28 執事はゆっくり眠らない
その夜、女王室には、夜灯り苔のやわらかな光が満ちていた。
ふかふかに整えられた床材の上に、蜜葉乃は半身を起こして座っている。
葉の仕切りは外からの風をほどよく和らげ、保温繊維はじんわりとしたぬくもりを巣の奥へ留めていた。
最近の女王室は、以前とは比べものにならないほど居心地がいい。
――居心地がよすぎるのではないか。
そんな仁の心配を思い出して、蜜葉乃はひとりでくすっと笑った。
たしかに快適ではある。けれども、だからといって、じっとしていられる性分ではないことは、みんながよく知っているはずだ。今日も昼間は、牧場の様子を見に行き、育房室で子蟻たちを撫で、双葉の実験室を覗き込み、最後には葉月に「そこから先は危ない」と通路から追い出されたばかりだった。
そんな一日の終わりである。
蜜葉乃は、膝の上に広げた葉片を見下ろした。そこには、今日の巣の様子が簡単に書き留めてある。双葉から受け取ったキノコの収穫量、葉月が広げた通路の位置、紬葉がまとめてくれた備品の配置。眺めているうちに、ふと、ひとつ確認したいことを思い出した。
「……そういえば」
女王室の隅で、明日の保温材を仕分けしていた紬葉が顔を上げる。
「どうしたの、女王さま?」
「今日、葉月が広げた通路のことなのですけれど、仁に聞きたいことがありまして」
「呼んできます?」
「ええ、お願い……」
言いかけて、蜜葉乃は小さく首を傾げた。
紬葉も、きょとんとする。
しばしの沈黙のあと、蜜葉乃はぱちぱちと瞬きをして、ほんの少し困ったように笑った。
「……そういえば、仁のお部屋って、どこでしたっけ?」
「え?」
紬葉が目を丸くした。
「ええと……仁のお部屋……」
言われてみれば、はっきりとは知らない。
仁はいつも巣のどこかにいる。女王室のそばにいる時もあれば、牧場でアブラムシの様子を見ていたり、双葉の実験室で難しい顔をしていたり、葉月と通路の補強の話をしていたりする。朝にはもう働いていて、夜も最後まで起きている。
けれど――仁が、どこで眠っているのか。
それを蜜葉乃は、ちゃんと知らなかった。
「……あら?」
思わず漏れた声は、我ながらずいぶん間の抜けた響きだった。
紬葉はしばらく考え込んでから、控えめに手を挙げた。
「たぶん、いつも休んでる場所はあります」
「あります?」
「でも……お部屋、っていう感じでは、ないかも」
その言い方が気になって、蜜葉乃はすっと背筋を伸ばした。
「見に行ってもいいでしょうか」
「はい。たぶん、今もまだ起きてると思いますけど」
「……まだ?」
「仁ですし」
それはたしかにそうだった。
蜜葉乃はふふ、と笑ってから、そっと立ち上がる。紬葉が慌てて仕分け中の葉束を脇へ寄せ、女王さまの足元に段差がないよう整えてくれた。
「では、案内してくださいな」
* * *
仁の“寝床”は、女王室と中央通路を繋ぐ途中にある、小さな控え区画にあった。
通路を少し広げたような半端な空間で、入口に扉はなく、葉を編んだ簡単な仕切りがかけられているだけだ。中を覗くと、壁際に葉を何枚も重ねた簡易寝床があり、その脇には細い枝を組んだ棚がひとつ、そして床にはいくつもの記録板や束ねた葉片がきちんと積み上げられていた。
乱雑ではない。
むしろ驚くほど整っている。
けれど
「……ここ、ですか?」
蜜葉乃が小さく呟く。
「たぶん」
「たぶん、って……」
紬葉は困ったように触角を揺らした。
「寝具はいつもここにありますし、仁の記録もここにまとまってます。でも……」
そこで言葉を切って、部屋の中を見回す。
「……寝てる場所ではありますけど、お部屋ではないですよね」
蜜葉乃も、同じことを思っていた。
たしかに横にはなれるだろう。
保温材も最低限あるし、棚には仕事道具も整然と収められている。記録板には物資の数や補強予定の位置がびっしり書き込まれ、地図には巣の現状が細かく描き込まれていた。
けれどもここには、休むための気配が薄い。
寝床の横にはすぐ記録板。
棚の上には筆記具と物資の一覧。
通路へ出れば、そのまま女王室にも育房室にも向かえる位置。
まるで――いつ呼ばれてもすぐ起きて、すぐ動けるように作られた場所だった。
「これは……」
蜜葉乃が、そっと寝床の葉先に触れる。
葉は薄く、きれいに重ねられていたが、女王室のふかふかとは比べるまでもない。
その時、通路の向こうから足音がした。
「……女王さま?」
聞き慣れた低い声に振り向くと、そこには記録板を抱えた仁が立っていた。蜜葉乃と紬葉、それから自分の寝床を見比べ、仁は一瞬だけ言葉を失う。
「……何をなさっているのですか」
「それは、こちらの台詞です」
蜜葉乃が少しだけ頬を膨らませると、仁は困ったように目を伏せた。
「紬葉が教えてくれました。ここが仁の寝る場所なのですね?」
「はい。私の寝床ですが」
あまりに当然の顔で言われて、蜜葉乃はもう一度部屋の中を見回した。
「……仁」
「はい」
「ここは、お部屋ではなくて、お仕事場では?」
「半々です」
即答だった。
紬葉が思わず「半々なんだ……」と呟く。
仁は記録板を棚へ戻しながら、いつもの落ち着いた声で説明した。
「女王室、育房室、中央通路、栽培区画、牧場、実験室。現在の巣で頻繁に確認が必要な場所は多岐に渡ります。その中間に位置するこの区画は、待機場所として効率が良いのです」
「待機場所」
「はい。何かあればすぐ動けますので」
蜜葉乃は、仁の横顔をじっと見た。
彼は本当に、これを不便とも不自由とも思っていないらしい。むしろ合理的な配置だと考えているのだろう。
「でも、仁はここで眠っているのですよね?」
「はい」
「ゆっくり眠れますか?」
「必要な分は」
必要な分。
その答えが、蜜葉乃には少しだけ引っかかった。
「……必要な分、ですか」
「私は女王さまほど長く眠る必要はありませんので」
「そういう話ではありません」
思ったより強い口調になってしまって、仁がわずかに目を瞬かせる。
蜜葉乃はそこで、はっとした。
叱りたいわけではない。ただ、胸の奥が妙に落ち着かなかったのだ。
体調を崩していた頃は、自分が毎日を越えるだけで精一杯だった。仁がどこで眠るのか、何を食べるのか、どれだけ休めているのか。そんなことまで気を回す余裕はなかった。
でも今は違う。
元気になって、巣の中を歩けるようになって、みんなの顔を見に行けるようになって。
そうしてようやく、見えてきたことがある。
仁は、いつもここにいる。
この巣のために、当たり前みたいな顔で働いている。
みんなの部屋は整えて、通路は広げて、牧場も実験室も作って、それなのに――
自分の場所だけが、こんなに仮のままだ。
「仁」
蜜葉乃は、やわらかく呼んだ。
「はい」
「あなた、いつもわたしたちのために、いろんな場所を整えてくださいますよね」
「それが私の役目ですので」
「では、ご自分のお部屋は、どうして整えないのですか?」
仁が口を閉ざした。
答えに詰まった、というよりは、質問の意味を測りかねているような顔だった。
「優先順位の問題です」
やがて仁はそう答えた。
「私個人の寝床より、巣の機能を整える方が先でした」
「だから、寝られれば十分?」
「……はい」
やっぱり、そうなのだ。
蜜葉乃は少しだけ目を伏せて、それから静かに言った。
「それは、だめです」
「女王さま?」
「だめです」
もう一度、今度ははっきりと繰り返す。
「仁は、いつもみんなのお部屋ばかり整えてくださるのに、ご自分だけずっと仮のままだなんて」
「ですが――」
「わたし、少しさみしいです」
ぽつりと落ちた言葉に、仁が息を止めた。
紬葉も、隣でぴたりと動きを止める。
蜜葉乃は自分でも少し照れくさくなりながら、それでも言葉を続けた。
「この巣は、みんなの巣です」
「……はい」
「でしたら、仁にもちゃんとお部屋が必要です。寝られる場所ではなくて、帰る場所が」
仁は何か言おうとして、けれどすぐには言葉が出てこなかった。
珍しく、ほんの少しだけ困った顔をしている。
その時だった。
「へえ。なるほど、そういう話」
後ろから声がして、三人が一斉に振り向く。
通路の向こうに、葉月が立っていた。どうやら途中で紬葉が事情を伝えていたらしい。腕を組み、いつもの気だるげな顔で仁の寝床を覗き込むと、葉月はふうん、と小さく鼻を鳴らした。
「これは部屋っていうより仮眠所だな」
「葉月」
「休むための配置じゃない。起きたらすぐ走るための配置」
まさにその通りだった。
葉月は壁を軽く叩き、周囲の空間を測るように視線を巡らせる。
「場所自体は悪くない。女王室にも中央通路にも近いし、こいつが待機するなら合理的だ。でも、個室にはなってない」
「ですよね」
紬葉がこくこく頷く。
「記録も物も増えてきましたし、棚も足りてません。寝具と仕事道具が近すぎます」
「近すぎるどころか混ざってるな」
「はい。完全に混ざってます」
本人を前にした容赦ない評価に、仁がわずかに眉を寄せる。
「必要十分の範囲です」
「十分じゃないから言ってるんでしょ」
「葉月、そこはもう少し優しく」
「事実だろ」
葉月は悪びれもせずに言ってから、蜜葉乃へ視線を向けた。
「で、どうする? 作るなら掘るけど」
その問いに、蜜葉乃は少しも迷わなかった。
「仁のお部屋、作りましょう」
「女王さま」
仁がすぐに口を開く。
「私の個室は不要です。現状でも支障はありません」
「あります」
「ありません」
「あります」
きっぱり言い返すと、仁はとうとう押し黙った。
蜜葉乃は寝床の横にしゃがみ込み、重ねられた葉をそっと撫でる。丁寧に整えられている。仁らしい、きちんとした寝床だ。けれど、丁寧であることと、ちゃんと休めることは別なのだろう。
「仁は、ここだと、ずっとお仕事のことを考えてしまうのではありませんか」
「……」
「少なくとも、わたしにはそう見えます」
仁は何も言わなかった。
それが肯定なのか否定なのかはわからない。けれども蜜葉乃には、なんとなくわかった気がした。
「場所は、女王室の近くがいいです」
蜜葉乃のその一言に、葉月が片眉を上げ、紬葉がぱちぱちと瞬きをした。
仁だけが、はっきりと固まる。
「近すぎます」
「そうでしょうか」
「女王室周辺は女王の安全を優先すべきです。私の私室に割くには――」
「夜に呼びやすいですし」
「……」
「わたしが安心します」
それを言われると、仁は弱い。
案の定、きれいに言葉を失った。
葉月が横から口を挟む。
「私もその方がいいと思うよ。どうせ仁は、夜中に何かあったら飛び起きて走るんだから、最初から近い方が効率いい」
「収納もまとめやすいです」
紬葉も頷く。
「仁の記録、女王室で確認することも多いですし」
完全に包囲されていた。
仁はしばらく沈黙し、やがて小さく息を吐く。
「……皆さまのお考えは、よくわかりました」
「では」
「ですが、規模は最小限で結構です」
「それは、実際に見てから決めましょう」
蜜葉乃がにこりと笑うと、仁は諦めたように目を伏せた。
葉月はもう壁の前に立っている。
「女王室の裏手なら掘れるな。通路と繋げれば出入りもしやすい。音もそこまで響かない」
紬葉もすっかりその気だ。
「棚は二段ほしいです。記録用と私物用を分けた方がいいと思います。あと寝具の横に物資を積むのは禁止で」
「禁止」
葉月が面白そうに繰り返す。
「禁止です」
紬葉は真顔で頷いた。
そのやり取りを見て、蜜葉乃は思わず笑ってしまう。
仁だけが、まだ少しだけ納得しきれていない顔をしていた。けれどもその表情さえ、どこか困ったようで、いつもの完璧な執事の顔とは少し違う。
だから蜜葉乃は、そっと言った。
「決まりです、仁」
「……はい」
「明日は、仁のお部屋を整えましょう」
「承知しました」
「それから」
蜜葉乃はやわらかく目を細める。
「少しは、ゆっくり眠ってくださいね」
仁は一瞬だけ目を見開き、それからほんのわずかに、苦笑に似た顔をした。
「努力いたします」
その返事に、蜜葉乃は満足そうに頷く。
女王室の近くに、仁の部屋ができる。
それはきっと、巣にまたひとつ新しい居場所が増えるということなのだろう。
みんなの巣に。
仁の帰る場所が、ようやくひとつ、できるのだ。
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仁の日誌
女王さまより、私室新設のご下命を賜った。
現状の待機区画は、業務上の利便性を優先した仮設運用であり、寝床としては必要十分と判断していたが、どうやら周囲の評価は異なるらしい。
葉月は「仮眠所」、紬葉は「寝る場所ではあるが部屋ではない」と評した。概ね事実であるため、反論の余地は乏しい。
女王室近辺に私室を置く案については、警備・導線・夜間対応の面から見ても合理性は高い。実務上も利点は大きいだろう。
ただし本件で最も印象に残ったのは、女王さまが「少しさみしいです」と仰ったことである。
あのような理由で私個人の居所を気にかけていただくとは、正直に言えば想定していなかった。
……帰る場所、か。
巣の整備計画に、私室を正式項目として追加する。
どうやら私は、自分で思っていた以上に、この巣に深く住みついているらしい。




