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葉音を紡ぐ ――世界樹の麓で  作者: 葉森かなで


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3/42

3 はじめまして、執事さん

最初に戻ってきたのは、匂いだった。


 湿った土の匂い。

 やわらかな卵の匂い。

 それからもうひとつ、この生まれたばかりの巣には、少し似つかわしくない、きちんと整えられた空気の匂い。


 蜜葉乃は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。


 視界はまだ霞んでいる。

 土の天井が見える。崩れかけていたはずの壁はなめらかに均され、通路の縁はきちんと固められていた。部屋の隅には湿った土と乾いた土が分けて積まれ、卵の置かれた一角だけが、ほどよい温度を保つよう丁寧に整えられている。


「……あら」


 目覚めて最初の言葉が、それだった。


 自分でも、もう少し切羽詰まった声が出ると思っていたのに、口からこぼれたのはひどく間の抜けた感想だった。

 身体は重い。腹の奥はじんと痛み、脚先も鈍く軋む。それでも生きているし、思ったよりずっと楽だ。身体についた泥は落とされ、傷の周囲も軽く清められているらしい。


 壁にもたれたまま、蜜葉乃はぼんやりと巣の中を見回した。


 ――きれいだ。


 雨と崩落のあとだ。

 もっとひどいことになっていると思っていた。卵は泥にまみれ、通路は埋まり、自分も土の中に半分沈んだまま目を覚ますものだと覚悟していたのに。


 現実は、まるで違った。


 卵はひとまとめにされ、泥が払われ、孵化の近いものとそうでないものまで分けられている。壁は補修され、通路には排水用らしい細い溝まで掘られていた。短時間でここまで立て直すなど、蜜葉乃には到底できない。


 その卵のそばに、彼がいた。


 蜜葉乃はゆっくりと目を瞬いた。


 そこにいたのは、昨夜ぼんやり見た影よりもずっと、ひどく“整った”存在だった。


 濡れ羽色の髪は一筋も乱れず、光の乏しい巣の中でさえ艶を帯びている。髪のあいだから伸びる二本の触角は細く長く、ほとんど静止したまま、まるで彼自身の性質を映すように端正だった。

 切れ長の目は黒曜石のようで、表情は薄いのにその視線だけが妙に静かで深い。土まみれの創設巣にいるはずなのに、彼だけは、どこか別のきちんとした場所から切り取ってここへ置かれたみたいだった。


 無駄のない細身の身体を、彼は卵のそばに控えめに折っていた。

 けれどもその姿勢ひとつにも妙な品がある。背筋は真っ直ぐで、指先はきちんと揃えられ、衣の裾のように見える黒い外套めいた布が、膝の脇に音もなく落ちている。


 蜜葉乃が目を開けたことに気づくと、彼は卵から静かに離れ、深く頭を下げた。


「お目覚めになりましたか、女王さま」


 低く落ち着いた声だった。

 感情を削ぎ落としたように静かなのに、不思議と耳に残る声だ。


 蜜葉乃は少しだけ首を傾げた。

 その拍子に、黒髪のあいだの細い触角が、かすかに揺れる。


「……仁さん、でしたっけ」


「はい。昨晩そう名乗りました」


「よかった。合っていました」


 ほっとしたように言うと、仁は一瞬だけ黙った。

 目覚めて最初に確認するのがそこなのか、とでも思ったのかもしれない。


 蜜葉乃は身を起こそうとして、すぐに「いたた」と小さく呻いた。

 すると仁が、ためらいなく一歩前へ出る。


「まだ起き上がられない方がよろしいかと」


「でも、卵を見たいのです」


「見える位置へお運びします」


「卵を?」


「いえ、貴方を」


 仁はわずかに膝をつき、彼女の身体を支える。

 その手つきは驚くほど正確だった。どこを押さえれば痛むか、どこに力をかければ負担が少ないかを、最初から知っているかのように迷いがない。


 仁の長く節の整った指先は、土を掘る蟻のものらしく細く硬質なのに、卵を扱ったあとだからか、どこか繊細な余韻が残っている。手の甲の黒い外殻が手袋を嵌めているようにも見せ、その指が自分の身体を傷つけないよう慎重に支えてくれるのが、なんだか少しくすぐったい。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


「気配りがお上手ですねえ」


「恐縮です」


 本当に恐縮しているのかはよくわからない声音だった。

 けれど不快ではない。むしろその温度の低い整い方が、いまの蜜葉乃には妙に心地よかった。


 もたれた姿勢のまま、蜜葉乃は卵の方を見た。


 白い卵たちは、崩落前よりむしろ丁寧に整えられていた。泥は落とされ、湿り気は均一で、周囲の土までやわらかく均されている。卵のそばには、ごく小さな葉片や繊維が置かれていて、保温のための工夫まで施されていた。


「……まあ」


 蜜葉乃は感心したように目を丸くする。


 その瞳は、まだ疲れを残しているのに、光を受けるととろりとした蜂蜜色を帯びた。丸みのある目元は眠たげでやさしく、黒髪の隙間からのぞく触角がふわりと持ち上がると、春の花房が揺れたみたいに見える。


「本当に、無事ですか?」


「はい。すべて生存しております」

 

「すごい」


「ありがとうございます」


「いえ、すごいのは卵ではなく仁さんです」


「そうでしたか」


「はい」


 仁はまた少しだけ黙った。

 褒められ慣れていないのか、それとも褒め言葉に対する適切な応答をまだ探しているのか、ほんの一瞬だけ触角の先が揺れた。


 蜜葉乃はその小さな動きを見て、なんだか少し安心した。

 整いすぎていて人形みたいな蟻だと思ったけれど、ちゃんと揺れるところもあるらしい。


「それにしても」


「はい」


「ずいぶん、整いましたね」


「最低限の復旧を行いました」


「最低限」


「はい」


 蜜葉乃は改めて巣の中を見回す。

 どう見ても最低限ではない。壁も床も、通気も排水も、卵の配置まで、すべてがきっちりしすぎている。


「仁さん」


「はい」


「もしかして、巣作りがとてもお得意なのですか?」


「必要に応じて習得しております」


「必要に応じて」


「はい」


「便利なお方ですねえ」


「恐縮です」


 やはり恐縮している感じは薄かった。

 でもその無表情さが、かえっておかしい。


 蜜葉乃はそこで昨夜のことを少し思い出した。

 崩れる土。流れ込む雨水。卵を庇うように覆いかぶさった自分。そして、そのあとに現れた、妙に手際のいい彼。


 最後に、たしかこう言われたのだ。


 ――巣のことは、私が引き継ぎます。


「……あ」


 蜜葉乃は小さく声を上げた。


「そうでした」


 仁が静かに顔を上げる。


「何か」


「昨夜、仁さんが『巣のことは私が引き継ぎます』と仰っていました」


「はい」


「ということは」


 蜜葉乃は素直に首を傾げた。

 長い銀髪が肩を滑り、触角がその隙間でふわりと揺れる。


「仁さんは、うちの子になるのですか?」


 あまりにも自然な問いだったので、仁は数秒ほど返答を失った。


 創設期の女王にとって、巣にいる働き手は基本的に「自分が産んだ子」だ。

 だから蜜葉乃の感覚では、「巣を手伝ってくれる蟻=うちの子」という、だいぶ雑な括りになってしまう。


 仁は慎重に答える。


「……厳密には異なります」


「違うのですか」


「はい」


「では、居候でしょうか」


「それも少々語弊があります」


「難しいですねえ」


 蜜葉乃は困ったように笑った。

 笑うと、その顔は女王というより年若い娘のようにあどけなく見える。けれども卵を見下ろすときだけ、その眼差しの奥に不思議な落ち着きが宿るのが、仁には妙に印象的だった。


 仁は一度目を伏せ、きちんと背筋を正す。


「申し遅れました、女王さま。私は仁。以後、この巣において、女王であるあなたに仕え、巣の維持と運営を補佐する者として、お側に置いていただきたく存じます」


 妙に仰々しく、きっちりした口上だった。

 この小さな創設巣で言うには、いささか立派すぎる。


 蜜葉乃はぱちぱちと瞬いた。


「補佐、ですか」


「はい」


「巣の維持と運営」


「はい」


「お側に」


「はい」


「つまり」


 仁は黙って続きを待つ。

 蜜葉乃は少し考え込んでから、ぽん、と手を合わせた。


「執事さんですね」


 今度こそ、仁ははっきり目を瞬いた。

 静まり返っていた触角が、ぴくりとごくわずかに揺れる。


「……はい?」


「執事さんです」


「しつじ」


「ええ。わたしの身の回りを整えて、巣のことも見てくださるのでしょう? それなら執事さんです」


 蜜葉乃は当たり前のように言う。

 どこで覚えたのかも曖昧な言葉だったが、目の前の彼にはその響きが妙にしっくりきた。黒を基調にした衣、乱れない姿勢、感情の見えにくい端正な顔立ち。何より、すでに巣の中を見違えるほど整えてしまっている。


 仁は一度だけ目を伏せた。


「執事……」


「はい。仁さんは、わたしの執事さんです」


「……それは」


「お気に召しませんか?」


 蜜葉乃が少しだけしょんぼりした顔をすると、仁はすぐに首を振った。


「いえ。お気に召さないということはありません」


「では、決まりですね」


「ずいぶん早くお決めになるのですね」


「だって、昨夜命を助けてくださいましたし、卵も守ってくださいましたし、巣まで直してくださったではありませんか」


 蜜葉乃はごく自然にそう言った。


「そんな方を疑う理由はないでしょう?」


 仁は黙った。


 蜜葉乃は自分が変なことを言ったつもりはなかった。

 もちろん、知らない相手をすぐ信用するのは危ないのかもしれない。けれども大丈夫。仁は彼女が眠っている間もずっとここにいた。その事実だけで蜜葉乃には十分だった。


「それに」


 蜜葉乃は卵の方を見て、やわらかく笑う。


「わたし、ひとりでは困ってしまいますし」


 その言い方はあまりにも素直だった。

 女王として強がるでもなく、見栄を張るでもなく、ただ事実として「困る」と認めてしまう。


「卵のお世話も、巣の管理も、外敵への備えも……全部ひとりでやるには手が足りません。ですから、仁さんがいてくださるなら、とても助かります」


「そう、ですか」


「はい。なので、どうぞよろしくお願いしますね、執事さん」


 にっこりと微笑まれて、仁はしばらく返事をしなかった。


 彼女の笑顔は、花のように派手ではない。

 けれど、巣の奥に静かに満ちる蜜の匂いみたいに、気づけばそちらへ気を取られてしまう柔らかさがある。おっとりとして、どこか危なっかしいのに不思議なほど揺るがない。弱いのか強いのか、一目では判断がつかない女王だと仁は思った。


 やがて彼は深く頭を垂れる。


「……承知いたしました、女王さま」


 その声は、先ほどまでより少しだけ低かった。

 何かを受け取ってしまったような、あるいは、思っていた以上のものを託されてしまったような響きがある。


「不肖ながら、この仁、あなたの執事としてお仕えいたします」


「まあ、立派」


「以後、巣の管理、育房補助、食糧確保、警戒、衛生管理その他一切を担当いたします」


「そんなにたくさん?」


「はい」


「では、わたしは何をすればいいのでしょう」


「まずは休養を」


「それだけですか?」


「それから、卵を産んでください」


「……あっ」


 蜜葉乃は神妙にうなずいた。


「そうでした。わたし、女王でした」


「はい」


「忘れていたわけではないのですが、今は執事さんが現れた衝撃で」


「それは何よりです」


「何より、でしょうか」


「少なくとも、昨夜の負傷のわりにはお元気そうです」


「そうかもしれません」


 妙に噛み合っているような、いないような会話だった。

 でも不思議と居心地は悪くない。


 蜜葉乃は少し身体をずらし、卵へ手を伸ばした。

 すると仁がすぐに位置を調整し、もっとも負担の少ない角度で触れられるよう支えてくれる。


 その近さで見ると、仁の顔立ちはなおさら整っていた。

 輪郭は鋭すぎず、それでいて隙がない。長い睫毛の影が頬に落ち、黒曜石のような目は、どこまでも静かだ。ひどく整った顔なのに、不思議と色気よりも禁欲的な印象が先に立つ。きちんと折り畳まれた刃物のような、そんな静けさがある。


「仁さん」


「はい」


「執事さんというのは、みんなこんなに気が利くものなのですか?」


「比較対象がございませんので断言はいたしかねますが」


「はい」


「少なくとも、私はそうあるべきだと考えております」


 きっぱり言われて、蜜葉乃は目を丸くした。

 それからふわりと笑う。


「では、仁さんはとても良い執事さんですね」


「……ありがとうございます」


 今度の「ありがとうございます」は、少しだけぎこちなかった。

 褒め言葉がまだ身体の中でうまく馴染んでいないような、そんな不器用な響きがあった。


 蜜葉乃はなんとなく、それをかわいらしいと思った。


「では、仁さん」


「はい」


「ひとつお願いがあるのですが」


「何なりと」


「そんなにかしこまらなくて大丈夫ですよ」


「善処します」


「善処、なのですね」


「努力目標として」


「まあ」


 少しおかしくて、蜜葉乃は肩を揺らした。

 傷に響いて「いたた」となり、仁がすぐさま「笑うのはもう少し回復されてからにしてください」と真顔で言う。


 その声音に叱る色はない。

 ただ本当に、今後の巣運営に差し障るのでやめてください、とでも言いたげな真面目さがある。


「お願いというのはですね」


「はい」


「その……できれば、お名前は“仁さん”ではなくて、ただ“仁”とお呼びしてもいいですか?」


 仁は目を上げた。


「構いませんが、なぜですか」


「なんとなく、そちらの方がしっくりくる気がして」


 蜜葉乃は首を傾げる。

 銀髪がさらりと肩を滑り、蜂蜜色の目が不思議そうに揺れる。


「昨夜、お名前を聞いた時からそう思っていたのです。仁、と呼ぶ方が、きれいに収まる気がして」


「そうですか」


「はい。だめでしょうか」


「いいえ」


 仁は静かに答えた。


「女王さまがそう望まれるなら、どうぞ」


「ありがとうございます。では、仁」


「はい」


「これからよろしくお願いしますね」


 その一言は、ひどく軽やかだった。


 昨日までこの巣には、蜜葉乃ひとりしかいなかったのに、まるで最初からそこにいるのが当然だったみたいに、彼女は仁を自分の巣の一員として迎え入れてしまう。


 仁はその言葉を受けて、深く頭を垂れた。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします。女王さま」


 その瞬間、巣の空気が少しだけ変わった気がした。


 女王がひとりで始めた小さな創設巣に、初めて“役割”が生まれる。

 卵を産む者。守る者。整える者。支える者。


 まだ部屋はひとつきりで蓄えもなく、働き蟻もいない。

 王国と呼ぶにはあまりにも頼りない、土の中の小さな空洞だ。けれどもそこにはもう、女王ひとりではない営みが芽吹いていた。


 蜜葉乃は卵のそばで膝を抱え、仁はその少し後ろに控える。

 まるでずっと昔からそうしてきたみたいに、ひどく自然な位置だった。


「あの、仁」


「はい」


「ひとつ、気になっていたのですが」


「何でしょう」


「執事さんというのは、夜も眠らずに働くものなのですか?」


「必要があれば」


「昨夜はいつお休みになったのです?」


「休んでおりません」


「まあ」


「問題ありません」


「ほんとうに?」


「はい」


「それは、すごいのか、心配した方がいいのか、少し迷いますねえ」


 仁は珍しく、返答に詰まった。

 ほんのわずかに、触角の先が止まる。


 蜜葉乃はくすくす笑ってから、卵をそっと抱え直した。


「では、今日からは休むこともお仕事に入れてください」


「仕事ですか」


「はい。倒れられると困りますもの」


 あまりにも自然にそう言われて、仁はまた黙った。


 蜜葉乃はそんなことに気づかず、卵の位置を整えながら続ける。


「執事さんが元気でいてくださらないと、わたしも困りますし、この子たちも困ります。ですから働くだけでなく、ちゃんと休むこと。よろしいですか?」


「承知しました」


「よいお返事です」


「努力目標として」


「仁」


「はい」


「そういうところです」


 少しだけ咎めるように名前を呼ぶと、仁はほんのわずかに目を伏せた。

 反省しているのか、していないのか、まだよくわからない。


 蜜葉乃は満足したようにうなずく。


「まあ、少しずつでいいですね。だってわたしたち、まだ会ったばかりですもの」


「はい」


「これから覚えていきましょう。巣のことも、卵のことも、お互いのことも」


 やわらかな声だった。

 未来を疑わない声音。明日も、その先も、この巣が続いていくことを当然のように前提にしている声。


 仁は何も言わなかった。

 ただ静かに、卵を抱く蜜葉乃を見ていた。


 その姿は、巣の中心に咲く花のように華やかというより、やわらかな葉陰に守られた蜜壺のようだった。壊れそうに見えて、実際には簡単には壊れない。弱々しく見えて、守るべきものを前にするとひどく強い。そういう女王だと、仁は胸の奥で言葉にならないまま理解していた。


「ふふ」


「どうかなさいましたか」


「いえ」


 蜜葉乃は卵の上にそっと身をかがめながら、楽しそうに笑った。


「なんだか、急に賑やかになったなあと思って」


 その言葉に、仁はほんの少しだけ目を細めた。


 それが笑った顔だったのかどうか、蜜葉乃にはまだわからなかった


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 仁の日誌


 女王は目を覚ましたが、安静にする必要有り


 崩落箇所補修

 排水溝整備


 執事に任命された

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