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葉音を紡ぐ ――世界樹の麓で  作者: 葉森かなで


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38/43

38 女王さまは坑道視察に行きたい

 翌朝。

 育房室の隣の小部屋では、葉月が広げた簡単な見取り図を前に、蜜葉乃がじっと考え込んでいた。


 巣の中心から伸びる通路。

 使われている道、使われていない枝道、少し掘り広げれば部屋にできそうな行き止まり。

 昨日の報告会で整理されたばかりの印が、葉の上に細かく書き込まれている。


「……やっぱり」

 しばらく地図を見つめたあと、蜜葉乃がそっと顔を上げた。

「一度、自分の目で見てみたいわ」


 その一言に、部屋の空気がぴたりと止まる。


「駄目です」


 止まった空気を真っ先に動かしたのは、もちろん仁だった。


 蜜葉乃はぱちりと瞬きをして、それからゆっくりと仁を見上げる。


「まだ、どこへ行くとも言っていないのだけれど」

「坑道に行くつもりでしょう」

「どうしてわかったのかしら」

「顔に書いてあります」

「そんなにわかりやすかった?」

「ええ」


 仁は一歩も引かない顔で、見取り図の上に視線を落とした。


「昨日、怪我人が出たばかりです。近場だろうと坑道は坑道です。女王さまが、わざわざ出向く必要はありません」

「でも、昨日決めたのは“巣の近くから少しずつ広げていく”という方針でしょう?」

「だからこそ、報告と地図で十分です」

「十分じゃないわ」


 蜜葉乃は、葉月が描いた印のひとつを指先でそっとなぞった。


「保存食を置くなら、風の通り方を知りたいの。卵や子蟻の部屋を広げるなら、湿り気や静かさも見ておきたい。葉月たちの説明を疑うわけじゃないのよ」

「でしたらなおさら」

 仁の声が少しだけ硬くなる。

「葉月の説明を聞いて決めれば――」

「でも、私も見たいの」


 蜜葉乃はそこで少しだけ言葉を切り、ふっと小さく笑った。


「……本当はね、今年は巣の拡張なんて考えないつもりだったの」

「蜜葉乃様」

「冬を越す準備だけで十分だと思っていたわ。保存食も増えて、卵も増えて、無理に新しい場所へ手を伸ばさなくてもいいって」


 それでも、と蜜葉乃は続ける。


「みんなが見つけてくる道や空洞の話を聞いていたら、少し欲が出てしまったのよ」

「……」

「探索の続きが、少し楽しみだったの。あの子たちが見つけた“その先”に、どんな場所があるのか。巣の近くには、どんな余白が残っているのか。私も見てみたくなってしまって」


 仁は答えない。

 ただ、表情だけがほんのわずかに揺れた。


 蜜葉乃はそのまま、今度はやわらかく首を振った。


「でも、結葉が怪我をしたでしょう?」

「……はい」

「だから、無理をするのはやめようと思ったの。遠くや危ない場所じゃなくて、まずは巣のすぐ近くを見たいのよ。今の巣に必要な広さを、ちゃんと自分でも確かめたい」


 それは、女王としての言葉だった。

 夢を見るだけではなく、怪我をした仲間を見て、現実に足をつけて決めようとする声。


 仁はしばらく黙ったまま蜜葉乃を見つめ、それからゆっくりと息を吐いた。


「……だからといって、簡単に許可できる話ではありません」

「そう言うと思ったわ」

「当然です」


 きっぱり返されたその時、控えめに手を上げたのは葉月だった。


「失礼します」

「葉月?」

「もし視察を行うのであれば、巣に近い安全な範囲だけに限定してご案内できます。危険箇所には近づかず、事前に足場も確認します」

「葉月」

「本当に近場だけです」

 葉月は仁の視線を受けても、落ち着いた声で続けた。

「昨日の報告会で候補に上がった、未使用の枝道と小空間だけ。上の細道や脇空洞の危険域には入りません」


 その言葉に、部屋の隅で控えていた風葉がぴんと触角を上げた。


「先に匂いも見ておくよ。変な匂いとか、崩れそうな湿り気とか、そういうのがあればそこで止める」

「護衛は私がつきます」

 護葉も一歩前へ出る。

「巣の近くなら問題ありません。女王さまの横を離れません」


 三人の張り切りように、仁の眉間の皺が一段深くなる。


「……坑道係がずいぶん乗り気ですね」

「視察ですから」

 葉月は真面目な顔で答えた。

「女王さまに現場を見ていただければ、今後の拡張方針も決めやすくなります」


 仁は黙った。

 蜜葉乃はその横顔を見つめる。


「仁」

「……」

「巣のために見ておきたいの」

「それはわかっています」

「それだけ?」


 ふいに落とされた問いに、仁の肩がぴくりと揺れた。


「……何がですか」

「巣のためだから止めているの?」

「もちろんです」

「それだけ?」

「……」


 答えが返ってこない。

 蜜葉乃は少しだけ目を細めた。


「私が怪我をするかもしれないのが、そんなに嫌?」

「当然です」


 今度の返事は早かった。

 けれど、返したあとで仁自身が、はっとしたように口をつぐむ。


 部屋の端でそのやり取りを聞いていた風葉が、そっと触角を揺らした。


「……仁、今日ずいぶん匂いが忙しいね」

「何の話ですか」

「べつに」


 風葉はそれ以上何も言わなかったが、どこか面白がるような声色だった。

 仁はじろりと風葉を見るが、追及はしない。いや、できなかったのかもしれない。


 しばらくの沈黙のあと、仁は深いため息をついた。


「条件があります」

「まあ」

 蜜葉乃の顔がぱっと明るくなる。

「つまり、行ってもいいのね?」

「条件つきです」

「聞くわ」


 仁は指を折りながら、いつも以上に細かく条件を並べ始めた。


「行くのは巣に近い範囲だけ。昨日地図に印をつけた場所までです」

「はい」

「先導は風葉。案内と説明は葉月。護葉は常に蜜葉乃様のすぐ横につくこと」

「承知しました」

 三人が揃って頷く。


「少しでも危険があると判断した場合は即座に引き返します。長居もしません。予定外の道へは絶対に入りません」

「ええ」

「女王さまは決してお一人で歩き出さないこと。壁の向こうを覗き込む、足場の悪いところへ近づく、勝手に触る、すべて禁止です」

「ずいぶん細かいのね」

「必要です」

「……わかったわ」


 蜜葉乃がくすりと笑って頷くと、仁は最後にもうひとつ付け加えた。


「結葉は留守番です」

「えっ、なんで今それを」

 部屋の外から、すかさず抗議の声が飛んできた。


 いつの間にか聞き耳を立てていたらしい結葉が、ぴょこりと顔を出している。

 その後ろには一葉、双葉、紬葉、千葉夜まで揃っていた。


「聞いてたの?」

 蜜葉乃が目を丸くすると、一葉が肩をすくめる。


「仁の“駄目です”が聞こえたあたりから」

「だいたい面白そうな話かなって」

 双葉がにやりと笑い、

「でも結葉は駄目ですね」

 紬葉がきっぱり言った。


「なんで紬葉まで!」

「昨日怪我したばっかりでしょ」

 千葉夜が呆れたように腰に手を当てる。

「今日はおとなしく留守番。どうしても暇なら、私と一緒に子蟻たちの相手でもしてなさい」

「それはそれで楽しいけど!」


 わいわいと騒ぐ声の中、仁は一度だけこめかみを押さえ、それから静かに告げた。


「では、準備が整い次第出発します」



 視察に同行するのは、蜜葉乃、仁、葉月、風葉、護葉の五人。

 巣の入口に近い通路まで来ると、風葉がひと足先に前へ出て、触角を細かく揺らした。


「うん。今日は変な匂いなし。湿り気も昨日より落ち着いてる」

「足場も昨夜のうちに確認済みです」

 葉月が言いながら、通路の先を示す。

「まずは保存食置き場の近くの枝道から見ていただきます。そこは少し掘り広げれば、小さな部屋にできそうです」


 蜜葉乃は巣の外縁へ出るたびに、いつもより少しだけ足を止めて周囲を見た。

 ほんの少しの土の匂いの違い。壁の湿り気。巣の中心から離れたことで変わる空気の流れ。

 どれも報告で聞いていたはずなのに、自分で立ってみるとやはり印象が違う。


「仁、足元に気をつけてください」

「それは私の台詞です」


 横からすぐに返ってきて、蜜葉乃は思わず笑った。


「私は気をつけているわ」

「足場の端に寄りすぎです」

「まだ端じゃないでしょう?」

「私の基準では十分端です」

「厳しいのね」

「当然です」


 そんなやり取りをしながら進んでいくと、最初の枝道に着いた。

 今はあまり使われていない細い通路だが、葉月が指し示した先には、確かに少し壁が薄くなっている場所がある。


「ここです」

 葉月が説明を始める。

「この先の土は比較的乾いていて、崩れにくいです。少し削れば通路を広げられますし、奥の行き止まりを整えれば保存食置き場の補助室として使える可能性があります」

「空気はどう?」

 蜜葉乃が尋ねると、風葉が壁際に顔を寄せた。


「こっちは静か。風もあんまり抜けない。匂いも安定してる」

「なら、保存庫向きかもしれないわね」

 蜜葉乃は小さく頷いた。

「出し入れしやすい場所だし、今の保管場所からも近いもの」


 次に見たのは、育房室側へ繋げられそうな小さな行き止まりだった。

 こちらは少し湿り気があり、空気もやわらかい。


「ここは保存食より、子蟻たちの一時待機場所や、育房室の補助に向いているかもしれません」

 葉月の説明に、蜜葉乃はそっと壁へ手を伸ばしかけ――


「女王さま」

 すかさず仁に呼び止められる。


「……まだ触っていないわ」

「今、触るつもりでした」

「少し確かめたかっただけよ」

「私が先に確認します」

「そこまで?」

「そこまでです」


 仁は本当に先に壁へ触れ、湿り気や崩れ具合を確かめてから、小さく頷いた。


「表面だけです。深く削らなければ問題ありません」

「ありがとう」

 蜜葉乃が素直に礼を言うと、仁は一瞬だけ言葉を詰まらせた。

「……いえ」


 その様子を見ていた護葉が、ほんのわずかに口元を緩める。

 風葉もまた、何か言いたげに触角を揺らしたが、今度は黙っていた。


 さらに進んで、脇空洞へ向かう手前の補強予定地点まで来る。

 そこから先は、昨日の探索班が使った道に繋がる場所だ。


「本日の視察はここまでです」

 葉月がきっぱりと線を引くように言った。

「この先は脇空洞へ続きます。現時点ではまだ補強が足りず、蜜葉乃様をお連れするには危険です」

「そうね」

 蜜葉乃は素直に頷いた。

「今日は、ここまで見られれば十分だわ」


 足を止め、少しだけ先の暗がりを見つめる。

 本当なら、その先にどんな空間があるのかもっと知りたい。探索班が見た景色を、自分でも見てみたい。

 そんな気持ちは、たしかにまだ胸の中にある。


 けれども今は、その先に手を伸ばす時ではない。


 振り返れば、今見てきた近場の通路にも、まだ使える余白がたくさんあった。

 保存食のための場所。子蟻たちのための場所。巣を少しずつ広げていくための余地。


「……うん」

 蜜葉乃は小さく息を吐いて、笑った。

「これでよくわかったわ。まずは近くから、ね」

「はい」

 葉月が頷く。

「その方が安全です」

「そうね。上の空洞は、もっと準備が整ってから」

「その判断が妥当かと」

 仁が言う。声はいつも通り淡々としているのに、どこかほっとした気配が混じっていた。


 その“ほっとした匂い”に、風葉がまた少しだけ触角を揺らした。




 巣へ戻ると、留守番組がすぐに集まってきた。


「おかえりー!」

 双葉が駆け寄り、

「どうだった?」

 一葉も興味津々で覗き込む。


 結葉は寝台に座ったまま身を乗り出していた。

「近く、広げられそうだった?」

「ええ」

 蜜葉乃が頷く。

「保存食置き場の近くと、育房室側の行き止まり。どちらも使えそうだったわ」

「よかった」

 千葉夜が胸をなで下ろす。

「無理して遠くへ行くより、その方が安心だもの」


 葉月が簡単に視察内容を説明していくと、双葉と紬葉はさっそく顔を見合わせた。


「じゃあ整備用の道具、やっぱり作りたいね」

「掘った土を運ぶのも、狭い場所を支えるのも、もう少しやりやすくしたいです」

「高いところ用の改良も忘れずに」

 一葉がにやりと笑うと、

「もちろん!」

 双葉が胸を張った。


 そんなやり取りの横で、結葉はじっと仁の顔を見上げていた。


「……仁」

「何ですか」

「なんか、視察行ってきたっていうより、仁だけ別の意味で一周してきたみたいな顔してる」

「どういう意味ですか」

「すっごい疲れてる」

「気のせいです」

「気のせいかなあ」

「気のせいです」


 即答する仁に、一葉が吹き出した。


「でもたしかに、仁が一番落ち着いてなかった気はする」

「葉月より先に危ない危ない言ってたよね」

 双葉まで面白そうに口を挟む。

「護葉より護衛してたし」

「当然です。護衛対象が護衛対象ですから」

「意味わかんないこと言ってる」

 結葉が笑う。


 仁は軽く眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。

 ただ、蜜葉乃がくすりと笑っていることに気づくと、少しだけ視線を逸らす。


 その後、みんなが次の整備の話で賑やかになり始めた頃。

 蜜葉乃はそっと仁を呼び止めた。


「仁」

「はい」

「今日はありがとう」

「……いえ。私は止めたかったのですが」

「ふふ、知ってるわ」


 蜜葉乃は少しだけ悪戯っぽく目を細める。


「あなたがあんな顔をして止めるから、余計に行きたくなってしまったのだけれど」

「そんな顔はしていません」

「していたわ」

「していません」

「していました」


 きっぱりと言い切られて、仁は言葉に詰まる。


 蜜葉乃はそこで少し声をやわらげた。


「でも、一緒に来てくれて安心したわ」

「……」

「近くでも、やっぱり自分で見ると違うものね。あなたがいたから、ちゃんと落ち着いて見られた」


 仁は返事をしない。

 いや、できなかったのかもしれない。

 ほんのわずかに目を見開いたまま、蜜葉乃を見つめて固まっている。


 その様子に、蜜葉乃は満足そうに微笑んだ。


「次は、視察じゃなくて整備の報告を楽しみにしているわ」

「……承知、しました」


 どうにかそれだけを絞り出した仁の横で、少し離れた場所にいた風葉が、また小さく触角を揺らした。


「……うわ、今の、すごい」

「風葉?」

 一葉が首を傾げると、風葉はにやっと笑って首を振る。


「なんでもない。今はまだね」


 結葉もそのやり取りを見て、何か言いたそうに口を開きかけたが、結局はころころ蜜飴をひとつ口に放り込んで飲み込んだ。


 たぶん、まだ黙っていてあげるべきなのだろう。

 少なくとも、今日は。


 こうして女王の初めての坑道視察は、怪我人もなく、予定通り“巣の近くまで”で無事に終わった。

 見つかったのは新しい大空洞ではなく、巣のすぐそばに残っていた、暮らしのための余白だ。


 でもそれで十分だった。

 今年の冬を越えるために、そしてその先へ進むために。

 まずは足もとを広げる。そのための景色を、蜜葉乃はちゃんと自分の目で見ることができたのだから。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


仁の日誌 


 本日、蜜葉乃様のご希望により、巣近辺の坑道視察を実施した。同行者は葉月、風葉、護葉、私の計四名。視察範囲は事前に定めた近距離のみとし、危険域への進入はなし。


 なお、女王さまは「近場だけ」と明言されたにもかかわらず、壁の湿り具合を直接確認しようとする、予定外の位置へ視線を向ける等、油断ならない場面が複数あった。今後視察を実施する際は、事前に禁止事項をより具体的に列挙する必要がある。


 結論として、本日の視察は巣の今後を考える上で有意義だった。

 ただし、次回がある前提で話が進んでいた点については、改めて慎重な協議が必要である。

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