27 女王さまは、よく眠れておられますか
最近の蜜葉乃は、よく歩く。
それは巣の誰もが知っていることで、そして仁がいちばんよく知っていることでもあった。
朝になれば育房室へ行き、千葉夜が抱える幼虫たちを覗き込み、「まあ、この子また大きくなりましたねえ」と目を細める。昼には双葉の栽培区画へ顔を出して、「この葉っぱはつやつやですね」と感心し、気づけば紬葉の整えた棚の前で「きれいです」とうっとりしている。夕方には牧場を見に行き、葉月が広げた通路を「歩きやすくなりましたねえ」と褒め、帰り道で子蟻たちに捕まって、しばらく一緒にごろごろしている。
元気になったのだ。
誰の目にもわかるほど、はっきりと。
頬の色つやは良くなり、ふわりと笑う声にも前より張りがある。以前は少し起きているだけで肩で息をしていたのに、今では気づけばあちこち見て回っている。
それはとても喜ばしいことだった。
――喜ばしい、のだが。
「女王さま」
その日もまた、仁は静かな声で女王を呼んだ。
返事は、女王室からではなく、通路の向こうから返ってきた。
「はあい」
声のする方へ向かうと、案の定、蜜葉乃は女王室にはいなかった。
いたのは、育房室と通路の間の少し広くなった場所である。千葉夜が並べた保温葉の束を前にしゃがみ込み、ふむふむと頷いていた。
「こちらにいらっしゃいましたか」
「千葉夜が、冬に向けて保温葉の重ね方を変えるって言うので、見せてもらっていたんです」
蜜葉乃は振り返って、悪びれもせずににこりと笑う。
その横では千葉夜が、保温葉を胸に抱えたままおろおろしていた。
「ち、ちがうんです、仁。わたしが呼んだんじゃなくて、女王さまが“ちょっと見せてくださいな”って……」
「千葉夜を責めてはおりません」
ほっと胸を撫で下ろす千葉夜の隣で、蜜葉乃が小首を傾げる。
「仁、そんなに難しい顔をしなくても大丈夫ですよ。ほんの少し見に来ただけです」
「その“ほんの少し”が、本日はこれで四度目です」
「四度もですか?」
「はい」
「まあ」
蜜葉乃は本当に驚いたように目を丸くした。
自覚がなかったらしい。
仁は小さく息をつく。
「育房室、栽培区画、牧場、東通路。そして今、ここです」
「いっぱい見ましたねえ」
「見すぎです」
きっぱり言い切ると、蜜葉乃は少しだけ口を尖らせた。
「でも、みんなが頑張っているところを見るのは楽しいのです」
「それは存じております」
「新しくなったお部屋も、まだ全部は見きれていませんし」
「本日はもう十分です」
有無を言わせぬ口調だった。
「……仁は、今日はいつもより厳しいですねえ」
「今日は、ではなく、毎日申し上げております」
「そうでしたっけ」
「そうです」
淡々と返され、蜜葉乃はとうとうくすくす笑い出した。
怒られているはずなのに、少しも堪えていない顔である。
「そんなに笑う場面ではありません」
「だって、仁があまりにも真剣なので」
「真剣にもなります。女王さまが気づけばあちこちにいらっしゃるのですから」
「歩けるのが嬉しいんですもの」
その言葉に、仁は少しだけ黙った。
――歩けるのが嬉しい。
それは、以前の蜜葉乃なら口にしなかった言葉だ。
起きているだけで精一杯だった頃の彼女は、どこかへ行きたいとも、何かを見たいとも、あまり言わなかった。ただ目の前の一日をやり過ごし、少しでも身体を保たせることで精一杯だったからだ。
今は違う。
見たいものがある。
行きたい場所がある。
娘たちの働く姿を、自分の目で見に行ける。
それがどれほど嬉しいことかは、仁にもわかっていた。
わかってはいたが、それとこれとは話が別だった。
「女王さま」
「はい?」
「本日は、これで女王室へお戻りください」
仁がそう言うと、蜜葉乃は露骨にしゅんとした。
「まだ少ししか歩いていませんのに」
「十分歩いていらっしゃいます」
「もう少しだけ、葉月の通路も見たかったのですが」
「明日です」
「双葉のキノコ部屋も」
「明日です」
「紬葉が棚を増やしたそうで」
「それも明日です」
ぴしゃり、と切りそろえられて、蜜葉乃はとうとう観念したように肩を落とした。
「……わかりました」
だが返事をしたあと、そっと仁の袖を摘まむ。
「では、女王室まで一緒に来てくださいますか」
ほんの少し甘えるような声音だった。
仁は一瞬だけ目を瞬かせ、それから静かに頷いた。
「もちろんです」
そうしてふたりは並んで通路を歩く。
蜜葉乃は仁の半歩うしろを、けれど時々袖を摘まんだままついてくる。途中ですれ違った子蟻たちが「あっ、女王さまだ」「仁もいる」と小声ではしゃいでいたが、蜜葉乃はただ嬉しそうに微笑むだけだった。
女王室に戻ると、やわらかな灯り苔の光が、葉のカーテン越しに揺れていた。
ふかふかに重ねられた床材の上へ蜜葉乃を座らせ、仁は慣れた手つきで保温繊維の。位置を整える。少し崩れていた葉の端を直し、水滴を集めた小皿を手の届く場所へ置き直した。
「少し冷えます。肩にこちらを」
「ありがとうございます」
蜜葉乃は素直に薄葉の布を受け取って肩にかける。
その様子を見て、仁はようやく少しだけ表情を緩めた。
「……最近、夜はよく眠れておられますか?」
蜜葉乃がぱちりと瞬く。
「眠れていますよお」
「途中で息苦しさが出たりは」
「それも、だいぶ減りました」
「朝のだるさは」
「前よりずっと楽です」
ひとつひとつ確かめるような問いに、蜜葉乃はきちんと答えていく。
仁の顔は相変わらず真面目だった。
「でしたらよかった。ですが、元気になられたことと、無理をしてよいことは別です」
「はい」
「眠れているかどうかと、疲れが溜まっていないかも別問題です。明日も歩き回るおつもりなら、なおさら本日はお休みください」
「……はい」
今度の返事は少しだけ小さかった。
仁はその様子に気づいたのか、声を和らげる。
「責めているわけではありません」
「わかっています」
「本当に」
「本当です」
蜜葉乃はふわりと笑った。
「仁は、本当にわたしを寝かせたいのですねえ」
「言い方に語弊があります」
「違うんですか?」
「違いませんが、もう少しこう……」
珍しく言葉に詰まる仁を見て、蜜葉乃はまたくすりと笑う。
「ふふ。冗談です」
「……お元気そうで何よりです」
半ば諦めたような仁の返答が、かえっておかしかった。
笑いながら、蜜葉乃はふと思う。
仁は、いつもこんなふうだ。
自分の寝床を整え、冷えを気にして、食事の量を見て、歩きすぎれば止めに来る。育房室にいれば迎えに来て、栽培区画にいれば戻そうとする。巣のことを細かく把握して、娘たちの働きぶりまでよく見ている。
以前は、それを深く考える余裕がなかった。
体調の悪い頃は、一日を過ごすだけで精一杯だったからだ。息をすること、食べること、眠ること。少しでも体を保たせることに必死で、仁がそばにいてくれる理由だとか、なぜこんなに世話を焼いてくれるのかだとか、そんなことをゆっくり考える暇はなかった。
けれども今は、違う。
歩けるようになって、笑えるようになって、娘たちの顔を見に行けるようになって。
ようやく少し、周りを見る余裕ができた。
そうすると、不思議に思うのだ。
――この人は、どうしてここにいるのだろう。
この巣で生まれたわけでもなければ、娘たちのように自分と血が繋がっているわけでもない。なのに今や、誰よりも自然な顔でこの巣の中にいる。
食糧の管理をして、牧場を広げ、通路の安全を見て、娘たちの報告をまとめ、そして自分がちゃんと眠れているかまで気にしている。
「……仁」
「はい」
「ひとつ、お聞きしてもいいですか」
仁が手を止めて振り返る。
灯り苔の淡い光の中で、その横顔はいつもより少しだけ柔らかく見えた。
「どうして仁は、そんなにわたしのことを気にしてくださるのですか」
問いかけると、仁はほんのわずかに目を見開いた。
予想していなかったのだろう。
「それは……」
珍しく言葉が止まる。
蜜葉乃は急かさず、ただ仁を見上げた。
やがて仁は視線を少し逸らし、静かに答える。
「女王さまは、この巣の女王です」
「はい」
「巣の中心であり、皆さんの拠り所です。お身体を崩されれば困る者が多い」
きわめて仁らしい、整った答えだった。
けれど蜜葉乃は、なぜだか少しだけおかしくなる。
「それだけですか?」
思わずそう聞いていた。
仁がぴたりと黙る。
女王室の空気が、ほんの少しだけ変わった気がした。
葉のカーテンの向こうで、どこか遠くの子蟻たちの笑い声がかすかに聞こえる。灯り苔の淡い緑が、仁の頬のあたりをぼんやり照らしていた。
「……それだけでは、不足でしょうか」
低く返ってきた声に、今度は蜜葉乃の方が瞬く番だった。
問い返された、というより。
困らせてしまったのかもしれない。
「い、いえ。そういうわけではなくて……」
「でしたら、十分かと」
そう言って仁は、少しだけ――本当に少しだけだが、口元を和らげた。
いつもの静かな顔なのに、そのわずかな変化だけで、蜜葉乃の胸がくすぐったくなる。
「仁は、ずるいですねえ」
「何がでしょう」
「そこをそう返されると、これ以上聞きにくいです」
「聞きにくくしているつもりはありません」
「あります」
きっぱり言うと、仁は困ったように目を伏せた。
その反応が珍しくて、蜜葉乃はつい笑ってしまう。
でも、答えをはぐらかされた気がしたのに、不思議と嫌ではなかった。
むしろ胸の奥に、あたたかなものがふわりと残る。
――それだけでは、不足でしょうか。
あれはきっと、ずるい返し方だ。
ずるいのに、少し嬉しい。
仁は小皿の位置を最後にもう一度だけ整えると、立ち上がった。
「では、本日はもうお休みください。もし夜中に息苦しさや冷えを感じたら、すぐ呼んでください」
「はい」
「明日の視察は、午前だけにしてください」
「善処します」
「蜜葉乃さま」
「……午前だけにします」
「よろしい」
ようやく納得した仁が女王室を出ていく。
葉のカーテンが揺れ、その向こうへ気配が遠ざかっていった。
ひとりになった女王室は静かだった。
灯り苔の淡い光が、ふかふかの床材をやさしく照らしている。肩にかけた薄葉の布にはまだ少しだけ仁の手の温度が残っているような気がした。
蜜葉乃は寝床に横になり、ゆっくり息をつく。
眠気は、たしかにあった。
体も少しぽかぽかしている。
以前なら、こうして横になっただけで苦しさに意識が向いたものだが、今は違う。柔らかな床も、整えられた保温繊維も、葉の香りも、全部が心地いい。
だからこそ、考えてしまう。
仁は、どうしてここにいるのだろう。
どうして、自分の巣でもない場所で、こんなにも当然のように働いているのだろう。
どうして、自分の娘でもない子たちのことまで気にかけてくれるのだろう。
どうして、わたしが眠れているかどうかを、あんなふうに確かめるのだろう。
その答えは、まだよくわからない。
けれども、問いを抱えたまま目を閉じていると、不意に遠い記憶がふわりと浮かんだ。
高い空。
不安定な風。
思うように飛べなかったこと。
どこへ向かえばいいのかも曖昧なまま、それでも必死に羽ばたいていた、あの日。
あの時も、誰かに助けられたことがあった気がする。
顔はもう、はっきりとは思い出せない。
声も曖昧だ。
ただ、ひどく心細かった時に、少しだけ手を貸してくれた誰かがいた。
あれが夢だったのか、本当にあったことなのかさえ、今では少し自信がない。
「……似ているのかもしれませんねえ」
ぽつりと呟いて、自分で首を傾げる。
何が似ているのか、自分でもうまく言えない。
ただ、あの時の記憶に残る“誰か”の手つきと、さっきまで寝床を整えていた仁の手つきが、なぜだか少しだけ重なった気がしたのだ。
もちろん、ただの気のせいかもしれない。
「……仁のこと、あまり知らないのかもしれません」
小さく零した声は、やわらかな寝床に吸い込まれていく。
灯り苔の光が、ゆるやかに揺れる。
蜜葉乃は肩まで布を引き上げると、ゆっくり目を閉じた。
「……今度また聞いてみましょうか」
けれどその声は、最後まで形にならないうちに眠気へほどけていった。
女王室の外では、夜の巣が静かに息づいている。
新しくなった通路も、育房室も、牧場も、実験室も、みんなの気配を抱えたまま穏やかに眠っていた。
そしてその真ん中で、蜜葉乃もまた、今夜はとても静かに眠った。
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仁の日誌
女王さまの体調は概ね安定。食欲・睡眠ともに改善傾向にあり、活動量も明らかに増加している。
喜ばしい一方で、最近は巣内視察の頻度が高く、休養時間が削られがちである。本人に悪気はなく、むしろ「元気になったから見て回りたい」という前向きな理由によるものだが、だからこそ制限が難しい。
本日も女王室への帰還を促したところ、素直に応じてはくださった。とはいえ、明日にはまた別区画へ向かわれる気がしてならない。
……体調が上向いてきた証拠だとわかっていても、やはり心配は尽きない。




