41 応援は、密かにしてほしい
神様の応援札は、ろくでもない。
仁は、三日目の朝にそれを確信した。
最初はまだ、紙切れ一枚の嫌がらせ程度だったのだ。
日誌帳を開けば、最初の頁にぺたりと貼りついている。
『まだ?』
その一言に、仁は無言で札を剥がし、丸め、机の端へ放った。
次に見たときには、今度は香石の箱の蓋の裏に貼りついていた。
『今日こそ話す』
「話しません」
反射で返事をしてから、仁ははっとした。
相手は札である。返答する必要などない。そもそも会話が成立していること自体がおかしい。
そうして札を引き剥がし、引き出しの奥に押し込めたのが一日目。
二日目には、盆の裏、書類の束の一番上、女王の部屋へ持っていくお茶の茶器の下と、現れる場所が増えた。
『伴侶って言うこと』
『父親のことも忘れない』
「忘れてはいません」
『じゃあ言うこと』
「だから、会話するなと言っているでしょう……!」
札を指先でつまみ上げ、仁は額を押さえた。
善意で作られたものが、どうしてここまで面倒な仕上がりになるのか。神の仕事というのは、もう少し慎みというものを覚えるべきではないだろうか。
そして三日目。
日誌帳を開いた瞬間、頁の真ん中に貼りついていた札が、ぺらりと端を持ち上げた。
『まーだー?』
仁は無言で閉じた。
しばらくそのまま固まったあと、もう一度開く。
札は得意げに揺れていた。
『がんばれ仁くん』
『先のばし反対』
『応援してるよ』
「応援の方向が最悪です」
札はひらひら揺れただけだった。
腹立たしいことに、捨てても燃やしても水に浸しても、しばらくすると平然と戻ってくる。机の上に置いておけば目立つので、今は胸元の内ポケットに押し込んでいたが、そこに入れておくのも大変危険だと、この三日で十分に理解した。
札は、黙っていない。
そのせいで、仁はこの数日、ずっと顔色が悪かった。
「仁、最近ちょっと変じゃない?」
昼前、保存食の棚の点検を終えた一葉が、腕を組んで仁の顔をのぞきこんだ。
仁は書きつけを閉じる手を止めずに答える。
「変とは」
「なんか、疲れてる。目の下がうっすら黒い」
「気のせいです」
「いや、気のせいじゃないと思うけど」
横から風葉もひょいと顔を出した。
「匂いも落ち着かないし。ここ数日ずっと、ぴりぴりしてる」
「……仕事が立て込んでいるだけです」
「ほんとに?」
「ほんとです」
きっぱり言い切ると、風葉は首を傾げ、一葉は「ふーん」と疑わしげに目を細めた。
護葉は荷運びの手を止めずに、
「仕事はしてるが顔が死んでるな」
とだけ言った。
葉月は真面目な顔で、
「睡眠時間を増やした方がいいよ」
と提案し、結葉は少し離れたところでそのやり取りを見ながら、何か言いたげに口を開き、でも結局閉じた。
言えない。
言えるはずがない。
仁は心の底からそう思った。
婚姻飛行のこと。
自分が蜜葉乃の伴侶であること。
この巣の子蟻たちの父親にあたること。
頭の中では何度も整理している。話すべきだということも、もうとっくに理解している。理解しているのに、どう切り出せばいいのかわからなかった。
今さら父親だと名乗るのは、あまりにも勝手ではないか。
夫だと口にするのも、何かが違う気がする。
自分の中では事実でも、それをどう受け取るかは蜜葉乃たちの側の問題だ。
そこに神様の応援札がやってきて、事態はさらに最悪になった。
午後、女王の間へ届けるお茶の支度をしていたときだった。
盆の上に茶器を並べ、最後に蜜飴を小皿に載せたところで、胸元の内ポケットがもぞもぞ動いた。
嫌な予感がした。
仁は片手でそっと押さえる。
押さえた内側で、札がもごもごと動いた。
『今が言いどきかも』
小声だった。
だが確かに、聞こえた。
「黙れ」
仁は低く囁いた。
その瞬間、ちょうど部屋へ入ってきた双葉が目を丸くする。
「えっ、誰に?」
「……独り言です」
「こわ」
紬葉が双葉の肩越しに盆をのぞきこんで、
「仁、最近ほんとに変だよね」
と遠慮なく言った。
「変ではありません」
「でも今、胸押さえて黙れって言った」
「独り言です」
「独り言にしては必死だったよ?」
「気のせいです」
気のせいで押し通せる段階はもう過ぎている気がしたが、他に方法がない。
その日の夜、仁は一人で机に向かい、日誌帳を開いた。
今日こそ、少しでも書くつもりだった。
だが、頁の上にまた札がいた。
『明日こそ』
『がんばれ』
ぺたりと貼りつく文字を見下ろして、仁は長く息を吐く。
「……わかっています」
札はしんと静かだった。
「話すべきだということくらい、わかっています」
ぽつりと漏れた声は、思ったよりずっと弱かった。
「ですが、順序というものがあるでしょう……」
札は答えない。
ただ、次の瞬間、文字がふわりと書き換わった。
『じゃあ、明日』
仁は額を押さえた。
これ以上引き延ばしても、ろくなことにならない気がする。
――明日、話そう。
そう決めた。
決めたはずだったのに。
翌日、その「明日」は、最悪の形でやってきた。
おやつの時間だった。
保存食の整理も、今日の見回りも終わって、巣の中には一日の仕事をひと息ついた柔らかな空気が流れていた。
女王の部屋の奥には蜜葉乃が座り、その周りに娘たちと子蟻たちが集まっている。双葉と紬葉がころころ蜜飴の残りを小皿に並べ、千葉夜が子蟻たちの手元をさりげなく整え、一葉たちは空いた場所に腰を下ろしていた。
仁はいつものように盆を運び、茶器を並べる。
蜜葉乃が顔を上げて、ふっと笑った。
「ありがとう、仁」
「いえ」
返事をしながら、仁は一度だけ深く息を吸った。
今だ。
みんながいる前で話すつもりはなかった。
本当は、あとで蜜葉乃だけに時間をもらうつもりだった。けれど今、蜜葉乃が穏やかにこちらを見ていて、娘たちも揃っていて、子蟻たちも楽しそうに蜜玉を見つめているこの場で、かえって腹が決まった気がした。
逃げるのは、もう終わりにしよう。
「蜜葉乃様」
呼びかけると、蜜葉乃が首を傾げる。
「なあに?」
「少々、お話したいことが――」
その瞬間だった。
胸元が、べちん、と嫌な音を立てた。
仁が止めるより早く、内ポケットから一枚の札が勢いよく飛び出した。
ひらり、くるりと宙を舞い、部屋の真ん中でぴたりと止まる。
全員の視線が集まった。
仁の顔から、すっと血の気が引く。
「おい、待て」
とっさに手を伸ばしたが、遅い。
神様の応援札は、満を持したように胸を張る――ようにぴんと端を立てて、
『いつになったら自分が夫でお父さんって言うの〜!?』
と、巣じゅうに響く声で叫んだ。
しん、と静まり返る。
蜜葉乃が瞬きをした。
一葉の手から蜜飴がひとつ転がり、双葉と紬葉が同時に「えっ」と声を上げる。
風葉は触角をぴんと立てたまま固まり、護葉は何かを確認するように札と仁を見比べた。葉月はきれいに停止し、結葉は口を半開きにしたまま動かない。
子蟻たちだけが、状況をまだ飲み込めず、きょろきょろと周りを見ている。
その中心で、仁だけが完全に終わっていた。
「…………」
札は役目を果たしたと言わんばかりに、ふよふよと空中を漂っている。
一番先に口を開いたのは一葉だった。
「……ええと」
珍しく言葉を探すように目を泳がせてから、仁を指さす。
「今の、どういう意味?」
「…………」
「夫?」
今度は風葉が聞いた。
「お父さんって、誰の?」
「…………」
仁は答えられなかった。
答えようとして、喉がひくりと動くだけで声にならない。
双葉がぱちぱちと瞬きしながら、
「いや、ちょっと待って。お父さんって、まさか」
と言いかけ、紬葉がその先を引き取る。
「子蟻たちの、ってこと?」
護葉が静かな声で問う。
「確認したい。今の札の発言は事実か?」
葉月もこくりとうなずいた。
「夫、というのは……女王様の、という意味?」
結葉はまだ呆然としたまま、
「え、え、ちょっと待って、情報が多い……」
と頭を抱えた。
子蟻のひとりが、仁の袖をちょんと引く。
「じんさん、おとうさんなの?」
逃げ道は、きれいさっぱり塞がれた。
仁はゆっくり目を閉じた。
開く。
目の前には、蜜葉乃がいる。驚いてはいるが、責めるような顔ではなかった。ただ純粋に、説明を待っている顔だ。
「仁」
蜜葉乃がやわらかく呼ぶ。
「これは、説明してもらってもいい?」
その声音が、思っていたよりずっと穏やかだった。
仁は観念したように、深く頭を下げた。
「……はい」
声が少し掠れた。
喉をひとつ鳴らして、言葉を探す。
「ご存じの通り……私は、もともとこの巣の者ではありません」
みんなが黙って聞いている。
仁は膝の上で手を握りしめた。
「ですが……蜜葉乃様が婚姻飛行を行ったあの日、私は、あの場にいました」
そこで一度、言葉が途切れる。
札が横で、がんばれ、とでも言いたげにぴらぴら揺れた。仁は見ないふりをした。
「その……」
息を吸う。
「私は、あの日の雄蟻です」
空気がぴたりと止まる。
双葉が小さく「うわ」と漏らし、紬葉がその口を両手で塞いだ。
一葉は目を丸くしたまま仁を見つめ、風葉は「えっ、ほんとに?」と半歩前に出る。護葉は腕を組み直し、葉月は何か計算するように視線を落とした。結葉は口元を押さえて固まっている。
仁は逃げずに続けた。
「ですので……今ここにいる子たちは、私の子でも、あります」
言い終えた瞬間、部屋の空気がふっと揺れた気がした。
それが緊張なのか、驚きなのか、仁にはわからない。
「黙っていたのは」
仁は低く続ける。
「どう話すべきかわからなかったからです。今さら父親だと名乗るのは、あまりにも勝手ではないかと思っていました。夫だと口にするのも、私の側から言うには……何か違う気がして」
そこで言葉を切る。
うまく説明できた気はまるでしない。むしろ余計にややこしくした気さえする。
だが、言うべきことは言った。
沈黙の中で、蜜葉乃が小さく瞬きをする。
それから、考えを整理するように一度だけ視線を宙へ向けた。
「ええと……」
蜜葉乃は指を折るみたいに、ゆっくり言った。
「仁は、あの婚姻飛行の時のお相手で」
「……はい」
「だから、この子たちのお父さんでもある」
「はい」
「そして、ずっとそれを言えずにいた」
「……その通りです」
蜜葉乃は「そう」と頷いた。
「じゃあ、やっぱり仁なのね」
「…………はい?」
思わず、仁が顔を上げる。
蜜葉乃は、きょとんとした顔でこちらを見返した。
「だって、ずっと変わらないでしょう?」
「変わらない、とは」
「心配性で、世話焼きで、仕事を抱え込みすぎて、言いにくいことほど一人で抱え込むところ」
蜜葉乃はくすっと笑った。
「夫だろうと父親だろうと、仁は仁だわ」
あまりにも自然に言われて、仁はしばらく言葉を失った。
「もちろん、びっくりはしたのよ?」
蜜葉乃は続ける。
「だって、いきなり札が大声でそんなことを言うんだもの」
「申し訳ありません」
「そこは仁のせいじゃないでしょう」
ふふ、と蜜葉乃は笑う。
「でも、そうね。大事なことを一人で抱えていたのは、あとで少し叱るかもしれないわ」
やわらかな声だった。
怒っているというより、本当に「少し叱る」のだろうという響きで、かえって仁は背筋を伸ばした。
その横で、一葉がようやく息を吐いた。
「……ええと、整理していい?」
「どうぞ」
「仁が女王さまの婚姻飛行のお相手で」
「はい」
「だから私たちのお父さんで」
「はい」
「それをずっと黙ってた」
「はい」
一葉は腕を組み、しばらく真顔で仁を見つめたあと、
「……なんか、妙に納得した」
と言った。
「納得するのですか」
「するよ。だって仁、ずっとお父さんみたいだったし」
「えっ」
双葉が勢いよく乗ってくる。
「わかる! なんか過保護だし、すぐあれ持ったこれ持ったって世話焼くし!」
「保存食食べすぎると注意してくるし」
と紬葉。
「寝不足だと顔見ただけでばれるし」
と結葉。
「危ないことしそうだと先回りして止める」
と風葉。
護葉が静かに腕を組んだまま言う。
「筋は通った」
「護葉、それだけ?」
「十分だろう。事情がわかった以上、今まで通り守る対象が増えるだけだ」
葉月は真面目に一度頷き、
「では今後の記録上、家族関係の欄をどう整理するか考える必要がある」
と少しずれた方向へ走った。
「そこ整理するの!?」と双葉が叫び、
「記録は大事」と葉月はきっぱり返す。
そのやり取りに、空気がようやくほぐれた。
結葉がまだ少し信じられないような顔で仁を見上げる。
「……じゃあ、ほんとに、お父さんなんだ」
「……形式上は」
「形式上って何」
一葉がすかさず突っ込む。
「そこはもうちょっと堂々としてよ」
「堂々とする場面ではないでしょう」
「いや、今さらそこだけ慎み深くなられても」
くすくすと笑いが広がった。
そのとき、子蟻のひとりが仁の膝にぺたりとくっついて、首を傾げた。
「じんさんは、じんさんだよ?」
仁が目を瞬く。
別の子蟻も、蜜葉乃を見てから仁を見上げた。
「女王さまのこと、だいすきだもんね」
「うん」
「だったら、おとうさんでもへんじゃない!」
あまりにもまっすぐな理屈に、部屋のあちこちで笑いが漏れた。
仁は返す言葉を失い、ただ子蟻を見下ろす。
子蟻はにこにこしながら、さらに言った。
「じゃあ、おとうさん?」
「……っ」
詰まる。
喉まで上がった言葉が、なかなか出てこない。
その様子を見て、蜜葉乃が少しだけ悪戯っぽく目を細めた。
「仁」
「……はい」
「返事は?」
「…………」
周囲の視線が、期待に満ちて集まる。
札は空中でぶんぶん揺れていた。今すぐ丸めて壁に埋め込みたい。
だが、ここで逃げたら、本当に一生言えない気がした。
仁は諦めたように息を吐き、子蟻に向かって小さく頷く。
「……そう、なります」
「やったー!」
「じんさんおとうさんだー!」
子蟻たちがわっと歓声を上げて仁に飛びついた。
膝に、腕に、背中にまでよじ登られ、仁はたちまち子蟻まみれになる。
「ちょ、待ちなさい、危ない、足を踏むな、そこは引っ張るな」
「おとうさーん!」
「呼び方を急に変えるな!」
「えー、だめ?」
「だめとは言っていませんが、心の準備というものが」
「ないの?」
「ありません!」
即答すると、部屋の中がどっと笑いに包まれた。
蜜葉乃はそんな光景を見ながら、肩を震わせて笑っている。
一葉は「もう遅いよねえ」と呆れ半分に言い、双葉と紬葉は「家族割引はあるのか」「発明予算は増えるのか」と好き勝手を始め、葉月は「呼称変更に伴う記録修正を」とまだ的外れなことを考えていた。結葉は「匂いが一気に諦めた感じになった」と面白がり、風葉はくすくす笑いながら「仁、顔真っ赤」と容赦がない。
護葉だけがいつも通りの顔で、仁の肩によじ登る子蟻をひとりつまみ上げ、落ちない位置へそっと戻していた。
その喧騒の中で、ふわふわ浮いていた神様の応援札が、満足したようにぺたりと仁の頭に落ちてきた。
反射で仁がそれをつまみ上げる。
札の表面には、最後にひとことだけ文字が浮かんでいた。
『やっと言えたね』
「……余計なお世話です」
仁が低く言うと、札はふっと白紙に戻った。
それを見ていた蜜葉乃が、やさしく目を細める。
「でも、結果としてはよかったわ」
「そうでしょうか」
「ええ。だって、ちゃんと聞けたもの」
蜜葉乃は子蟻たちに埋もれかけている仁へ、穏やかな声で言った。
「仁」
「……はい」
「今夜、少し時間をちょうだい」
仁の肩がぴくりと揺れる。
「改めて、ちゃんと聞きたいの」
「……はい」
「逃げないでね」
「善処します」
「それは逃げる人の返事よ」
「……では、逃げません」
蜜葉乃は満足そうに頷いた。
子蟻たちはまだ「おとうさん!」「じんさんおとうさん!」と好き放題にはしゃいでいる。
その真ん中で、仁は観念したように目を閉じた。
――こうして、誰にも知られたくなかった秘密は、神様の余計な応援によって、巣じゅうに知れ渡った。
だが、思っていたほど悪いことではなかったのかもしれない。
少なくとも、子蟻たちに腕を引っ張られながら、蜜葉乃が笑っているのを見る限りでは。
……神様への礼は、やはり言わないでおこうと思ったけれど。
その夜、日誌を開いた仁の机の上には、白紙の札が一枚だけ、行儀よく置かれていた。
見なかったことにして、仁はそっと日誌を閉じた。




