4 女王さまは働きたい
襲撃から数日後。
巣に朝が来る。
といっても土の下の一室に陽が差し込むわけではないから、蜜葉乃がそれを知るのは、空気の温度と湿り気のわずかな変化によってだった。夜のあいだに冷えていた土がゆっくりとぬるみ、通気孔の向こうから届く地上の匂いが、ほんの少しだけ軽くなる。
卵のそばに身を寄せたまま、蜜葉乃はうっすらと目を開けた。
……あたたかい。
まずそう思った。
腹の下に抱え込んだ卵たちはほどよく温められていて、背にもたれている壁も、ひやりとしすぎていない。昨夜までむき出しだった土床には、乾いた葉の繊維と細かく砕いた土が薄く敷かれていて、身体に当たる感触が少しだけやわらかい。
「まあ……」
小さく感心したところで、視界の端に黒い影が映った。
仁だった。
部屋の入口近くに膝をつき、何やら細い枝片と土粒を選り分けている。相変わらず黒を基調にした衣は乱れなく、髪もきちんと整えられている。まだ創設して間もない土の巣にいるというのに、その姿だけは妙に場違いなほど端正だった。
蜜葉乃が身じろぎすると、仁はすぐに顔を上げる。
「お目覚めですか、蜜葉乃さま」
「はい。おはようございます、仁」
「おはようございます」
声は静かで、過不足がない。
けれど蜜葉乃は、彼の手元に積まれたものを見て首を傾げた。
「それは何をしているのです?」
「巣内設備の調整です」
「せつび」
「寝床の敷材、保温用の繊維、排水溝の補強材、卵の保湿用に使う葉片の選別を」
「朝からたくさん」
「本日の午前中の作業としては最低限です」
「最低限の基準が、まだよくわかりませんねえ……」
蜜葉乃が呟くと、仁は「左様でございますか」とだけ返して作業へ戻った。
本当に左様でございますかと思っているのかは、相変わらずよくわからない。
蜜葉乃は卵をひとつひとつ確かめる。
先日の崩落を乗り越えた卵たちは、みな静かにそこにあった。白く小さく、けれど確かな命の重みを抱えた、自分の子どもたち。
よかった、と胸を撫で下ろしたその時。
「女王さま」
「はい?」
「本日も安静にお過ごしください」
あまりにも自然な口調で告げられて、蜜葉乃はぱちりと瞬いた。
「安静、ですか」
「はい。腹部への負荷、脚の損傷、消耗、いずれを考慮しても、少なくとも本日までは休養が妥当です」
「……あの」
「はい」
「それは、もしかして」
「本日の行動制限のご相談です」
「ご相談」
「事実上の決定事項ですが」
「相談とは」
仁は少しも悪びれずに答えた。
「一応、形式としては必要かと」
蜜葉乃はしばらくぽかんとしたあと、ふふっと笑った。
真顔でそんなことを言うところが、やっぱり少しおかしい。
「でも、そろそろわたし動けますよ」
「存じております」
「卵のお世話もできますし」
「存じております」
「少しなら土も掘れます」
「それは困ります」
「困るのですか」
「大変困ります」
きっぱり言われて、蜜葉乃は目を丸くした。
仁は選別していた枝片を脇へ置き、いつものように無駄のない所作でこちらへ向き直る。
「蜜葉乃さまは女王です」
「はい」
「女王が優先すべきは卵の保護と産卵、そしてご自身の体力維持です。無理をして倒れられては本末転倒かと」
「むう……」
言っていることは正しい。
正しいのだが、正しいからといって素直に従えるとは限らない。
蜜葉乃は少しだけ唇を尖らせた。
「でも、仁ばかりに働いてもらうのは申し訳ないです」
「お気になさらず」
「気になります」
「お気になさらず」
「そこはもう少し譲ってくださいませんか」
すると仁は、ほんの少し考えるように黙った。
琥珀色の目が静かに細められる。何かを計算している時の顔だ、と蜜葉乃はなんとなく思った。
「……では、折衷案を」
「まあ、あります?」
「はい。本日は『巣の外へ出ない』『土を掘らない』『卵の移動は最低限』を条件に、室内で可能な軽作業のみ許可いたします」
「許可」
「ご不満ですか」
「いえ、なんだか急に厳しいお屋敷みたいになってきたなと思いまして」
「執事ですので」
「そうでした」
蜜葉乃はくすくす笑って、それから「では軽作業とは何でしょう」と首を傾げる。
仁はすぐに答えた。
「卵への給湿確認、保温材の位置調整、今後の産卵区画の選定、私への指示出しなどです」
「最後のだけ、ずいぶん楽ですね」
「女王の仕事とは本来そういうものです」
「そういうものですか」
「少なくとも、巣全体の管理という意味では」
蜜葉乃は「なるほど」と頷きかけて、途中で止まった。
「……でも、指示と言われても、何を頼めばよいのかわかりません」
「でしたら、まずは現状報告をいたします」
「報告」
「はい」
仁はすっと背筋を伸ばした。
その姿勢だけで、創設巣の一室が急に執務室めいて見えてくるから不思議だ。
「現時点で、創設室の崩落箇所は応急処置済み。通気は一経路、排水は二経路確保。卵は全数無事、保温状態は安定。備蓄は現状ゼロ、よって数日以内に食糧経路の確保が必要です。また、女王さまには可能であれば本日中にもう一度産卵していただけると助かります」
「最後だけ、さらっと大仕事を仰いませんでしたか」
「最重要事項ですので」
「そうでした……」
女王である以上、そこは避けて通れない。
蜜葉乃は少し神妙な顔になって、自分の腹部へそっと手を当てた。
仁はその様子を見て、声の調子をほんのわずかに和らげる。
「もちろん、無理はなさらず。先日の件を考えれば、数や速度よりもまず安定が優先です」
「……仁」
「はい」
「あなた、案外やさしいですね」
その言葉に仁はぴたりと止まった。
触角の先が、ごくわずかに揺れる。
「そうでしょうか」
「はい。もっと数字と効率だけで動く方かと思っていました」
「否定はいたしませんが」
「否定はしないのですね」
「ただ、女王さまの体調管理は巣の存続に直結しますので」
「言い方は合理的なのに、やっていることはやさしいのですよねえ」
蜜葉乃がそう笑うと、仁は数秒ほど沈黙した。
どう返せばよいかわからない時の沈黙だ、と最近少しわかってきた。
やがて仁は、話を変えるように小さく咳払いをした。
「では、軽作業をお願いしてもよろしいでしょうか」
「はい、何をしましょう」
「こちらへ」
仁が差し出したのは、小さく千切られた葉片と、細い繊維の束だった。
蜜葉乃が受け取ると、乾いた葉の匂いがほのかに広がる。
「卵の周囲に置く保温材です。孵化の近い卵ほど温度を安定させたいので、柔らかいものを選別していただけますか」
「まあ、大事なお仕事」
「大事です」
「お任せください」
蜜葉乃は嬉しそうに卵のそばへ身を寄せた。
こういう細やかな作業は嫌いではない。
むしろ好きな方だ。卵を傷つけないように、ふわりと繊維をほぐして、ひとつひとつの周りへ置いていく。湿りすぎず、乾きすぎず、重たすぎず、やさしく整える。
「きれいに並べられますね」
ふいに仁が言った。
蜜葉乃は顔を上げる。
「そうでしょうか」
「はい。卵に触れる手つきが安定しています」
「うれしいです」
「女王としての適性が高いかと」
「まあ」
褒められたらしい。
蜜葉乃はぱっと顔をほころばせた。
「仁に褒められると、なんだかすごく立派なことをした気持ちになりますね」
「立派なことをなさっています」
「ほんとうに?」
「はい。少なくとも私にはできません」
その返答はあまりに即答だった。
蜜葉乃は一瞬きょとんとして、それから少しだけ笑みを深くする。
「仁にも、苦手なことがあるのですね」
「もちろんです」
「例えば?」
「産卵」
「それはそうでしょうねえ」
思わず吹き出すと、腹に少し響いて「いたた」となる。
仁が即座に「ですからまだ笑いすぎは禁物です」と真顔で言い、蜜葉乃は「はい」としおらしく返事をした。
それからしばらく、巣の中には静かな時間が流れた。
蜜葉乃は卵の世話をし、仁は通路の補強を進める。
時折、土を運ぶ音。葉片を置くかすかな擦れ音。通気孔から流れ込む風が、二人の髪をほんの少し揺らしていく。
不思議な静けさだった。
昨日までひとりきりだった巣に、もうひとつ気配がある。そのことが、想像していたよりずっと安心につながっている。
蜜葉乃は卵を並べ終えたあと、そっと仁の方を見た。
仁は部屋の端で、崩れやすい箇所の土を固めていた。
長い指先で土の粒度を確かめ、湿り気を見て、少しずつ均していく。その手つきは働き蟻というより、何かを設計する職人のようだった。しかも恐ろしいことに、彼は一度も無駄な動きをしない。迷わない。急がない。なのに早い。
「仁」
「はい」
「前から気になっていたのですが」
「何でしょう」
「どうしてそんなに、何でもできるのです?」
仁の手が、ぴたりと止まった。
その問いは、蜜葉乃にとっては純粋な感想だった。
巣の補修、卵の管理、通気や排水の設計、女王の介抱。創設巣に必要なことを、彼はまるで最初から知っていたかのようにこなしてしまう。
仁は少しだけ視線を落とした。
「……何故でしょうね
土に添えていた指先を離し、静かに立ち上がる。その横顔はいつもと変わらず整っているのに、なぜかほんのわずか、遠くを見ているように見えた。
「……自分でもよくわからないのです」
今はそれ以上は言えないのだろうと蜜葉乃にもわかった。
だから彼女は、無理に尋ねなかった。
代わりに、卵を抱え直しながらやわらかく笑う。
「では、いつか仁が話したくなった時に聞かせてください」
仁が目を上げる。
「無理に聞いたりはしません。だって、わたしたち、まだ会ったばかりですもの」
先日も言ったのと同じ言葉だった。
でも今日は、少し意味が違う。知らないことがあってもいい。わからないことがあっても、急がなくていい。これから少しずつ知っていけばいいのだと、蜜葉乃は本気でそう思っている。
「その代わり」
「……はい」
「仁も、わたしのことを少しずつ知ってくださいね」
「蜜葉乃さまのことをですか?」
「はい。好きなものとか、苦手なものとか、疲れている時の顔とか」
そこまで言って、蜜葉乃は少しだけ考え込む。
「あとは、朝はぼんやりしているので、急に難しい話をされるとたぶん半分くらいしか頭に入りません」
「先に仰ってください」
「今お伝えしました」
「遅いです」
「まあ」
仁の返しがあまりに即座で、蜜葉乃は目を丸くした。
けれども次の瞬間には、どちらからともなく少しだけ笑っていた。
ほんの、少しだけ。
仁の口元が緩んだのを、蜜葉乃は見逃さなかった。
「仁、いま笑いました?」
「いいえ」
「笑いましたよね?」
「気のせいかと」
「ええー」
「巣の湿度が見せた幻では」
「湿度のせいで笑ったように見えること、あります?」
「前例は存じません」
「ないことを真顔で言わないでください」
蜜葉乃はくすくす笑い、仁は今度こそ完全に無表情へ戻った。
けれど触角の先だけが、ほんの少しだけ落ち着かなさそうに揺れている。
やっぱりこの執事は、整いすぎているわりに、時々とてもわかりやすい。
そんなことを思っていた、その時だった。
ふ、と。
卵のひとつが、かすかに動いた。
「……あら」
蜜葉乃の声が止まる。
仁もすぐに気づいたらしい。二人の視線が、同時に卵の一角へ集まった。
白い殻の表面が、ごくわずかに震える。
ひび、というほどでもない。けれどもたしかに、中から何かが押し返したような、小さな変化。
「仁」
「はい」
「今、動きました」
「確認しました」
二人とも、思わず声を潜めていた。
産卵してからまだ日が浅い。
孵化にはもう少し時間がかかるはずだと思っていた。もちろん個体差はある。もしかすると予定より早く動きが出ることもあるのかもしれない。
蜜葉乃は卵のそばへ、そっと膝を寄せた。
「がんばっているのですねえ」
その声は、まるで寝息を起こさないように話しかける母親のものだった。
仁はその横で、卵の周囲の温度を確かめるように手をかざす。
「保温材を少し増やします」
「はい。あ、でも、重くなりすぎないように」
「承知しました」
「それから、乾いた繊維より、少ししっとりした方が落ち着くかもしれません」
「なるほど」
仁がすぐに材料を選び直す。
蜜葉乃は卵を見つめたまま、そっと微笑んだ。
「仁」
「はい」
「この子が、うちの最初の子になるかもしれません」
「はい」
「なんだか、緊張しますね」
「……ええ」
仁の返事は短かった。
けれどその声には、いつもよりほんの少しだけ熱があった。
この小さな巣に、もうすぐ最初の働き蟻が生まれるかもしれない。
まだ何もかも足りない小さな穴の一室。
けれどもそこにはもう、たしかに家族と呼べるものの輪郭が生まれ始めていた。
蜜葉乃は卵へそっと手を添える。
仁はその少し後ろに控え、いつでも支えられるよう静かに立つ。
卵の殻はもう一度だけ、かすかに震えた。
それを見つめる蜜葉乃の横顔はやわらかく、けれども女王らしい静かな強さを帯びていた。
仁はその表情を見つめながら、胸の奥に芽生えた奇妙な感覚を、まだうまく言葉にできずにいた。
守らなければならない。
整えなければならない。
この巣を、この女王を、この小さな命の群れを。
それは使命に似ていたけれど、使命だけでは少し足りない何かだった。
「女王さま」
「はい?」
「本日の予定を変更します」
「まあ、また会議ですか」
「会議ではありません」
「では何でしょう」
「最優先事項が更新されました」
仁は卵を見下ろし、静かに告げる。
「第一子誕生の準備に移行します」
蜜葉乃はきょとんとして、それから、ふわりと笑った。
「はい、執事さん」
その返事に、仁は一礼する。
「お任せください、女王さま」
土の下の小さな巣で。
まだ誰も知らない王国の、最初の一日が、そうしてまた少しだけ先へ進みはじめた。
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仁の日誌
女王は全快まであと少し
卵が孵化の予兆?
通気は一経路、排水は二経路確保




