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葉音を紡ぐ ――世界樹の麓で  作者: 葉森かなで


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41/42

41 応援は、密かにしてほしい

 神様の応援札は、ろくでもない。


 仁は、三日目の朝にそれを確信した。

 最初はまだ、紙切れ一枚の嫌がらせ程度だったのだ。

 日誌帳を開けば、最初の頁にぺたりと貼りついている。


『まだ?』


 その一言に、仁は無言で札を剥がし、丸め、机の端へ放った。

 次に見たときには、今度は香石の箱の蓋の裏に貼りついていた。


『今日こそ話す』


「話しません」


 反射で返事をしてから、仁ははっとした。

 相手は札である。返答する必要などない。そもそも会話が成立していること自体がおかしい。


 そうして札を引き剥がし、引き出しの奥に押し込めたのが一日目。


 二日目には、盆の裏、書類の束の一番上、女王の部屋へ持っていくお茶の茶器の下と、現れる場所が増えた。


『伴侶って言うこと』

『父親のことも忘れない』


「忘れてはいません」

『じゃあ言うこと』


「だから、会話するなと言っているでしょう……!」


 札を指先でつまみ上げ、仁は額を押さえた。

 善意で作られたものが、どうしてここまで面倒な仕上がりになるのか。神の仕事というのは、もう少し慎みというものを覚えるべきではないだろうか。


 そして三日目。


 日誌帳を開いた瞬間、頁の真ん中に貼りついていた札が、ぺらりと端を持ち上げた。


『まーだー?』


 仁は無言で閉じた。


 しばらくそのまま固まったあと、もう一度開く。

 札は得意げに揺れていた。


『がんばれ仁くん』

『先のばし反対』

『応援してるよ』


「応援の方向が最悪です」


 札はひらひら揺れただけだった。

 腹立たしいことに、捨てても燃やしても水に浸しても、しばらくすると平然と戻ってくる。机の上に置いておけば目立つので、今は胸元の内ポケットに押し込んでいたが、そこに入れておくのも大変危険だと、この三日で十分に理解した。


 札は、黙っていない。


 そのせいで、仁はこの数日、ずっと顔色が悪かった。


「仁、最近ちょっと変じゃない?」


 昼前、保存食の棚の点検を終えた一葉が、腕を組んで仁の顔をのぞきこんだ。

 仁は書きつけを閉じる手を止めずに答える。


「変とは」

「なんか、疲れてる。目の下がうっすら黒い」

「気のせいです」

「いや、気のせいじゃないと思うけど」


 横から風葉もひょいと顔を出した。


「匂いも落ち着かないし。ここ数日ずっと、ぴりぴりしてる」

「……仕事が立て込んでいるだけです」

「ほんとに?」

「ほんとです」


 きっぱり言い切ると、風葉は首を傾げ、一葉は「ふーん」と疑わしげに目を細めた。


 護葉は荷運びの手を止めずに、

「仕事はしてるが顔が死んでるな」

とだけ言った。


 葉月は真面目な顔で、

「睡眠時間を増やした方がいいよ」

と提案し、結葉は少し離れたところでそのやり取りを見ながら、何か言いたげに口を開き、でも結局閉じた。


 言えない。

 言えるはずがない。


 仁は心の底からそう思った。


 婚姻飛行のこと。

 自分が蜜葉乃の伴侶であること。

 この巣の子蟻たちの父親にあたること。


 頭の中では何度も整理している。話すべきだということも、もうとっくに理解している。理解しているのに、どう切り出せばいいのかわからなかった。


 今さら父親だと名乗るのは、あまりにも勝手ではないか。

 夫だと口にするのも、何かが違う気がする。

 自分の中では事実でも、それをどう受け取るかは蜜葉乃たちの側の問題だ。


 そこに神様の応援札がやってきて、事態はさらに最悪になった。


 午後、女王の間へ届けるお茶の支度をしていたときだった。

 盆の上に茶器を並べ、最後に蜜飴を小皿に載せたところで、胸元の内ポケットがもぞもぞ動いた。


 嫌な予感がした。


 仁は片手でそっと押さえる。

 押さえた内側で、札がもごもごと動いた。


『今が言いどきかも』


 小声だった。


 だが確かに、聞こえた。


「黙れ」


 仁は低く囁いた。

 その瞬間、ちょうど部屋へ入ってきた双葉が目を丸くする。


「えっ、誰に?」

「……独り言です」

「こわ」


 紬葉が双葉の肩越しに盆をのぞきこんで、

「仁、最近ほんとに変だよね」

と遠慮なく言った。


「変ではありません」

「でも今、胸押さえて黙れって言った」

「独り言です」

「独り言にしては必死だったよ?」

「気のせいです」


 気のせいで押し通せる段階はもう過ぎている気がしたが、他に方法がない。


 その日の夜、仁は一人で机に向かい、日誌帳を開いた。

 今日こそ、少しでも書くつもりだった。


 だが、頁の上にまた札がいた。


『明日こそ』

『がんばれ』


 ぺたりと貼りつく文字を見下ろして、仁は長く息を吐く。


「……わかっています」


 札はしんと静かだった。


「話すべきだということくらい、わかっています」


 ぽつりと漏れた声は、思ったよりずっと弱かった。


「ですが、順序というものがあるでしょう……」


 札は答えない。

 ただ、次の瞬間、文字がふわりと書き換わった。


『じゃあ、明日』


 仁は額を押さえた。

 これ以上引き延ばしても、ろくなことにならない気がする。


 ――明日、話そう。


 そう決めた。


 決めたはずだったのに。


 翌日、その「明日」は、最悪の形でやってきた。


     


 おやつの時間だった。


 保存食の整理も、今日の見回りも終わって、巣の中には一日の仕事をひと息ついた柔らかな空気が流れていた。

 女王の部屋の奥には蜜葉乃が座り、その周りに娘たちと子蟻たちが集まっている。双葉と紬葉がころころ蜜飴の残りを小皿に並べ、千葉夜が子蟻たちの手元をさりげなく整え、一葉たちは空いた場所に腰を下ろしていた。


 仁はいつものように盆を運び、茶器を並べる。

 蜜葉乃が顔を上げて、ふっと笑った。


「ありがとう、仁」

「いえ」


 返事をしながら、仁は一度だけ深く息を吸った。


 今だ。


 みんながいる前で話すつもりはなかった。

 本当は、あとで蜜葉乃だけに時間をもらうつもりだった。けれど今、蜜葉乃が穏やかにこちらを見ていて、娘たちも揃っていて、子蟻たちも楽しそうに蜜玉を見つめているこの場で、かえって腹が決まった気がした。


 逃げるのは、もう終わりにしよう。


「蜜葉乃様」


 呼びかけると、蜜葉乃が首を傾げる。


「なあに?」

「少々、お話したいことが――」


 その瞬間だった。


 胸元が、べちん、と嫌な音を立てた。


 仁が止めるより早く、内ポケットから一枚の札が勢いよく飛び出した。

 ひらり、くるりと宙を舞い、部屋の真ん中でぴたりと止まる。


 全員の視線が集まった。


 仁の顔から、すっと血の気が引く。


「おい、待て」

 とっさに手を伸ばしたが、遅い。


 神様の応援札は、満を持したように胸を張る――ようにぴんと端を立てて、


『いつになったら自分が夫でお父さんって言うの〜!?』


 と、巣じゅうに響く声で叫んだ。


 しん、と静まり返る。


 蜜葉乃が瞬きをした。

 一葉の手から蜜飴がひとつ転がり、双葉と紬葉が同時に「えっ」と声を上げる。

 風葉は触角をぴんと立てたまま固まり、護葉は何かを確認するように札と仁を見比べた。葉月はきれいに停止し、結葉は口を半開きにしたまま動かない。


 子蟻たちだけが、状況をまだ飲み込めず、きょろきょろと周りを見ている。


 その中心で、仁だけが完全に終わっていた。


「…………」


 札は役目を果たしたと言わんばかりに、ふよふよと空中を漂っている。


 一番先に口を開いたのは一葉だった。


「……ええと」

 珍しく言葉を探すように目を泳がせてから、仁を指さす。

「今の、どういう意味?」


「…………」

「夫?」

 今度は風葉が聞いた。

「お父さんって、誰の?」


「…………」


 仁は答えられなかった。

 答えようとして、喉がひくりと動くだけで声にならない。


 双葉がぱちぱちと瞬きしながら、

「いや、ちょっと待って。お父さんって、まさか」

と言いかけ、紬葉がその先を引き取る。


「子蟻たちの、ってこと?」


 護葉が静かな声で問う。


「確認したい。今の札の発言は事実か?」


 葉月もこくりとうなずいた。


「夫、というのは……女王様の、という意味?」


 結葉はまだ呆然としたまま、

「え、え、ちょっと待って、情報が多い……」

と頭を抱えた。


 子蟻のひとりが、仁の袖をちょんと引く。


「じんさん、おとうさんなの?」


 逃げ道は、きれいさっぱり塞がれた。


 仁はゆっくり目を閉じた。

 開く。

 目の前には、蜜葉乃がいる。驚いてはいるが、責めるような顔ではなかった。ただ純粋に、説明を待っている顔だ。


「仁」

 蜜葉乃がやわらかく呼ぶ。

「これは、説明してもらってもいい?」


 その声音が、思っていたよりずっと穏やかだった。


 仁は観念したように、深く頭を下げた。


「……はい」


 声が少し掠れた。

 喉をひとつ鳴らして、言葉を探す。


「ご存じの通り……私は、もともとこの巣の者ではありません」

 

 みんなが黙って聞いている。

 仁は膝の上で手を握りしめた。


「ですが……蜜葉乃様が婚姻飛行を行ったあの日、私は、あの場にいました」

 

 そこで一度、言葉が途切れる。

 札が横で、がんばれ、とでも言いたげにぴらぴら揺れた。仁は見ないふりをした。


「その……」

 息を吸う。

「私は、あの日の雄蟻です」


 空気がぴたりと止まる。


 双葉が小さく「うわ」と漏らし、紬葉がその口を両手で塞いだ。

 一葉は目を丸くしたまま仁を見つめ、風葉は「えっ、ほんとに?」と半歩前に出る。護葉は腕を組み直し、葉月は何か計算するように視線を落とした。結葉は口元を押さえて固まっている。


 仁は逃げずに続けた。


「ですので……今ここにいる子たちは、私の子でも、あります」


 言い終えた瞬間、部屋の空気がふっと揺れた気がした。

 それが緊張なのか、驚きなのか、仁にはわからない。


「黙っていたのは」

 仁は低く続ける。

「どう話すべきかわからなかったからです。今さら父親だと名乗るのは、あまりにも勝手ではないかと思っていました。夫だと口にするのも、私の側から言うには……何か違う気がして」


 そこで言葉を切る。

 うまく説明できた気はまるでしない。むしろ余計にややこしくした気さえする。


 だが、言うべきことは言った。


 沈黙の中で、蜜葉乃が小さく瞬きをする。

 それから、考えを整理するように一度だけ視線を宙へ向けた。


「ええと……」

 蜜葉乃は指を折るみたいに、ゆっくり言った。

「仁は、あの婚姻飛行の時のお相手で」

「……はい」

「だから、この子たちのお父さんでもある」

「はい」

「そして、ずっとそれを言えずにいた」

「……その通りです」


 蜜葉乃は「そう」と頷いた。


「じゃあ、やっぱり仁なのね」

「…………はい?」

 

 思わず、仁が顔を上げる。


 蜜葉乃は、きょとんとした顔でこちらを見返した。


「だって、ずっと変わらないでしょう?」

「変わらない、とは」

「心配性で、世話焼きで、仕事を抱え込みすぎて、言いにくいことほど一人で抱え込むところ」

 蜜葉乃はくすっと笑った。

「夫だろうと父親だろうと、仁は仁だわ」


 あまりにも自然に言われて、仁はしばらく言葉を失った。


「もちろん、びっくりはしたのよ?」

 蜜葉乃は続ける。

「だって、いきなり札が大声でそんなことを言うんだもの」

「申し訳ありません」

「そこは仁のせいじゃないでしょう」

 ふふ、と蜜葉乃は笑う。

「でも、そうね。大事なことを一人で抱えていたのは、あとで少し叱るかもしれないわ」


 やわらかな声だった。

 怒っているというより、本当に「少し叱る」のだろうという響きで、かえって仁は背筋を伸ばした。


 その横で、一葉がようやく息を吐いた。


「……ええと、整理していい?」

「どうぞ」

「仁が女王さまの婚姻飛行のお相手で」

「はい」

「だから私たちのお父さんで」

「はい」

「それをずっと黙ってた」

「はい」


 一葉は腕を組み、しばらく真顔で仁を見つめたあと、

「……なんか、妙に納得した」

と言った。


「納得するのですか」

「するよ。だって仁、ずっとお父さんみたいだったし」

「えっ」

 双葉が勢いよく乗ってくる。

「わかる! なんか過保護だし、すぐあれ持ったこれ持ったって世話焼くし!」

「保存食食べすぎると注意してくるし」

と紬葉。

「寝不足だと顔見ただけでばれるし」

と結葉。

「危ないことしそうだと先回りして止める」

と風葉。


 護葉が静かに腕を組んだまま言う。


「筋は通った」

「護葉、それだけ?」

「十分だろう。事情がわかった以上、今まで通り守る対象が増えるだけだ」


 葉月は真面目に一度頷き、

「では今後の記録上、家族関係の欄をどう整理するか考える必要がある」

と少しずれた方向へ走った。


「そこ整理するの!?」と双葉が叫び、

「記録は大事」と葉月はきっぱり返す。


 そのやり取りに、空気がようやくほぐれた。


 結葉がまだ少し信じられないような顔で仁を見上げる。


「……じゃあ、ほんとに、お父さんなんだ」

「……形式上は」

「形式上って何」

 一葉がすかさず突っ込む。

「そこはもうちょっと堂々としてよ」

「堂々とする場面ではないでしょう」

「いや、今さらそこだけ慎み深くなられても」


 くすくすと笑いが広がった。


 そのとき、子蟻のひとりが仁の膝にぺたりとくっついて、首を傾げた。


「じんさんは、じんさんだよ?」

 

 仁が目を瞬く。


 別の子蟻も、蜜葉乃を見てから仁を見上げた。


「女王さまのこと、だいすきだもんね」

「うん」

「だったら、おとうさんでもへんじゃない!」


 あまりにもまっすぐな理屈に、部屋のあちこちで笑いが漏れた。


 仁は返す言葉を失い、ただ子蟻を見下ろす。

 子蟻はにこにこしながら、さらに言った。


「じゃあ、おとうさん?」

「……っ」


 詰まる。

 喉まで上がった言葉が、なかなか出てこない。


 その様子を見て、蜜葉乃が少しだけ悪戯っぽく目を細めた。


「仁」

「……はい」

「返事は?」

「…………」


 周囲の視線が、期待に満ちて集まる。

 札は空中でぶんぶん揺れていた。今すぐ丸めて壁に埋め込みたい。


 だが、ここで逃げたら、本当に一生言えない気がした。


 仁は諦めたように息を吐き、子蟻に向かって小さく頷く。


「……そう、なります」

「やったー!」

「じんさんおとうさんだー!」


 子蟻たちがわっと歓声を上げて仁に飛びついた。

 膝に、腕に、背中にまでよじ登られ、仁はたちまち子蟻まみれになる。


「ちょ、待ちなさい、危ない、足を踏むな、そこは引っ張るな」

「おとうさーん!」

「呼び方を急に変えるな!」

「えー、だめ?」

「だめとは言っていませんが、心の準備というものが」

「ないの?」

「ありません!」


 即答すると、部屋の中がどっと笑いに包まれた。


 蜜葉乃はそんな光景を見ながら、肩を震わせて笑っている。

 一葉は「もう遅いよねえ」と呆れ半分に言い、双葉と紬葉は「家族割引はあるのか」「発明予算は増えるのか」と好き勝手を始め、葉月は「呼称変更に伴う記録修正を」とまだ的外れなことを考えていた。結葉は「匂いが一気に諦めた感じになった」と面白がり、風葉はくすくす笑いながら「仁、顔真っ赤」と容赦がない。


 護葉だけがいつも通りの顔で、仁の肩によじ登る子蟻をひとりつまみ上げ、落ちない位置へそっと戻していた。


 その喧騒の中で、ふわふわ浮いていた神様の応援札が、満足したようにぺたりと仁の頭に落ちてきた。


 反射で仁がそれをつまみ上げる。

 札の表面には、最後にひとことだけ文字が浮かんでいた。


『やっと言えたね』


「……余計なお世話です」


 仁が低く言うと、札はふっと白紙に戻った。


 それを見ていた蜜葉乃が、やさしく目を細める。


「でも、結果としてはよかったわ」

「そうでしょうか」

「ええ。だって、ちゃんと聞けたもの」


 蜜葉乃は子蟻たちに埋もれかけている仁へ、穏やかな声で言った。


「仁」

「……はい」

「今夜、少し時間をちょうだい」

 

 仁の肩がぴくりと揺れる。


「改めて、ちゃんと聞きたいの」

「……はい」

「逃げないでね」

「善処します」

「それは逃げる人の返事よ」

「……では、逃げません」


 蜜葉乃は満足そうに頷いた。


 子蟻たちはまだ「おとうさん!」「じんさんおとうさん!」と好き放題にはしゃいでいる。

 その真ん中で、仁は観念したように目を閉じた。


 ――こうして、誰にも知られたくなかった秘密は、神様の余計な応援によって、巣じゅうに知れ渡った。


 だが、思っていたほど悪いことではなかったのかもしれない。


 少なくとも、子蟻たちに腕を引っ張られながら、蜜葉乃が笑っているのを見る限りでは。


 ……神様への礼は、やはり言わないでおこうと思ったけれど。


 その夜、日誌を開いた仁の机の上には、白紙の札が一枚だけ、行儀よく置かれていた。


 見なかったことにして、仁はそっと日誌を閉じた。

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