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葉音を紡ぐ ――世界樹の麓で  作者: 葉森かなで


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1/42

1 あの日、空の下

 蜜葉乃みつはのは、いまでも時々あの日の風を思い出す。


 土の匂いが薄れていく高さ。

 巣の熱が背から離れ、代わりに冷たい朝の空気が、背に生えた薄い翅のあいだをすり抜けていく感覚。

 地上へ出たばかりの光はまぶしくて、何もかもが白くきらめいて見えた。


 あれは、蜜葉乃がまだ若い女王だった頃。

 婚姻飛行の日を迎えた朝のことだった。


 夜明け前からハレの日のドレスを着せられ、ひどく落ち着かないままに準備が整った。


 巣の皆も必要以上にそわそわして、蜜葉乃とすれ違う度に触覚をあわせた。

 祝福と期待と、少しばかりの不安が、巣の空気そのものを膨らませているようだった。


「蜜葉乃さま、どうかご無事で」


「良き雄蟻と巡り会われますよう」


「新たな女王の巣に幸多からんことを!」


 ひとりひとりに見送られるたび、蜜葉乃は笑ってうなずいた。

 大丈夫です、なし遂げてみせます、と。


 そう言いながらも、緊張で膝がかすかに震えていた。


 婚姻飛行は、女王蟻にとって祝福であると同時に、たった一度きりの大仕事だ。

 次代を繋ぐために空へ舞い上がり、雄蟻と結ばれ、その精を受け取って、巣をつくる。

 失敗は許されない。怖いからといって逃げることもできない。


 けれども怖さばかりではなかった。


 蜜葉乃は昔から、巣の天井近くの通気孔から差し込む光を見上げていた。

 土の裂け目の向こうにある、広くて明るい世界。

 幼い頃から何度も何度も夢想していた。


 だから巣の最上層へ続く小道を進みながら、蜜葉乃の胸は恐れと同じくらいに高鳴っていた。


 やがて先導の働き蟻が、最後の土壁を崩す。

 ぱらりと乾いた土が落ち、その向こうに朝の光が開けた。


 眩しさに思わず手を翳すと、硬く黒銀色の指先が光を反射した。


 次の瞬間には、風を感じた。


 巣の中の湿った空気とはまるで違う、軽くどこまでも流れていく風。花の匂い、草の匂い、遠い水の匂い、温められた土の匂い。世界じゅうの気配が一度に押し寄せてきて、前髪のあいだからのぞく細い触角が、落ち着きなくふるえた。


「綺麗……」


 思わず、そんな言葉がこぼれた。


 蜜葉乃は一度だけ深く息を吸い、背の翅を震わせた。


 ふわりと身体が浮く。


 下で見送る働き蟻たちの姿が、みるみる小さくなっていく。

 風を切る音が耳を満たし、翅の振動が胸の奥まで響く。怖いはずなのに、同時に笑ってしまいたくなるほど自由だった。


 空へ駆け上がる。

 もっと高く。もっと遠くへ。


 あちらこちらで同じように飛び立った若き女王蟻と、それを追う雄蟻の影がきらめいていた。交わり、離れ、また交わっていく。ざわめきと熱気の渦の中で、蜜葉乃は懸命に風を掴んだ。女王特有の大きな腹部が、羽ばたくたび小さく揺れた。


 しばらく飛んだところで、不意に風向きが変わった。


 強い横風だった。

 草原の上を吹き抜けてきた突風に身体をさらわれ、蜜葉乃は思わず姿勢を崩す。


「きゃ……っ」


 視界がぶれる。

 高度が落ちる。

 視界の端で、地上の緑が急に近づいた。


 ――落ちる!


 そう思った時、斜め上を飛んでいた影が、ふっとこちらへ向きを変えた。


 まるで黒曜石のような雄蟻だった。


 すらりとした身体つきで背の翅は薄く、陽に透けると硝子のように光る。雄蟻にしては妙に落ち着いていて、周囲の騒がしさからひとりだけ切り離されているような印象があった。


 その雄蟻は、落ちかけた蜜葉乃の前へするりと回り込んだ。

 風の向きを読むように身をひねり、すれ違いざまに蜜葉乃の腕を取る。崩れた身体ごと空の流れへ戻され落下しかけていた視界が、もう一度ふわりと青空へ引き戻された。


「だ、大丈夫ですか」


 気づけば、蜜葉乃の方が先にそう言っていた。


 助けられたのはこちらなのに、と言ってから気づく。

 けれど相手は目を瞬いて一瞬固まったあと、少しだけ笑った。


「それはこちらの台詞です」


 若い雄蟻特有の浮ついた勢いがなく、妙に静かで耳に残る低い声をしている。


「失礼。驚かせたようですね」


「い、いえ……あの、ありがとうございました。今、わたし、落ちかけて」


「ええ。見えていました」


「……見えていたのですか」


「かなりはっきりと」


 蜜葉乃は、かっと頬が熱くなるのを感じた。

 婚姻飛行の初手で風に煽られて落ちかける女王など情けない。巣の誰にも見られていなくてよかった、と本気で思う。


 相手はまた少しだけ笑った。

 からかうような笑いではない。どちらかといえば、安心させるためにわざと口元をゆるめたような、そんな笑い方だった。


「ですが、立て直しは早かった。悪くない飛び方です」


「慰めてくださっていますか」


「事実を述べています」


「本当に?」


「ええ」


 ひどく真面目な顔でうなずかれて、蜜葉乃は拍子抜けした。

 変な雄だ、と思う。普通の雄蟻なら、もっと焦れたように距離を詰めてきたり、甘いことを囁いたりするだろうに、この雄はそういう気配が薄い。なのに、不思議と目が離せない。


「あなたは、落ち着いていらっしゃるのですね」


 つい口にすると、相手は少しだけ首を傾げた。


「そう見えますか」


「はい。なんだか……慣れていらっしゃるみたいです」


 婚姻飛行に、という意味で言ったわけではない。

 けれど、そう聞こえたのかもしれない。雄蟻は一瞬だけ黙って、ほんのわずかに目を細めた。


「慣れている、というのは少し違います」


「では?」


「見に来たのです」


「見に?」


「ええ。今日はあなたたちの婚姻飛行だと聞いて」


 蜜葉乃はきょとんとした。


「変な方」


「真実です」


「本当に?」


「本当です」


 真顔で返されて、蜜葉乃は思わず吹き出した。

 風の中で笑うと、少しだけ怖さがほどける。相手も、今度ははっきりと笑った。


 その時だった。


 下方の草むらから、突然、甲高い羽音が跳ね上がった。


 小さな狩り蜂だった。

 婚姻飛行の群れに紛れてきたのだろう、真っ直ぐこちらへ突っ込んでくる。狙われたのは、少し高度を落としていたその雄の方だった。


「危ない!」


 考えるより先に、蜜葉乃は身体をひねっていた。


 咄嗟に身を投げ出し、彼の前へ滑り込む。

 狩り蜂の軌道をずらすように肩で押し返した、その瞬間――鋭い脚先が、蜜葉乃の翅をかすめた。


「っ……」


 ぴり、と痛みが走る。

 けれどもその隙に雄は高度を上げ、狩り蜂から距離を取る。次の瞬間、吹き抜けた風が蜂の身体を横へと押し流し、獲物を見失ったそれは苛立ったように旋回したのち、別の方向へ飛び去っていった。


 しばらくして、空気が静かになる。


「……大丈夫ですか!」


 蜜葉乃が振り返ると、雄蟻は呆けたようにこちらを見ていた。


「え、ええ。私は」


「よかった……」


 安堵した途端、背に痛みがじんと広がった。

 たいした傷ではない。翅の端と、その付け根を覆う薄い殻が少し裂けただけだ。女王蟻の身体は腹部こそ重い  が、胸や腰は驚くほどしなやかにつくられている。飛べるなら問題はない


 雄蟻の視線が、その傷へ落ちる。


「あなたこそ、怪我を」


「かすっただけです。平気です」


「平気ではないでしょう」


「飛べますから」


「そういう問題では――」


 そこまで言いかけて、彼は言葉を切った。

 まるで、何かを堪えるように。


 次に向けられた視線は、先ほどまでとは少し違っていた。

 静かで、深くて、ひどくまっすぐだった。


「……どうして、庇ったのですか」


「どうしてって」


 蜜葉乃は瞬く。


「危なかったからです」


「自分が傷つくかもしれなかった」


「そうですね」


「それでも?」


「はい」


 そんなことを、わざわざ問われる理由がわからなかった。

 危なそうなら助ける。困っているなら手を貸す。それだけのことだ。たとえ婚姻飛行の最中で、目の前の相手が初対面の雄蟻だったとしても。


 蜜葉乃が不思議そうに見返すと、雄蟻はしばらく何も言わなかった。

 やがて、ひどく静かな声でぽつりと呟く。


「……あなたは、そういう方なのですね」


「はい?」


「いえ」


 彼は一度目を伏せ、それから、何かを決めたように蜜葉乃へ向き直った。


「名を、伺っても?」


「蜜葉乃です」


「蜜葉乃」


 呼ばれた自分の名が、風の中で妙に深く響いた気がした。

 雄はその音を確かめるように、もう一度ゆっくりと繰り返す。


「蜜葉乃」


「あなたは?」


 一拍の間があった。


 彼は困ったように微笑む。


「今は、名をあかせません」


「えっ」


「少なくとも、ここでは」


「そんなこと、あります?」


「あります」


「変な方です」


「先ほども言われました」


 また真顔で返されて、蜜葉乃はとうとう声を立てて笑った。

 こんな時に笑っている場合ではないのかもしれない。婚姻飛行の最中で、相手を選ばなければならないのに。けれど、不思議と心は軽かった。怖さはもうどこにもなくて、ただ、この変な雄のそばにいると、風がやさしくなる気がした。


 空は高く、陽は少しずつ昇っていく。

 婚姻飛行の群れは遠くでまだ渦を巻いていたが、この一角だけは妙に静かだった。


 蜜葉乃はふと、自分の鼓動がいつもよりも速くなっていることに気づく。

 恐怖ではない。風に煽られたせいでもない。目の前の雄蟻を見るたび、身体の奥にあたたかな熱が灯るような感覚がある。


 婚姻飛行の熱だ。

 女王として、雄を受け入れ次代を宿すための本能が、遅れて身体を追いかけてきたのかもしれない。


 相手もそれに気づいたのだろうか。

 ふっと目を細め、蜜葉乃との距離を今度は慎重に詰める。


「蜜葉乃」


 低い声で呼ばれる。

 それだけで、背の翅の根元がかすかに熱を帯びた。


「はい」


「まだ、飛べますか?」


「飛べます」


「なら、もう少し高く」


「高く?」


「ええ。風の届くところまで」


 そう言って差し出された手に、蜜葉乃は一瞬ためらった。

 けれども次の瞬間には、ほとんど無意識に自分の指を重ねていた。人のものに似た五本の指が触れ合う。掌に感じるのは柔らかな体温だけではなく、薄い外殻の硬さと、翅を支える種族特有の筋の強さだった。


 触れた場所から、妙な熱が走る。

 ただの体温ではないような、静かで大きなものが、ほんの一瞬だけこちらへ流れ込んできた気がした。


 雄蟻は何も言わない。

 ただ、蜜葉乃の速度に合わせて翅を震わせ、二匹でさらに高みへ上がっていく。


 地上が遠ざかる。

 草も、花も、巣の入口も、もう見分けがつかない。あるのは風と光と、隣を飛ぶ黒い影だけだった。二匹は手を繋ぎ、空をかけ巡った。


 やがて、婚姻飛行の熱は決定的なものへ変わっていく。

 蜜葉乃の身体が女王として雄を受け入れる準備を整え、相手の気配を求め始める。羞恥はあったがそれ以上に、目の前の相手になら身を預けてもいいと思えた。


 彼の指先が、そっと蜜葉乃に触れる。


 背の翅の根元をかすめ、肩から腕へ、震える手を包み、腰から腹のあたりへと慎重に辿っていく。どの触れ方も確かめるようにやさしく、少しも乱暴ではない。触れられるたび、強張っていた身体の力が少しずつほどけていった。


「蜜葉乃」


「はい」


「望むなら、まだ離れられます」


 その問いかけが、ひどく誠実に思えた。

 急かしも、奪うような熱もなく、ただ最後の確認として差し出される言葉。


 蜜葉乃は小さく首を振る。


「離れません」


 自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。


「あなたがいいです」


 雄は目を見開いた。

 彼の落ち着きがほんの少し崩れる。けれども次の瞬間には何かを噛みしめるように目を伏せ、蜜葉乃の額へそっと触れた。


「ありがとう」


 婚姻は、空のいちばん高いところで行われた。


 風に抱かれながら、蜜葉乃は彼に身を預けた。

 背へ回された腕に支えられ、触覚を絡め近い距離で息を交わす。次の瞬間、蜜葉乃は静かに彼と結ばれた。


 熱はかすかな痛みを伴っていたけれど、不思議と恐ろしくはなかった。

 むしろ、身の奥へ淡い光をひとしずくずつ注がれていくようで、胸の内まであたたかく満たされていく。彼から渡されるものが、ただ次代の種であるだけではなく、もっと深く古い何かであるような、そんな錯覚さえ覚えた。


 蜜葉乃は薄く目を閉じた。

 風が頬を撫で、光がまぶたの向こうで揺れる。身体の奥に注がれた熱は、ただの熱ではなかった。確かに命の重みを持ちながら、それでいてひどく静かで、澄んでいて、どこか祈りにも似ていた。


 ――このひとは、何かが違う。


 ぼんやりと、そんなことを思う。

 若い雄蟻のひとりとして片づけるには、あまりにも静かで、あまりにも深い。抱き寄せる腕の強さも、耳元へ落ちる息遣いも、ただ婚姻の熱に浮かされた雄蟻のものとは思えなかった。


 終わり際、意識が少し遠のきかけた時。

 耳元で、ひどく低い声が囁いた気がした。


 ――どうか生きて


 それが本当に聞こえた声だったのか、風の音に紛れた幻だったのか、蜜葉乃には今もわからない。


 気づけば、空は少しだけ色を変えていた。

 婚姻を終えた雄蟻の身体は、もう長くはもたない。蜜葉乃は息を乱しながら、目の前の相手を見た。


「あなた」


 何か言わなければと思った。

 ありがとう、とか。名前を教えてください、とか。きっと二度と会えないのだとしても、せめて何か。


 けれど言葉になる前に、彼は蜜葉乃の背の傷へ目を落とした。


「降りなさい」


「え……?」


「新しい巣を作るのでしょう?」


 蜜葉乃は瞬いた。

 そうだ。婚姻飛行を終えた女王は、元の巣へ戻るのではない。地へ降りて翅を落とし、自分の巣を持つ。これからはもう誰かに守られる娘蟻ではいられない。たったひとりで土を掘り、卵を産み、最初の子を育て、巣を作らなければならないのだ。


「はい」


「それなら、生きて地に降りることです」


 その声音は優しかった。

 優しいのに、どこか命令のようでもあった。蜜葉乃の背を押して、迷わせないための声だった。


「でも」


「傷は浅い。飛べるうちに、風の穏やかな場所へ」


「あなたは?」


 思わず問いかける。

 あなたはどうするのか、と。雄蟻の行く末など本当は知っている。婚姻を終えた雄は長く生きられない。それでも訊かずにはいられなかった。


 彼は少しだけ黙ってから、困ったように笑った。


「私はもともと、長居をするつもりはありません」


「もっと、ちゃんとした答えをください」


「難しいことを仰る」


「だって名前も教えてくださらないのに」


 蜜葉乃が口を尖らせると、彼はほんの少し目を細めた。

 その表情は、可笑しがっているようにも、困っているようにも見えた。


「では、ひとつだけ」


「はい」


「あなたがこの先、困ることがあれば」


 風が吹いた。

 彼の声が、その風に溶けるように静かに続く。


「いつか手を貸しましょう」


 蜜葉乃は目を丸くした。


「ほんとうに?」


「ええ」


「名もない方のお約束は、信用していいのでしょうか」


「そこは、ぜひ」


 あまりにも真顔で言うものだから、蜜葉乃はとうとう吹き出してしまった。

 最後まで、本当に変な雄蟻だった。


 けれど、笑いながらも胸の奥が少しだけ痛んだ。

 たぶん、これで終わりなのだとわかってしまったからだ。


 婚姻飛行の空で出会っただけの雄蟻。

 名も知らず、どこの巣の者かも知らず。けれども、たしかに蜜葉乃の腹に次代の種を残した相手。


 彼はもう一度だけ、蜜葉乃の翅に触れた。

 傷を確かめるように、あるいは別れを惜しむように。


「蜜葉乃」


「はい」


「どうか、良い巣を」


 その言葉に、蜜葉乃はなぜだか胸がいっぱいになった。

 祝福されたのだと思った。女王として、これから自分だけの巣を作る者として。そう思ったら、急に泣きたくなる。


 けれども泣くのは違う気がして、蜜葉乃は精一杯、顔を上げた。


「ちゃんと、いい巣にします」


「あなたなら、きっと」


 その返事が、ひどくまっすぐで。

 まっすぐすぎて、蜜葉乃は少しだけ笑ってしまった。


「では」


 彼が、距離を取る。


「行きなさい、女王」


 その呼び方に、蜜葉乃は息を呑んだ。

 蜜葉乃、と名前で呼んでいたくせに、最後の最後で女王と呼ぶのだ。


 胸の奥が少しだけ熱くなった。


「また、会えます?」


 つい、子どもみたいなことを口にしてしまう。

 彼は静かに蜜葉乃を見つめ、それから困ったように微笑んだ。


「会えるかもしれません」


「また、それですか」


「約束は苦手です」


「さっき約束みたいなことを仰いました」


「ばれましたか」


「ばれます」


 彼は少しだけ肩をすくめる。

 その仕草が妙に子どもじみていて、蜜葉乃はふふっと笑った。


「では、さようなら……名もない方」


「さようなら、蜜葉乃」


 その声を最後に、蜜葉乃は身を翻した。


 地上へ降りる。

 どこか風の穏やかな場所へ。雨に流されず、外敵に見つかりにくく、土が柔らかすぎない場所へ。そこで翅を落とし、小さな部屋を掘り、卵を産み、最初の子らを育てるのだ。


 怖くないわけではなかった。

 むしろ怖かった。空で結ばれた熱が少しずつ引いていくにつれて、これから自分が本当にひとりになるのだという実感が、遅れて胸へ降りてくる。


 それでも蜜葉乃は飛んだ。


 あの雄蟻がくれた精を身体の奥に抱えたまま。

 これから生まれる無数の子らと、まだ見ぬ新しい巣を思いながら。

 女王として、土へ向かって降りていく。


 やがて見つけたのは、陽の当たりすぎない草陰のやわらかな地面だった。

 蜜葉乃はそこへ降り立ち、しばらく空を見上げる。


 さっきまで隣にいた黒い影は、もうどこにも見えなかった。


 胸の奥が、ほんの少しだけ空っぽになる。


「……変な方」


 ぽつりと呟いて、蜜葉乃は自分の翅に触れた。

 飛ぶための翅。婚姻のための翅。そして、もう必要のなくなった翅。


 背へ手を伸ばし、翅の根元にそっと触れる。

 婚姻を終えた女王は、自ら翅を落とす。空を渡るためのものを手放し、土の下で生きる者へ変わるために。


 ひとつ。

 またひとつ。


 薄い翅が音もなく地に落ちていく。


 肩のあたりがふっと軽くなるたび、もう後戻りはできないのだと、胸の奥へ静けさが降りてきた。


 もう空へは戻らない。

 これからは土の下で生きる。

 女王として新しい巣を作り、その巣の中心になる。


 蜜葉乃は落ちた翅を一度だけ振り返り、それから前を向いた。


 土はまだ誰のものでもない。

 ならば、ここを自分の巣にしよう。


 蜜葉乃はしゃがみ込み、両手を土へ差し入れた。

 最初のひと掻きをする。湿った土が匂い立ち、指先に柔らかな抵抗が返る。


 ――大丈夫。きっとできる。


 そう思えたのは、胸の奥にまだ、あの声が残っていたからかもしれない。


 どうか良い巣を。

 いつか困ることがあれば手を貸しましょう。


 名もない雄蟻が残していったその言葉だけを、小さなお守りみたいに抱えながら。

 蜜葉乃は、一心不乱に新しい巣の最初の一室を掘りはじめた。



挿絵(By みてみん)

AIにて作成のイメージ画像

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