42話 思い出したのは、大事な約束
その夜、巣の中が静かになった頃。
約束通り、仁は重い足取りで女王の部屋へ向かっていた。
「仁です。入ってもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
中へ入ると、蜜葉乃が寝台の上で待っていた。子蟻たちは別室で眠っているらしく、女王の間はしんと静かだ。
蜜葉乃は仁を見るなり、くすりと笑った。
「逃げなかったのね」
「逃げたかったですが」
「えらいわ」
「褒められる場面でしょうか……」
軽く笑ってから、蜜葉乃は仁をそばに座らせた。
少しの沈黙のあと、やわらかな声で言う。
「昼間は、みんなの前だったでしょう。だから、ちゃんと聞きたかったの」
「仁は、婚姻飛行の時の相手なの?どうして今まで黙っていたの?」
仁は観念して息をついた。
「……はい。婚姻飛行で蜜葉乃様と婚姻したのは、私です」
蜜葉乃は驚かなかった。ただ、静かにうなずく。
「やっぱり、そうだったのね」
それから少し困ったように笑った。
「でも、婚姻飛行のこと、全部は覚えていないの。肝心なところがぼんやりしていて」
「でしたら、少しずつお話しします」
仁がそう言うと、蜜葉乃は小さく頷いた。
「最初にお会いした時、蜜葉乃様は風に煽られて落ちかけていました」
蜜葉乃がはっと顔を上げる。
「黒い……翅の方」
「覚えていらっしゃいますか」
「少しだけ。助けられたのに、たしか……」
蜜葉乃は額に手を当てて、次の瞬間、顔を赤くした。
「『だ、大丈夫ですか』って、言った気がするわ」
仁はわずかに笑う。
「ええ。助けたこちらが逆に心配されました」
「やっぱり……恥ずかしいわ」
「当時もそう仰っていました」
「追撃しないでちょうだい」
少しだけ、いつもの調子に戻る。
「それから蜜葉乃様は、私に名を尋ねました」
「……あ」
「ですが私は名乗らなかった」
数拍おいて、蜜葉乃がぴしっと仁を指さした。
「変な方!」
「ええ。そう言われた記憶があります」
「思い出したわ。婚姻飛行の雄蟻なのに妙に落ち着いていて、でも言うことは変で……」
「散々ですね」
「でも」
蜜葉乃は少し目を細めた。
「変なのに、怖くなかったの。この人のそばにいると、風がやさしくなる気がしたのよ」
仁は目を伏せた。胸の奥がじわりと熱くなる。
「……そうでしたか」
「ええ。それに、蜂もいたわ」
「小さな狩り蜂が飛んできて……わたし、庇ったのよね」
「はい。私の方へ向かってきたそれを、蜜葉乃様が庇ってくださいました」
蜜葉乃は自分の背中にそっと触れた。
「翅が少し傷ついて、ひりひりしていた」
「それであなたが、“どうして庇ったのですか”って聞いたの」
「そうです」
「わたし、“危なかったからです”って答えたわ」
仁は静かにうなずいた。
「……あの時にはもう、かなり駄目でした」
「駄目?」
首をかしげる蜜葉乃に、仁は少し視線を逸らした。
「一目惚れ、という言い方は少し軽くて認めたくないのですが。……たぶん、そうです」
蜜葉乃がぱちりと瞬く。
「助けられた直後にこちらを心配する。狩り蜂が来れば、自分が傷つくのも構わず庇う。放っておけるはずがありません」
蜜葉乃はしばらくぽかんとしていたが、やがて頬をゆるめた。
「じゃあ、わたしは一目惚れされた相手に、ずっと世話を焼かれていたのね」
「……そういう言い方をされると非常に居心地が悪いのですが」
「事実でしょう?」
「否定材料がありません……」
蜜葉乃はくすくす笑った。けれど次の瞬間、ふっと真面目な顔になる。
「ねえ、仁。あなた、婚姻飛行の最後に言ったわよね」
「あなたがこの先、困ることがあればいつか手を貸しましょう」
仁が顔を上げる。
「……覚えていらっしゃるんですか」
「『行きなさい、女王』って」
あの空の別れ際が、仁の胸によみがえる。
「はい。言いました」
「……あなただったのね、あの時の変な方」
「最後までその評価なんですね……」
「だって本当に変だったもの」
「存じています」
蜜葉乃は笑ったあと、静かに問いを重ねた。
「でも、どうして言ってくれなかったの?」
仁はしばらく黙った。
「……婚姻飛行の相手だったからといって、急に“夫です”“父です”と名乗るのが正しいとは思えませんでした」
「それだけ?」
仁は少しだけ苦く笑う。
「もし迷惑でしたら、立ち直れそうにありませんでした」
「迷惑だなんて」
「私としては十分あり得る想定でした。突然現れた変な雄蟻が、昔の婚姻相手です、子どもの父です、などと言い出すわけですから」
「変な雄蟻の自覚はあるのね」
「そこは否定しきれません」
蜜葉乃は少し考え、それから首をかしげた。
「でも、仁。巣を作ったばかりの頃のことまで知っていたでしょう?」
仁は見事に黙り込んだ。
「……気になって、かなり見ていました」
蜜葉乃は吹き出した。
「正直ね」
「今さら取り繕っても無駄でしょう」
「それで、蜘蛛に襲われた時も?」
仁は静かにうなずいた。
「……見過ごせませんでした」
それだけで十分だった。
あの時助けてくれたのは偶然ではなかったのだと、蜜葉乃は知った。
「……そんなに気にしていたのね」
「申し訳ありません」
「でも、少しうれしいわ」
仁が固まる。
「黙っていた理由はわかった。でもね、仁。
知りたかったわ。もっと早く」
その言葉に、仁は息を呑んだ。
「もし思い出した時に、その相手が仁だってわかっていたら……きっと、うれしかったと思う」
胸の奥の固い場所が、静かにほどける。
「婚姻飛行の相手だったから大切なのではありません」
仁はまっすぐ蜜葉乃を見た。
「夫であることも、父親であることも、もう逃げずに引き受けたいと思っています。ですが何より――私は、蜜葉乃様をお慕いしています」
女王の部屋が静まり返る。
蜜葉乃は少しだけ困ったように、それでも嬉しそうに笑った。
「知ってるわ」
仁が固まる。
「……はい?」
「フェロモンでも、今日の話でも、よくわかったもの」
仁は片手で額を押さえた。
「その件は、できればそっと埋めていただけると……」
「無理ね」
即答だった。
「でも」
蜜葉乃は少し照れたように視線を逸らす。
「わたしも、あの時のあなたが嫌じゃなかったの」
そして、はっきりと言う。
「だから、あなたでよかったわ」
仁はしばらく返事ができなかった。
「……それは、かなり反則ではないでしょうか」
「そう?」
「はい。心臓に悪いです」
蜜葉乃は楽しそうに笑い、それから仁の胸元を見た。
「仁、香石を貸して」
仁が巣印の香石を外して差し出すと、蜜葉乃はそれを胸元へ引き寄せ、そっと匂いを移した。
いつもの巣印の補充。けれども今夜は、どこか少しだけ違って見えた。
そして香石を仁の手に乗せ、蜜葉乃は少しだけ目を細めた。
「善処じゃなくて、ちゃんと。これからは、わたしに先に話すの」
仁は小さな石を見下ろし、それから静かに頭を下げた。
「……約束します」
蜜葉乃は満足そうに笑う。
「えらいわ、仁」
「最近その褒め方をされるたびに、何かが負けた気がします」
「気のせいじゃないかしら」
また笑いがこぼれた。
空の上の遠い記憶と、土の下の今が、ようやくひとつに繋がる。
「ねえ、仁」
「はい」
「思い出したのは、空のことだけじゃなかったわ。約束を守ってくれたのね。」
仁は何も言えず、ただ小さくうなずいた。
「だから、もう忘れないわ」
「……はい」
婚姻飛行の空で別れた名もない雄蟻と、巣の中で日々世話を焼く執事。
ばらばらだった二つの姿は、その夜ようやく、蜜葉乃の中でひとつになったのだった。
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仁の日誌
本日夜、蜜葉乃様と個別に面談。
昼間の件を受け、以下を説明・共有した。
一、婚姻飛行時の相手が私であること。
二、現巣の子蟻たちの父親が私であること。
三、当時の件をこれまで明言しなかった理由。
蜜葉乃様側では、結婚飛行時の記憶が一部曖昧であったが、会話の過程で複数の場面を思い出された様子。
今後は重要事項を一人で抱え込まず、先に報告・相談するよう指示あり。
了承し、約束した。
最後に、巣印の香石へ匂いの補充を受ける。
本日の報告は以上。




