37 まずは足もとを固めましょう
翌朝。
まだ朝の匂いが薄く巣の中に残る頃、結葉はそろそろと上体を起こした。
昨日巻かれた巻き葉帯の上から、脚にまだじんわりとした違和感が残っている。痛みがないわけではないが、寝台に寝かされたまま一日を過ごすほどではない――と、結葉本人は思っていた。
だから慎重に体を起こし、そっと床へ降りようとした、その時だった。
「結葉」
すぐ横から、低く静かな声が飛んできた。
びくっと肩を跳ねさせて振り向けば、仁が腕を組んで立っている。
完璧に見つかった。
「……おはよう、仁」
「おはようございます。ではありません。何をしているんですか」
「いや、えっと……起きようかなって」
「起きるだけなら寝台の上でできます」
「そうなんだけど」
結葉は視線を逸らした。
仁の目が、今日はいつも以上に据わっている。
「三日間絶対安静です」
「昨日も聞いたよ、それ」
「今日は二回目を言います。三日間絶対安静です」
「増えてない?」
「増えていません」
ぴしゃりと返され、結葉は口を尖らせた。
「でも、今日はみんなで話し合いするんでしょ。昨日の探索のこととか、近くの道のこととか」
「します」
「だったら私も行きたい」
「駄目です」
「即答だ……」
あまりにも迷いがない。
仁は結葉の脚に巻かれた帯の具合を確かめるように目を落とし、淡々と続けた。
「話し合いなら、私が聞いてきます」
「でも、実際に滑ったの私だよ? 私が話した方が早いでしょ」
「口頭で私に伝えてください。私が伝えます」
「それだと絶対、余計な心配まで盛られる」
「盛りません」
「盛るよ」
結葉がむっとして言い返した、その時。
ちょうど部屋の前を通りかかった一葉が、ひょいと顔を覗かせた。
「朝から賑やかだね」
「結葉が起き出そうとしています」
「だって報告会に出たいんだもん」
「ああ、それはわかるかも」
一葉は軽く頷き、部屋の中に入ってきた。
「昨日の足場の話は、結葉本人がした方がいいんじゃない? どの石が動いたとか、どこで踏ん張れなかったとか、感覚の話になるし」
「歩き回らなければ、座って聞いてるくらいはできるんじゃない?」
後ろから続いたのは風葉の声だ。どうやら一葉の後ろにいたらしい。
「もちろん、仁が許せばだけど」
仁は二人を見て、それから結葉を見た。
結葉はすかさず背筋を伸ばす。
「歩き回らない」
「……」
「立たない」
「……」
「必要なら脚もちゃんと上げる」
「……」
「おやつを勝手に取りに行ったりもしない」
一葉がそこまで言ったところで、仁の眉がぴくりと動いた。
「今、“おやつ”と言いましたか」
「え」
「何か出る予定なんですか」
「ちいねえちゃんが、ころころ蜜飴の残りを出すかもって昨日言ってた」
「……」
仁が目を閉じた。
結葉は、これは駄目な流れかもしれない、と少しだけ身構える。
けれど次に仁が開いた目は、諦め半分、折れる気配半分といった色をしていた。
「条件があります」
「やった」
「まだ許可していません」
ぴしゃりと釘を刺され、結葉は口をつぐむ。
「自分で歩いて行かないこと」
「うん」
「座る場所には最初から葉を重ねておきます。脚はその上に乗せたまま」
「うん」
「痛みが強くなったら即終了」
「うん」
「報告会が終わったらそのまま戻って休むこと」
「うん」
「おかわりが欲しくても勝手に立たないこと」
「そこ強調するね……」
「大事です」
「わかった」
結葉がこくこく頷くと、仁は大きくため息をついた。
「……では、参加だけです。本当に、参加だけですからね」
「やった!」
「立たないでください」
「まだ立ってないよ!」
「今、勢いで立ちかけました」
「見てたの?」
「見ています」
一葉が吹き出し、風葉も肩を震わせる。
結葉は頬を膨らませたが、報告会に出られるならそれでいい。今日は素直に従うことにした。
報告会の場所は、育房室の隣にある少し広めの部屋になった。
中央には葉月が用意した簡単な見取り図が広げられ、その周りに葉を重ねた座席が並べられている。
結葉の席だけは特別仕様だった。
座る場所の前にふかふかの葉が高く積まれ、脚を乗せる台になっている。
「……なんか、私だけずいぶん大げさじゃない?」
「大げさではありません」
即座に返したのは、もちろん仁だ。
「固定中の脚を下げっぱなしにしないためです」
さらりと言われてしまい、結葉は諦めて葉の台に脚を乗せた。
ほどなくして、蜜葉乃、一葉、風葉、護葉、葉月、双葉、紬葉も集まってくる。
最後に千葉夜が、小さな葉皿をいくつも抱えて現れた。
「はいはい、今日はがんばったみんなへのご褒美も兼ねて、ころころ蜜飴の残りを持ってきたわよ」
「やった」
「結葉、先に一個どうぞ。今日はおとなしく座ってるご褒美」
「座ってるだけで貰えるの、ちょっと得した気分」
ころころと丸められた蜜飴が葉皿に並ぶ。
探索用に作ったものの試食分や残りをまとめたらしく、大きさも少しずつ違っていて、それがまた可愛らしい。
蜜葉乃がひとつつまんで微笑んだ。
「こうしてみんなで食べると、また別のおいしさね」
「探索用って聞くと、なんだか特別感ありますよね」
紬葉も嬉しそうに頷く。
「子蟻たちが丸めたのも混ざってるんですよ。ちょっといびつなのはその子たち作です」
「じゃあ、このちょっと四角いのは誰かが頑張った跡だね」
一葉が笑うと、部屋の空気がふわりと和んだ。
「では」
葉月が、見取り図の前で姿勢を正す。
「おやつを食べながらで構いませんので、昨日までの探索でわかったことを整理しましょう。まずは、巣に近い範囲の位置関係からです」
みんなの視線が、床に広げられた地図へ集まる。
葉月が細い枝で、今の巣の位置を指した。
「ここが現在の巣です。こちらが普段使っている通路。ここから脇へ伸びる細道が、タマムシを助けた脇の空洞に繋がっています」
「その通路の先に、風の抜ける感じがあるんだよね」
結葉がころころ蜜玉を頬張りながら言うと、風葉が頷いた。
「うん。湿った匂いの中に、少し乾いた空気が混じってた。上へ抜ける道があるのはたぶん間違いない」
「タマムシも言ってたよ。上の方に乾いた道があるって」
一葉が続ける。
「ただ、湿った壁際は崩れやすいから気をつけろって。昨日の感じだと、そこも合ってたね」
葉月は地図の脇に、小さく印をつけた。
「そして、昨日見つけたのがこの位置です。脇空洞の先、壁を登った上に乾いた細道の入口がある」
「入口までは良かったんだけどねえ」
護葉が苦笑する。
「登った先の足場が思ったより狭かった。結葉が怪我したのも、あそこで石がずれたせいだ」
「……うん。足を置いた瞬間に、端の石片がするっと動いたんだ。踏ん張ろうとしたけど、細道の縁だったから」
結葉は自分の脚を見下ろして、少しだけ眉を下げた。
「高いところって、ほんのちょっと崩れただけでも怖いね」
その声色に責めるようなものはなく、ただ素直な感想が乗っているだけだったので、場の空気は重くならなかった。
「でも、わかったこともあります」
葉月が落ち着いた声で言う。
「上へ抜ける道は確かにあること。そこへ上がる手段も、壁に巻き葉帯を固定すれば作れること。ただし、今の装備では上がった先の移動や、怪我人が出た時の対応が足りません」
「そこなんだよねえ」
双葉がころころ蜜玉をもぐもぐしながら唸る。
「登るだけなら何とかなる。でも、登った先を安全に進む仕組みがまだ足りない」
「降りる時もね」
紬葉もこくこく頷いた。
「結葉を支えながら戻るの、大変そうだったもの」
「大変だった」
護葉が真顔で言う。
「軽いとは言わない」
「そこ、ちょっと傷つく」
「でも守る」
「うん、それは知ってる」
結葉が笑うと、護葉も少しだけ口元を緩めた。
話がひと段落したところで、蜜葉乃がそっと地図へ目を落とした。
「上の細道の先は、とても気になるわね」
「はい」
葉月が頷く。
「ただ、今すぐそこを目指すには危険が残ります」
「……そうね」
蜜葉乃は少し考えてから、みんなを見回した。
「実はね、今日はその話もしたかったの。探索のことだけじゃなくて、巣の中のことも」
女王の穏やかな声に、みんなが耳を傾ける。
「冬が近いでしょう? 保存食がだいぶ増えてきたの。嬉しいことなんだけど、置き場所が少しずつ窮屈になってきていて」
「たしかに最近、保管の棚ぎゅうぎゅうだもんね」
紬葉が言うと、千葉夜も苦笑した。
「ころころ蜜飴を置く場所を作るのにも、ちょっと工夫が要ったくらいよ」
「卵も順調に増えてるわ」
蜜葉乃は、どこか誇らしげに微笑む。
「育房室も賑やかになってきたし、これから先のことを考えると、少しずつ巣を広げていきたいの」
結葉はその言葉を聞いて、地図の上の“巣”の印を見つめた。
保存食が増えることも、卵が増えることも、どちらも嬉しいことだ。だからこそ、手狭になっていくのだろう。
「じゃあ、やっぱり上の空洞を――」
一葉が言いかけると、葉月が静かに首を横に振った。
「いえ。あそこはまだ遠いです」
枝の先で、葉月はまず巣のすぐ近くを示した。
「今すぐ欲張る必要はない。まずは巣に近い範囲で、使っていない枝道や小さな空間を整える方が現実的」
「この辺りだね」
風葉が、巣の脇に描かれた細い通路を指す。
「前からあんまり使ってない道」
「ええ。ここは少し掘り広げれば通りやすくなりそうですし、こっちの行き止まりも整えれば小部屋にできるかもしれません」
葉月は地図にいくつか印を足した。
「脇空洞までの道も、補強しながら少しずつ安全にしていけば、いずれは使える範囲に入れられるでしょう」
蜜葉乃が、その印を見てゆっくり頷く。
「それなら、無理がないわね」
「はい。上の細道の先は、将来の探索候補として記録しておきます。けれども今すぐ巣に取り込める場所ではありません」
「まずは足もとを固める、ってことか」
護葉の言葉に、葉月は小さく笑った。
「そうですね。まずは足もとを固めましょう」
女王の言葉に、結葉もつられて笑う。
怪我した本人が言うには少し間の抜けた表現だけれど、今の自分たちにはちょうどいい気がした。
「近くを広げるなら、整備用の道具も欲しいね」
双葉の目が、きらりと光る。
「掘った土をまとめるやつとか、狭い場所を支えるやつとか」
「高いところ用の道具も、もっと改良したいです」
紬葉も前のめりになる。
「巻き葉帯を固定しやすくしたり、足場を作りやすくしたり……」
「探索はお休みでも、頭の中は忙しいね」
「それくらいがちょうどいいわ」
千葉夜が葉皿を差し出しながら言う。
「はい、忙しい子にはおかわり」
「やった」
結葉は反射的に葉皿へ手を伸ばし、それから、もう一個取ろうとして――ふと、少し離れた場所にある皿にも目がいった。
「あっちの大きいのも気になる」
ぽろりと漏らして、つい腰を浮かせる。
「結葉」
すかさず、仁の声が飛んだ。
ぴたり。
見事なまでに、結葉の動きが止まる。
「まだ何もしてないよ」
「今、立ち上がろうとしました」
「ちょっとだけ」
「駄目です」
「二歩も歩かない」
「半歩でも駄目です」
「厳しい」
「当然です」
きっぱり言われて、部屋のあちこちから笑いが漏れる。
「見張りが本気だねえ」
風葉がくすくす笑い、
「今日は大人しくしてて」
一葉が葉皿を持ってきて、結葉の手元へ大きめのころころ蜜玉をひとつ置いた。
「ほら。動かないで済むように、特別に運んであげる」
「……それなら、まあ」
「現金だなあ」
「だって蜜飴だし」
結葉が素直に受け取ると、また笑いが広がった。
その輪の中で、蜜葉乃は穏やかにみんなを見渡していた。
危ない目に遭った翌日でも、こうして集まって、甘いものを分け合いながら次のことを考えられる。
大きな空洞を手に入れるにはまだ早い。けれども巣のすぐそばには、まだ整えられる場所がある。できることは、ちゃんとある。
まずは足もとから。
そうして少しずつ、巣を広げていけばいいのだ。
結葉はころころ蜜飴を口に放り込みながら、地図の上の小さな印を見つめた。
次に歩くのは、きっとまだ少し先。けれども楽しみが減った気はしなかった。
むしろ、次に進むための道が、今日ここでまたひとつ増えた気がした。
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仁の日誌
本日は結葉を休養させたまま、探索結果の擦り合わせを実施した。
脇空洞までの道筋、上方細道の位置、危険箇所についての共有は概ね完了。上方細道の扱いは保留とし、当面は巣の近辺にある未使用通路・小空間の整備を優先する方針となった。
冬季を前に保存食の保管量が増加しており、育房室も手狭になりつつある。拡張の必要性は高い。探索の成果を、そのまま巣の運営へ繋げられる形になったのは、良い判断だったと思う。
なお、結葉は安静指示の理解が甘い。
報告会中だけでも、三度は立ち上がろうとしたため、今後は座席配置と監視体制の見直しが必要である。




