50 神様は朝ごはんのあとにやってくる
冬の朝の巣は、外の冷たさが嘘のように、とても暖かい。
朝食を終えた広間には、まだ湯気の匂いが残っている。子蟻たちは食べ終えたあとも、席のまわりでごそごそしていた。誰かの器を覗き込んだり、眠そうにあくびをしたり、ころころ転がるように走ったり。
双葉はというと、食後なのにもう何か思いついた顔で紬葉に話しかけている。
「次はですね、詰所の棚の上に小物入れを増やして――」
「双葉、今は朝食の片づけが先です」
「はっ、そうでした!」
護葉は今日の見回りの段取りを葉月と確認し、結葉は子蟻たちがひっくり返した器を静かに拾い集めている。蜜葉乃は女王の席で、食後の温かい蜜湯をゆっくり口にしていた。
仁はそんな朝のざわめきを横目に見ながら、空になった器を重ねていた。
ここ数日、妙に落ち着かない気分が続いている。
理由は、自分でもよくわかっていた。
婚姻飛行以前の記憶がないこと。
それなのに、手の動かし方も、巣の整え方も、危険の見分け方も、何かを判断する勘のようなものも、最初から知っていたこと。
記憶がないのに何故知っているのか――考え始めると、答えのない問いばかりが頭に残る。
昨夜、とうとう仁は日誌にひとことだけ書いた。
もし説明する気があるなら、そろそろ私が何者なのか教えていただきたい。
もちろん、書いたところで本当に神様が来るとは思っていない。
思っていなかったのだが。
「……あれ?」
子蟻のひとりが、きょとんとした声を上げた。
「だれ?」
「へんなひといるー」
広間の空気が、ぴたりと止まる。
皆がそちらを向くと、広間の入口近く――さっきまで誰もいなかったはずの場所に、見知らぬ男がひとり、いつの間にか立っていた。
人の姿をしている。
どこか場違いなくらい軽い顔で、にこにこと機嫌がいい。まるで最初からそこにいたかのように自然に、ひらりと手を振った。
「朝ごはん終わった?」
「いい匂いしてたから、ちょっと来ちゃった」
一拍遅れて、巣が騒然となった。
「誰ですか!?」
双葉が真っ先に叫ぶ。
護葉は即座に前へ出て、蜜葉乃の前を塞ぐように立つ。葉月も位置を変え、紬葉が子蟻たちを背に寄せた。結葉は仁の方をちらりと見たあと、静かに広間全体の空気を探る。
仁だけが、器を持ったまま固まって、その後深く、深くため息をついた。
「……神様」
一同、沈黙。
「えっ」
「かみさま?」
「神様って、あの神様ですか!?」
双葉の声が裏返る。子蟻たちは「かみさまー?」と面白がってきょろきょろしているが、護葉は一歩も退かない。蜜葉乃は驚いた顔のまま、ゆっくり仁を見た。
「仁。この方は、本当に……?」
「はい」
仁はたいへん嫌そうな顔で答えた。
「私の知る限り、神様です。残念ながら間違いありません」
「紹介が雑だなあ」
神様は楽しそうに笑う。
場の空気が追いつかないまま、神様は広間を見回して、子蟻たちにまで気軽に手を振る。
「いやあ、呼ばれた気がしたから来たんだけど、ずいぶん賑やかだね」
仁のこめかみがぴくりと動く。
「……呼んでいません」
「えっ、日誌に書いてたじゃない。“そろそろ私が何者なのか教えてください”って」
仁は片手で顔を覆った。
「だからって、普通ここに現れますか?」
「ひどいなあ。聞かれたから来たのに」
「その善意を、もう少し別の形で発揮してください」
双葉が仁と神様を交互に見て、ひそひそと紬葉に囁く。
「えっ、仁さん神様と知り合いなんですか」
「知り合いというか、たぶん一番困らされてる相手です」
蜜葉乃は一度だけ目を閉じ、息を整える。
それから、女王としての声音で言った。
「……事情があるようですね。皆、ひとまず落ち着いて座ってちょうだい。護葉も少しだけ力を抜いて」
それから仁をまっすぐに見つめて言った。
「仁。説明をお願い」
「私がですか」
「あなたが一番この方を知っているのでしょう?」
まっとうな意見である。
仁は反論できず、ものすごく嫌そうな顔のまま頷いた。
こうして朝食後の広間は、そのまま仁の正体説明会へと変わった。
広間の真ん中に簡単な席が整えられ、神様はまるでお茶会にでも呼ばれた客のような顔で座っている。仁はその向かいで、ひどく不本意そうに腕を組んでいた。蜜葉乃は静かに神様を見つめ、双葉たちは興味と警戒の入り混じった顔で話を待っている。
最初に口を開いたのは神様だった。
「じゃあ、どこから話そうかなあ」
「結論からお願いします」
仁が冷たく言う。
「遠回しにされると面倒です」
「冷たいなあ」
神様は肩をすくめた。
「じゃあ結論。仁くんは、もともと私が作った分身みたいなものだよ」
巣の空気が、しんと静まりかえった。
最初に反応したのは双葉だった。
「ぶんしん!? 分身って、分身ですか!? こう、ぽんって増えるあれですか!?」
「だいたい合ってる」
「合ってるんだ……」
葉月が思わず呟き、護葉もさすがに目を細める。紬葉は子蟻たちを膝に寄せたまま固まり、結葉は仁の匂いが急に重くなったのを感じてそっと視線を向けた。
「名前だって仁ってつけたでしょ。神は“じん”とも読めるからね」
仁はしばらく何も言えなかった。
胸の奥に落ちた言葉は、驚きというより、奇妙な納得に近い。
ありえないはずなのに、ありえなくもない気がしてしまう。記憶の空白も、最初から持っていた知識も、そう言われれば繋がってしまうからだ。
「……初耳ですが」
ようやく仁が絞り出す。
「そうだろうねえ。言ってなかったし」
「なぜ今まで黙っていたんですか」
「聞かれなかったから?」
「その返答で納得すると思っているなら認識を改めてください」
ぴしゃりと返す仁に、神様は「厳しいなあ」と笑う。
「でも本当だよ。仁くんは私が作った、制限つきの分身みたいなもの。作ってすぐに婚姻飛行に送り込んだから、それ以前の記憶がほとんどないのも当然なんだよね」
蜜葉乃が静かに首を傾げた。
「……記憶がないのは、最初から?」
「うん。作りたてだったから」
神様は軽く頷く。
「そのかわり、知識とか判断力とか、最低限困らない程度のものは持たせたけど」
仁は目を伏せる。
あの不安が、ひとつの形を持って戻ってきた。
巣の整え方を知っていたこと。道具の作り方が自然に浮かぶこと。危険に対する身構え方や、誰かを守る時の動き、武器が最初から手に馴染んでいたこと。
あれらは自分が積み上げた経験ではなく、最初から与えられていたものだったのだ。
「……では」
仁は低く問う。
「何のために、私を婚姻飛行へ送り込んだのですか?」
神様はそこで、ほんの少しだけ目を逸らした。
「んー、ちょっと様子を見てほしいことがあってね。必要なら少し手を貸してもらおうかな、くらい?」
あまりにも曖昧な返答だった。
仁は眉を寄せる。
「ずいぶんぼかしますね」
「いやあ、細かいことはいいじゃない」
「ほら、結果的に全部どうでもよくなったし」
「どういう意味ですか」
神様はそこで、にっこり笑った。
「仁くん、あっという間に恋に落ちちゃったから」
今度こそ、広間の空気が止まった。
「…………は?」
仁が真顔で固まる。
双葉は口をぱかっと開け、葉月は「そこに繋がるのか」とでも言いたげな顔になった。紬葉は目を丸くし、子蟻たちは、難しい話が急に面白そうな方向へ曲がったのを感じ取って、わくわくした顔になる。
蜜葉乃だけが、瞬きをひとつして、静かに神様を見た。
「恋、ですか」
「うん」
神様は軽く頷く。
「仁くんはね、私の分身として作ったけど、分身であり続けるには条件があるんだよ。誰かに本気で恋をしたら、私から切り離されて独立人格になるって」
「……独立人格」
蜜葉乃が小さく復唱する。
「そうそう。恋に落ちたらその人しか見えないでしょ? だから誰かを好きになったら、その時点で“その子自身”になるんだ」
仁は、しばらく呼吸を忘れたように動けなかった。
神様の分身だった。
婚姻飛行の時に作られ、知識だけを与えられて送り出された。
そこまではまだ、納得できなくもない。
だが――恋をしたら独立する、とは何だ。
「……では」
仁の声がわずかに掠れる。
「私は、婚姻飛行の時点で……」
「うん。ほぼその場で独立したね。最短記録だよ」
神様はさらっと言った。
「早かったなあ。もっとこう、しばらく様子を見るものかと思ってたのに」
「その場で」
「うん、その場で」
神様は楽しそうに仁を見る。
「蜜葉乃ちゃんを助けたあたりで、もうだいぶ怪しかったし、庇われて動揺したあたりでほぼ決まりだったかな。“大好き”って顔に書いてあったよ」
「やめてください」
仁が即座に止めに入る。
だが神様は止まらない。
「いやだって、本当にわかりやすかったんだもん。一目惚れだよね、あれ。送り込んだ分身が初回任務でそのまま自我確立するとは思わなくて、びっくりしたなあ」
「やめてください!」
さっきより声が大きくなった。
双葉が「わあ」と小さく呟き、子蟻たちは「ひとめぼれってなにー?」とひそひそし始める。紬葉が慌てて「あとで説明しますから」となだめた。
蜜葉乃は、頬にほんの少しだけ熱をのぼらせながらも、仁から目を逸らさない。
その視線に気づいた仁は、余計に顔をしかめた。
だが、神様の言葉は容赦なく続く。
「独立したあとも、しばらくは私のところにいたんだけどね」
「でも仁くん、ずーっと蜜葉乃ちゃんのこと気にしてたよ。ちゃんと地上に降りられたかなとか、巣は作れたかなとか、危ない目に遭ってないかなとか」
「その件は、もう十分共有されています」
仁が疲れきった声で言う。
「うん、知ってる」
神様はにこにこ頷いた。
「それで結局、蜘蛛が出た時に飛び出していった」
そこでようやく、巣の皆の中で話がひとつに繋がったらしかった。
婚姻飛行のあと、普通の雄蟻のように死なず、神様のもとに戻っていたこと。
それでも蜜葉乃を見守っていたこと。
蜘蛛の襲撃で飛び込んで、今ここにいること。
神様の分身だった仁が、蜜葉乃に恋をして独立したからだったのだ。
仁は膝の上で指先を組み、しばらく黙り込んだ。
知らなかったことが、一気に押し寄せてくる。
自分が空っぽなのではないかという不安は、これで全部消えたわけではない。けれども、空白だった部分にようやく輪郭がついたのも確かだった。
その沈黙を破ったのは、蜜葉乃だった。
「……つまり」
蜜葉乃はゆっくりと言葉を選ぶ。
「仁は最初、神様が作った存在だった。でも婚姻飛行の時にはもう、仁として好きに動き始めていたのね」
「好きに、という言い方は少々語弊がありますが……」
仁は小さく抗議したが、否定はしきれない。
神様は楽しそうに頷く。
「うん、だいたいそんな感じ」
蜜葉乃は少し考えてから、仁を見た。
「じゃあ、婚姻飛行でわたしを助けてくれたのも
そのあと、ずっと気にしてくれていたのも
蜘蛛の時に飛び込んできたのも
今ここで、夫だの父だの執事だのをしているのも」
そこでふっと笑う。
「全部、ちゃんと仁なのね」
仁が、はっと顔を上げた。
「分身でも、神様由来でも、前の記憶がなくても」
蜜葉乃は穏やかに続ける。
「今ここにいる仁が、仁であることは、別に変わらないでしょう?」
広間の空気が、少しだけやわらいだ。
双葉が最初に「たしかに……」と頷く。
「だって仁って、ずっと仁ですもんね」
「いきなり“実は神様製でした!”って言われても、今さら別人って感じしませんし」
「神様製って言い方やめてください」
「えっ、でもだいたいそういう話では?」
「そうですが」
仁は認めるしかなかった。
紬葉も静かに笑う。
「記憶がなくても、今までやってきたことがなくなるわけじゃないです」
「子蟻たちにとっても、仁はずっとお父さんですし」
「じんはじんー!」
「おとうさんはおとうさんー!」
子蟻たちが元気よく結論を出す。
意味は半分もわかっていないだろうが、その声は妙に力強かった。
護葉は腕を組んだまま神様を見据えつつ、低く言う。
「少なくとも、今さら仁が別の何かだとは思わん。巣のために動いてきたことは事実だ」
葉月も頷く。
「それに、記憶がないことを悩んでいたのは、仁本人だから。理由がわかったなら、その方がいい」
結葉は何も言わなかった。
ただ、仁から漂っていた不安の匂いが、少しだけほどけたのを感じて、静かに息をついた。
仁はしばらく何も言えなかった。
昨夜まで抱えていた空白は、完全に埋まったわけではない。
神様に言いたいことは山ほどある。曖昧に誤魔化された部分もあるし、そもそも分身だの独立人格だの、もう少し丁寧に説明すべきことだろうと思う。
それでも。
自分が何者かわからないという不安だけは、確かに少し形を変えていた。
「……そういうものですか」
仁は小さく呟く。
「そういうものよ」
蜜葉乃はあっさり言った。
「少なくとも、わたしにとっては」
その一言に、仁は何か言い返そうとして、結局できなかった。
神様は横で、にこにこしている。
「よかったねえ、仁くん」
「あなたには、後ほど改めて抗議します」
「えー」
「“えー”ではありません」
ぴしゃりと返したところで、神様はまったく堪えた様子もなく笑う。
「まあでも、あんなに早く独立するなら、もっと可愛げのある性格にしておけばよかったかなあ。せっかく作ったのに、すぐに苦労人になっちゃうんだもん」
「誰のせいだと」
「たぶん蜜葉乃ちゃん?」
「神様」
仁の声がすっと低くなる。
双葉が「わあ怒ってる」と小声で囁き、子蟻たちは意味もわからず笑い出した。蜜葉乃も肩を揺らして笑い、広間の空気はようやく、いつもの巣らしい賑やかさを取り戻していく。
神様はその様子を眺めながら、どこか満足そうに目を細めた。
仁はそんな神様を見て、もう一度だけ深くため息をつく。
全部に納得したわけではない。
聞きたいことも、問い詰めたいことも、まだ残っている。
けれども自分の足元が少しだけ見えた気がした。
自分は何者なのか。
その答えはたぶん、仁が思っているよりずっと単純なのだろう。
神様の分身だったとしても。
最初は空っぽに近い存在だったとしても。
今ここにいる自分は、もう誰の代わりでもない。
蜜葉乃の夫で、子蟻たちの父で、この巣の一員として積み重ねてきた仁だ。
そう思えた朝だった。
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仁の日誌
本当に神様が来るとは思っていなかった。
私が神様の分身だったこと。
婚姻飛行以前の記憶がないのは、そのせいであること。
知識や判断力の出どころも、ひとまず説明はついた。
納得したかと問われれば、まだ半分くらいです。
明らかに誤魔化された点もありますし、後で問う必要があるでしょう。
ただ自分が何者かわからない、という感覚は少し変わりました。
蜜葉乃さまは「今ここにいる仁が、仁であることは変わらない」と言いました。
あの人は時々、こちらが長々悩んでいたことを、驚くほど簡単に片づけてしまいます。
……神様へ。
まだ聞きたいことがあります。
あなたが私を送り込んだ本当の理由について、次は誤魔化さず説明してください。




