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葉音を紡ぐ ――世界樹の麓で  作者: 葉森かなで
一章

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49/130

49 わたしはだれでしょう

大変遅くなりました。



 冬が深まるにつれて、巣の中にも少しずつ「冬用の置き方」が増えていった。


 巣が広がったぶん、物も増えた。どこに何を置くか、改めて整えた方がいいだろうという話になり、その役を引き受けたのは仁だった。


「濡れると困るものは上へ。採集用の袋は入口側、補修道具は詰所に近い方がいいですね」

「巣印札は、待機・危険・撤退・巣印で束を分けておきます」

「灯り粒は子どもの手の届かない場所へ。双葉も取りにくように」


「ひどい信頼だなあ」


 横で箱を抱えていた双葉が口を尖らせる。


「信頼ではなく実績です」


「否定できない!」


 双葉はあっさり負けを認め、そのまま葉札の束を運んでいった。

 少し離れたところでは葉月が棚の高さを見ていて、紬葉は運搬紐をまとめ直している。皆それぞれ手を動かしていたが、全体の配置を決めているのは仁だった。


「仁って、こういうの本当に手慣れてるよね」


 棚板の具合を確かめながら、葉月が感心したように言った。


「必要な物が必要な時に取り出せるようにしているだけです」


 そう答えながら、仁は細い紐をひと束にまとめた。

 余りを内側へ折り込み、引けばすぐほどけるように結ぶ。ついでに石刃の小箱を並べ替え、欠けた刃とまだ使える刃を分ける。湿気を避けた方がいい物は奥へ、すぐ使う物は手前へ。


 手は迷わなかった。

 考えるより先に、どう置けばいいかがわかる。


 そのことに気づいて、仁はほんの一瞬だけ動きを止めた。


 紐のまとめ方も、刃物のしまい方も、予備の置き方も。

 何度もやったことがあるみたいに、自然にわかる。


 けれど……どこで覚えたのかは、わからない。


「仁、どうかした?」


 葉月の声に、仁はすぐ顔を上げた。


「いえ。続けましょう」

「その箱は、上段ではなく右の棚へ。子どもたちが引っ張り出しそうなので」


「了解」


 葉月は素直に頷いて箱を運んでいく。

 仁もまた何事もなかったように手を動かしたが、胸の奥には小さな引っかかりが残ったままだった。


 知っている。

 けれども覚えていない。


 その妙な感覚は、最近ときどき顔を出す。

 蜜葉乃を見守っていた頃のことは覚えている。蜘蛛に襲われた彼女を助けた時のことも、その後この巣へ来てからの日々も覚えている。


 だが、その前がない。


 婚姻飛行より前の自分を、ほとんど知らない。


 考えかけたところで、横を結葉が通りかかった。

 抱えていた葉束を置こうとして、ふと足を止める。仁は視線を上げたが、結葉は何も言わなかった。ただ少しだけ仁の顔を見た。


「それ、こちらに置けばいいですか?」


「……ええ。ありがとうございます」


 結葉は頷いて、言われた場所へ葉束を運ぶ。

 それだけだ。問いかけも、詮索もない。


 だが、仁が箱を持ち上げようとした時には、いつの間にか結葉が隣に来ていた。


「それ、運びます」

「重くはありませんが」

「今日は少し、手が足りない気がしたので」


 やわらかな口調だった。


「……助かります」


 仁がそう返すと、結葉は小さく会釈した。


 それきりだった。


 午後になっても、道具の整理は続いた。

 双葉が「これは試作品だから別枠で!」とよくわからない小箱を持ち込めば、仁が「まず中身を説明してください」と差し戻す。紬葉が古い運搬紐を見つけて「まだ使えます」と主張し、仁が「三本に一本は切れそうですが」と眉を寄せる。葉月は棚の増設位置を考え、護葉は詰所に持っていく分を仕分ける。


 巣の中は、いつも通りに賑やかだった。


 仁もまた、いつも通りに動いた。

 子蟻に呼ばれれば返事をし、双葉の暴走を止め、足りない物を数え、冬の間に必要になりそうな備品を頭の中で組み直す。


 外から見れば、普段と変わらない一日だっただろう。


 結葉だけは、時々ちらりと仁の方に目を配っていた。

 話しかけるわけではない。手伝いが必要そうならそっと運ぶ物を受け取り、子蟻が一度に押し寄せたら別の遊びに誘って少し引き取る。ただそれだけの、控えめな気遣いだった。


 どうしてこんなに手が覚えているのか。

 どうして知っているのに、出どころだけが空っぽなのか。


 答えのないまま、日が暮れた。



 夜。

 巣の中が静まり返ってから、仁は整理し終えた棚の前にひとりで立っていた。


 今日並べた箱や紐は、どれも使いやすい場所に収まっている。緊急時に必要な物は手前、普段あまり使わない物は奥。補修道具は詰所に近く、採集用の袋は第二の出入口へ向かいやすい場所へ。


 きっとこれでいい。

 たぶん、かなり使いやすくなったはずだ。


 それがわかること自体が、今は少し不気味だった。


「……私は、どこで覚えたんでしょうね」


 ぽつりと零れた声は、誰にも届かない。


 婚姻飛行の前を知らない。

 どこで生まれ、何をしていたのかもわからない。

 それなのに、こういう時だけは、昔から何度もやってきたように手が動く。


 もし今後も、知らない知識や経験が自分の中から出てきたら。

 もしそれが、この巣にとって厄介な何かだったら。


 蜜葉乃や子どもたちに、説明のつかないものを背負わせることになるのではないか。


 仁は小さく息をついた。

 考えたところで答えが出るわけではない。けれども考えずにいられるほど、お気楽な性格でもなかった。


 やがて執務机に向かい、いつもの日誌を開く。

 道具整理の進捗。備品の配置変更。詰所へ移す物の一覧。冬支度の補足。

 そこまでは、いつも通り事務的に書き進めた。


 最後の一行を書く前に、仁の手が止まる。


 少しだけ迷ってから、静かに書き足した。


神様へ。

もし説明する気があるなら、私が何者なのか、そろそろきちんと教えていただきたいのですが。


 書き終えて、仁はその一文をしばらく見つめた。


 返事が来るとは思っていない。

 ただ、どこにも向けられない問いを、そこに置いておきたかった。


 やがて仁は日誌を閉じ、灯りを見上げた。

 巣の中は静かで、何も変わらないように見える。


 けれど仁の中では、ずっとぼやけていた空白が、少しだけはっきりと輪郭を持ち始めていた。


⸻


仁の日誌


 巣内備品の整理を実施。採集用具、補修道具、巣印札、灯り粒予備等の配置を見直し。

 緊急時に使用する物品は入口側へ、湿気を避ける物は上段へ移動。子蟻が触れて困る物は別保管。

 詰所へ移す備品の選別も概ね完了。残りは後日確認予定。

 双葉様の「試作品箱」は中身不明のため一旦保留。まず説明を求める必要あり。

 婚姻飛行以前の記憶について、相変わらず空白のままです。知識や手際の出どころが不明なのは、あまり気分の良いものではありません。

 神様へ。もし説明する気があるなら、私が何者なのか、そろそろきちんと教えていただきたいのですが。

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