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葉音を紡ぐ ――世界樹の麓で  作者: 葉森かなで


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20/43

20 神様の大丈夫は、だいたいろくでもない

 その夜、巣はようやく静かになっていた。


 双葉の実験が引き起こした大暴走――蔓と根の増殖、飛び散る胞子、崩れかけた通路、巻き込まれた姉妹たちの救出騒ぎ。それらすべてをどうにか収め、傷んだ区画を応急補修し終えた頃には、巣のあちこちに疲労の気配が満ちていた。


 育房室では、千葉夜が幼虫たちを抱えるようにして寝かしつけている。


 双葉は「ごめんなさい……でも、ちょっとだけ、いい結果もあったんです……」と半泣きで言いながら、結局そのまま眠ってしまった。


 葉月は壁の向こうに露出した古い通路跡を前にして「今すぐ掘りたい」と目で訴えていたが、護葉に静かに止められ、しぶしぶ引き下がった。


 一葉も風葉も、結葉も紬葉も、今日ばかりはぐっすりだ。


 蜜葉乃もまた、女王室の奥で静かな寝息を立てていた。

 まだ本調子とはいかないが、花蜜や飼育区画の成果のおかげで、以前よりずっと顔色はいい。今夜は騒ぎの後始末で疲れただろうに、それでも眠る前には「みんな無事でよかったです」と微笑んでいた。


 その寝顔を確認してから、仁はそっと女王室を辞した。


 巣の中央通路は、夜の湿り気をたっぷりと含んでいる。

 補強したばかりの壁に手を当てながら、仁は静かに歩いた。


 通路の角を曲がった先、今は誰もいない栽培区画の一角に、例のものがある。


 ――朝露の雫玉。


 あの神から渡されたアイテムだ。

 栽培区画の隅に埋めると、周囲の湿度を少し安定させる。そう説明され、実際それなりに役立っていた。双葉の植物たちが元気だったのも、この雫玉の後押しが一因だろう。


 ただし。


「……“少しだけ”では、ありませんでしたね」


 仁はしゃがみ込み、埋められた場所の土を見つめた。


 今日の暴走を思い返す。


 双葉は、葉を元気にしたい一心で、栽培区画の水分、根の養分、蔓の誘導、きのこの菌糸まで同時にいじってしまった。そこに朝露の雫玉がもたらす安定した高湿度が重なり、さらに栽培区画の植物同士が妙な相互作用を起こした。


 結果、蔓と根が一斉に増殖し、胞子が舞い、巣の一部を飲み込む寸前までいった。


 双葉の好奇心と努力が原因の大半を占めているのは間違いない。

 だが、それだけではない。


「……あの神、やはり説明不足では」


 ぽつりと呟いた、その時だった。


「ひどいなあ。ちゃんと“少しだけ”って言ったのに」


 ひょい、と。


 通路の壁際、何もなかったはずの影の上に、いつの間にか誰かが座っていた。


 細い脚をぶらぶらさせ、どこから持ち込んだのか小さな果実をかじっている。

 人のようで人ではなく、輪郭の曖昧な存在。

 夜気に溶けるような髪と、面白がるように細められた目。


 仁は立ち上がり、無言でその姿を見下ろした。


「……いらっしゃると思っておりました」


「おや、歓迎してくれるの?」


「いいえ」


「即答だねえ」


 神は少しも気にした様子なく、果実をもう一口かじった。


「見舞いに来たんだよ。大惨事だったって聞いたから」



 仁は改めて朝露の雫玉へ視線を落とした。


「お見舞いに来られたのであれば、ひとつ確認したいことがあります」


「どうぞ」


「こちらの雫玉ですが」


「うん」


「植物の活性を、湿度の安定以上に補助する性質がありますね?」


 神の口元が、ぴくりと動いた。


「……へえ」


「否定は」


「しないよ」


「やはり」


 仁は頭痛を堪えるようにこめかみへ手を当てた。


「なぜ、その点を最初に説明なさらなかったのですか」


「だって、面白いかなって」


「面白いで済ませてよい規模の事故ではありませんでしたが」


「でも誰も死んでないでしょ?」


「基準が雑です」


 神はくすくす笑った。

 悪びれない。まったく悪びれない。


「いやあ、双葉ちゃんが思った以上に才能あったからさあ。ふつう、あそこまで一気に相互作用は起きないよ。蔓と根と菌糸を同時に走らせるなんて、なかなか見られないもの」


「観察記録のように仰らないでください」


「きみ、ほんと苦労人だね」


「あなたのせいです」


「全部?」


「かなりの割合で」


 神はそこで、ふうん、と楽しそうに目を細めた。


「でもさ、結果は悪いことばっかりじゃなかったでしょ。壁の向こうに繋がりそうな通路は見つかったし、増殖した蔓を乾かしたら補強材としてかなり優秀だった。きのこも美味しかったみたいだし」


「……それは否定いたしません」


 実際、今日の大騒動で得たものは多い。


 暴走した蔓は、乾燥させて編み込むと驚くほど丈夫だった。

 通路の補強材として使えば、土壁の崩落をかなり防げるだろう。根の繊維も縄のように使える。

 飛び散ったきのこは試しに焼いてみたところ、家族全員が目を丸くするほど美味だった。


 そして何より、壁の向こうへ続くかもしれない空洞の手がかりが見つかった。


 葉月は今にも掘り進めたそうだったが、あの先はまだ未知だ。

 崩落の危険も、何がいるかもわからない。

 だからこそ、準備が要る。


 仁が黙り込むと、神は果実の芯をぽいと放り投げ――投げたはずのそれは途中で光になって消えた――ひらりと壁から飛び降りた。


「で、その準備の話なんだけど」


「……はい」


「新しいの、持ってきたよ」


 神が両手を差し出す。


 その掌の上には、ひとつの小さな苔の塊があった。


 淡い青緑色。

 夜露を含んだようにしっとりとしていて、ところどころがほのかに光っている。眩しいほどではない。むしろ、暗闇に目が慣れたあとでようやく気づく程度の、やわらかな明かりだ。


 仁は眉を寄せた。


「……苔ですか」


「苔だよ」


「今度は何を引き起こすのでしょう」


「失礼だなあ。今回はかなり実用的なやつだよ」


「前回もそう仰っていた記憶がありますが」


「今回はほんとに」


 神は胸を張った。

 信用ならない。


「名前はね、夜灯り苔」


「そのままですね」


「わかりやすさ重視」


 神は楽しそうに苔を持ち上げる。


「暗い場所でもじんわり光る。土壁や石の隙間にくっつく。湿気があれば勝手に広がる。ただし広がりすぎはしないように調整済み。たぶん」


「最後が不穏です」


「あと、空気が悪いところだと少し元気がなくなるから、通気の目安にもなるよ。壁の向こうを探る時には便利じゃない?」


 仁は夜灯り苔を見つめた。


 確かに、暗い空洞を調べるなら明かりは欲しい。

 いまの巣は触角と匂いと地形把握でなんとかしているが、未知の通路や空洞に踏み込むとなると話は別だ。光源があれば、安全確認の速度も精度も上がる。空気の流れを読む補助になるならなおさらだ。


「……危険性は」


「毒はないよ。食べてもたぶん平気」


「食べる予定はありません」


「双葉ちゃんなら一回くらい試しそう」


「ありえますね」


 そこだけは即答だった。


 神はふっと笑う。


「まあ、使い方は簡単。壁の向こうを掘る時、目印に少しずつ植えていけばいい。暗くて狭い場所でも帰り道がわかるし、空気が淀んでる場所も見分けやすい。きみたちの巣にはちょうどいいと思うよ。まあ、あまり増やしすぎないようにね」


 仁はしばらく黙っていたが、やがて夜灯り苔を受け取った。

 手の中の苔はひんやりとして、けれど不思議と生きた温かみがある。


「ありがたく使わせていただきます」


「うんうん。素直でよろしい」


「ただし」


「おや」


「今後、新たな道具や資材をお渡しになる際は、可能な限り作用の詳細をご説明ください」


「可能な限り?」


「最低限でも構いません」


「へえ。怒ってるのに、完全拒否はしないんだ」


 神が少しだけ目を細める。

 仁は表情を変えなかった。


「使えるものは使います。巣のために必要なら」


「女王さまのために、じゃなくて?」


「……それも含みます」


「ふうん」


 神はにやにやしている。

 どうせ面白がっているのだろう。


 だが仁は、もうそれを否定しなかった。


 この巣はまだ小さい。

 家族は増えたが、危うさも隣り合わせだ。

 蜜葉乃の体調は上向いてきたとはいえ、完全に安定したわけではない。幼虫たちは次々育ち、姉妹たちの役割も広がっている。壁の向こうへ進むなら、これからもっと多くの準備が必要だ。どんな危険が待っているかわからない。


 だからこそ、使える手は増やしておくべきだった。

 たとえそれが、胡散臭い神の気まぐれであっても。


「ところで」


 と、神が急に声を落とした。


「女王さま、元気になってきたね」


「はい」


「よかったじゃない」


「……ええ」


 その返事は、珍しく柔らかかった。


 神はそれを聞いて、少しだけ満足そうに頷く。


「じゃあ、今夜はこれで帰るよ。あんまり長居すると、きみがまた“業務の妨げです”って顔をするし」


「すでにしておりますが」


「知ってる」


 ひらり、と神が一歩下がる。

 その輪郭が、夜の湿り気に溶けるように薄れていく。


「ああ、そうだ。夜灯り苔はあったかいところの方がよく光るから、最初は女王室の近くで少し育ててから使うといいかもね」


「……それは有益な情報です。ありがとうございます」


「でしょ?」


 神は最後に、悪戯っぽく笑った。


「じゃあまた、執事さん。次はもう少し派手に巣が動く頃かな」


「不穏な予告はおやめください」


「善処するよ」


「信用できません」


「それもそう」


 次の瞬間、そこにはもう誰もいなかった。


 残ったのは、夜灯り苔のかすかな光だけだ。


 仁はしばらくその場に立ち尽くし、それから小さく息を吐いた。


「……本当に、ろくでもない」


 誰に向けたものともつかない呟きだった。


 けれども、その声にはわずかに苦笑が混じっていた。


 仁は夜灯り苔を大事に抱え、静かに歩き出す。

 女王室へ戻る前に、まずは空いている小区画をひとつ確保しなければならない。湿度の管理、増殖の速度、他の植物への影響確認。双葉に触らせる前に、最低三日は自分で様子を見るべきだろう。


 やることは山ほどある。


 壁の向こうへ進むための準備も、双葉の再教育も、葉月の暴走防止策も、護葉との連携の整理も、探索班の報告の再確認も。


 それでも、巣の奥で眠る家族たちを思えば、不思議と足取りは重くなかった。


 女王がいて。

 姉妹たちがいて。

 巣は少しずつ広がっていく。


 壁の向こうはまだ遠い。

 けれど、そのための明かりは、今、手の中にある。


 仁は夜灯り苔を見下ろした。

 淡い光が、彼の指先を静かに照らしている。


「……さて」


 誰にともなく、執事は小さく告げる。


「次は、事故ではなく計画的に進めるといたしましょう」


 土の下の小さな王国で。

 夜の訪問者が残した灯りは、まだ誰も知らない次の道を、ひっそりと照らしはじめていた。

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