20 神様の大丈夫は、だいたいろくでもない
その夜、巣はようやく静かになっていた。
双葉の実験が引き起こした大暴走――蔓と根の増殖、飛び散る胞子、崩れかけた通路、巻き込まれた姉妹たちの救出騒ぎ。それらすべてをどうにか収め、傷んだ区画を応急補修し終えた頃には、巣のあちこちに疲労の気配が満ちていた。
育房室では、千葉夜が幼虫たちを抱えるようにして寝かしつけている。
双葉は「ごめんなさい……でも、ちょっとだけ、いい結果もあったんです……」と半泣きで言いながら、結局そのまま眠ってしまった。
葉月は壁の向こうに露出した古い通路跡を前にして「今すぐ掘りたい」と目で訴えていたが、護葉に静かに止められ、しぶしぶ引き下がった。
一葉も風葉も、結葉も紬葉も、今日ばかりはぐっすりだ。
蜜葉乃もまた、女王室の奥で静かな寝息を立てていた。
まだ本調子とはいかないが、花蜜や飼育区画の成果のおかげで、以前よりずっと顔色はいい。今夜は騒ぎの後始末で疲れただろうに、それでも眠る前には「みんな無事でよかったです」と微笑んでいた。
その寝顔を確認してから、仁はそっと女王室を辞した。
巣の中央通路は、夜の湿り気をたっぷりと含んでいる。
補強したばかりの壁に手を当てながら、仁は静かに歩いた。
通路の角を曲がった先、今は誰もいない栽培区画の一角に、例のものがある。
――朝露の雫玉。
あの神から渡されたアイテムだ。
栽培区画の隅に埋めると、周囲の湿度を少し安定させる。そう説明され、実際それなりに役立っていた。双葉の植物たちが元気だったのも、この雫玉の後押しが一因だろう。
ただし。
「……“少しだけ”では、ありませんでしたね」
仁はしゃがみ込み、埋められた場所の土を見つめた。
今日の暴走を思い返す。
双葉は、葉を元気にしたい一心で、栽培区画の水分、根の養分、蔓の誘導、きのこの菌糸まで同時にいじってしまった。そこに朝露の雫玉がもたらす安定した高湿度が重なり、さらに栽培区画の植物同士が妙な相互作用を起こした。
結果、蔓と根が一斉に増殖し、胞子が舞い、巣の一部を飲み込む寸前までいった。
双葉の好奇心と努力が原因の大半を占めているのは間違いない。
だが、それだけではない。
「……あの神、やはり説明不足では」
ぽつりと呟いた、その時だった。
「ひどいなあ。ちゃんと“少しだけ”って言ったのに」
ひょい、と。
通路の壁際、何もなかったはずの影の上に、いつの間にか誰かが座っていた。
細い脚をぶらぶらさせ、どこから持ち込んだのか小さな果実をかじっている。
人のようで人ではなく、輪郭の曖昧な存在。
夜気に溶けるような髪と、面白がるように細められた目。
仁は立ち上がり、無言でその姿を見下ろした。
「……いらっしゃると思っておりました」
「おや、歓迎してくれるの?」
「いいえ」
「即答だねえ」
神は少しも気にした様子なく、果実をもう一口かじった。
「見舞いに来たんだよ。大惨事だったって聞いたから」
仁は改めて朝露の雫玉へ視線を落とした。
「お見舞いに来られたのであれば、ひとつ確認したいことがあります」
「どうぞ」
「こちらの雫玉ですが」
「うん」
「植物の活性を、湿度の安定以上に補助する性質がありますね?」
神の口元が、ぴくりと動いた。
「……へえ」
「否定は」
「しないよ」
「やはり」
仁は頭痛を堪えるようにこめかみへ手を当てた。
「なぜ、その点を最初に説明なさらなかったのですか」
「だって、面白いかなって」
「面白いで済ませてよい規模の事故ではありませんでしたが」
「でも誰も死んでないでしょ?」
「基準が雑です」
神はくすくす笑った。
悪びれない。まったく悪びれない。
「いやあ、双葉ちゃんが思った以上に才能あったからさあ。ふつう、あそこまで一気に相互作用は起きないよ。蔓と根と菌糸を同時に走らせるなんて、なかなか見られないもの」
「観察記録のように仰らないでください」
「きみ、ほんと苦労人だね」
「あなたのせいです」
「全部?」
「かなりの割合で」
神はそこで、ふうん、と楽しそうに目を細めた。
「でもさ、結果は悪いことばっかりじゃなかったでしょ。壁の向こうに繋がりそうな通路は見つかったし、増殖した蔓を乾かしたら補強材としてかなり優秀だった。きのこも美味しかったみたいだし」
「……それは否定いたしません」
実際、今日の大騒動で得たものは多い。
暴走した蔓は、乾燥させて編み込むと驚くほど丈夫だった。
通路の補強材として使えば、土壁の崩落をかなり防げるだろう。根の繊維も縄のように使える。
飛び散ったきのこは試しに焼いてみたところ、家族全員が目を丸くするほど美味だった。
そして何より、壁の向こうへ続くかもしれない空洞の手がかりが見つかった。
葉月は今にも掘り進めたそうだったが、あの先はまだ未知だ。
崩落の危険も、何がいるかもわからない。
だからこそ、準備が要る。
仁が黙り込むと、神は果実の芯をぽいと放り投げ――投げたはずのそれは途中で光になって消えた――ひらりと壁から飛び降りた。
「で、その準備の話なんだけど」
「……はい」
「新しいの、持ってきたよ」
神が両手を差し出す。
その掌の上には、ひとつの小さな苔の塊があった。
淡い青緑色。
夜露を含んだようにしっとりとしていて、ところどころがほのかに光っている。眩しいほどではない。むしろ、暗闇に目が慣れたあとでようやく気づく程度の、やわらかな明かりだ。
仁は眉を寄せた。
「……苔ですか」
「苔だよ」
「今度は何を引き起こすのでしょう」
「失礼だなあ。今回はかなり実用的なやつだよ」
「前回もそう仰っていた記憶がありますが」
「今回はほんとに」
神は胸を張った。
信用ならない。
「名前はね、夜灯り苔」
「そのままですね」
「わかりやすさ重視」
神は楽しそうに苔を持ち上げる。
「暗い場所でもじんわり光る。土壁や石の隙間にくっつく。湿気があれば勝手に広がる。ただし広がりすぎはしないように調整済み。たぶん」
「最後が不穏です」
「あと、空気が悪いところだと少し元気がなくなるから、通気の目安にもなるよ。壁の向こうを探る時には便利じゃない?」
仁は夜灯り苔を見つめた。
確かに、暗い空洞を調べるなら明かりは欲しい。
いまの巣は触角と匂いと地形把握でなんとかしているが、未知の通路や空洞に踏み込むとなると話は別だ。光源があれば、安全確認の速度も精度も上がる。空気の流れを読む補助になるならなおさらだ。
「……危険性は」
「毒はないよ。食べてもたぶん平気」
「食べる予定はありません」
「双葉ちゃんなら一回くらい試しそう」
「ありえますね」
そこだけは即答だった。
神はふっと笑う。
「まあ、使い方は簡単。壁の向こうを掘る時、目印に少しずつ植えていけばいい。暗くて狭い場所でも帰り道がわかるし、空気が淀んでる場所も見分けやすい。きみたちの巣にはちょうどいいと思うよ。まあ、あまり増やしすぎないようにね」
仁はしばらく黙っていたが、やがて夜灯り苔を受け取った。
手の中の苔はひんやりとして、けれど不思議と生きた温かみがある。
「ありがたく使わせていただきます」
「うんうん。素直でよろしい」
「ただし」
「おや」
「今後、新たな道具や資材をお渡しになる際は、可能な限り作用の詳細をご説明ください」
「可能な限り?」
「最低限でも構いません」
「へえ。怒ってるのに、完全拒否はしないんだ」
神が少しだけ目を細める。
仁は表情を変えなかった。
「使えるものは使います。巣のために必要なら」
「女王さまのために、じゃなくて?」
「……それも含みます」
「ふうん」
神はにやにやしている。
どうせ面白がっているのだろう。
だが仁は、もうそれを否定しなかった。
この巣はまだ小さい。
家族は増えたが、危うさも隣り合わせだ。
蜜葉乃の体調は上向いてきたとはいえ、完全に安定したわけではない。幼虫たちは次々育ち、姉妹たちの役割も広がっている。壁の向こうへ進むなら、これからもっと多くの準備が必要だ。どんな危険が待っているかわからない。
だからこそ、使える手は増やしておくべきだった。
たとえそれが、胡散臭い神の気まぐれであっても。
「ところで」
と、神が急に声を落とした。
「女王さま、元気になってきたね」
「はい」
「よかったじゃない」
「……ええ」
その返事は、珍しく柔らかかった。
神はそれを聞いて、少しだけ満足そうに頷く。
「じゃあ、今夜はこれで帰るよ。あんまり長居すると、きみがまた“業務の妨げです”って顔をするし」
「すでにしておりますが」
「知ってる」
ひらり、と神が一歩下がる。
その輪郭が、夜の湿り気に溶けるように薄れていく。
「ああ、そうだ。夜灯り苔はあったかいところの方がよく光るから、最初は女王室の近くで少し育ててから使うといいかもね」
「……それは有益な情報です。ありがとうございます」
「でしょ?」
神は最後に、悪戯っぽく笑った。
「じゃあまた、執事さん。次はもう少し派手に巣が動く頃かな」
「不穏な予告はおやめください」
「善処するよ」
「信用できません」
「それもそう」
次の瞬間、そこにはもう誰もいなかった。
残ったのは、夜灯り苔のかすかな光だけだ。
仁はしばらくその場に立ち尽くし、それから小さく息を吐いた。
「……本当に、ろくでもない」
誰に向けたものともつかない呟きだった。
けれども、その声にはわずかに苦笑が混じっていた。
仁は夜灯り苔を大事に抱え、静かに歩き出す。
女王室へ戻る前に、まずは空いている小区画をひとつ確保しなければならない。湿度の管理、増殖の速度、他の植物への影響確認。双葉に触らせる前に、最低三日は自分で様子を見るべきだろう。
やることは山ほどある。
壁の向こうへ進むための準備も、双葉の再教育も、葉月の暴走防止策も、護葉との連携の整理も、探索班の報告の再確認も。
それでも、巣の奥で眠る家族たちを思えば、不思議と足取りは重くなかった。
女王がいて。
姉妹たちがいて。
巣は少しずつ広がっていく。
壁の向こうはまだ遠い。
けれど、そのための明かりは、今、手の中にある。
仁は夜灯り苔を見下ろした。
淡い光が、彼の指先を静かに照らしている。
「……さて」
誰にともなく、執事は小さく告げる。
「次は、事故ではなく計画的に進めるといたしましょう」
土の下の小さな王国で。
夜の訪問者が残した灯りは、まだ誰も知らない次の道を、ひっそりと照らしはじめていた。




