2 始まりの部屋
蜜葉乃が最初のひと掻きをした土は、思っていたよりずっと重かった。
婚姻飛行の熱は、まだ身体の奥に残っている。
けれどもそれだけでは土は掘れない。
空の高みで受け取った熱も祝福も、地上へ降りた瞬間からは、すべて「生きるための力」に変えなければならなかった。
土をかく。
掘り起こした土を後ろへ押しやり、また掘る。
草陰のやわらかな地面だと思ったが、黒銀色の指先が湿った土へ食い込む。翅を落としたばかりの身体はまだ軽さに慣れず、重心も定まらない。何度か前のめりに転びそうになりながら蜜葉乃はひとりで小さく呻いた。
「っ……もう少し、なのに……」
誰に聞かせるでもない声が、掘りかけの穴へ吸い込まれていく。
返事はない。もちろんだ。ここにはもう、見送りの働き蟻も、育房係も、手際よく何もかも整えてくれる年長の世話役もいない。
いるのは蜜葉乃ひとり。
新しい巣を作る女王が、たったひとり。
土を掘る。
ひたすら掘る。
入口から斜め下へ向かう短い通路を作り、その先に身を伏せられるほどの小部屋をひとつ。雨水が流れ込みにくい角度、外から匂いが抜けすぎない深さ、けれど酸欠にならない程度の広さ。頭ではわかっていても、実際に自分でやると難しい。壁を削りすぎて天井が崩れ、慌てて支えに回ることもあったし、通路の向きを誤って、湿りすぎた土へぶつかりかけたこともあった。
それでも蜜葉乃は諦めなかった。
土の中は、静かだった。
地上の風の音も、鳥の影も、遠くを歩く獣の気配も、ここまで降りてくると、やわらかくぼやける。自分が土の下へ潜るたび、胸の中の不安も少しずつ均されていくようだった。
大丈夫。
ここを巣にするのだ。
ここで卵を産み、この巣の最初の子らを育てるのだ。
時折、あの名もない雄蟻の声が胸の奥で蘇る。
――どうか、良い巣を。
――いつか困ることがあれば、手を貸しましょう。
「困ったらって、どのくらいから困ったうちに入るんでしょう」
思わずぼやいて、蜜葉乃はひとりで苦笑した。
壁が少し崩れただけで泣き言を言うのは、さすがに早すぎる気がする。そんなことを思えるくらいには、少しだけ気持ちに余裕も出てきていた。
やがて、最初の一室はかたちになった。
丸く、狭く、けれども外敵から身を隠すには十分な空間。
通路の入口は細く絞り、女王が身体を返せる程度の部屋。立派な巣にはほど遠い。働き蟻が何百、何千と暮らす王宮のような旧巣に比べれば、あまりにも小さく、あまりにも心細い一室だ。
それでも蜜葉乃は、その土の部屋を見回して、そっと息をついた。
「……できた」
声にすると、ほんの少しだけ実感が湧いた。
ここが、自分の巣だ。
胸がきゅっと熱くなる。
婚姻飛行のあと、空から降りてきた時には、まだどこか夢の続きにいるような気がしていた。けれど今は違う。湿った土の匂いも、削った壁のざらつきも、脚先の痛みも、すべてが現実だった。
蜜葉乃は部屋の中央へ身を寄せ、身体を丸めるようにして座り込んだ。
ここから先は、もっと静かな仕事だ。
けれど、女王にとっては何より重い仕事。
卵を産む。
受け取った精を身体の奥に抱えたまま、蜜葉乃はそっと目を閉じた。
巣の中で教えられてきたことを思い返す。呼吸を整えること。力を入れすぎないこと。焦らないこと。最初はうまくいかなくても、身体が知っているから大丈夫だと、育房係の老いた雌が何度も言っていた。
大丈夫。
女王は卵を産める。
自分はそのために生まれ、そのために飛び、そのためにここへ来たのだ。
長く息を吐く。
腹の奥が、ゆっくりと熱を帯びる。痛みとも違う、圧迫されるような感覚が少しずつ降りてきて、蜜葉乃は小さく肩を震わせた。
「……っ」
初めての感覚だった。
怖い。けれども逃げるわけにはいかない。
両腕で床を掴み、土へ爪を立てる。
深く息を吸って、吐く。
そのたびに身体の奥で何かが押し出されるように動き、やがて、つるりとした小さな感触が腹の先から零れ落ちた。
ころり、と。
白い卵が、ひとつ。
土の床の上に、そっと置かれる。
蜜葉乃は、しばらく動けなかった。
「……あ」
声にならない息が漏れる。
見つめる先には、小さな卵がひとつある。まだ頼りなく、半透明で、光に透かせば壊れてしまいそうなくらいに柔らかい。けれどもそれは確かに、蜜葉乃が産んだ卵だった。
次代のはじまり。新しい巣の、最初の命。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
泣きそうだ、と思った。
「……ほんとうに、産めた……」
指先でそっと寄せる。
傷つけないよう、冷やさないよう、湿りすぎないよう、身体の近くへ。
卵はひどく軽くて、ひどく小さくて、こんなものを自分はこれから守り育てていくのだと思うと、愛しさと恐ろしさが同時にこみ上げた。
ひとつめのあと、しばらく休んで、ふたつめ。
みっつめ、よっつめ。
数は多くない。最初の創設期に産める卵は限られているし、今の蜜葉乃には世話をする手も、自分の身を支える働き蟻もいない。だからこそ、一粒ずつを大切に抱えるように、蜜葉乃は卵をまとめていった。
部屋の隅に、小さな白いかたまりができる。
卵塊と呼ぶにはまだ心もとない、小さな小さな命の束。
それを見下ろした蜜葉乃は、しばらく何も言えなかった。
「ようこそ」
やっと零れた声は、ひどく小さかった。
巣の女王としてではなく、ただひとりの母としての声だった。
「狭くてごめんなさいね。まだ、何もないの。でも……ちゃんと育てます。絶対に」
返事はない。
当たり前だ。卵はまだ眠っているだけの命だ。
けれども蜜葉乃は、少し笑った。
ここにいる。自分が守るべきものが、もうここにある。それだけで、空っぽだった巣が急にあたたかくなった気がした。
創設期の女王は、食べることすら容易ではない。
巣を離れれば外敵に見つかる危険が増える。
だから蜜葉乃は、できる限り部屋の奥でじっとしていた。
翅を落としたあとの筋肉や、身体に蓄えた養分を少しずつ使いながら、卵を抱き、舐め、位置を整え、湿り気と温度を保つ。卵は放っておけば乾くし、湿りすぎれば傷む。土壁の状態を見て、通路を少し広げたり、逆に削った土で隙間を塞いだりもした。
眠っているようで、ずっと気は張っていた。
耳を澄ませば、土の向こうを走る小さな足音がする。地上に降る雨の振動が、地中を遠く揺らしてくる。夜になると、外気の冷えが通路の先から忍び込み、蜜葉乃は卵の上へ覆いかぶさるようにして温めた。
時間の感覚は曖昧だった。
婚姻飛行の記憶は遠くぼんやりと薄れつつあった。
何日経ったのか、もうよくわからない。ただ、卵は少しずつふくらみ、表面の色合いがわずかに変わっていく。生きている。ちゃんと育っているのだとわかるたび、蜜葉乃は胸の奥でそっと安堵した。
もう少し。
あと少しで、孵る。
その日の朝も、蜜葉乃は卵を舐めながらそう思っていた。
外は雨らしかった。土の上を叩く水の振動が、かすかに通路まで伝わってくる。けれども巣の中は無事だ。入口の角度も深さも、間違っていなかったのだと少し誇らしく思いながら、蜜葉乃は卵の位置を整えた。
その時だった。
びくり、と土壁が震えた。
蜜葉乃ははっと顔を上げる。
次の瞬間、巣の入口の方から、ずるりと嫌な音がした。
「……え?」
土が崩れる音。
いや、崩れているのは土だけではない。水だ。雨水が、地表のどこかで流れを変え、この小さな創設巣の入口へ回り込んできたのだ。
蜜葉乃は飛び起きた。
通路の方へ駆けると、細く絞った入口の先から、濁った水がじわじわと染み込んできているのが見えた。量はまだ多くない。だが、この狭い巣では十分すぎる脅威だった。部屋まで水が入れば、卵はひとたまりもない。
「だめ!」
蜜葉乃は慌てて崩れた土を押し固めて水の筋を変えようとした。
だが相手は雨だ。ひと筋を止めても、別の隙間からまた染みてくる。土は泥となり押し戻しても押し戻しても、じわじわと部屋の方へにじり寄ってくる。
さらに運の悪いことに、それだけでは終わらなかった。
通路の先に、かさり、と別の音がしたのだ。
細く、乾いた足音。
水を避けて地中へ潜り込んできた、小さな肉食の虫――蜘蛛だった。まだ大きくはない。けれども、この巣にいるのは蜜葉乃ひとりだ。孵化前の卵を抱えた女王にとっては、十分に致命的な相手だった。
暗がりの向こうで、小さな複眼が鈍く光る。
「うっ」
蜜葉乃の全身が総毛立つ。
逃げ場はない。
卵を置いて逃げることはできない。
どうする。
どうすればいい。
心臓が早鐘を打つ。迷っている時間はなかった。蜘蛛は泥をものともせず、するりと通路へ侵入してくる。あの顎で卵をひと噛みされれば、それで終わりだ。
蜜葉乃はきっと奥歯を噛みしめた。
卵へ駆け寄る。
白い卵たちは何も知らず、静かに寄り添っている。
「ごめんなさいね」
誰に向けたのか、自分でもわからないまま呟いて、蜜葉乃は卵を抱え込んだ。
部屋のいちばん奥、少しだけ床が高くなっている場所へ移す。濡れた土が届きにくく、外からも見えにくい位置。そこへ卵を隠した。
そのまま、通路へ向き直る。
女王の身体は、本来戦うためにできていない。
兵隊蟻のような強靭さも、働き蟻のような身軽さもない。けれども今ここにいるのは自分だけだ。自分が止めなければこの巣は終わる。
蜘蛛が部屋へ顔を覗かせる。
蜜葉乃は、真正面から飛びかかった。
ぶつかる。
湿った土の上で脚が滑る。蜘蛛の脚が胸を引っかき、腹に鈍い痛みが走った。それでも蜜葉乃は離れず、脚で相手の頭を押さえつけるようにして、部屋の外へ押し返そうとする。
「来ないで……!」
声が裏返る。
情けないくらい震えているのに、身体だけは止まらなかった。
蜘蛛の顎が脚先に食い込む。痛い。
蜜葉乃は反射的に身をよじり、壁へ相手を叩きつける。狭い部屋が幸いした。相手が大きく動けないぶん、こちらも押し返しやすい。何度も、何度も、通路側へ押す。壁が崩れ、湿った泥が飛び散る。
だめ。
絶対に、ここへ入れない。
どこからそんな力が出るのか、自分でもわからなかった。
脚は痛み、手は重く、視界の端は暗い。それでも蜜葉乃は退かなかった。通路の入口で身を張り、何度も噛まれ、傷つきながらもひたすら卵のある奥へ行かせまいとする。
その最中、上から大きな振動がした。
雨で緩んだ土壁が、とうとう崩れたのだ。
蜘蛛が一瞬ひるむが、同時に濁った泥水が崩れた土とともに部屋へ流れ込んでくる。
「……っ、だめ……!」
蜜葉乃は反射的に卵の方へ振り返った。
迷うことなく蜘蛛を突き飛ばし、部屋の奥へ戻り卵の上へ覆いかぶさる。
冷たい水が背に当たる。
泥が脚の間に入り込む。
崩れた土が肩に、背に、翅の名残の根元に重くのしかかった。
苦しい。
息が詰まる。
それでも、身体をどけるわけにはいかなかった。
卵はここにある。
この小さな命たちは、まだ何ひとつ自分ではできない。守ってもらわなければ、生まれることすらできない。
だから、守る。
「……だい、じょうぶ……」
自分に言い聞かせるように、蜜葉乃はかすれた声を出した。
卵の脇へ両腕を差し込み、流されないよう抱え込む。背中に水が当たるたび、身体の熱が奪われていく。蜘蛛がまだ通路のどこかにいる気配もしたが、もう確認する余裕はなかった。
視界がぼやける。
寒いのか、痛いのか、もうよくわからない。
「……もう少し、だから……」
孵るまで。
あともう少し。
この子たちが、自分で動けるようになるまで。
胸の奥に、婚姻飛行の空がよぎる。
どうか、生きて。
どうか、良い巣を。
あの声が、遠くで聞こえた気がした。
蜜葉乃はぎゅっと卵を抱きしめる。
そのまま、崩れた土と冷たい泥水の中で、じっと耐えた。
どのくらいそうしていたのか、わからない。
やがて、水の勢いが少しだけ弱まった頃には、蜜葉乃の身体はもうほとんど動かなかった。脚先の感覚は薄れ、呼吸も浅い。卵を抱えたまま伏せる姿勢だけを、どうにか保っている。
でも、よかった。
卵は、まだここにある。
無事だ。たぶん、きっと。
それだけを確かめるように、蜜葉乃はかろうじて目を開けた。
暗い。
崩れた土で通路の形は変わり、部屋の入口も半ば塞がれている。泥に濁った空気の向こう、どこかでまだ土がぱらぱらと落ちる音がした。
そのとき。
ざくり。
何かを掘る音がした。
蜜葉乃は、ぼんやりした意識の中で耳をすませる。
雨の音でも、水の音でも、蜘蛛の脚音でもない。もっと規則的で、迷いのない音。湿った土を、正確な角度で削り取っていく音だ。
ざく、ざく、ざく。
入口を塞いでいた土が、外側から崩されていく。
泥の匂いに混じって、ひどく乾いた、澄んだ気配が近づいてくる。
やがて、部屋の前を塞いでいた土が大きく崩れ、ひとすじの空気が流れ込んだ。
薄暗がりの向こうに、一人の蟻人が立っていた。
蜜葉乃の視界は霞んでいた。
彼の瞳が、部屋の中を隅々で把握するかのように細められる。
まず崩落の位置。
次に水の流れ。
最後に、卵を抱えこんだ蜜葉乃。
その視線が、一瞬だけ止まった。
「生きておられますか?」
低く、静かな声だった。
妙に落ち着いていて、こんな崩れかけた巣の中にはまるで似つかわしくない。
蜜葉乃は口を開こうとしたが、喉がうまく動かなかった。
かすれた息だけが漏れる。
すると彼は、返事を待たずに部屋へ入り込んできた。
迷いがない。まず通路側の崩れかけた壁へ土を詰め、水の流れを変える。次に、まだもがいていた蜘蛛を一瞥し、ほとんど反射みたいな速さで蹴り飛ばした。ひと蹴りで虫は動かなくなる。続けて卵の位置を確認し、蜜葉乃を優しく抱き抱え、濡れていない土へ運び直す。
あまりにも手際がよくて、蜜葉乃は半ば呆然とした。
その間にも彼は一言も無駄口を叩かない。
通路の補強。排水の確保。卵の保護。女王の救出。優先順位が頭の中ですでに決まっているみたいに、必要なことだけを淡々と片づけていく。
やがて一通りの処置を終えると、彼はようやく蜜葉乃の前に膝をついた。
「卵は無事です」
その言葉に、蜜葉乃の肩から力が抜けた。
「……ほんとうに……?」
「はい。いくつか外殻に泥が付着していますが、洗浄可能な範囲です。破損はありません」
何を言っているのか半分もわからない。
けれど、卵が無事だということだけは理解できた。
よかった。
よかった、本当に。
安堵した途端、張り詰めていたものが一気にほどける。
視界はさらに暗くなり、身体の痛みが遅れて押し寄せてきた。
「あなた、は……」
誰。
そう訊きたかったのだと思う。
だが、最後まで声にはならなかった。
彼はほんのわずかだけ目を伏せ、蜜葉乃の頬を撫でた。
その動きは驚くほど丁寧だった。まるで壊れものに触るみたいに慎重で、それでいて少しも迷わない。
「お休みください、女王さま」
その呼び方に、蜜葉乃は薄れゆく意識の中で、なぜか胸がちくりとした。
空の上で、あの名もない雄にそう呼ばれたことを、ふと思い出したからかもしれない。
「巣のことは、私が引き継ぎます」
静かな声音だった。
とても安心する響きだった。
蜜葉乃は、かすかに目を開けた。
ぼやける視界の向こうで、彼の顔が近い。整いすぎた輪郭。静かな目。冷たいわけではないのに、どこか人ならざるものを思わせる、ひどく澄んだ気配。
どこかで見たような目だ、と。
そんなことを思った気がした。
「……お、なまえ……」
掠れた声に、彼は一瞬だけ黙った。
ほんのわずかに、困ったような気配が落ちる。
けれど次の瞬間には、彼はきちんと頭を垂れた。
「仁と申します」
短い名だった。
不思議なくらい、彼に似合う名だと蜜葉乃は思った。
「仁……」
「はい」
「……変な、かた……」
なぜそんな感想が出たのか、自分でもわからない。
けれども口にすると、仁はほんの少しだけ目を瞬かせた。
「お褒めの言葉と受け取りましょうか」
妙に真面目な返答に、蜜葉乃はかすかに笑いそうになった。
ああ、やっぱり変だ。とても変だ。こんな時に現れるなんて、まともなはずがない。
けれども、もう安心していいのだとわかった。
卵は無事だ。
巣はまだ壊れていない。
自分の代わりに動いてくれる誰かが、ここにいる。
その事実が、ひどくあたたかかった。
「……たまご、お願い……」
「承知しました」
「ぜったい……ぜんぶ……」
「お任せください」
その返事には、少しの揺らぎもなかった。
まるで世界の理そのものが約束するみたいに、静かで、確かだった。
蜜葉乃はようやく目を閉じた。
泥と痛みと疲労の向こう、最後に感じたのは、卵を抱いた時とはまた違う、ひどく静かな安堵だった。
こうして、蜜葉乃の新しい巣に、最初の働き手が現れた。
それは、雨の夜に崩れかけた小さな一室で。
女王が卵を抱いたまま倒れ、世界の片隅の小さな王国が、今にも潰えかけていた時のことだった。
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仁の日誌
蜘蛛の襲撃で危機一髪
女王負傷
大雨で通路崩落、冠水
卵は無事




