47 ロマンチックはほどほどに
最近、女王の間のあたりが少し明るい。
最初に気付いたのは、蜜葉乃だった。
夜、子蟻たちを寝かしつけたあと、部屋へ戻ってくると、入口まわりの土壁がふわりと淡く光っている。やさしい緑がかった光で、眩しいというほどではない。けれど、前にはなかった明るさだ。
「……きれい」
蜜葉乃は思わず足を止めた。
土壁の隙間に、小さな苔のようなものが張りついている。湿った壁に沿って、ぽつぽつと光の粒が並んでいるようにも見えた。
ちょうどその時、後ろから仁がやってくる。
「どうかなさいましたか」
「見て、仁。入口のところ、少し光ってるの」
仁は蜜葉乃の視線の先を見て、ぴたりと止まった。
「……ああ」
見覚えがある。
ありすぎるほどある。
夜灯り苔だ。
以前、あの神がよこした妙な品のひとつである。
暗い場所でじんわり光り、湿気があれば壁に張りつく。空気の悪い場所では元気がなくなるので、坑道の調査や空気の流れを見るのに便利――という触れ込みだった。
ただし、あの神の「大丈夫」はだいたいろくでもない。
仁はひとまず、そのことを胸の内でだけ呟いた。
「きれいでしょう?入口だけ、ちょっと明るくなっていて」
「……そうですね」
仁は慎重に答える。
入口に少し植える程度なら、たしかに悪くない。夜でも部屋の位置がわかりやすいし、雰囲気もやわらかい。問題は、なぜここにあるのかだ。
女王の間の近くに夜灯り苔を植えるような指示を、仁は出していない。
「誰かが植えたのかしら。親切ねえ」
「ええ……善意ではあると思います」
たぶん。
非常にたぶんだが。
仁は嫌な予感を覚えつつ、光る苔をじっと見た。
そして翌朝、犯人はあっさり見つかった。
朝の仕事の確認をしていた時、双葉がたいへん晴れやかな顔で言ったのである。
「女王さまのお部屋、ちょっと素敵にしておきました!」
仁は無言で双葉を見た。
「……双葉……何をしましたか?」
「えっ、夜灯り苔をちょっと。入口だけだと寂しいかなって思って、壁の近くにも少し!」
「少し」
「少しです!」
仁は嫌な単語を拾った。
「壁の近くにも?」
「はい! 女王さま、夜に戻ってくること多いじゃないですか。だったらお部屋もほんのり明るい方が素敵かなって!」
きらきらした目で言い切られて、仁は額を押さえた。
なるほど。
善意だ。
善意ではある。
だが、善意と被害の大きさは両立する。
「……どのくらい植えました?」
「そんなに多くないですよ?入口の両脇と、寝台の後ろと、壁の角と、その隣の――」
「多いですね」
「えっ」
「十分に多いです」
双葉がぱちぱちと瞬く。
そこへ、蜜葉乃がやってきた。
「おはよう、みんな。どうしたの?」
「あっ、女王さま!お部屋、どうでした? 夜灯り苔、きれいでしたよね!」
蜜葉乃は嬉しそうに笑った。
「ええ、とてもきれいだったわ。双葉がしてくれたのね。ありがとう」
「えへへ!」
褒められて、双葉は満面の笑みだ。
仁だけが不穏な顔をしていた。
「……蜜葉乃様。お気に召したのは結構なのですが、あれは増え方が少々読みにくいので、あまり室内に置きすぎるのは」
「でも、やさしい明るさだったわ。寝る前に見ると落ち着くの」
仁が言葉に詰まる。
たしかに、蜜葉乃の言うこともわかる。土の壁に淡い光が映る様子は、たしかに綺麗だった。綺麗だったのだが。
仁が何か言う前に、双葉がぱっと胸を張る。
「大丈夫です! そんなに増えません!」
その瞬間、仁の背筋に嫌なものが走った。
その台詞は危険だ。
とても危険だ。
なぜなら、「大丈夫です」から始まる双葉の工作は、たいてい何か起こる。
そして、嫌な予感は数日後に現実になった。
夜。
仁が仕事を終えて部屋へ戻ると、女王の間の入口が前よりも明るい。
嫌な予感に導かれるように中を覗き込んで、仁は沈黙した。
増えている。
夜灯り苔が、明らかに増えていた。
入口の脇だけではない。寝台のそば、壁の継ぎ目、棚の裏、部屋の角。じんわりと光る苔が、しっとりと土壁を這うように広がっている。薄暗い巣の中だというのに、そこだけ妙に雰囲気がある。
端的に言えば、やたらロマンチックだった。
仁はその場で目を閉じた。
「……増えましたね」
寝台の上で本を読んでいた蜜葉乃が、顔を上げる。
「ええ、少し。でも綺麗よ?」
「寝るには明るすぎます」
「そうかしら」
「そうです」
きっぱり言う仁に、蜜葉乃はくすっと笑った。
「仁、こういうの苦手?」
「苦手というより、落ち着きません」
「どうして?」
「どうしてと言われましても……」
部屋全体がほんのり光り、土壁にやわらかな影が落ちる。女王の寝台まで妙に雰囲気が出ていて、正直に言えば大変居心地が悪い。執務の報告をするにも、何をするにも、空気が妙にしっとりしているのだ。
それをどう説明すればいいのか。
仁が言い淀んでいると、蜜葉乃が面白そうに目を細めた。
「もしかして、照れてるの?」
「違います」
「即答ね」
「寝室としての機能性の問題です」
「ふふ」
蜜葉乃は楽しそうに光る壁を見上げている。仁は頭を抱えたくなった。これでは眠るたびに部屋がやわらかく光る。落ち着かないにもほどがある。
だが、さらに追い打ちがあった。
翌日の昼、子蟻たちが部屋の前で大騒ぎを始めたのである。
「みてー!」
「じんさんのおへや、きらきらー!」
「ひかってる!」
「すごーい!」
仁が駆けつけた時には、寝台の前に子蟻たちがわらわら集まっていた。
結葉が壁を指さし、結音が「ほしみたい!」と跳ねている。さらに小さい子たちまで真似して、部屋の入口でぴょこぴょこしていた。
「……皆さん……人の寝室を見学場所にしないでいただけますか」
「でもきれいだよ!」
「ひかるー!」
「じんさん、これおへやにずっとあるの?」
「……できれば、ずっとは遠慮したいところです」
仁が真顔で答えると、子蟻たちはきょとんとした。
そこへ双葉が現れ、壁を見て「あっ」と声を上げた。
「広がってる!」
「広がっていますね」
「えへへ、元気でよかったです!」
「よくありません」
仁の即答に、双葉がしゅんと肩を落とす。
けれど蜜葉乃が後ろからやってきて、光る部屋を見回し、楽しそうに笑った。
「ずいぶん賑やかねえ」
「女王さま! じんさんのおへや、ぴかぴか!」
「ほんとねえ」
「蜜葉乃様。笑っている場合ではありません」
「でも、少し綺麗でしょう?」
「少しどころではありません」
仁が低く言うと、蜜葉乃は子蟻たちと一緒になって壁を見上げた。
「うーん……たしかに、ちょっと増えすぎたかしら。入口だけの時はちょうどよかったのだけれど」
その言葉に、仁はようやく希望を見出した。
「では減らしましょう」
「全部?」
「全部です」
「ええー」
子蟻たちから不満の声が上がる。
「きれいなのにー」
「のこしてー」
蜜葉乃も少し考え込むように壁を見たあと、仁へ視線を向けた。
「中は減らしてもいいけれど、入口のところだけ残したらだめ?」
「蜜葉乃様」
「だって、夜に戻る時わかりやすいし、少し可愛いもの」
可愛い。
その一言に、子蟻たちが一斉に頷く。
「かわいい!」
「のこそう!」
「きらきらいる!」
多数決が始まりそうな気配に、仁は静かに息を吐いた。
この巣では、女王と子蟻たちが同じ方向を向くと、だいたい勝ち目がない。
結局その日の午後、仁、双葉、護葉、それに子蟻たちまで動員して、夜灯り苔の整理が行われた。
部屋の中に広がりすぎた分はそっと削り取り、寝るのに支障がない程度まで減らす。代わりに、女王の間の入口と脇だけは少し残した。
「これなら、帰ってきた時にわかりやすいわね」
蜜葉乃は満足そうだ。
子蟻たちも「きらきらのこった!」と喜んでいる。
双葉はというと、削り取った苔を前にしょんぼりしていた。
「すみません……。素敵かなと思ったんですけど……」
「気持ちはわかります」
仁はそう言って、削った苔を小さな葉箱へ移しながら続けた。
「ただ、今後は植える前に一言相談してください」
「はい……」
「特に、“大丈夫です”と思った時ほど」
「うっ」
心当たりがありすぎたのだろう。双葉はぎくりと肩を揺らした。
蜜葉乃がそれを見て、くすくす笑う。
「でも、本当に綺麗だったわ。ありがとう、双葉」
「女王さま……!」
双葉はぱっと顔を上げた。
「じゃあ、また別の場所なら植えてもいいですか?」
「仁が許可したらね」
「先に私のところへ報告に来てください」
「はい!」
返事だけはたいへん元気だった。
その夜。
整理されてほどよく暗くなった部屋で、蜜葉乃は入口の脇に残った夜灯り苔を見て微笑んだ。
ふたつ並んだ小さな光は、昼間ほど賑やかではないけれど、やっぱり少しだけ綺麗だ。
「これくらいなら、ちょうどいいわね」
「……そうですね」
仁も不承不承うなずく。
完全に消し去るよりは、たしかにこのくらいがちょうどいいのかもしれない。帰り道の目印にもなるし、雰囲気も悪くない。悪くないのだが。
蜜葉乃は寝台の上から仁を見上げた。
「仁」
「はい」
「少し残してくれてありがとう」
その顔が嬉しそうだったので、仁は何も言えなくなる。
「……蜜葉乃様が気に入られたのであれば、それで」
「やさしいのね」
「双葉の後始末をしただけです」
「そういうことにしておくわ」
からかうように笑われ、仁は小さく咳払いした。
入口の脇で、夜灯り苔が淡く光る。
明るすぎず、暗すぎず、ほんの少しだけロマンチックな光だった。
仁はその光を一瞥して、心の中でだけ呟く。
……やはり、あの方の「大丈夫」は信用しすぎるべきではありませんね。
もっとも。
少しだけ残ったその光を、蜜葉乃が嬉しそうに見つめているのを見ると、全部なくさなくてよかったのかもしれない、とも思うのだった。
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仁の日誌
夜灯り苔、女王の間へ侵食。原因は双葉の善意。
蜜葉乃さまは「きれい」と好意的。子蟻たちも概ね同意。私のみ安眠妨害を主張。
最終的に、室内の過剰分は除去。入口付近のみ残留。
教訓――「少しだけ植えました」は信用してはならない。特に双葉さんの場合。
なお、入口に残した分については、蜜葉乃さまが満足そうだったため不問とする。完全敗北ではない。たぶん。




