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葉音を紡ぐ ――世界樹の麓で  作者: 葉森かなで


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6 長女は、おみやげを連れてくる

 蛹になった一葉が眠るあいだに、巣の時間は静かに、けれども容赦なく進んでいった。


 蜜葉乃はあの日、ほとんど倒れるように眠ってから、丸一日近く起き上がれなかった。

 仁はその間、部屋の温度を保ちつつ、巣の外へ何度も足を運んだ。雨上がりの地表で、落ちた種子や樹液のこびりついた欠片、甘みの残る果肉、小さな虫の死骸まで、ありとあらゆるものを集めて戻ってくる。


 そうやってどうにか繋いだ栄養で、蜜葉乃の顔色はわずかに戻った。


 もちろん、万全には程遠い。

 腹の奥に空洞が残るような感覚は消えないし、脚にもまだ力が入りきらない。それでも、一葉を育てきった直後の危うさに比べれば、ずっとましだった。


「仁」


「はい」


「今日は少し、身体が軽い気がします」


「ようやくです」


「そんなに深刻なお顔をしなくても」


「深刻でしたので」


「まあ……」


 寝床代わりの繊維の上で身を起こした蜜葉乃は、少し困ったように笑った。

 その隣では、蛹の一葉が静かに眠っている。薄い膜に包まれた小さな身体は、外から見るぶんにはほとんど動かない。けれども仁によれば、内部では順調に変化が進んでいるらしい。


「一葉、きれいですねえ」


 蜜葉乃はそう言って、そっと蛹のそばへ手を添える。

 眠る娘を起こさないように、けれどもちゃんと、ここにいるよと伝えるように。


「もうすぐでしょうか」


「数日のうちには」


「そうですか」


 その返事は嬉しそうで、少しだけ名残惜しそうでもあった。


 けれども巣には、まだいくつもの卵が残っていた。しかもそのうちのいくつかは、次々と殻の内側で動き始めていたのである。


 つまり――巣はまもなく、二人と一蛹の静かな暮らしではなくなる。


 その予感は、あっけないほど早く現実になった。


 ある朝。

 卵のひとつが、かすかに震えた。


「あら」


 蜜葉乃が気づいた時には、仁もすでにその一角へ視線を向けていた。

 さらにその隣の卵も、わずかに揺れる。


「……仁」


「はい」


「これは」


「孵化が重なりそうです」


「重なるのですか」


「はい」


「まあ」


 言っているそばから、最初の卵に細いひびが入った。

 さらに少し遅れて、二つ目の卵にも動きが出る。


 蜜葉乃は思わず居住まいを正した。

 嬉しい。嬉しいのだが.....


「ど、どうしましょう」


「まずは一つずつです」


「はい、でも、二つとも動いています」


「見えております」


「一葉の時より慌ててしまいます」


「落ち着いてください」


「仁、無理です」


 その言葉どおり、蜜葉乃の触角は落ち着きなく揺れていた。

 初めての娘の時は、目の前のたったひとつの命に全力を注げばよかった。けれども今は違う。これから先、この巣では「ひとりだけを見ていればいい」時間の方が少なくなっていくのだ。


 その現実を、卵たちは容赦なく教えてくる。


 最初の卵が割れ、次の幼虫が生まれた。

 少し遅れて、二つ目も。

 さらに翌日には三つ目が動き始め、巣は一気に賑やかになる。


 蜜葉乃は嬉しい悲鳴を上げることになった。


「仁、こっちは湿り気が足りないかもしれません」


「承知しました」


「でもあちらの子は少し暑そうで」


「繊維を減らします」


「それから、この子が今お腹を空かせていて――ああ、さっきの子もでした」


「順番を整理します」


「整理」


「育児優先順位です」


「そんなことが必要になる日が来るなんて」


「来ました」


「来てしまいました……」


 蜜葉乃は完全にてんてこ舞いだった。


 幼虫たちはまだ小さい。

 けれど一匹だけでも神経をすり減らす育児が、二匹、三匹と増えれば話は別だ。給餌のタイミング、湿度の差、身体の向き、保温材の厚み。ほんの小さな違いでも気になってしまうのが蜜葉乃である。


「みんな大丈夫でしょうか。ちゃんと温かいでしょうか。お腹は空いていませんか。苦しくないでしょうか」


「女王さま」


「はい」


「一度に全部お答えしましょうか」


「お願いします」


「概ね大丈夫です。温度は保たれています。空腹は順次対応中です。苦しくもないはずです。ですから、まずはご自身が倒れないことを優先してください」


「最後だけ難しいですねえ……」


 言いながらも、蜜葉乃は幼虫たちへ栄養を与える。

 仁が運んできた食料で多少は持ち直したとはいえ、複数の娘たちを育てる負担はやはり重い。


 それでも娘たちが身を寄せてくると、手を止められない。


 そんな慌ただしい日々の中で、一葉は目を覚ました。


 その朝、巣の一隅で蛹の表面がかすかに割れた。


 蜜葉乃はすぐに気づいた。

 娘たちへの給餌の手を止め、はっと顔を上げる。


「仁」


「はい」


「一葉が」


「ええ」


 二人はほとんど同時にそちらへ寄った。


 蛹の殻が、少しずつ開いていく。

 中から現れたのは、幼虫の頃とはまるで違う姿だった。


 小さな手脚。華奢な体。

 あどけなさを残すその姿は、まるで小さな蜜葉乃そのものだった。

 髪もそっくりな銀色。

 閉じたまぶたの下で、睫毛がかすかに震え、細い触角が頼りなく揺れた。


「……まあ」


 蜜葉乃の声が、ほとんど息のように零れる。

 仁は黙って一葉を見つめたまま動けなかった。


 ついに一葉が目を開いた。

 まだぼんやりとした顔で、狭い巣の天井を見上げている。

 大きな瞳だけは蜜葉乃の蜂蜜色と違い、黒曜石のように輝いていた。

 それから視線を巡らせ、最初に蜜葉乃を見つける。


 その瞬間、


「……おかあ、さま?」


 ひどく小さな、まだ舌足らずな声だった。


 蜜葉乃は両手で口元を覆った。

 嬉しさが一度に込み上げて、泣きそうなのか笑いたいのか、自分でもわからない顔になる。


「はい……はい、そうです。わたしが母ですよ、一葉」


 一葉はしばらく蜜葉乃を見つめていたが、やがて安心したように表情をゆるめる。

 そして次に、その少し後ろに立つ仁を見た。


「……じん?」


「はい」


「じん、だ」


 どうやら蛹の間も、外の声はうっすら聞こえていたらしい。

 いまだ固まったままの仁は、かろうじて声を絞り出した。


「おわかりになるのですか?」


「なんとなく、しってるきがします」


「左様ですか」


「はい」


 蜜葉乃もまた、一葉から目を離せなかった。


 生まれた時はあんなに小さな幼虫だったのに。

 今はもう、細い指も、頼りない脚も、ぴょこぴょこ揺れる触覚も、母を見上げる目もある。


「一葉」


「はい」


「大きくなりましたねえ……」


「えへへ」


 褒められた意味を完全に理解しているわけではなさそうだったが、一葉はうれしそうに笑った。

 その笑顔はまだ幼く、働き手というより子どもそのものだ。


 けれども彼女は間違いなくこの巣の最初の働き蟻だった。


 長女の誕生は、巣の空気をまたひとつ変えた。


 一葉はまだ羽化したばかりで、身体つきも小さい。 

 それでも「自分が何かをする側」なのだという本能めいた自覚はあるらしく、目を覚ましたその日から落ち着かなかった


「おかあさま、わたし、なにをしたらいいですか?」


 瞳をきらきらさせて、一葉は蜜葉乃の膝元へにじり寄る。


一生懸命歩いているが、

小さなお腹の先っぽが、右へ左へふりふり、ふりふり。

一緒に触角も、ぴこぴこ ぴこぴこ

見ているこちらは ハラハラ、ドキドキ。


「何を、ですか」


「はい。おしごとです。わたし、はたらきます」


 蜜葉乃は思わず頬をゆるめた。


「一葉は、ついさっき生まれたばかりですよ」


「でも、おねえちゃんです」


「……まあ」


 蜜葉乃はたまらなく愛しそうに笑った。

 どうやら一葉は、自分の下に妹たちがいることを、なんとなく理解しているらしい。


「おねえちゃん、ですか」


「はい。だから、おてつだいします」


 その意気込みは大変頼もしい。

 頼もしいのだが――現実問題として、外へ出すには危なっかしすぎる。


 そう判断したのは、蜜葉乃だけではなかった。


「却下です」


 横から仁がきっぱりと告げる。


 一葉はぴたりと動きを止め、振り返った。


「きゃっか」


「はい」


「どうしてですか」


「羽化直後です。足元も覚束ない状態で巣外活動は許可できません」


「でも、わたし、あるけます」


「先ほど部屋の隅で転びかけました」


「……みてたんですか」


「見えておりました」


 一葉はむっとした顔をした。

 だが反論しようにも、実際さっき危なっかしくよろけたばかりである。


「まずは巣内業務からです」


 仁は容赦なく続ける。


「育房内の繊維運び、葉片の受け渡し、保温材の整頓。そこから始めてください」


「むう……」


 一葉は納得していない顔のまま、でも最終的には「はい」と頷いた。

 その素直さに、蜜葉乃はほっとしつつも、少しだけ笑ってしまう。


「仁、なんだか本当に教育係みたいですねえ」


「執事ですので」


「一葉にとっては、保護者みたいです」


「それは否定いたしません」


 一葉はその会話を聞きながら、少しだけ首を傾げた。

 そして、ぽつりと尋ねる。


「じんは、しつじで、ほごしゃなんですか?」


「概ねその認識で問題ありません」


「じゃあ、じんもおねえちゃん?」


「それは違います」


「まあ、そこは即答なのですね」


 蜜葉乃が笑い、一葉もつられて笑った。


 それからしばらくのあいだ、一葉は巣内での仕事を覚えた。


 繊維を小さな腕に抱えて運ぶ。

 仁の横で葉片を並べる。

 妹たちのそばへ保温材をそっと置く。

 蜜葉乃が給餌をする間、必要なものを渡す。


 どれも簡単なことばかりだ。

 けれども一葉は、ひとつひとつ宝物みたいに大事にこなした。


「おかあさま、これ、ここでいいですか」


「ええ、上手ですよ」


「じん、これもっていきます」


「ありがとうございます、一葉」


「えへへ」


 褒められるたびに、照れくさそうに笑う。

 頑張り屋の小さな娘だ。


 妹たちは本当に次々と増えていった。


 一匹、また一匹。

 卵が孵り、幼虫が生まれ、育房はたちまち手狭になる。

 蜜葉乃は娘たちへの給餌に追われ、仁は育房の拡張と温湿度管理に追われ、一葉は小さな身体で右へ左へ走り回る。


「一葉、その繊維はこっちです」


「はい!」


「女王さま、こちらの子が空腹です」


「いま行きます。ああでも、その前にこの子を――」


「順番を整理します」


「お願いします……!」


 巣の中は 慌ただしくて、賑やかで、何かが常に起こっている。


 そんな忙しさの中、一葉はついに我慢できなくなった。


「おかあさま、わたし、そとにいってきてもいいですか?」


 蜜葉乃は、葉片を咥えたままぴたりと止まった。

 すぐ横で通路を補強していた仁も、同時に顔を上げる。


「外へ、ですか」


「はい。ごはん、さがしてきます」


 一葉は胸を張って言った。

 触角の先がやる気いっぱいに立っている。


「もう、ころびません」


「問題はそこだけではありません」


 仁が即座に返す。


「巣外には外敵、段差、乾燥、その他危険要素が多数あります」


「でも、じんばっかりたいへんです」


「それは仕事ですので」


「わたしも、しごとしたいです」


 まっすぐ仁を見上げる。

 それから蜜葉乃へ向き直る。


「おかあさま、わたし、もうおねえちゃんです。いもうとたちのために、なにかしたいです」


 その言葉に、蜜葉乃はすぐには返事ができなかった。


 一葉が役に立ちたいと思ってくれているのは、うれしい。

 長女として、妹たちのために動きたいのだという気持ちも、いじらしいほど伝わってくる。


 でも、外は危険だ。

 この小さな娘を一人で出すなんて、母としては到底頷けない。


「仁……」


「反対です」


「まだ何も言っていません」


「女王さまが迷ったお顔をなさっていたので、先に申し上げました」


 一葉はしょんぼりした。

 けれども引き下がらない。


「じゃあ、じんといっしょなら?」


「それは……」


 仁が何か考えるように、言い淀んだ。


 蜜葉乃もその隙を逃さなかった。


「仁と一緒なら、少しだけ……どうでしょう」


「女王さままで」


「だって、ずっと巣の中だけでは、一葉も息が詰まってしまうかもしれません」


「しかし」


「それに、外を知るのも働き蟻のお勉強です」


 一葉はすかさず、こくこくと何度も頷いた。


「おべんきょうします!」


「……」


 仁は空を仰いで、すぐには何も答えない

 明らかに難色を示している。けれども蜜葉乃と一葉、そっくりな二人に、同時に見つめられると弱いらしい。


 やがて小さく息をついて条件を並べた。


「巣の入口から遠く離れないこと。必ず私の視界内にいること。危険を感じたら即時撤退すること。拾うものは必ず私に確認を取ること。勝手に生き物へ触れないこと」


「はい!」


「返事が早すぎて不安です」


「だいじょうぶです!」


「その“だいじょうぶ”が全く信用なりません」


「じん、しんようしてください」


「善処します」


「またそれです」


 蜜葉乃がくすりと笑う。

 こうして、一葉のはじめての外出が決まった。


 もっとも、当の蜜葉乃は送り出す段になって、急にそわそわし始めたのだが。


「本当に大丈夫でしょうか」


「先ほどから十回は伺っています」


「だって、外ですよ」


「ですから私が同行します」


「段差で転びませんか」


「転ばせません」


「知らない虫にさらわれたり」


「しません」


「葉っぱの裏に落ちたり」


「しません」


「ほんとうに?」


「はい」


 一葉はそんな二人を見上げて、少しだけ得意げに胸を張る。


「いってきます、おかあさま」


「……はい。気をつけて。仁の言うことをよく聞いて」


「はい!」


 こうして一葉は、仁と一緒に巣の外へ出ていった。


 地上は、土の下の巣とはまるで違う世界だった。


「わあ……」


 思わず声が漏れる。


「すごいです、じん。おそと、ひろいです」


「走らないでください」


「はしってません。あるいてます」


「今、半歩ほど浮いていました」


 一葉はきょろきょろと辺りを見回しながら、仁のすぐそばを歩く。

 まだ危なっかしいが、巣の中にいた時より足取りはしっかりしていた。


 仁は周囲を警戒しつつ、食べられそうな種子や樹液の跡を探す。

 一葉も真似をして地面を見たり、葉の裏を覗いたりしていたが――やがて、ある一点でぴたりと止まった。


「……じん」


「何でしょう」


「このこたち、こまってます」


 仁が視線を向けると、一葉は一本の草の茎を指していた。


 そこには、小さな虫が何匹もくっついている。

 丸っこい身体に、細い脚。葉の汁を吸う、柔らかな虫――アブラムシだった。


 甘露を出す虫だ。世話をすれば、代わりに蜜のような甘い分泌物を得られる。生まれた時からみんな知っている。だが、創設直後の小さな巣で、それを本格的に扱う発想までは、仁にもまだなかった。


「困っている、とは」


「なんだか、そういうかんじです」


 一葉は茎のそばへしゃがみ込み、アブラムシたちへ顔を寄せる。

 危険だからやめてください、と仁が止める前に、一葉はごく自然に話しかけていた。


「こんにちは。うち、きますか?」


 仁は黙った。


 一葉は本気で誘っているらしい。

 アブラムシたちは当然返事などしない――はずだった。


 ところが次の瞬間。

 茎についていた数匹が、もぞもぞと向きを変え、一葉の差し出した指先へ近寄ってきた。


 仁は何も言わず、その光景を見つめる。


 一葉は嬉しそうに振り返った。


「じん、きてくれるみたいです」


「……左様ですか」


「はい!」


「確認ですが、一葉。今、何をなさいましたか」


「なにもしてません。おはなししただけです」


「お話」


「はい。こっちのほうが、あんしんだよって」


 本人にとっては、それ以上でも以下でもないらしい。

 だが結果として、アブラムシたちは本当に一葉の指や葉片へ移り始めている。


 仁は数秒ほど沈黙したのち、すっと周囲を見回した。

 そして判断を下す。


「……持ち帰りましょう」


「いいんですか?」


「はい。女王さまの栄養問題の改善に繋がる可能性があります」


「えいようもんだい」


「母君があまり無理をせずに済むかもしれない、ということです」


 一葉の顔がぱっと明るくなった。


「じゃあ、つれてかえります!」


「ただし慎重に。茎ごと切り取りますので、勝手に引っ張らないでください」


「はい!」


 こうして、一葉は生まれて初めての外出で、“おみやげ”を連れて帰ることになった。


 巣へ戻った時、蜜葉乃は入口近くで、今にも飛び出しそうな顔をして待っていた。


「おかえりなさい、一葉。仁。大丈夫でしたか?」


「はい!」


 一葉は誇らしげに胸を張る。

 その両腕には、仁が持ちやすいよう整えた小さな草の茎が抱えられていた。そこに、丸い虫たちがいくつもくっついている。


 蜜葉乃はきょとんとする。


「……まあ?」


「おみやげです!」


「おみやげ」


「このこたち、うちにきてくれました!」


 蜜葉乃は瞬きを繰り返した。

 茎。小さな虫。得意げな長女。そして、その後ろで妙に真面目な顔をしている仁。


「仁、これは」


「アブラムシです」


「まあ」


「甘露を得られる可能性があります。管理できれば、女王の栄養補助として有用かと」


「……この子たちを?」


「はい」


 蜜葉乃は茎にしがみつく虫たちをそっと覗き込む。

 小さくて、丸くて、どこか頼りない生き物たちだ。娘が連れてきたと思うと、なんだか急に愛着まで湧いてくる。


「一葉が見つけたのですか。えらいですねえ……!」


 蜜葉乃がそう言うと、一葉は照れたように笑った。


「おかあさまが、すこしでもらくになるなら、うれしいです」


 その言葉に、蜜葉乃の目元がふっとやわらぐ。

 ああ、この子は本当に長女なのだと思った。まだ小さくて、あどけなくて、外に出たばかりの娘なのに、ちゃんと母を助けようとしてくれている。


「ありがとう、一葉」


「えへへ」


「でも、危ないことはしないでくださいね」


「はい!」


「返事は大変よろしいのですが」


 仁が横から静かに口を挟む。


「今後、巣外活動は必ず私の同行下で行ってください。単独行動は禁止です」


「はーい」


「本当に理解しておられますか」


「たぶん」


「不安です」


 蜜葉乃は思わず笑ってしまった。

 笑った拍子に少しだけ疲れが滲んだが、それでも今は嬉しさの方が勝っている。


 こうして、巣の中に新しい“家畜”がやってきた。


 もちろんアブラムシを連れ帰ったからといって、すぐに何もかもが解決するわけではない。

 彼らが落ち着ける環境を作らなければならないし、世話の仕方も考えなくてはならない。食べる植物の管理も必要になる。


 つまり、またしても新しい仕事が増えたのである。


「管理は私が担当します。育房の管理に加え、アブラムシの飼育区画を設けます。早急に部屋を作り、通気と湿度を分け、植物片の固定方法も再検討が必要です」


「最低限、ではなさそうですねえ」


「必要最低限です」


「基準がどんどん遠のいていきます……」


 一葉はその会話を聞きながら、茎にくっついたアブラムシたちをじっと見つめていた。

 そして、そっと指先を差し出す。


「みんな、ここでくらせますか?」


 すると、アブラムシの一匹が、のろのろと一葉の指へ近づいた。


 蜜葉乃は「まあ」と目を丸くし、仁は無言でその様子を観察する。


「懐かれているのでしょうか」


「……現時点では、否定材料が不足しております」


「仁、それは肯定に近い返答ですか」


「少なくとも一葉の周囲でのみ、あぶらむしが安定しているのは明らかです」


「まあ」


 一葉は首を傾げた。


「わたし、なにかしたでしょうか」


「していないのですよね?」


「はい。おはなししただけです」


 本人は本当にわかっていないらしい。

 蜜葉乃はそんな娘の頭を、そっと撫でた。


「では、一葉は虫さんに好かれやすいのかもしれませんねえ」


「すき?」


「はい。きっと、やさしい子だとわかるのでしょう」


「……えへへ」


 一葉はくすぐったそうに笑った。

 仁はそのやり取りを聞きながら、ほんのわずかに視線を落とす。


 ただ好かれやすい、で片づけてよい現象かはわからない。

 だが今は、深く掘り下げる時ではないだろう。

 これが巣にとって全身であるのは確かだ。


 その日のうちに、仁は新しい部屋を作りあげた。


 育房からは少し離しつつ、温度差が出すぎない位置。

 植物の茎を固定しやすく、かつ湿り気を保ちやすい角度。

 アブラムシが落ち着いて汁を吸えるよう、茎の根元を湿らせるための小さな床材まで整えていく。


「仁、それは何をしているのです?」


「アブラムシ飼育区画の整備です」


「もう名前がついています」


「必要ですので」


「その必要の判断が早いのですよねえ」


「一葉が連れ帰られた時点で決定事項でした」


 一葉はその横で、せっせと葉片を運んでいた。

 まだ小さな腕で抱えられる量はわずかだが、それでも本人は大真面目である。


「じん、これ、ここ?」


「はい。助かります」


「わたし、やくにたってますか」


「大いに」


「えへへ」


 褒められて頬をゆるめる長女を見て、蜜葉乃は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


 一葉が生まれた時は、ただ無事でいてくれればと思った。

 幼虫の時は、ただ大きくなってほしいと願った。

 蛹になった時は、ちゃんと次の姿になれますようにと祈った。


 そして今、こうして働きはじめた娘は、もう“守られるの子”ではなくなりつつある。


 もちろん、まだ幼い。

 足元も危ういし、外へ出せば気が気ではない。

 けれどもその小さな手で、確かに巣を前へ進めてくれている。


「一葉」


「はい、おかあさま」


「ありがとう」


「なにがですか?」


「生まれてきてくれたことも、働いてくれることも、全部です」


 一葉はぱちぱちと大きなー目を瞬いたあと、照れたように笑った。


「わたし、おかあさまのこどもですから」


 その返事は、あまりにもまっすぐだった。


 蜜葉乃は思わず目を細める。

 仁は少し離れたところでアブラムシ用の区画を整えながら、ほんのわずかに手を止めた。


 娘が増え、仕事が増え、巣はどんどん騒がしくなっていく。

 けれどその賑やかさは、不思議と悪くなかった。


 育房では妹たちが身じろぎ、長女は葉片を抱えて走り、執事は新たな飼育設備を作り始める。

 女王はその真ん中で、少し疲れた顔をしながらも、ちゃんと笑っている。


 小さな王国は、まだ脆い。

 栄養問題だって完全に解決したわけではない。

 蜜葉乃の身体も、安心できるほど回復したわけではない。


 それでも、進んでいる。


 一葉が連れてきた小さな虫たちは、その証みたいだった。

 巣の外から運ばれてきた、新しい可能性。

 この王国が、ただ卵を守るだけの場所ではなく、少しずつ“暮らし”を持ち始めている証。


「仁、アブラムシさんたちをよろしくお願いしますね」


「承知しました」


「執事さんのお仕事、また増えましたねえ」


「いつものことです」


「大丈夫ですか?」


「問題ありません」


「本当に?」


「ええ。女王、長女、妹君方、加えてアブラムシ数匹程度であれば、まだ管理可能範囲内です」


「数匹程度って言いました」


「現状認識です」


「でも仁が、なんだかうれしそうです」


「……気のせいかと」


「湿度のせいですか?」


「その可能性は否定しません」


「仁、それ前にも聞きました」


 一葉がきょとんとして二人を見比べる。

 蜜葉乃はくすくす笑い、仁は無表情のままアブラムシの区画へ葉片を足した。


 その横で、一葉がこっそりアブラムシへ囁く。


「じん、ほんとにやさしいんだよ」


 するとアブラムシたちが、もぞもぞと茎の上で動いた。


 それが返事だったのかどうかは、まだ誰にもわからない。



仁の日誌


•第一子・一葉、無事羽化

•羽化直後ながら巣内作業への適応良好

•女王は小康状態だが、育児負荷増大につき予断を許さず

•第二陣以降の幼虫が順次孵化、育房の手狭化が進行

•一葉、初の巣外活動にてアブラムシ群を発見・連行

•甘露供給源として有望

•よって、アブラムシ飼育区画を新設

•管理担当は私

•一葉に特殊能力の可能性。虫と意思疎通?


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