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葉音を紡ぐ ――世界樹の麓で  作者: 葉森かなで


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40/42

40 神様の大丈夫は、だいたいろくでもない(2回目)

 その夜、仁は珍しく、日誌を開いたまま筆を止めていた。


 机の上には、白い葉紙が一枚。

 昨日までなら迷いなく埋まっていたはずの行が、今夜はどうしても進まない。


 ――好きだと、知られていた。

 しかも、匂いで。

 しかも、ずっと前から。


 思い出しただけで胃が痛い。


 さらに言えば、あの場で蜜葉乃まで、まったく驚いた様子もなく「そういう匂いだったものね」と受け止めていた。

 仁にとっては十分すぎるほどの大惨事だったが、蟻人たちにとってフェロモンは会話であり、感情であり、日々の意思疎通そのものだ。

 仁だけが、その当然の世界にまだ慣れ切れていない。


 ――いや、慣れたくもないのだが。


 深いため息をついて、仁は筆を置いた。


「……今日は、無理です」


 誰にともなく呟いた、その瞬間だった。


「へえ。律儀な仁くんが日誌をさぼるなんて、明日は槍でも降るのかな」


 聞き慣れた、軽薄そのものの声が部屋の隅からした。


 仁はぴくりともせず、ゆっくり顔だけ上げる。


「……来ると思っていましたよ」

「うわ、歓迎ゼロ」

「歓迎した覚えは一度もありません」


 薄暗い部屋の片隅、いつのまにか神様が床に座り込んでいた。

 妙にくつろいだ顔で、どこから持ってきたのか木の実をつまんでいる。


「だってさあ、君が日誌を書かないなんて珍しすぎるから。これは覗きに来るしかないでしょ」

「覗きに来る、で済ませないでください」

「心配して来たんだよ?」

「あなたの“心配”は信用していません」

「ひどいなあ。今回は本当に心配半分、面白がり半分くらいだよ」

「半分も面白がっている時点で駄目です」


 神様はけらけら笑った。

 仁はこめかみを押さえたくなったが、押さえたところで相手が消えるわけでもない。


「で?」

 神様は木の実を放り込みながら、にやにやと仁を見る。

「女王さまへの好きが巣中にバレた感想は」

「やめてください」

「いやあ、見たかったなあ、その場」

「見ていなくて本当に良かったですね。見ていたら埋めていました」

「怖っ」


 神様はまったく堪えた様子もなく、むしろ楽しそうに目を細めた。


「でも、あれだね。君、思ったより重症だった」

「何の話です」

「女王さまのこと」

「……」

「いや、香石つけてから感情が漏れやすくなってるのは僕もわかってたけど、あそこまで“好きです大好きです心配です触るな危ないです寒くないですか眠れてますか”って丸見えだとは思わなかった」

「やめてください」

「語彙が“やめてください”しかなくなってるよ」


 仁は無言で机の上の小さな木片を手に取った。

 投げるつもりだと気づいたらしく、神様はひょいと身を引く。


「落ち着いて落ち着いて。今日はからかいに来ただけじゃないから」

「その前置きで信用できると思いますか」

「できないだろうね」

「でしょうね」


 仁は木片を置き直し、椅子に深く座り直した。

 神様も笑いを少し引っ込める。


「……で、何の用です」

「うん。そろそろ、ちゃんと考えた方がいいかなって思って」

「何をです」

「君のこと」


 その言い方だけは、少し真面目だった。


 仁は眉を寄せる。

 神様は木の実をしまい、膝を抱えるようにして座り直した。


「仁くんさ。君、今の自分の立場を、蜜葉乃ちゃんにどこまで話すつもり?」

「……立場、とは」

「とぼけるねえ」


 神様は肩をすくめた。


「君はただの執事じゃない。

 この巣にとっての“執事の仁”である前に、蜜葉乃ちゃんの婚姻飛行の相手だった雄蜂で、あの子たちの父親だ」


 部屋の空気が、しんと静まる。


 仁はしばらく何も言わなかった。

 香石の入った小箱が、机の隅で淡く光っている。


「……わかっています」

 ようやく出た声は、少しかすれていた。

「わかっては、います」

「うん」

「ですが、話したところで何になるのですか」


 神様はすぐには答えなかった。

 仁もまた、自分の言葉の続きを探すように視線を落とす。


「蜜葉乃様は、今の巣を守る女王です。子どもたちの母で、みんなの中心だ。

 私は……たまたまここに残っただけの異物です」

「異物、ね」

「実際そうでしょう。神に言われ地上に行き、勝手にここへ来た。執事として役に立つことはできても、最初からここにいたわけじゃない」


 仁は自嘲気味に笑った。


「父親だなどと、今さら名乗って、何になるのです。

 あの子たちが育ってきた時間に、私は何もしていない。蜜葉乃様が一人で抱えてきたものを、あとから横取りするような真似はしたくありません」

「横取りじゃないよ」

「では何です」

「本来の位置に戻るだけ」


 神様の返答は、ひどくあっさりしていた。


 仁は顔を上げる。

 神様は、今度は笑っていなかった。


「君が父親だからって、今までの蜜葉乃ちゃんの頑張りが減るわけじゃない。

 君が伴侶だからって、今の執事としての君が消えるわけでもない。

 足りなかったものが、あとから一つ埋まるだけだよ」


「……」

「それに、あの子は知る権利がある」


 神様は静かに続けた。


「蜜葉乃ちゃんは、君を信じてる。

 好きかどうかなんてもう匂いで知ってるし、最近はたぶん“仁は仁なりに必死なんだろうな”くらいもわかってる」

「やめてください」

「そこは流してよ。今大事なのはそこじゃない」


 神様は軽く手を振った。


「君が何者で、どうしてここにいて、何を黙ってるのか。

 それを知るかどうかは、蜜葉乃ちゃんが決めることだ。君が“言わない方がいい”って先回りして奪っていいことじゃない」


 仁は口を閉ざしたまま、机の木目を見つめた。


 言葉は、理解できる。

 正しいとも思う。

 だが、正しいからこそ怖い。


「……話したら」

 仁は低く言った。

「蜜葉乃様が困るかもしれません」

「うん」

「気を遣わせるかもしれない」

「うん」

「今のままの方が、あの方にとって楽なら」


「それでも」

 神様はかぶせるように言った。

「決めるのは、蜜葉乃ちゃんだよ」


 仁は押し黙った。


 神様は、珍しく急かさなかった。

 部屋の中には、外の坑道を渡る風の音だけがかすかに響く。


 やがて、仁は長く息を吐いた。


「……卑怯でした」

「うん?」

「“言わない方があの方のためだ”と考えていれば、私は逃げているだけで済む。

 本当は、私が怖かっただけです」


 神様は何も言わない。


「もし拒まれたら。

 もし、今まで通りでいられなくなったら。

 もし、子どもたちの父親だなどと名乗って、迷惑そうな顔をされたら――そう考えて、先延ばしにしていました」


 仁はそこで一度目を閉じた。


「ですが……」

 再び目を開いた時、その声は少しだけ定まっていた。

「それでも、私の口から話すべきことなのでしょうね」


 神様が、ようやく柔らかく笑った。


「うん。そこまでわかってるなら十分」

「機会を見ます」

「うん」

「……近いうちに」

「うんうん」

「今すぐ行けと言うなら帰ってください」

「言わない言わない」


 神様はひらひら手を振る。

 その顔が、まただんだんいつもの調子に戻ってきて、仁は嫌な予感を覚えた。


「いやあ、でもよかった。ちゃんと腹くくる気になったなら安心だ」

「あなたがそう言うと不穏です」

「大丈夫だって」

「ほらもう駄目だ」

「だから、応援してあげる」


 神様はそう言って、懐をごそごそ探り始めた。


 仁の眉間にしわが寄る。


「……何を出すつもりです」

「んー? 便利グッズ」

「いりません」

「まだ何も言ってないよ」

「いりません」

「はいこれ」


 ぱさり、と。

 神様は一枚の小さな葉札を机の上に置いた。


 薄い若葉色の札だった。

 片隅に、妙に丸っこい字で小さく“がんばれ”と書いてある。どう見ても嫌な予感しかしない。


「……何ですか、これは」

「神様の応援札」

「名前がもう不穏です」

「えー、すごく善意に満ちてる名前じゃない?」

「善意に満ちているものほど危険な相手だと知っています」

「ひどいなあ」


 神様は札を指先でとんと叩いた。


「これね、先延ばししてる相手を応援する札」

「いりません」

「話すべきことを話すまで、ちょっとだけ背中を押してくれる」

「いりません」

「大丈夫、ほんの少ししつこいだけ」

「その“ほんの少し”が一番信用ならないんですよ」


 仁は即座に札をつまみ上げた。

 軽い。普通の葉札にしか見えない。


「捨てます」

「えー」

「埋めます」

「まあ戻ってくるけど」

「最悪ですね」

「応援だからね」

「応援で済ませるな」


 神様はけらけら笑いながら立ち上がった。


「じゃ、あとはよろしく。

 ちゃんと自分で言うんだよ、仁くん」

「……言われなくても、そのつもりです」

「うんうん。だから応援札置いてくね」

「置いていかないでください」

「大丈夫」

「その台詞は禁止です」

「大丈夫大丈夫」

「増やすな」


 次の瞬間、神様の姿はふっと消えた。

 あとに残ったのは、机の上の葉札一枚だけ。


 仁はしばらく無言でそれを見下ろしていたが、やがて心底疲れた顔で額を押さえた。


「……ろくでもない」


 小さく呟いてから、札を二つに折り、机の端へ追いやる。

 それからようやく日誌に向き直り、筆を取った。


 今夜は何を書けばいいのかわからない。

 それでも白紙のまま閉じるよりはましだろうと、一行だけ書きつける。


 本日、神が来訪。ろくでもない置き土産を残していった。


 そこまで書いたところで、机の端からかさりと音がした。


 仁が振り向く。


 さっき折ったはずの葉札が、いつのまにか元通りになっていた。

 しかも表に、さっきまではなかった文字が浮かんでいる。


 『話すこと』


「……」


 仁は無言で札を裏返した。


 裏にはさらに、丸っこい字が増えていた。


 『先のばし禁止』


「…………埋めます」


 低く言い捨てて、仁は札を引き出しの奥へ押し込んだ。


 その夜はそれで終わった。

 少なくとも、仁は終わったと思っていた。


 けれど翌朝。

 日誌帳を開いた仁を待っていたのは、昨夜しまい込んだはずの葉札だった。


 ど真ん中にぺたりと貼りつき、昨日より少しだけ大きな字で、こう書いてある。


 『まだ?』


 仁はしばらく札を見つめたあと、静かに両手で顔を覆った。


 ――神様の大丈夫は、やはりろくでもなかった。

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