25 アブラムシの大牧場 王国リフォーム大作戦その5
今朝は牧場の真ん中で、仁が真顔で呟いた。
「……増えておりますね」
目の前には、葉の茎にびっしりと並んだアブラムシたち。
もともとは一葉が連れ帰ってきた小さな群れだったはずだが、今では立派に“牧場”と呼ぶべき規模になっている。細い茎に整列する群れ、葉裏にまとまる群れ、少し離れたところで新しい葉へ移される待機組――見慣れたはずの光景なのに、今朝はどうにも圧が強かった。
原因は単純である。
増えたのだ。
ものすごく。
仁はしゃがみ込み、葉の状態をひとつずつ確認する。茎の張り具合、葉の水分、アブラムシの密度、甘露のつき方、通路側へのはみ出し――確認すべき項目は多い。
「第三列の茎、交換。東側の群れは密度過多……こちらは移設。ああ、甘露の受け葉も足りませんね」
ぶつぶつと呟きながら、仁は小さな器を並べ直す。
その横で、ふわりとした緑の葉が揺れた。
「じんー、これなあに?」
見上げれば、子蟻がひとり、入り口にへばりついていた。
その後ろにはもうふたりいる。いつの間にか見学者が増えている。
仁は静かに立ち上がった。
「アブラムシです」
「ちっちゃいむし」
「はい」
「おいしいの?」
「彼らが生産する甘露が貴重なのです」
「かんろ?」
「甘いしずくです」
「あまい!」
「近づかないでください」
言ったそばから、ひとりが柵の下に顔を突っ込もうとする。
「近づかないでください」
「みるだけ!」
「その“みるだけ”が危険なのです」
仁が子蟻を抱き上げたところで、背後から元気な声が飛んできた。
「おはようございますー! ……あら」
一葉である。
朝からにこにこしながら現れた長女は、仁の片手にぶら下がる子蟻と、柵に張りつくもうふたりを見て、ぱちぱちと瞬いた。
「今日は牧場見学会ですか?」
「違います。侵入未遂です」
「未遂ならぎりぎりセーフですね」
「アウトです」
一葉はくすくす笑いながら、子蟻たちの前にしゃがみ込んだ。
「ここは仁の大事なお仕事場なので、勝手に入るとだめですよ」
「でも、むしいる」
「いますね」
「あまいしずくもある?」
「ありますよ。でも、いい子にしか見せてもらえないかも」
「じゃあ、いいこにする!」
子蟻たちはぱっと姿勢を正した。
仁は無言で一葉を見る。
「……なぜ一葉が言うと従うのですか」
「親しみやすさでしょうか」
「納得いきません」
その時、さらに別の声が割り込んできた。
「じんー、この葉っぱ、ちょっと元気なくなってるかも〜」
双葉だった。
両腕いっぱいに葉の束と小さな鉢を抱え、よたよたと歩いてくる。しかも抱えている葉の半分は、どう見ても仁が今朝頼んでいない種類だ。
「双葉、それは何ですか」
「牧場の葉っぱがちょっと窮屈そうだったから、元気な草を持ってきたの」
「頼んでおりません」
「でも、元気だよ」
「元気すぎる草を牧場に持ち込まないでください」
仁が真顔で言うと、双葉はきょとんと首を傾げた。
「だめ?」
「だめです。前回、蔓が入口を越えて通路まで伸びたのを忘れたのですか」
双葉は「ええ〜」と不満そうな声を上げながらも、とりあえず葉束を足元へ置いた。
仁は改めて牧場全体を見回した。
以前は巣の片隅に、数本の茎を立てて飼育していただけだった。
だが今は違う。女王の食事、幼虫の栄養、家族の保存食――王国の食糧事情の一端を、この小さな牧場が確かに支えている。だからこそ、もう“片隅の飼育区画”のままでは限界だった。
アブラムシは増えた。
葉の交換も増えた。
甘露の採取量も増えた。
見学しにくる子蟻も増えた。
最後のひとつは本来業務に含まれていないが、現実として増えているのだから仕方がない。
仁は静かに息を吸った。
「……限界です」
一葉がぴくりと反応する。
双葉も「え?」と目を丸くした。
仁はくるりと振り返り、牧場の前に立った。
「この牧場、もはや“片隅の飼育区画”では運用しきれません。本日、正式に改装いたします」
しん、と一瞬だけ空気が止まる。
次の瞬間、一葉がぱっと顔を輝かせた。
「おおー! 牧場もリフォームですか!」
「はい」
「すてきです!」
「え、じゃあ、葉っぱも増やしていい?」
「精査の上でなら」
「せいさ……」
「むやみに増やすなという意味です」
「わかった!」
双葉があっさり頷く。
本当にわかったかは、かなり怪しい。
そこへ、今度は育房室の方から千葉夜がひょこりと顔を出した。
腕には子蟻をひとり抱えている。
「牧場、改装するんですか?」
「はい」
「じゃあ、小さい子が入り込まないようにしてほしいです。みんな気になっちゃうみたいで」
「私もそれを問題視しておりました」
仁が即答すると、千葉夜はにこっと笑った。
「それならよかったです。あと、寒いところだと、この子たちもかわいそうですし」
「……アブラムシのことですか」
「はい」
「そこまで配慮されるとは思っておりませんでした」
「生き物ですから」
千葉夜は本当に不思議そうな顔をした。
仁は少しだけ押し黙り、それから深く頷いた。
「もっともです」
さらにその後ろから、資材を担いだ葉月が現れた。
「朝から騒がしいと思ったら、今度は牧場か」
「はい。通路に干渉しないよう再配置したいのですが」
「だったら最初に図を見せろ。今のままだと、世話するたび通路側に体はみ出してるだろ」
「……ご指摘は事実です」
葉月は牧場を一瞥し、ふんと鼻を鳴らした。
こうして、王国リフォーム大作戦その五――
アブラムシの大牧場計画 が始まった。
改装のために、まず牧場の中身を整理する必要があった。
仁が床に簡単な図を描く。
今の牧場の位置、通路、栽培区画との距離、甘露の採取場所、葉の保管場所。
「まず、群れを三つに分けます」
仁が枝で線を引いた。
「第一群は採取優先。女王さま用と幼虫用の甘露を安定供給する群れ。
第二群は増殖用。第三群は予備です」
「よび?」
一葉が首を傾げる。
「葉の交換時や、群れが弱った時の保険です。すべてを同じ条件で管理すると、ひとつ崩れた時に立て直しが利きません」
「わあ、すっかり牧場主ですね」
「牧場ですので」
「返しが強い」
葉月がその図を覗き込み、顎に手を当てる。
「群れ分け自体はいい。けど、その配置だと奥の群れの世話がしづらい。通路側から全部届くようにした方がいいだろ」
「……なるほど」
「あと、飼料葉の置き場は栽培区画に寄せろ。双葉が運ぶ距離が短い方がいい」
「わたし、いっぱい運ぶよ」
「いっぱい運ばせないための話だよ」
「なるほど」
仁は少し黙ってから、図を書き直した。
主通路側に世話用の細い作業路。
その内側に、第一群・第二群・第三群の区画。
さらに奥に、双葉の栽培区画と繋がる「飼料葉棚」。
そして、甘露を採るための受け葉と器を置く小さな作業台。
「……これなら」
「うん、だいぶいい」
葉月が頷く。
そこへ、柵の外からちびたちの声が飛ぶ。
「ぼくじょうってなにー?」
「むしのおうち?」
「じんのおしごと!」
一葉が振り向いて笑う。
「はいはい、みんなは見学だけですよ」
「けんがく!」
「ならんでみる!」
気づけば子蟻たちが、牧場の前にちょこんと並び始めていた。
葉の切れ端を座布団代わりにして、ぺたんと座っている子までいる。
仁は額を押さえた。
「……なぜ見学会になっているのですか」
「人気スポットなんでしょうねえ」
「望んでおりません」
工事が始まると、牧場の前はそれはもう、いっそう賑やかになった。
葉月が床をならす。
仁が群れごとにアブラムシを移し、双葉が使う葉を選り分ける。
紬葉は細い繊維を束ねて柵の結び直しを手伝い、結葉は「この葉っぱ、甘い匂いする!」と葉の選別役を買って出た。
風葉は少し離れたところで、子蟻たちが柵をくぐろうとしていないかを見張っている。
「紬葉、その結び方で大丈夫ですか?」
「うん、ぎゅってすればほどけにくいよ」
「助かります」
「結葉、その葉は第二群へ。こっちは甘露が強く出そうです」
「わかった! ……たぶん!」
「たぶんで振り分けないでください」
「じゃあ、七割!」
「微妙に下がりましたねえ」
一葉が笑う。
その一葉自身も、今日は忙しかった。
仁が群れを移すたびに、アブラムシたちへ声をかけるのだ。
「はいはい、お引っ越しですよお。新しい葉っぱの方が広いですからねえ」
「びっくりしないでくださいねえ。仁さんは怖い顔してますけど、悪いことはしませんよ」
「……その補足は必要ですか」
「安心感は大事です」
「私が不安要素扱いされております」
けれども不思議なことに、一葉が話しかけながら移した群れは、なんとなく落ち着いているように見えた。少なくとも、葉を変えた時の散り方が少ない。
仁は新しい区画へ移された群れをじっと観察し、それから一葉を見た。
「……協力的ですね」
「いい子たちですから」
「本日の群れ、いつもより従順です」
「褒めてるんですか?」
「事実を述べています」
一葉はくすくす笑いながら、また別の群れに顔を寄せた。
「よかったですねえ、仁さんに認められましたよ」
仁は少し納得のいかない顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
双葉は双葉で、牧場の横に新しい飼料葉区画を作ることに夢中になっていた。
「アブラムシさんたち、この葉っぱ好きみたいだよ」
「どれですか」
「これと、こっちのやわらかい葉。あと、この茎は汁が多いの」
「……確かに悪くありませんね」
仁が珍しく素直に認めると、双葉はぱっと顔を輝かせた。
「ほんと?」
「ただし、増やしすぎないでください」
「ええ〜」
「ここは牧場です。藪ではありません」
「ちょっとくらいならいいでしょ」
「その“ちょっと”が信用ならないのです」
葉月が横から吹き出す。
「わかる」
「葉月まで〜」
「前科があるからな、お前は」
結局、双葉の植物は仁と葉月の監督のもと、牧場の脇に小さな棚としてまとめられた。アブラムシがつきやすい葉、汁の多い茎、交換用の若い芽。
栽培区画と牧場がぴたりと繋がり、運び込みやすいように配置されていく。
それを見て、一葉が感心したように言った。
「これ、すごいですねえ。双葉の葉っぱが、仁さんの牧場にそのままつながってる」
「食糧ラインの構築です」
仁が答える。
「女王さまの食事、幼虫たちの栄養、保存用の甘露――それらを安定させるには、栽培と飼育を切り離さない方がよい」
「食糧ライン……」
一葉が目を丸くする。
「なんだか王国っぽいです」
「王国ですので」
「今日は返しが全部強いですねえ」
⸻
昼前になると、牧場の輪郭がだいぶ見えてきた。
低い柵に囲まれた区画が三つ。
その奥に飼料葉棚。
横には甘露採取用の器と受け葉を並べる作業台。
床は葉月が踏み固め、通路との境目も以前よりずっとわかりやすい。
そして何より、子蟻が入り込みにくい。
「これなら、小さい子が勝手に転がり込みませんね」
千葉夜が嬉しそうに頷いた。
いつの間にか幼虫を寝かせ終え、様子を見に来ていたらしい。
「ちいねえちゃん、これなにー」
「アブラムシさんの牧場ですよ」
「ぼくじょう!」
「入ったらだめですよ」
「なんでー」
「仁さんがすごく困るからです」
「それはだめー」
子蟻たちは納得したように頷いた。
仁は少しだけ複雑そうな顔をする。
「私が困ることを基準に説明されるとは思いませんでした」
「でも、わかりやすいですよ」
「……否定はできません」
千葉夜は柵の中を覗き込み、それからふと首を傾げた。
「この子たちも、あったかい方が元気なんですか?」
「そうですね。冷えすぎると葉の状態も落ちますし、群れも弱ります」
「じゃあ、風が当たりすぎないようにしたいです」
「同感です」
仁は少し考えてから、牧場の奥に保温繊維を足し、風が抜けすぎないよう壁際を調整した。
さらに双葉が「湿り気が少し保てる草」を端に植え、葉月がそれを「増えすぎない範囲」で囲い込む。
誰かひとりの仕事ではない。
牧場もまた、王国のみんなで作る場所になっていた。
午後、改装がほぼ終わった頃。
巣の奥から、やわらかな声が聞こえた。
「まあ。今日はとっても賑やかですね」
蜜葉乃だった。
最近はだいぶ体調も戻り、女王室から出てくることが増えている。
今日もふわりと微笑みながら、ゆっくりこちらへ歩いてきた。
仁が真っ先に駆け寄った。
「女王さま、足元がまだ安定しておりません」
「見るだけですよ」
「その“見るだけ”で済まないことが増えております」
「まあ」
そう言いつつも、蜜葉乃は柵の手前までやって来た。
そして、新しくなった牧場を見渡して、目を丸くする。
「まあ……本当に牧場ですねえ。こんなにたくさんだったの」
「はい」
仁が静かに答える。
「ここで、みなさまの食糧の一部を育てております」
「みんなのごはんを、ここで」
蜜葉乃は感心したように息をついた。
「素敵ですね」
「……ありがとうございます」
そのひと言に、仁の声がほんの少しだけ柔らかくなる。
一葉はその横顔を見て、ちょっとだけ嬉しくなった。
仁はいつだって真面目だ。やりすぎるほど真面目で、たまに変な方向へ全力で、そしてだいたい顔が怖い。でも、その全ては女王とこの巣のためなのだと、みんな知っている。
「仁、よかったですね」
「何がですか」
「女王さまに褒めてもらえました」
仁の触覚が微かに揺れる。
「……仕事の成果をご確認いただけたのは喜ばしいことです」
「すごく嬉しそうな言い換えです」
「気のせいです」
そして最後に、仁は新しい牧場で採れた最初の甘露を、小さな器に集めた。
区画ごとに採れた分を見極め、今日は一番状態の良いものだけを選ぶ。
「女王さま用です」
差し出された器を、蜜葉乃はそっと受け取った。
ひとくち、舐める。
それから、ふわりと目を細めた。
「……おいしい」
みんながぱっと顔を上げる。
「前より、ずっとやさしい甘さです」
「葉っぱが元気だったからかなあ」
双葉が嬉しそうに言う。
「飼育環境の改善も影響しているかと」
仁が即座に補足する。
「両方ですね」
蜜葉乃がにこりと笑った。
「双葉の葉っぱも、仁さんの牧場も、最高に素敵です」
「わあい」
「恐れ入ります」
一葉はその様子を見て、胸の奥がぽかぽかした。
王国の部屋が増えるたび、暮らしが少しずつ整っていく。女王室、通路、そして牧場。前より広くなって、前より住みやすくなって、前より“みんなで生きている場所”になっていく。
そんな風に思いを馳せていた、その時だった。
柵の外から、ちびの子蟻が仁の服の裾を引っ張った。
「じん」
「なんでしょう」
「ぼくじょうぬし?」
「……はい?」
「じん、ぼくじょうのおせわしてるひと」
「そうですが」
「ぼくじょうぬしだ!」
そのひと言で、周りの子蟻たちが一斉に目を輝かせた。
「ぼくじょうぬし!」
「じん、ぼくじょうぬし!」
「むしのおせわしてる!」
一葉が吹き出す。
「ふふっ、仁、牧場主さんですって」
「否定しきれてないじゃん」
葉月が肩を揺らす。
「似合うねえ」
双葉まで頷く。
「頼もしいです」
千葉夜もにこにこしている。
仁は真顔のまま口を開いた。
「私は執事です」
「でも牧場主ー!」
「管理者ではありますが」
「ほら、認めた」
一葉が追い打ちをかける。
そして最後に、蜜葉乃がやわらかく笑った。
「うふふ。頼もしい牧場主さんですね」
決定打だった。
仁は一瞬だけ言葉を失い、それから静かに目を伏せた。
「……光栄です」
負けたのだ。
たぶん、完全に。
その途端、子蟻たちは、きゃあきゃあと跳ね回り始めた。
「ぼくじょうぬしー!」
「じんのぼくじょう!」
「あまいしずくのとこー!」
笑い声が、巣の中いっぱいに広がっていく。
アブラムシの大牧場は、こうして改築された。
女王と家族の食卓を支える場所として。
そして仁の、なんだかよくわからない肩書きがまたひとつ増えた。
今日もまた、王国は少しずつにぎやかに、少しずつ豊かに。
家族みんなで育っていくのだった。
⸻
仁の日誌
本日、アブラムシ飼育区画の大規模改装を実施。
これまで片隅の飼育場として運用していたものを、正式な生産区画――通称「アブラムシの大牧場」として再編した。
主な変更点は以下の通り。
一、群れの三区画化。
二、双葉の栽培区画との接続。
三、採取設備の整理。
四、安全性の向上。
一葉がアブラムシ群へ声をかけながら移設を手伝ったところ、なぜか群れが比較的落ち着いていた。彼女の“生き物を安心させる力”は侮れない。
女王さまにも完成後の牧場をご覧いただいた。
「みんなのごはんをここで育てているのですね」とのお言葉を頂戴した時、本日の改装は十分報われたと感じた。
なお、子蟻たちの間で私が「牧場主」として認識されつつある。
不本意ではあるが、完全否定も難しい。実態として間違っていないからだ。
執事、補佐役、記録係、資材管理、時々神への報告係。
そこへ牧場主が追加された。
役割が増えるのは構わない。
この王国が育つなら、いくつでも引き受けよう。
……結局、牧場の観光地化は加速してしまったのでは




