52 神様の大丈夫はだいたい大丈夫じゃない
1章最終話です。読んでいただきありがとうございました。
2章は数日休んでから、再開予定です
仁が最初に見たのは、にこにこしている神様の顔だった。
「うん、いい感じ」
そう言って、神様は出来たばかりの仁をぐるりと眺める。
「やっぱりイケメン蟻人がいいよねえ。羽のつやもいいし、色も悪くないし」
「……はあ」
仁は自分が何者なのかもよくわかっていなかった。気づいたらここにいて、目の前には妙に軽い口調の神様がいる。自分の体は羽のある雄蟻人のものらしい、とわかるくらいだ。
神様は満足そうにうなずいて、ぽんと手を打った。
「名前もつけよう。仁。かっこいいから仁って名前ねー」
「……今、決めたのですか」
「決めたよ」
「そうですか……」
仁がなんとも言えない顔をしていると、神様は気にした様子もなく、さらに続けた。
「じゃあ仁くん、ちょっと行ってきて」
「どこへですか」
「婚姻飛行」
「……はい?」
「大丈夫大丈夫。ちょっと混ざって、近くの様子を見てきてくれればいいから」
説明が雑だった。
仁は一度黙ってから、できるだけ冷静に聞き返した。
「何を見ればいいのですか」
「そのへん」
「そのへん、とは」
「いろいろ?」
「いろいろ、では困ります」
「大丈夫大丈夫、行けばわかるよ」
わからないから聞いているのだが、神様はまったく気にしていない。
「必要なら、こっちから声をかけるし」
「では、現地で指示を?」
「うん、そんな感じ」
そんな感じ、で済ませていい話なのだろうか。
仁は不安になったが、目の前の相手は神様である。問い詰めたところで、ふわっとした返事しか返ってこないことは、すでに薄々わかり始めていた。
「……わかりました。では、行ってまいります」
「うん、いってらっしゃーい」
神様は軽く手を振った。
仁はその姿を見ながら、この時点ですでに少しだけ思っていた。
本当に大丈夫なのだろうか。
婚姻飛行は、思った以上に騒がしかった。
蟻人がいっせいに飛び立ち、空気はざわめき、土の匂いも風の流れも落ち着かない。仁はその群れに混ざりながら、言われたとおり周囲を見ようとした。
近くの様子を見てくる。
それが役目だ。
たぶん。
だが、何をどう見ればいいのかは、やはりよくわからない。
神様は「行けばわかる」と言ったが、来てもわからないものはわからない。
地形を見るべきなのか。
虫の流れを見るべきなのか。
何か異変があれば神様が指示を飛ばしてくるのか。
いまのところ、それらしい気配はない。
だから仁は、自分なりにできることをしようとした。
その時だった。
視界の端に、一匹の女王蟻人が映った。
なぜ気づいたのかは、自分でもわからない。
ただ、目が向いた。
そして、一度見たら目が離せなくなった。
小柄で、まだ若い女王蟻人だった。
風に煽られながらも、必死に羽ばたいている。その姿が、妙に気にかかった。
「……あれは」
思わず見てしまう。
また見る。
気づけば目で追っている。
おかしい、と仁は思った。
自分は様子見に来たのであって、一匹の女王蟻人を眺めに来たわけではない。なのに、どうしても視線がそちらへ引っ張られる。
さらに、彼女がふらりと体勢を崩した瞬間には、考えるより先に体が動いていた。
気づけば助けていた。
助けたあとで、自分が何をしたのか理解して、仁は一瞬固まった。
彼女ーー蜜葉乃は、驚いたように仁を見る。
その目がまっすぐこちらを向いた瞬間、胸の奥がひどくざわついた。
近い。
匂いがする。
温かい。
それだけで、妙に落ち着かない。
「……大丈夫ですか?」
「は、はい……」
答えた蜜葉乃の声に、なぜかほっとする。
無事でよかった、と心の底から思った。
おかしい。
やはり、おかしい。
そう思うのに、仁は蜜葉乃から離れがたかった。
結局そのまま、仁は蜜葉乃と結ばれた。
何がどうしてそうなったのか、自分でも説明しきれない。
ただ、そうしたかったし、そうするべきだと疑いなく思ったのだ。
そして、結ばれたその瞬間。
それまでどこか遠くに感じていた神様の気配が、ふっと消えた。
「……?」
一瞬、妙な感覚が走る。
何かが切れたような、急に静かになったような、不思議な感覚だった。
だが、その時の仁には、それを考える余裕がなかった。
目の前にいる蜜葉乃の方が、ずっと大事だったからだ。
蜜葉乃はこの先、大丈夫だろうか。
ちゃんと巣を作れるだろうか。
ひとりでやっていけるだろうか。
頭の中に、そんなことばかり浮かんでくる。
別れたあとも、それは消えなかった。
神様のもとへ戻るなり、仁は言った。
「……大丈夫ではありませんでした」
「え、そう?」
神様はきょとんとした顔をした。
その時点で、仁は少し腹が立った。
「何も説明されないまま送り出されました」
「うん」
「途中で妙な感覚の変化もありました」
「へえ」
「へえ、ではありません」
神様は「そっかそっか」とうなずいているが、どう見ても真面目に受け止めている顔ではない。
「私は何をしに行ったのですか」
「様子見?」
「疑問形で言わないでください」
「でも、ちゃんと行ってきたじゃない」
「それは行きましたが」
仁は深く息を吸った。
神様相手に怒っても仕方がない、と理性ではわかっている。だが、理性だけでどうにかなるなら、そもそもこんな会話にはなっていない。
「少なくとも、“大丈夫”という説明は不十分です」
「不十分だった?」
「かなり」
「でも、無事だったでしょ」
「結果の話ではありません」
神様は「難しいなあ」とでも言いたげに首をかしげる。
仁はその顔を見て、はっきり理解した。
この方は、細かな不安や疑問をひとつひとつ説明する気がない。
大きな意味では本当に「大丈夫」なのかもしれない。
だが、こちらが知りたいことと、神様が大丈夫だと思う範囲は、たぶん全然違う。
この時、仁は神様の「大丈夫」に対して、最初の不信を抱いた。
それからしばらく、仁は妙に落ち着かなかった。
理由は明白だった。
蜜葉乃のことが、気になって仕方がないのだ。
ちゃんと巣はできただろうか。
食べ物は足りているだろうか。
雨や風をしのげる場所は確保できているだろうか。
寒くなったら、冬は越せるのだろうか。
仁自身は、それを恋だとは思っていなかった。
ともかく心配だった。
だから仁は、神様に尋ねるようになった。
「あの巣は無事でしょうか」
「たぶん平気平気」
「たぶんですか」
「女王蟻って案外たくましいよ」
数日後には、また別のことを聞いた。
「食べ物は足りるのでしょうか」
「何とかなるんじゃない?」
「何とかならなかった場合は」
「その時は困るねえ」
困るねえ、ではない。
さらに別の日。
「外敵が入った場合、どうなりますか」
「入らないかもしれないし」
「入った場合です」
「仁くん、心配性だなあ」
仁は真顔で神様を見た。
「心配するでしょう」
「え、そんなに?」
「当然です」
「へえー」
神様は面白そうに笑っている。
仁は笑い事ではないと思った。
巣はちゃんとできただろうか。
食べ物は足りているだろうか。
冬は越せるだろうか。
危ない目に遭っていないだろうか。
仁にとっては、どれも大真面目な心配だった。
気になって地上の様子を何度も伺った。
なのに神様は、毎回ふわふわした返事しかしない。
「そんなに気になるなら、もう好きなんじゃない?」
「違います」
「即答だ」
「心配しているだけです」
「それを好きって言う場合もあるんだけどなあ」
「違います」
仁はきっぱり言い切った。
言い切ってから、なぜか少しだけ胸がざわついたが、気のせいということにした。
とにかく、神様は真面目に相手をしてくれない。
仁が本気で尋ねれば尋ねるほど、神様は軽く笑う。
からかう。
ごまかす。
肝心なところは言わない。
そのたびに、仁の中に同じ結論が積み重なっていった。
この方の「大丈夫」は、信用してはいけない。
言葉そのものが嘘というわけではないのだろう。
神様にとっては、本当に「まあ何とかなる」範囲なのだ。
けれども、こちらが知りたい細かな危険や、見通しや、不安については、同じ重さで考えてはくれない。
だから、相談しても仕方がない。
そう思う。
それなのに、結局また聞いてしまう。
蜜葉乃のことが気になるからだ。
聞いては軽く流され、聞いては腹を立てる。
そんなことを何度も繰り返すうちに、仁の神様に対する態度は、自然と少しずつ厳しくなっていった。
ある時、神様がふいに「あ」と声を上げた。
その声が、妙に軽かったのを仁は覚えている。
「……どうしました?」
「んー、ちょっと蜘蛛」
「ちょっと、ではありません」
嫌な予感がして、慌てて地上を確認する。
蜜葉乃の巣に危険が迫っていた。
蜘蛛だ。
見間違いようもなく、まずい状況だった。
仁はその瞬間、もう動いていた。
「え、行くの?」
「行きます」
「早いなあ」
「止めるのですか」
「いや、止めても行くでしょ」
「当然です」
言い切ってから、仁はもう振り返らなかった。
神様が何か言っていた気もする。
だが、耳に入らない。
頭にあるのは、ひとつだけだった。
このまま神様の大丈夫を信じていたら、間に合わない。
だから行く。
自分の足で、蜜葉乃のもとへ行く。
助けなければならない。
放っておけない。
その時になってようやく、仁は思い知った。
自分がどれほど蜜葉乃を気にかけていたのか。
どれほど、彼女を失いたくないと思っていたのか。
それはもう、ただの心配ではなかったのだろう。
けれども、それを仁が認めるのは、もう少し先の話である。
そして今でも、仁は神様に対して、つい口調が厳しくなる。
悪意がないことはわかっている。
助けてもらったこともある。
便利なものを渡されて、実際に役立っていることも多い。
それでも、あの方の「大丈夫」は信用しない。
大丈夫と言いながら説明を省き、
心配して尋ねても、だいたい笑って流す。
だから仁は、神様が軽い調子で何か言い出すたび、反射的に眉をひそめるのだ。
「……まず、説明をしてください」
それが、仁なりの精一杯の対策だった。




