかみを食べようとしました!」
「それも事故でしょう」
「じゃあ、みんなじこです!」
「概ね平和で何よりです」
淡々と返しながらも、仁はしっかり報告を聞いている。
一葉もそれがうれしいのだろう。小さな胸を張って、さらに続けた。
「それから、アブラムシさんのところ、ちいさい子がふえてました。みどりのちいさいのが、みっつ……いえ、よっつ……?」
「六です」
「ろくでした!」
「数える練習をしましょう」
「はい!」
あまりに素直な返事に、蜜葉乃は思わず口元を押さえた。
仁の真面目さと、一葉の元気さが並ぶと、どうしてこんなにおかしいのだろう。
しかも一葉は、そのまま仁の方へ駆け寄っていく。
「仁、わたしもおてつだいします!」
「内容によります」
「なんでもします!」
「その意気込みは評価しますが。ではまず、こちらの葉片を若虫区画へ運んでください。乾きすぎないよう、端を少し湿らせたものを選別済みです」
「わかりました!」
「走らないでください」
一葉は返事だけは立派だったが、三歩目でちょっと走った。
そして足元の小石に躓きかける。
「わっ」
「一葉」
仁が振り向くより早く、蜜葉乃が声を上げる。
けれど一葉は転ぶ寸前で踏ん張って、なんとか持ち直した。葉片も落としていない。
その場でぴたりと止まり、本人はきょとんとしている。
「……だいじょうぶです!」
「大丈夫そうには見えませんでしたが」
「でも、ころびませんでした!」
「結果としては」
「えらいですか?」
仁は少しだけ黙った。
「……えらい、ですが」
「やったあ!」
「ただし次からは歩いてください」
「はあい!」
まるで仔犬の躾のようなやり取りである。
蜜葉乃はとうとう吹き出してしまい、今度はちゃんと壁にもたれながら笑った。
「本当に、にぎやかになりましたねえ」
「はい」
返事をしたのは仁だったが、その視線は一葉から外れていない。
転ばないか、アブラムシ区画へ余計な衝撃を与えないか、妹たちを踏まないか――いろいろ見ているのだろう。
そして案の定、次の瞬間。
「仁! この葉っぱ、こっちでいいですか?」
「右です」
「こっち!」
「それは左です」
「ひだりでした!」
「落ち着いてください」
「はいっ」
「声量も半分で結構です」
「はいっ」
「半分です」
「……はい!」
全然半分になっていない。
仁は表情ひとつ変えなかったが、触角の先がわずかに下がった。
困っているのか、諦めているのか、その両方かもしれない。
一葉はそれでも楽しそうだった。
葉片を運び、妹たちの様子を見て、時々蜜葉乃のところへ戻ってきては「ほめてください」と言わんばかりの顔をする。
「かあさま!いま、仁に『ていねいです』って言われました!」
「まあ、すごい」
「でもそのあと『もう少し静かに』とも言われました!」
「それはセットなのですねえ」
「はい!」
まったく気にしていない。
むしろ褒められた部分だけを大事そうに抱えているあたりが、なんとも一葉らしかった。
蜜葉乃はその頭をそっと撫でる。
やわらかな銀髪が指に絡んだ。
「一葉はがんばり屋さんですね」
「がんばります!」
「えらいえらい」
「わたし、長女ですから!」
胸を張る姿に、蜜葉乃の胸がじんわりと熱くなる。
まだ小さい。
生まれてから、そんなに日が経ったわけでもない。
なのに一葉は、自分が“お姉ちゃん”なのだと、ちゃんとわかっているらしい。妹たちが増えたことを喜んで、見よう見まねでも役に立とうとして、失敗してもへこたれず、またすぐ次の仕事を探しに行く。
その姿が、愛しくてたまらない。
「……本当に、良い子ですねえ」
ぽつりとこぼすと、少し離れた場所で土を均していた仁が、静かに頷いた。
「仁もそう思いますか」
「思います」
「ふふ」
短い返事だったが、仁がこういうことを迷いなく言うのは珍しい。
それだけ一葉の頑張りを認めているのだろう。
もっとも、認めているからといって甘やかすわけではないらしい。
「一葉、先ほど運んだ葉片ですが、端が乾きすぎています。こちらと交換を」
「はい!」
「それから、妹たちの保温材に足を引っかけないよう注意してください」
「はい!」
「あと、あなたは五分前にも『はい』と返事をした直後に走っています」
「……はい」
「反省は」
「してます!」
「結構です」
やっぱり仔犬の躾だなあと、蜜葉乃は思った。
しかも今は、牧場区画があるせいで仁の執事ぶりに妙な方向性が加わっている。
しばらくして、仁は茎の一本を慎重に持ち上げ、別の支えへ移し替えた。
すると一葉が、きらきらした目で覗き込む。
「仁、それは何ですか?」
「若い茎です」
「わかい」
「ええ。こちらの方が樹液の状態が安定しており、若虫の定着率が高いので」
「ていちゃくりつ」
「簡単に言うと、アブラムシが住みやすいということです」
「なるほど!」
「なお、こちらは繁殖区画、こちらは搾蜜区画、奥は休ませるための予備区画です」
「……」
一葉は、ぽかんとした。
蜜葉乃も、少しぽかんとした。
「仁」
「はい」
「いま、区画と仰いました?」
「はい」
「搾蜜区画とも」
「ええ」
「……牧場が、本格的すぎませんか?」
仁はきょとんとした顔でこちらを見る。
「管理対象が増えましたので」
「そういう問題でしょうか」
「加えて、個体数が今後さらに増える見込みです。現状のままでは過密化による茎の消耗、病的個体の見落としなどの問題が」
「病的個体まで把握なさるおつもりなのですね」
「当然かと」
当然らしい。
仁はさらに、どこから持ち出したのか細い土板のようなものを壁に立てかけた。
そこには、小さな印が几帳面に並んでいる。
「それは何です?」
「飼育記録です」
「記録」
「本日の個体数、増加率、茎の交換時期、甘露採取量、若虫の偏り、環境湿度の変化を」
「待ってください」
「はい」
「本当に牧場主さんですね」
「執事です」
「いまやっていることは、だいぶ牧場主さんですよ」
仁は数秒考え、それからごく真面目な顔で答えた。
「執事業務の一環として、牧場主を兼任しているだけです」
「兼任しているのですねえ……」
もはや誰も否定できない。
一葉はその記録板を覗き込み、目を丸くした。
「仁、これ、ぜんぶおぼえてるんですか?」
「概ね」
「すごいです!」
「慣れです」
「わたしも書けるようになりますか?」
「数字の読み書きから始めましょう」
「はい!」
「まず一から十まで」
「いち、に、さん、いっぱい!」
「雑です」
「いっぱいは、いっぱいです!」
「気持ちはわかりますが、数としては不採用です」
仁の返しがいちいち真面目すぎて、蜜葉乃はまた笑いそうになる。
そんな賑やかなやり取りの合間にも、巣の時間はちゃんと進んでいた。
幼虫たちは腹を満たして眠り、また起きては小さく鳴く。
妹のひとりが寝ぼけて一葉の服の裾にしがみつき、一葉が「おねえちゃんはここですよ」と得意げに撫でる。
蜜葉乃はその様子を見守りながら、時々甘露を口にし、まだ幼い子には口移しで栄養を与える。
少し前まで、巣はもっと静かだった。
卵の白さと土の匂い、それから自分の呼吸だけがあるような、ひっそりとした創設巣。
今は違う。
仁がいて、一葉がいて、妹たちがいて、アブラムシまでいる。
通路の先からは時々、仁が運んできた新しい葉や茎の匂いがするし、誰かが寝返りを打つたびに小さな衣擦れのような音がする。
にぎやかで、少し狭くて、でも温かい。
蜜葉乃はその空気を胸いっぱいに吸い込んで、ふわりと目を細めた。
「仁、ありがとうございます」
牧場区画の整理をしていた仁が、手を止める。
「何に対しての、でしょう」
「いろいろ、です」
蜜葉乃は、眠りかけている末の幼虫の背をそっと撫でながら言った。
「巣を守ってくださったことも、一葉を助けてくださることも、妹たちのお世話も、アブラムシさんのことも」
「……そうですか」
「はい。わたしひとりでは、きっとこんなふうにはできませんでした」
仁はしばらく黙っていた。
その横顔はいつものように整っていて感情も薄い。けれど少しだけ、視線がやわらいだ気がした。
「それは、違います」
「まあ」
「私は整えているだけです。始めたのは蜜葉乃さまでしょう」
「始めた」
「この巣も、卵も、娘たちも」
仁は静かに言う。
「私は、そこに後から加わったにすぎません」
蜜葉乃はきょとんとしたあと、やがてふわりと笑った。
「でも、いまはもう、仁がいないと困りますよ」
「……存じております」
「ご存じなのですね」
「はい。ですので、引き続きお任せください」
その返事があまりにも堂々としていて、蜜葉乃はくすくす笑う。
仁は相変わらず真顔だが、ほんの少しだけ触角の先が揺れていた。
その時だった。
「仁ーーー!」
一葉の声が、巣の中に元気よく響く。
見れば、一葉が牧場区画の前で、両手をぱたぱたさせていた。
「たいへんです!」
「何でしょう」
「アブラムシさんが、なんか、すごくいます!」
「それは通常運転です」
「でも、さっきより、すごく、むぎゅってしてます!」
仁の表情がわずかに変わる。
すぐさま彼は区画へ向かい、茎の一本を覗き込んだ。
「……なるほど」
「たいへんですか?」
「ええ、少々」
「どうしましょう!」
仁は一拍考え、静かに告げる。
「分家します」
「ぶんけ!」
「過密です。このままでは茎の負担が大きい。若虫を一部、第二茎区画へ移送します」
「だいに!」
「一葉、補助をお願いします」
「はいっ、牧場主さま!」
ぴたり、と空気が止まった。
仁が、一葉を見る。
一葉は「え?」という顔で瞬く。
蜜葉乃は数秒遅れて意味を理解し、口元を押さえた。
「一葉」
仁が、低く落ち着いた声で言う。
「誰のことですか?」
「仁です!」
「私は執事です」
「でも牧場主もしてます!」
「兼任です」
「じゃあ、執事牧場主さま!」
「長いです」
「じゃあ、牧場執事さま!」
「短くなっていません」
一葉は困ったように首を傾げ、それからぱっと顔を上げた。
「……ご主人さま?」
「違います」
即答だった。
蜜葉乃はとうとう吹き出した。
腹を押さえながらも笑いが止まらない。仁は「笑いすぎは...」と言いかけて、でも今はそちらよりアブラムシの分家が先だと思ったのか、ひとつ息をついてから一葉へ向き直った。
「呼称は後で検討します。今は移送作業です」
「はいっ!」
「走らないでください」
「はいっ!」
「だから走らないで――」
一葉はもう走っていた。
ぱたぱたと軽い足音が響き、仁がその後を追う。
牧場区画の前では、増えすぎたアブラムシたちを前に、執事が真顔で分家作業の指示を出し、長女が元気よく返事をし、時々妹たちが眠そうに身じろぎする。
その光景を眺めながら、蜜葉乃は思う。
ずいぶん遠くまで来た。
崩れた巣でひとりきりだった夜から、まだそれほど時間が経ったわけではない。
それなのに今、ここにはこんなにもたくさんの気配がある。娘たちの寝息。仁の淡々とした声。一葉の明るい返事。茎にしがみつく小さな家畜たちの群れ。
にぎやかで、少しおかしくて、でもたしかに幸せな、土の下の王国。
「……ふふ」
「どうかなさいましたか、女王さま」
分家作業の途中で、仁が顔だけこちらへ向ける。
「いいえ」
蜜葉乃は、眠る娘たちを見下ろし、それから忙しなく動く長女と執事を見て、やわらかく微笑んだ。
「うちの巣、思っていたよりずっと、にぎやかで楽しいなあと思いまして」
一葉が「はい! たのしいです!」と即座に乗っかり、仁は「私語は後で」と言いながらも、黙々と次の茎を整える。
でも、その触角の先がほんの少しだけやわらかく揺れたのを、蜜葉乃は見逃さなかった。
⸻
仁の日誌
•アブラムシ個体数、順調に増加。分家が必要な段階に入る
•一葉、労働意欲は極めて高い。静粛性と歩行精度に課題あり
•女王の体調は緩やかに回復中。笑いすぎによる腹部負荷に引き続き注意
•「執事」と「牧場主」の兼任について、家族内認識の整理が必要




