表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
葉音を紡ぐ ――世界樹の麓で  作者: 葉森かなで


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/45

31 その先へ進むための地図

 巣の中央に近い広間には、その日全員が集まっていた。


 床にはすでに湿った土がならされ、その上には葉月が掘った仮坑道の地図と、探索班がまとめた数カ所のイラスト、紬葉がまとめておいた細い蔓の束、双葉が持ち込んだ補強材の見本、小さな石片や葉片が並べられている。壁の向こうへ進むための情報を、いったんここで全部ひろげて見直す――そんな会議だった。


 仁は広間の端に置いた小さな布包みをそっと開く。


 中に収まっていたのは、淡い色の香石だった。

 手のひらに乗るほどの小さな石だが、今はそこに、ほんのりと甘くやわらかな匂いが宿っている。


 その香りに触れた瞬間、仁の頭に、今朝の光景がふっとよみがえった。


 


 早朝。

 巣の中がまだ静かで、育房室の方からも子蟻たちの寝息しか聞こえてこない頃。


 仁は女王室の入口近くで、例の香石を両手にのせたまま、たいへん落ち着かない気持ちで立っていた。


 理由は明確だった。


 この香石は、仁が身につけるためのものだ。

 本来、巣の仲間たちは互いの匂いを手がかりに連携を取る。だが仁は雄蟻であり、娘たちのように仲間向けの情報フェロモンを自在に残せるわけではない。そこで必要になるのが、この“巣印の香石”だった。


 蜜葉乃の匂い――ひいてはこの巣の匂いを石に移し、それを仁が携えることで、外でも地下でも「この者はこの巣の仲間だ」と示しやすくする。

 仕組みとしてはそれだけだ。


 それだけ、なのだが。


「仁?」


 やわらかな声に呼ばれ、仁ははっと顔を上げた。


 女王室の奥から出てきた蜜葉乃が、不思議そうに首を傾げている。体調が戻ってからの蜜葉乃は、朝の顔色がずいぶん明るくなった。夜灯り苔の淡い光を背にして立つ姿は、以前よりも少しだけ、春の花に近い。


「呼びましたか?」


「……はい。お忙しいところ申し訳ございません、女王さま」


「いいえ。香石のことでしたよね?」


「はい」


 仁は姿勢を正し、香石を差し出した。


「こちらに、巣の匂いを移していただければと。私が携行いたします」


 蜜葉乃は「まあ」と小さく笑って、仁の手元を覗き込んだ。


「では、どうすればよいのでしょう」


「石を……ええと、少し、お近くに」


「こうですか?」


 すっと蜜葉乃が距離を詰める。

 女王の匂いが、やわらかく濃くなった。


 仁は一瞬、言葉を失った。


 近い。


 必要な距離である。

 仕組み上、当然である。

 まったく不自然なことではない。

 だがそれはそれとして、近い。


「仁?」


「……いえ。問題ありません」


「本当に?」


「はい。非常に、適切な距離です」


「そうですか?」


 蜜葉乃はまだ少し不思議そうだったが、素直に頷き、香石へそっと触角を寄せた。胸元に抱くようにして、石へ匂いを移していく。香石は淡く香りを変え、土と葉の匂いの奥に、蜜葉乃らしいやさしい甘さを帯びていった。


 仁はその様子を、必要以上に真剣な顔で見守るしかない。


 しばらくして、蜜葉乃が顔を上げた。


「……これで、足りますか?」


「はい。十分です」


「よかった」


 蜜葉乃は、ほっとしたように微笑む。


 仁は香石を受け取り、慎重に布へ包み直した。

 石には今ここで移されたばかりの、蜜葉乃その人の匂いがはっきりと宿っていた。


「これからはいつでも仁の声が届きますね」


 蜜葉乃の何気ない一言に、仁は一瞬だけ目を伏せる。


「……はい」


 小さく返した声は、自分でも驚くほど静かだった。


「これで、皆と一緒です」


 


「仁?」


 呼ばれて、仁は現在へ戻った。


 広間の中央で、一葉がきょとんとこちらを見ている。会議の参加者はすでに揃っていたらしい。蜜葉乃を中心に、一葉、双葉、千葉夜、葉月、護葉、風葉、結葉、紬葉が輪になるように座っている。


「どうしました? お石を見つめたまま固まっておられましたよお」


「……いえ、少し確認をしていただけです」


 仁は布包みを静かに閉じ、咳払いをひとつして立ち上がった。


「では、始めましょう。本日は、壁の向こうの探索に向けて、ここまで集めた情報を整理いたします」


 床に広げられた土の地図のそばへ歩み寄る。

 蜜葉乃も頷き、みんなの顔を見回した。


「どうぞよろしくお願いします」


 その柔らかな声を合図に会議が始まった。


 最初に口を開いたのは一葉だった。


「地上側からの話を、先にしますね」


 いつものように朗らかな声だが、内容はきちんと整理されている。


「前に探索した時、木の根元の近くに少し地面が沈む場所がありました。踏むと下が空いてるみたいに、鈍い感じが返ってきたんです。あとその辺りでは、雨の後に冷たい風が抜けることがあるって、小さな虫さんたちも言っていました」


 仁は頷き、地図の西側に小さな印をつける。


「木の根元の窪地、ですね」


「はい。隠れ場所にもなりそうですし、甘い汁の出る草もありました。でも、いちばん気になったのは、やっぱり地面の下の感じでした」


 一葉の報告を受けて、結葉が身を乗り出した。


「匂いが似てたんです」


「似ていた?」


 仁が問うと、結葉はこくこくと頷く。


「風が出てた裂け目のところと、木の根元の沈むところ。土の匂いだけじゃなくて、もっと……奥の方の匂いがしたんです。閉じてた場所が、少しだけ開いてるみたいな」


 言いながら、結葉は自分でもうまく説明できているか不安になったのか、少し眉を寄せた。


「たぶん、別々の穴じゃないです。どこかで、つながってる気がする」


「……私も、そう思う」


 短くそう言ったのは風葉だった。

 床の地図へ視線を落としながら、続ける。


「風の流れ方が似てた。地上に抜ける場所が複数あるなら、下はひとつの空間かもしれない」


 そこまで聞いて、葉月が静かに前へ出た。


「じゃあ、そこから先は私が話す」


 広間の空気が、少しだけ引き締まる。

 葉月は細い枝を一本手に取り、床の地図へ新しい線を引いた。


「今の巣はここ。西側に一葉たちが見つけた風穴がある。で、こっちが木の根元の沈む場所」


 枝先が、土の上を迷いなく走る。

 葉月の描く線は簡潔なのに、不思議とわかりやすかった。


「まず、風穴と沈む場所のあいだは、たぶん地下でつながってる。結葉の匂いの話とも合うし、私が壁越しに聞いた反響とも一致する。問題は、どこから入るか」


 葉月はそこで、今の巣の西寄りの壁を軽く叩いた。


「ここから真っ直ぐ掘るのが距離だけなら最短。でも、この層は少し脆い。上から根が少なくて、崩れた時に支えが効きにくい」


「危ない、ということですか?」


 千葉夜が心配そうに尋ねる。

 葉月は頷いた。


「掘れなくはない。でも、戻る道を安全に保ちたいなら向かない。だから少し南へずらす」


 枝先が地図の上で弧を描く。


「こっち側なら、太い根が何本か通ってる。掘る時は邪魔だけど、逆に言えば補強に使える。通路を広げるなら、根を柱代わりにした方が崩れにくい」


「なるほど……」


 双葉が感心したように声を漏らす。

 葉月はさらに、途中の一点をとん、と突いた。


「それと、いきなり空洞まで抜かない。ここに中継の小部屋を作る。もし向こうの空気が悪かったり、崩れたりした時、いったんここまで退けるようにする」


「戻る場所を確保するわけだな」


 護葉が腕を組んで低く言う。

 葉月は短く「そう」と返した。


「行くだけなら、もっと短い道もある。でも、帰ることを考えるならこっち」


 その言葉に、仁は小さく息をついた。

 葉月の地図には、ただの線ではなく、進むための理由がきちんと込められている。


「つまり」と仁は補足するように口を開く。「現時点でわかっているのは、壁の向こうにある程度まとまった空間が存在する可能性が高いこと。そして、到達を目指すなら、この南寄りの新通路が最も安全ということですね」


「うん」


 葉月が頷く。


 そのあと、会議は必要な確認だけを短く重ねた。


 双葉は「補強材は持っていけます」と言い、紬葉は「運ぶ順番と置き場所、私がまとめます」と胸を張る。千葉夜は「戻ってきた時に休める場所は空けてありますから」と穏やかに請け負い、護葉は「初回は戦うためじゃなく、戻るための探索にするべきだ」と釘を刺した。


 それらをひとつずつ聞き終えたあと、仁は地図の前で姿勢を正した。


「では、整理いたします」


 広間にいる全員の視線が、仁へ集まる。


「地上側では、風穴と木の根元に空洞の手がかりがある。匂いと風の流れから見て、それらは地下でつながっている可能性が高い。地下側からは、葉月の調査により、現在の巣の西南側から安全に掘り進められる見込みが立った」


 仁は一度、床の地図を見下ろした。


「補強材、目印、帰還後の受け入れ体制も、ひととおり整えられます。よって、壁の向こうへの初回探索は実行可能と判断いたします。ただし――」


 声を少し低くする。


「目的は制圧ではなく、確認です。空洞の規模、空気の状態、危険の有無を見極め、無事に戻ることを最優先とします」


 その言葉に、護葉が無言で頷いた。

 葉月も、結葉も、一葉も、それぞれに表情を引き締める。


 最後に、仁は蜜葉乃へ向き直る。


「以上です。女王さま、ご判断を」


 広間が静かになった。


 蜜葉乃は床の地図へ視線を落とし、しばらく何も言わなかった。今の巣から伸びる線。風穴。木の根元。葉月が描いた新しい通路。その先にまだ誰も見たことのない空間があるかもしれない。


 やがて蜜葉乃は、そっと顔を上げた。


「……行きましょう」


 やわらかな声だった。

 けれど、その響きは不思議なくらいまっすぐだった。


「今の巣は、もう少し広くした方がいいと思います。これから先、もっと家族が増えるなら、なおさらです。ですから、壁の向こうに使える場所があるなら、きちんと確かめたい」


 蜜葉乃は一人ひとりを見回す。


「でも、無理はしないでください。危ないと思ったら、すぐに戻ってきてくださいね。みんながちゃんと帰ってきてくれることが、いちばん大事です」


「はいっ」


 一葉が真っ先に返事をする。

 結葉と紬葉も続き、葉月は静かに頷いた。護葉の目にも、わずかな熱が宿っている。


 蜜葉乃は最後に、地図の上へ指先を伸ばした。

 葉月が引いた、新しい通路の線の先へ。


「では――この先を、見に行きましょう」


 会議が終わると、みんなはそれぞれ準備のために散っていった。


 補強材の選別、目印の整理、休憩場所の確認、掘削道具の準備。広間に満ちていた気配が、少しずつ外へ、各部屋へとほどけていく。


 最後に残ったのは、蜜葉乃と仁だけだった。


 床の上には、まだ地図が残っている。

 今の巣から西南へ伸びる一本の線。その先にある、まだ見ぬ空間。


 蜜葉乃はその地図を見つめて、ふっと微笑んだ。


「ただの土の壁だったものが、こうして見ると、ずいぶん近く感じますね」


「ええ」


 仁は静かに答える。


「皆さまが見つけてくださった道です」


 蜜葉乃の指先が、線の先をそっとなぞった。


「では、次はその先ですね」


 仁は、その横顔を見つめる。


 壁の向こうは、まだ見えない。

 けれども、そこへ至る線は、もうここにある。


 その線をたどる準備は、整いつつあった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


仁の日誌


 本日、壁の向こうの探索に向けた情報整理会議を実施した。

 地上側の手がかり、風の抜ける裂け目、木の根元の沈下地点、地下から感じる空気の流れ――それぞれ別に見えていた情報が、葉月の図によってようやく一本の線として繋がった。

 あれはまさしく“地図”だったと思う。まだ誰も見たことのない場所へ進むための、最初の一枚だ。


 一葉は地上で拾った小さな違和感をきちんと持ち帰っていたし、結葉の嗅ぎ取る気配はやはり侮れない。葉月は言うまでもなく有能で、危険と安全の境目を冷静に見極めていた。護葉、双葉、千葉夜、紬葉、風葉も、それぞれ自分の役目を理解して動いている。

 この巣は、少し前まで考えられなかったほど、よく回るようになった。


 そして蜜葉乃さまは、本日もお元気であられた。

 地図を見つめながら「行きましょう」と仰った時、あの方はもう、ただ守られるだけの女王ではなく、この巣をどこへ導くかを自ら決める女王なのだと、改めて思い知った。


 ……なお、本日朝、巣印の香石への匂い移しをお願いした際、私は少々平静を欠いた。

 原因は説明可能である。距離が近かったためだ。必要な作業であった以上、致し方ない。

 致し方ないのだが、次回以降はもう少し落ち着いて対応したい。少なくとも、女王さまに不思議そうな顔をさせる程度には動揺しないよう努めるべきである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ