30 道しるべは夜に届く
新しい部屋というものは、どうにも落ち着かない。
仁はそう思いながら、自分に割り当てられた小部屋の中央に座っていた。
巣の奥、女王室からほど近い位置に新しく掘られたその部屋は、執事兼補佐役である仁のために用意された個室だった。土壁は葉月が丁寧に均し、床には双葉が余らせた保温繊維が薄く敷かれている。紬葉が運び込んだ小枝と葉で作られた棚には、記録用の樹皮板や細い蔓紐、道具類が整然と並び、隅には一葉が「お部屋にはちょっと飾りも必要です」と言って置いていった、色のやわらかな花びらまであった。
正直に言えば、整いすぎている。
いや、ありがたい。ありがたいのだが。
「本当に私の部屋など、よろしかったのでしょうか」
ぽつりと呟いても、返事をする者はいない。
当然である。夜も更け、巣の大半はもう寝静まっていた。遠くから聞こえるのは、幼虫たちの寝息と、夜番の子たちが通路を行き来するかすかな足音くらいだ。
仁は、膝の上の樹皮板へ視線を落とした。
そこに書きつけていたのは、今日の出来事の整理――というより、神様への報告である。子蟻たちに結葉が教えていた“匂いによる伝達”について、巣の運営上どの程度整理して共有できるか、今後どう応用していくか。触角の合図、帰還用の匂い目印、危険の共有。どれもこの巣には欠かせない。
そして、同時に、最近になって仁自身が気にしていたことでもあった。
――私は、連絡用フェロモンを出せない。
雄蟻である以上、それはどうしようもない生理の差だ。
仲間の匂いを嗅ぎ分けることはできる。蜜葉乃の匂いも、娘たちの匂いも、幼虫たちの匂いもわかる。けれども働き蟻たちのように「危険」「集合」「この道を使え」といった情報を匂いで残すことは、仁にはできない。
今までは言葉と、配置と、記録と、観察で補ってきた。
それでどうにか回してきたし、今後もそうするつもりではある。
ただ、壁の向こうへ進むとなれば話は少し変わる。
未知の空間。複雑な通路。はぐれる危険。撤退の合図。救援の目印。
探索班や葉月たちが匂いを使ってやり取りする中、仁だけがそれを残せないのは、やはり少々不便だった。
「不便、で済ませてよい問題ではありませんね」
独り言が静かな部屋に落ちる。
仁はひとつ息をつき、記録板を脇へ置いた。今日はもう休むべきだろう。明日からも仕事は山ほどある。壁の向こうの調査準備、巣の備蓄確認、双葉の実験区画の整理、護葉の護衛班への配置調整――考えることはいくらでもあった。
その時だった。
ことり、と。
部屋の入口の方で、何か小さなものが落ちたような音がした。
仁はぴたりと動きを止める。
夜番の子が来たにしては気配がない。葉月ならもっと遠慮なく入ってくるし、一葉なら「仁、まだ起きてますかー」と先に声がする。蜜葉乃なら、そもそも誰かが付き添っているはずだ。
では誰か。
仁がゆっくり振り返ると、入口の葉の仕切りが、ほんの少しだけ揺れていた。
「……いらっしゃるなら、どうぞお入りください」
言った直後だった。
「いやあ、見つかっちゃった」
ひょこ、と。
まるで最初からそこにいたかのように、神様が葉の仕切りの隙間から顔を出した。
仁は無言で額を押さえた。
「……やはりあなたでしたか」
「やっぱりって何かな。ちょっと傷つくなあ」
「夜更けに気配なく執事の個室へ現れる方を、私は他に存じ上げません」
「現れるって言い方もどうなの。ぼく、お祝いに来たのに」
神様はそう言って、部屋の中をくるりと見回した。
「おおー。ちゃんと部屋になってる。棚もある。寝床もある。飾りまである。よかったねえ、仁くん。これで廊下の隅とか資材置き場の横とかで寝なくて済むんだ」
「そこまで劣悪な扱いは受けておりません」
「でも、いつでも働ける場所で寝てたでしょ?」
「……否定はいたしません」
神様は、にこにこと満足そうに頷いた。
「うんうん。だから今日は、お部屋完成祝いを持ってきたの」
そう言って神様が抱えていたのは、小さな布包みだった。白い布にくるまれたそれは、仁の掌に収まるくらいの大きさで、どこか石のように重そうでもある。
「それが、お祝いの品ですか?」
「うん。今回はちゃんと仁くん用。栽培区画に埋めたり、実験室に置いたりして全体が大変なことになるタイプじゃないから安心して」
「その前置きで安心できる者がいると思われますか」
「いるいる。たぶん女王さまと一葉ちゃんはわりと平気」
「その二名は危機感の基準にしてはなりません」
神様は笑いながら、布包みを仁へ差し出した。
「開けてみて」
仁は一瞬だけためらい、それから慎重に受け取った。
布を解く。
中から現れたのは、親指の先ほどの、丸みを帯びた薄い灰色の石だった。磨かれた玉石のようでもあり、乾いた樹脂を固めたようでもある。表面にはごく細かな筋がいくつも走っていて、灯りの乏しい部屋の中でも、そこだけかすかに艶を返していた。
「……石、ですか」
「うん。巣印の香石っていうの」
神様が得意げに胸を張る。
「仁くん、日誌に書いてたでしょ。結葉ちゃんが子蟻たちに匂いの伝え方を教えてて、あれは良い訓練だった。でも自分は連絡用フェロモンを出せない。壁の向こうへ行くならちょっと困るかも、って」
仁は石を掌の上で転がしながら、静かに頷いた。
「ええ。書きました。報告すべき事項でしたので」
「うんうん。だから持ってきた」
「……そこまできちんと読んでおられるとは思いませんでした」
「失礼だなあ。ちゃんと読んでるよ。たまに感想も言ってるでしょ」
「感想というより、時折、余計な茶々が入りますが」
「そこも込みで神様のありがたみだよ」
「新しい概念を作らないでください」
神様は気にした様子もなく、仁の手元の石を指さした。
「それね、巣の匂いを覚える石なの」
「巣の匂い」
「そ。仁くん自身は雄蟻だから、働き蟻みたいな連絡用フェロモンは出せない。そこはもう体のつくりだから仕方ない。でも、この石を持っていれば、巣の仲間の匂いを少しだけ借りて、簡単な合図に変えて返せるんだ」
仁は石を見つめたまま、続きを待つ。
「たとえば“危ない”“こっち”“集まって”“この道を通る”くらいの、ごく簡単なやつね。女王さまの命令フェロモンみたいに強いものじゃないし、複雑な内容も無理。あくまで補助。だけど、何もないよりはずっといい」
「なるほど」
それは、確かに魅力的だった。
壁の向こうの探索では、長々とした会話よりも、とっさの合図の方が重要になる場面がある。危険の共有、退避の指示、集合地点の知らせ。そうした“短い連絡”ができるだけでも、行動の幅は大きく広がる。
「さらにね」
神様は指を一本立てた。
「石を土とか葉っぱにちょんってこすりつけると、短時間だけ道しるべの匂いも残せる」
「道しるべ」
「うん。帰り道の目印とか、集合場所の印とか。壁の向こうって、きっと通路も空間もごちゃごちゃしてるでしょ? そういう時に便利」
仁は思わず、石を見つめ直した。
――これは、使える。
かなり使える。
巣内でも、仮設通路の整理や資材置き場の区分に応用できるだろう。探索時ならなおさらだ。葉月が空間構造を把握し、結葉が匂いを追い、風葉が先を見て、護葉が護衛を固める。その中で仁が“道しるべ”を残せるなら、後方支援としての価値は高い。
「ただし万能ではありませんよね」
「もちろん。まず、巣の匂いをちゃんと覚えさせないと使えない。それから強い命令は出せない。あと匂いはだんだん薄れるから、たまに馴染ませ直した方がいいかな」
「巣の匂いを覚えさせる、とは」
「その巣の“中心の匂い”に触れさせるの。いちばん濃くて、いちばん安定してる匂い。巣の核みたいなもの」
「……具体的には」
「だいたいは女王さま」
仁の動きが、そこでぴたりと止まった。
「……」
「うん、そういう顔になるよね」
神様が楽しそうに言う。
「でも、女王さまがいちばんわかりやすいよ。あの巣の匂いの中心だもの。女王室の匂いでも多少は代用できるかもしれないけど、最初にちゃんと覚えさせるなら本人がいちばん確実」
仁は石を握ったまま、しばらく黙り込んだ。
たしかに理屈はわかる。蜜葉乃の匂いは巣の中心だ。女王として、母として、巣全体に染み込んでいる。その匂いを基準に石が巣を覚えるなら、仲間の識別にも連絡の補助にも都合がよい。
都合は、よい。
問題は、その頼み方だった。
「……神様」
「なあに」
「このようなものを、どうやって蜜葉乃さまにご説明すればよろしいのでしょうか」
「普通に、“触ってください”って言えばいいんじゃない?」
「普通ではありません」
「そう?」
「夜更けに女王さまを起こして『この石に巣の匂いを覚えさせたいので、触れてください』などと頼めるわけがないでしょう」
「夜更けに行かなきゃいいじゃない」
「それはそうですが」
「明日の朝、ちゃんと頼めば?」
「……」
「もしかして仁くん、そこが一番困ってる?」
神様が、にやにやしながら仁の顔を覗き込んだ。
仁は無言で視線を逸らした。
困っている。非常に困っている。
もちろん、業務上必要な相談ならば、仁は蜜葉乃へいくらでも進言できる。巣の備蓄、娘たちの配置、通路の補強、育房室の拡張――そういった話なら、今さら躊躇う理由はない。
だが今回は、石に匂いを覚えさせるために、蜜葉乃本人に触れてもらう必要がある、という話だ。
しかも神様の品であることは、巣の仲間には説明できない。
説明のための説明ができないのである。
「……“壁の向こうの探索に必要な備品の調整です”と申し上げるべきでしょうか」
「まあ嘘ではないね」
「“女王さまの匂いを基準にした方が精度が上がるらしく”」
「うんうん」
「“恐れ入りますが、ご協力をお願いできますか”」
「すごい丁寧」
「当然です」
「でもたぶん女王さま、きょとんとするよ」
「それは、ええ。するでしょうね」
「で、“わたしでよければ、いくらでも”って言ってくれる」
神様はそう言って、わざとらしく声色を柔らかく真似た。
仁は眉間を押さえる。
「やめてください」
「似てたでしょ?」
「似ていたかどうかを論じるつもりはありません」
「そこは褒めてよ」
「褒めません」
神様はけらけら笑った。
だが笑いながらも、言っていることはそれなりに正しい。蜜葉乃は頼まれれば協力してくれるだろう。むしろ、仁の役に立つことなら喜んで応じる可能性すらある。
だから困るのだ。
あのやわらかな笑顔で「はい、どうぞ」と言われた時、自分が平静を保てる自信があまりない。
仁は咳払いをひとつして、無理やり思考を立て直した。
「ともかく、運用上の確認を続けます。巣の匂いを覚えさせた後は、仁が常時携行して問題ありませんか」
「うん。ふだんは持ってていいよ。匂いが薄れてきたら、また女王さまにお願いしてね」
「巣の中心部だけでは不十分ですか」
「不十分ってほどじゃないけど、ちょっとぼやけるかも。子蟻が増えて、部屋も通路も広がってる今の巣だと、いろんな匂いが混ざってるからね」
それは納得できた。
巣は最近、一気に広がった。女王室、育房室、栽培区画、アブラムシ牧場、キノコ部屋、実験室、資材置き場、補助通路。人の出入りも増え、匂いの種類も以前よりはるかに多い。だからこそ、“巣の核”となる匂いを最初に定めておく必要があるのだろう。
「……承知しました」
「うん。じゃあ、あとはがんばって女王さまにお願いしてね」
「軽くおっしゃいますが」
「だってぼくが代わりに頼んだら大変でしょ?」
「それは、ええ。大変どころでは済みません」
神様の存在は、巣の仲間にはまだ公表していない。
娘たちや子蟻たちにまで広まれば、巣は確実に大騒ぎになる。特に一葉と双葉は危ない。一葉は興味津々で聞き周り、双葉は「神様由来の素材って、どこまで増殖するんでしょう」とか言い出しかねない。
なので、この香石の出所についても、迂闊に明かすわけにはいかなかった。
仁が黙って考え込んでいると、神様がふいに部屋の中を見回した。
「でもいい部屋だねえ、ここ」
「……そうでしょうか」
「うん。仁くんのくせに、ちゃんと“住む部屋”になってる」
「“仁くんのくせに”は余計です」
「だって、ほっといたら仕事机と記録棚だけで終わりそうだもん」
それは否定できなかった。
実際、仁が自分だけで整えるなら、寝床は最低限、収納は効率重視、飾り気は皆無になっていただろう。今のこの部屋が多少なりとも“暮らす場所”らしく見えるのは、明らかに蜜葉乃と娘たちの手が入っているからだ。
「女王さま、ほんとに仁くんを巣の中に置く気なんだね」
神様が、ぽつりと言った。
仁は少しだけ目を細める。
「……どういう意味でしょう」
「だって個室って、ただの作業場所じゃないでしょ。帰ってきて、休んで、また明日もここにいる人のための場所だよ」
「……」
「前はまだ、“とりあえず今いるから”って感じもあったけど、今は違う。ちゃんと巣の中に居場所を作った。仁くん用の棚があって、寝床があって、女王室の近くに部屋がある」
神様はそこで、にっと笑った。
「よかったね」
仁は返事をしなかった。
できなかった、という方が正しい。
それは仁自身が、ここ数日ぼんやりと感じていたことでもあったからだ。巣の拡張に伴って、部屋を作る話になった時。誰がどこに何を置くかを決める中で、ごく自然に「仁の部屋」が組み込まれていた。
まるで、最初からそこにあるべきもののように。
執事として必要だから。補佐役として便利だから。そういう実務上の理由はいくらでも並べられる。だが、それだけではない何かが、あの決定には混じっていた気がする。
少なくとも、蜜葉乃は迷っていなかった。
仁は、自分の掌の上の香石を見つめた。
「……部屋を与えられたからには、相応に働かねばなりません」
「そういう答え方するところ、ほんと仁くんだよねえ」
「他に何と答えれば」
「“ありがたいです”とか?」
「それは、すでに思っております」
「じゃあ本人たちに言えばいいのに」
「必要な場面があれば申し上げます」
「出た。執事の遠回し」
神様は肩をすくめた。
それから、香石を指さす。
「それ、たぶん最初に役立つのは壁の向こうじゃなくて巣の中だよ」
「巣の中、ですか」
「うん。新しい通路、新しい部屋、新しい役目。今の巣って、どんどん広がってるでしょ。広がるってことは、迷いやすくなるってことでもある。子蟻も増えたし、これからもっと増える。なら、まずは家の中で使ってみるといいよ」
仁は少し考え、静かに頷いた。
「……たしかに」
「巣の中で上手く使えないものが、壁の向こうで急に上手く使えるわけないしね」
「まったくもって正論です」
「でしょ?」
神様は満足そうに胸を張った。
「じゃあ今度こそ、ぼくは帰るね。お祝いの品、大事に使ってよ」
「ええ。助かります」
「それと」
「まだ何か」
「前にも言ったけど、夜灯り苔は増やしすぎないようにね」
「それはむしろ双葉に言ってください」
「絡まれるからやだ」
「……」
「じゃ、またね」
そう言って、神様はひらりと手を振った。
次の瞬間には、もういなかった。
葉の仕切りは揺れておらず、足音も残らず、ただそこに、少しだけ夜気の匂いが漂っただけだ。
仁はしばらく入口を見つめ、それから静かに息を吐く。
「……本当に、嵐のような方ですね」
掌の上には、巣印の香石がある。
まだ巣の匂いは覚えていない、ただの灰色の小石。けれど、その中に秘められた役目は軽くない。連絡用の補助信号。短い道しるべ。壁の向こうへ進むための、新しい手段。
仁は試しに、石を指先で転がしてみた。
「……さて」
明日から忙しくなる。
結葉には匂いの系統を確認してもらい、風葉には探索用の運用を相談しよう。葉月には仮設通路への応用を、護葉には緊急時の誘導手段として共有したい。紬葉なら、目印の整理運用まで含めて綺麗にまとめてくれるだろう。双葉には――いや、双葉には詳細を伏せておいた方が安全かもしれない。
だがその前に、越えなければならない小さな壁がある。
この石を巣に馴染ませるため、蜜葉乃へ協力を願い出ること。
しかも、神様のことは伏せたまま。
「……どうご説明したものか」
仁は思わず、額に手を当てた。
巣の運営についての進言なら、いくらでもできる。備蓄の話も、部屋割りの相談も、娘たちの役割調整も、護衛体制の再編も、仁にとっては日常だ。
だが、“この石に女王の匂いを覚えさせたいので、触れていただけますか”という頼みごとは、さすがに勝手が違う。
蜜葉乃はおそらく、困った顔ひとつせずに引き受けてくれるだろう。
むしろ、「それで仁さんのお役に立つなら」と、やわらかく微笑んでくれる気さえする。
……だからこそ、困るのである。
仁は深く息をつき、香石をそっと寝床の脇へ置いた。
新しい部屋。
新しい道具。
新しい探索の準備。
巣は少しずつ広がっていく。娘たちは育ち、女王は元気を取り戻し、手の届かなかった場所が、少しずつ“行ける場所”へ変わりつつある。
その変化の中心に、自分がまだいる。
仁は灯り苔の薄明かりの中で、静かに目を閉じた。
壁の向こうへ向かう準備は、またひとつ整った。
けれども明日の朝、まず向き合うべき相手は、未知の空洞でも、危険な通路でもない。
おそらく、女王さまの寝起きのやわらかな微笑みである。
そう思うと、未知の地下空間よりそちらの方が、少しだけ厄介に思えた。




