29 ことばのいらない伝え方
巣が広くなると、にぎやかさも一緒に増える。
女王室が整えられ、育房室のまわりも歩きやすくなり、通路には葉月が考えた交差の工夫が入った。仁の私室も整えられ、アブラムシ牧場は牧場らしい広がりを持ち、双葉のキノコ部屋と実験室も、以前よりずっと立派になった。
住みやすくなった王国は、たしかに前より豊かだった。
ただし――豊かになると、ちいさな混乱も増える。
「ええと……これ、双葉に届ける葉っぱだったっけ、ちいねえちゃんに渡すやつだったっけ……」
「そっちは保温繊維の束だよ。たぶん」
「たぶん?」
「たぶん」
育房室の前で、子蟻が三匹、葉の束と繊維の束を前にして揃って首をかしげていた。
ひとりは大きめの葉を抱えている。
ひとりは保温繊維を頭にのせている。
もうひとりは、なぜかその両方を手伝おうとして、結果的にどちらも持てなくなっていた。
「双葉が“ふわふわした葉っぱを三枚”って言ってたのは覚えてる!」
「ちいねえちゃんは“あったかいのを持ってきてくださいね”って言ってたよ」
「じゃあ、ふわふわであったかい葉っぱを持っていけばいいのかな」
「そんな便利な葉っぱある?」
「ないかも」
三匹が真剣な顔で悩んでいるところへ、通りがかった葉月が足を止めた。
「何してんの」
「あっ、葉月!」
「葉っぱが双葉のなのか、ちいねえちゃんのなのかわからなくなって……」
「ふーん」
葉月は葉束と繊維束を見比べ、それから三匹を見た。
「で、誰に何を言われたの」
「わたし、双葉に“葉っぱを三枚”って」
「わたし、ちいねえちゃんに“あったかいの”って」
「わたし、ふたりを手伝ってって」
「最後の子は特に何も覚えてないじゃん」
「はい」
「はいじゃないのよ」
葉月は呆れたようにため息をついたが、その時、通路の向こうからぱたぱたと一葉がやってきた。
「どうしましたか?」
「子蟻たちが荷物の行き先を見失ってる」
「あら」
一葉は三匹の前にしゃがみ込み、葉の束をひとつ手に取った。
「双葉に頼まれた子、どんな顔で言われました?」
「どんな顔?」
「こう、“これ、だいじ!”って感じでした? それとも“なんでもいいから持ってきてー”って感じでした?」
子蟻は一生懸命思い出し、はっとした。
「“やわらかいのがいい!”って言ってました!」
「それはたぶん双葉ですねえ」
「なんでわかるの、一葉」
「双葉は、そういうこだわりが強いからです」
「なるほど」
妙な説得力に、子蟻たちは揃って頷いた。
その間に葉月が保温繊維をつまみ上げる。
「こっちは、ちいねえちゃんの方。育房室に持ってけばいい」
「はいっ!」
「で、あんたはそのふたりについてって、ちゃんと最後まで届ける。途中で違うこと考えない」
「がんばります!」
三匹は元気よく返事をして、葉束と繊維束を抱え直し、ばたばたと走っていった。
その背中を見送りながら、一葉がふふっと笑う。
「最近、こういうこと増えましたねえ」
「巣が広くなったからね。頼みごとも増えたし、行き先も増えた」
葉月が肩をすくめる。
そこへ、ちょうど反対側の通路から仁が現れた。
「増えておりますね」
いつもの静かな声に、一葉が振り返る。
「仁」
「先ほども、牧場向けの葉を女王室前に運び込もうとした子蟻を回収いたしました」
「まあ」
「女王さまが“緑が増えましたねえ”と喜びかけておられました」
「危なかったですねえ」
「非常に危ういところでした」
仁は真顔のまま言った。
葉月が小さく吹き出す。
「それはもう、事故じゃん」
「ええ。しかも最近は通路が増え、役割も細分化されております。今後さらに壁の向こうの探索を進めるなら、巣の中の情報伝達精度も上げておきたい」
「じょうほうでんたつせいど」
一葉が聞き慣れない単語を口の中で転がすと、仁は頷いた。
「簡単に言えば、誰がどこで何をしているか、何を持っていくのか、危険があればどう知らせるか。それをもっと分かりやすく共有したい、ということです」
「なるほど」
葉月が腕を組む。
「要するに、迷子と運び間違いを減らしたいってことね」
「その通りです」
「なら、結葉が向いてるかも」
一葉がぽんと手を打った。
「匂いのことも道のことも、結葉はすごく詳しいですし」
「確かに」
葉月もすぐに頷いた。
「結葉、ああ見えて道を覚えるのは妙にうまいし。匂いで“こっち通ったな”とか、“昨日ここに誰かいたな”とか、わけのわかんないことも当てる」
「わけはわかります」
通路の角から、ちょっとだけむっとした声が返ってきた。
そこに立っていたのは結葉だった。
触覚をぴくぴく動かしながら、手には小さな葉片の束を抱えている。どうやら途中まで何かを運んでいたらしい。
「匂いは、わかる人にはわかるの」
「結葉!」
一葉がぱっと笑顔になる。
「ちょうどよかったです。今、結葉にお願いしたいことがあるのですが」
「お願い?」
結葉はぱちぱちと瞬いた。
仁が一歩前に出る。
「はい。子蟻たちに、連絡の取り方を教えていただけないでしょうか」
「れんらく?」
「言葉だけでなく、匂い、触角、簡単な合図を使った情報共有です。結葉はその分野に長けております」
「わたしが?」
「はい」
結葉はしばらくきょとんとしていたが、やがて胸の前の葉片を抱え直し、少しだけ視線を泳がせた。
「……できる、かな」
「できますよ」
一葉が即答する。
「結葉、すごく得意じゃないですか。わたし、この前も“こっちは昨日の蛾さんの匂いだから違います”って言われて、ぜんぜんわかりませんでしたもん」
「一葉は、そういうのあんまり見てないから……」
「見てませんねえ」
「開き直らないで」
葉月がつっこんだ。
けれど結葉は、そのやり取りのあいだに少しずつ表情を変えていった。
不安そうだった目が、匂いの話になった途端、じわりと前を向く。
「……じゃあ、やってみる」
「ありがとうございます」
仁が頭を下げる。
「では本日午後、中央通路の広間を使用しましょう。子蟻たちを集めます」
「えっ、今日?」
「今日です」
「急だねえ」
「急ですが、善は急げです」
仁の返答に、結葉は小さく「うう」と唸った。
それでも嫌そうではない。むしろ、どう教えようか考え始めたらしく、鼻先を上に向けてぶつぶつと呟き出す。
「まず、帰り道の匂いでしょ……あと、危ない時の合図……触角のたたき方もいるかな……」
「もう先生っぽいです」
一葉が感心したように言うと、結葉は少しだけ頬を赤くした。
午後の中央通路の広間には、思ったよりたくさんの子蟻が集まった。
ふだん育房室の手伝いをしている子、栽培区画へ葉を運ぶ子、牧場のまわりをちょろちょろしている子、最近ようやく巣の中の簡単なお使いを任されるようになった子。みんな揃って、なんだかそわそわしている。
広間の真ん中には、仁が平らにならした土の上に、葉片や小石、細い枝が並べられていた。
簡易の教室である。
その前に立つ結葉は、少しだけ緊張した顔をしていた。
「えっと……今日は、“ことばがなくても仲間に伝えるやり方”を練習します」
ぴし、と一葉が最前列で背筋を伸ばす。
見学に来たつもりなのに、すっかり生徒の顔だ。
その隣には蜜葉乃が座っている。
女王さまが来ると聞いた時、結葉は「えっ」と目を丸くしていたが、蜜葉乃は「だって楽しそうですもの」とふわりと笑って譲らなかった。
葉月は広間の壁際にもたれ、風葉はその少し前、通路の出入り口が見える位置に立っている。仁は後方で腕を組み、全体を見守っていた。
「まずは、いちばん簡単なのから。触角の合図」
結葉は自分の触角をちょんとつまむようにして見せた。
「ことばで話せないくらい遠くにいる時とか、静かにしないといけない時とか、急いでる時に使うの。近くの仲間に“今どうしたいか”を伝える合図」
「おおー……」
子蟻たちが揃って身を乗り出す。
「ひとつめ。ちょんって一回だけ触るのは、“ここにいるよ”とか、“聞いてるよ”って意味」
結葉は近くにいた一葉の触角へ、ちょん、と軽く触れた。
「こう」
「聞いてます」
一葉が真面目に答える。
「返事しなくてもいいの」
「はい」
「それも返事です」
すかさず葉月が言って、子蟻たちがくすくす笑った。
結葉は少しだけ肩を落としたが、すぐに気を取り直して続ける。
「ふたつめ。ちょん、ちょん、って二回は、“止まって”とか“こっち見て”の合図。急いでる時に便利」
今度は一葉の触角を二回軽く叩く。
「止まります」
「だから返事しなくてもいいのに……」
「一葉は、たぶん返事まで込みなんだと思う」
風葉がぽつりと言った。
広間が少しだけ笑いに揺れる。
一葉は「そうかもしれません」と真顔で頷いた。
「みっつめ。少し長く、こうやって触れるのは、“大丈夫?”とか“落ち着いて”」
結葉は隣にいた子蟻の頭にそっと触角を寄せてみせた。
「怖くて固まっちゃった子とか、迷って泣きそうな子とかにするの」
「やさしい合図なんだね」
蜜葉乃がほわりと目を細める。
「はい。……あの、やってみる?」
「まあ、わたくしに?」
「うん。女王さま、ちょっとだけ」
「ふふ、では」
蜜葉乃が嬉しそうに身をかがめると、結葉はそっと触角を伸ばし、蜜葉乃の触角にやわらかく触れた。
すると蜜葉乃は、くすぐったそうに肩を揺らして笑った。
「まあ。なんだか“だいじょうぶですよ”って言われた気がします」
「そういう合図だから」
「すてきですねえ」
女王さまが嬉しそうにすると、子蟻たちの目がきらきらし始める。
「やってみたい!」
「わたしも!」
「ちょんちょんしたい!」
「順番ね」
結葉は少しだけ先生らしい顔で言った。
「まず二人組になって、一回、二回、長く一回。順番にやってみて」
広間のあちこちで、ちいさな触角がぴこぴこと動き始めた。
「ちょん」
「……いまの一回?」
「二回だったかも」
「じゃあもう一回!」
「長いのってどれくらい?」
「このくらい?」
「それは長すぎてくすぐったい!」
あちこちから楽しそうな声が上がる。
その様子を見ながら、仁が小さく頷いた。
「悪くありませんね」
「思ったよりちゃんと授業になってる」
葉月も感心したように腕を組み直す。
やがて練習がひと段落すると、結葉は土の上にしゃがみ込み、小さな枝で広間の床へ線を引いた。
「次は、匂いの道しるべ」
その言葉に、風葉が少しだけ顔を上げた。
探索班の斥候係としても、ここは気になるらしい。
「巣が広くなると、行く場所が増えるでしょ。だから、“帰り道の匂い”と、“行っちゃだめの匂い”を覚えておくと、すごく便利」
「どうやって覚えるの?」
子蟻のひとりが首を傾げる。
「まず、ちゃんと違いを知ること」
結葉は広間の端に置いてあった葉片を二枚持ってきた。
一枚には、甘い草をこすりつけてある。もう一枚には、少し苦い香りのする樹皮が擦られていた。
「こっちは“こっちだよ”の匂いに近い方。で、こっちは“気をつけて”に使いやすい方」
「全然ちがう!」
「でしょ」
結葉は少し得意そうに鼻先を上げた。
「もちろん本当は、その時その時で使い方は変わるし、誰がつけたかでもちょっと違う。でも、まずはわかりやすいところから練習するの」
そう言って、広間の床に小さなコースを作る。
小石を障害物に見立て、葉片を置き、通路に見立てた筋を三本引いた。
「これが、巣の中だと思って。こっちが帰り道、こっちは行き止まり、こっちは危ないところ」
結葉は甘い草の匂いをつけた葉片を、帰り道の筋に沿ってぽん、ぽんと置いていく。苦い方の匂いは、行き止まりと危険側の前に。
「迷ったら、帰り道の匂いを探す。苦い方がしたら、そっちは行かない」
「わかりやすい……!」
「やってみたい!」
「じゃあ、順番に」
子蟻たちが列を作り、結葉の作った“においの道”を辿り始めた。
「こっちかな」
「そっちは苦い方」
「あ、ほんとだ!」
「じゃあこっちだ」
「正解」
結葉がひとりひとり見てまわる。
さっきまで少し緊張していたのが嘘みたいに、今はすっかり先生の顔だ。匂いの違いに気づけた子を褒め、間違えた子には「もう一回嗅いでみて」と落ち着いてやり直させる。
その姿を見て、一葉が感心したように息をついた。
「結葉、すごいですねえ」
「うん。ちゃんと教える側の顔してる」
葉月も素直に頷く。
仁は腕を組んだまま、静かに言った。
「結葉は、巣の外で拾ってくる情報を、自分の中だけで処理して終わらせない子です。どう伝えれば仲間が使えるか、そこまで考えているのでしょう」
「まあ」
蜜葉乃が嬉しそうに微笑んだ。
「それは、とても頼もしいことですね」
結葉の耳には、その言葉は届いていないようだった。
今は目の前の子蟻たちに夢中である。
「次は応用。危ない時の合図」
結葉はそう言って、風葉の方を振り返った。
「風葉、ちょっと手伝って」
「うん」
風葉がすっと前に出る。
静かな足取りのまま、結葉の隣に立った。
「危ない時は、大きい声を出さない方がいいことがあるの。だから、近くの仲間には触角と動きで伝える」
結葉は風葉に向かって、触角を二回、素早く叩いた。
「これは、“止まって”」
風葉はぴたりと動きを止める。
「次。肩を軽く押すのは、“戻る”とか“下がって”」
結葉が風葉の肩をとん、と押すと、風葉は一歩だけ後ろへ下がった。
「で、地面を軽く叩くのは、“隠れて”」
こんこん、と結葉が床を叩く。
すると風葉はすぐそばの葉陰にするりと身を滑り込ませた。
「はやい!」
「風葉すごい!」
「今のは風葉がすごいの」
結葉が言うと、風葉は葉陰から顔だけ出した。
「結葉の合図がわかりやすいから」
短い一言に、結葉が少しだけ目を丸くする。
それから、ほんのり嬉しそうに口元を緩めた。
「……ありがと」
「うん」
姉妹のそんなやり取りに、子蟻たちの間から「いいなあ」「かっこいい……」と小さな声が上がる。
「じゃあ今度は、みんなもやる。二人組になって、“止まって”“戻って”“隠れて”を順番に」
広間は再びにぎやかになった。
「ちょんちょん!」
「止まる!」
「押された!」
「今のは押しすぎ!」
「ごめん!」
「隠れるってどこに?」
「その葉っぱの後ろ!」
わちゃわちゃと動き回る子蟻たちを見ながら、一葉がこっそり蜜葉乃へ耳打ちする。
「なんだか、ちいさな探索班がいっぱいですねえ」
「ふふ。ほんとうですね」
蜜葉乃は目を細めた。
その横顔は、娘たちと子蟻たちの成長が嬉しくてたまらない、という顔をしている。
授業は順調に進んでいた。
――少なくとも、その時までは。
問題が起きたのは、最後の実地練習だった。
「じゃあ、さいごは本物の通路でやってみるね」
結葉がそう言って、広間の外へ続く短い通路を指さした。
「ここから向こうの曲がり角まで行って、途中で合図を出して、帰ってくるの。道しるべの匂いも少しだけつけていい。焦らないこと。迷ったら止まること」
「はーい!」
元気よく返事をした子蟻たちは、三人ずつの小さな組になって通路へ出ていく。
最初の組は上手だった。
ひとりが先に進み、ひとりが後ろを見て、ひとりが途中の角で小さく匂いを残す。結葉の教えた通り、短い合図で止まり、また進む。
二組目も、少し危なっかしいながらちゃんと戻ってきた。
ところが三組目の途中で、広間の空気が少し変わった。
「あれ?」
先に帰ってきた子蟻が、きょろきょろと周囲を見回した。
「みっつめの組、ひとり足りない」
結葉の触角がぴくりと動く。
「誰がいないの」
「えっと、さっき“苦い匂いの方も嗅いでみたい”って言ってた子」
「なんでそんなことを……」
葉月が額を押さえた。
結葉はすぐに通路の方へ駆け出した。
風葉も同時に動く。一葉と仁も後に続いた。
通路の角を曲がった先は、普段あまり使わない小さな分岐がいくつかある場所だった。リフォームで整えられたとはいえ、子蟻にはまだ少しややこしい。
「……匂いが混ざってる」
結葉が足を止める。
床へ顔を近づけ、鼻先をひくひくと動かした。
「甘い道しるべと、苦い方と、それから……慌てた匂い」
「慌てた匂いまでわかるんですか」
一葉が目を丸くする。
「わかるよ。ちょっとだけ、酸っぱい感じになる」
結葉は真剣な顔で通路の左を見た。
右ではなく、左だ。
「こっち。たぶん、間違えて苦い方を追いかけて、そのあと戻ろうとしてる」
「先行する」
風葉が短く言って、音もなく前へ出る。
「待って。ひとりで行かない」
「大丈夫」
「でも」
「結葉の匂い、もう拾えた」
そう言って風葉は、二つ先の分岐まで一気に走った。
しばらくして、かすかな声が返ってくる。
「いた」
みんなが急いで向かうと、分岐の陰で子蟻がひとり、しょんぼりと丸くなっていた。
「……ごめんなさい」
目の前には、苦い匂いをつけた葉片が落ちている。どうやら“危ない方の目印”を気になって触ってしまい、そのまま道を見失ったらしい。
「だいじょうぶ?」
一葉がしゃがみ込むと、子蟻はこくりと頷いたが、触角の先がしゅんと下がっていた。
「帰り道、わかんなくなっちゃって……。急いで戻ろうとしたら、もっとわかんなくなって……」
「うん」
結葉が、その子の前にしゃがみ込んだ。
怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ落ち着いた声で言う。
「だから、“迷ったら止まる”なの」
「ごめんなさい……」
「いいよ。今、止まれたから」
結葉はそっと触角を伸ばし、子蟻の触角へやわらかく長く触れた。
授業の最初に教えた、“大丈夫”の合図だ。
「焦ると、匂いがわかりにくくなるの。だから、まず止まって、ゆっくり嗅ぐ。自分のつけた道しるべがどこにあるか探す。ひとりでわかんなかったら、その場で待つ」
子蟻はこくこくと頷く。
「……うん」
「じゃあ、一緒に探そう」
結葉は床を指した。
みんなもしゃがみ込む。
「ここ、苦い匂いが強いでしょ。だから、こっちは違う。で、こっち……少しだけ甘いのが残ってる」
「ほんとだ」
一葉が鼻を寄せる。
「わたしにはほとんどわかりませんけど、言われるとなんとなく……」
「一葉は“なんとなく”で十分」
「そうでしょうか」
「一葉は話を聞く方が得意だから」
結葉はそう言って、今度は少し先の床を示した。
「こっちに、最初につけた帰り道の匂いが残ってる。風葉」
「うん」
「この先、広間まで繋がってるか見てきて」
「もう見た。繋がってる」
いつの間にか確認済みだったらしい。
風葉が淡々と答えると、結葉は「はやい」とだけ言って頷いた。
「じゃあ戻ろう。今度はちゃんと、匂いを見ながら」
子蟻は少し恥ずかしそうにしながらも、結葉の隣で歩き始めた。
途中、結葉がわざと立ち止まって「ここ、どっち」と尋ねると、子蟻は鼻先を寄せて、今度はちゃんと答える。
「……こっち。甘い方」
「正解」
その一言に、子蟻の顔がぱっと明るくなった。
広間へ戻ると、待っていた子蟻たちが一斉に駆け寄ってきた。
「見つかった!」
「よかったあ」
「迷ったの?」
「ちょっとだけ……」
「ちょっとじゃないでしょ」
葉月が呆れたように言うが、その声は思ったほど厳しくない。
結葉はみんなの前に立ち、改めて言った。
「今日いちばん大事なのは、“上手に匂いをつけること”じゃなくて、“迷ったら止まること”です」
広間が静かになる。
「ひとりでどうにかしようとして走ると、もっとわかんなくなる。だから止まる。触角で“困った”って伝える。匂いを探す。待つ。仲間は、ちゃんと見つけるから」
その言葉は、いつもの結葉より少しだけしっかりして聞こえた。
迷った子蟻が、ぎゅっと拳を握る。
「……うん。次は、ちゃんと止まる」
「えらい」
結葉が言うと、子蟻は嬉しそうに笑った。
そこで蜜葉乃が、ぱちぱちと手を叩いた。
「すばらしい先生でしたね、結葉」
「まあ」
「触角の合図も、匂いの道しるべも、とてもわかりやすかったです。みんなもちゃんと覚えられそうですし、これなら安心してお使いもお願いできます」
「ほんと?」
「ええ、ほんとうです」
蜜葉乃が優しく頷くと、結葉は少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「……なら、よかった」
「結葉先生、またやって!」
「次はもっと難しいの!」
「“葉月が怒ってる時の逃げ方”も教えて!」
「それは教える必要ある?」
壁際から葉月が冷たい声で言う。
子蟻たちはきゃっと笑って散った。
一葉はそんな様子を見て、ふふっと笑う。
「今日は結葉がいちばんお姉ちゃんらしかったですねえ」
「そう?」
「はい。すごく頼もしかったです」
「……えへへ」
結葉はちょっとだけ胸を張った。
その隣で風葉がぽつりと言う。
「帰り道の匂い、空洞の探索でも使える」
みんなの視線がそちらへ向く。
風葉はいつもの無表情のまま続けた。
「壁の向こう、道が複雑だったら必要になる。結葉のやり方、覚えといた方がいい」
「そうですねえ」
一葉が頷く。
「行く時だけじゃなくて、ちゃんと帰ってくるためにも」
その言葉に、仁も静かに同意した。
「本日の練習は、巣の中の連携だけでなく、今後の探索にも有益でしょう。特に“迷ったら止まる”“匂いを残す”“短い合図で意思を伝える”――この三つは、壁の向こうでも重要になります」
結葉は少しだけ目を丸くしてから、へへ、と笑った。
「じゃあ、次は“探索班向け・迷わない匂いの残し方”も考えようかな」
「まあ、すてき」
蜜葉乃が嬉しそうに微笑む。
「頼もしいですね、結葉先生」
「先生……」
その呼び方が気に入ったのか、結葉はちょっとだけ照れながら、でもまんざらでもなさそうに背筋を伸ばした。
広間では、子蟻たちがさっそく覚えたばかりの合図を試している。
ちょん、と一回。
ちょん、ちょん、と二回。
少し長く触れて、「だいじょうぶ」の合図。
小さな触角が行き交うたび、巣の中に、ことばとは違うやわらかな連絡がひとつずつ増えていく。
それはたぶん、この王国が大きくなっていくための、もうひとつの大事な力なのだろう。
結葉はその光景を見回して、満足そうに頷いた。
「うん。これなら、ちゃんと伝わる」
そしてその言葉は、広くなった巣の中を、やさしい匂いみたいにゆっくりと満たしていった。
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仁の日誌
本日、結葉が子蟻たちに対し、触角と匂いによる簡易連絡の訓練を実施した。
結果は上々。結葉自身の嗅覚と記憶力が優れていることは以前から承知していたが、それを「他者が使える形にして渡す」能力まで備えていたのは、嬉しい誤算である。
触角による短い合図、匂いによる道しるべ、迷った際の対処――いずれも巣の運営効率を上げるだけでなく、今後の空洞探索にも有効だろう。風葉もその有用性に気づいていたようで、探索班との連携にも期待が持てる。
なお、授業の見学に来られた女王さまは終始たいへん楽しそうで、結葉が「先生」と呼ばれるたびに、ひどく嬉しそうにしておられた。
女王が娘たちの成長を喜ばれるのは、巣にとって良い兆候だ。
……ただし、子蟻たちの間で「葉月が怒っている時の逃げ方」を共有しようとする動きが見られた件については、後日、穏便に是正したい。




