18 暴走のあとに道はひらく
轟音が、巣の奥で何度も跳ね返った。
土が落ちる。
蔓が軋む。
きのこの胞子が白く舞い、空気の匂いが一瞬で変わる。
静かだったはずの巣は、たった数呼吸のあいだに、見たこともないほどの混乱へ飲み込まれていた。
「千葉夜、幼虫をお願いします!」
一葉が叫ぶ。
「はい、まかせてください」
千葉夜はふわふわした顔のまま、しかし一切迷わず動いた。
すでに幼虫たちの寝床をいくつかまとめ、壁際の揺れが少ない場所へ移し始めている。小さな身体に見合わないほど手際がよく、しかも幼虫が不安にならないよう、ずっとやさしい声をかけ続けていた。
「だいじょうぶですよ、あったかいところにいきましょうねえ」
「この子はこっち、この子はこっちです」
「結葉ちゃん、紬葉ちゃん、保温材をお願いできますか」
「は、はいっ」
「やる!」
結葉と紬葉が慌てて保温材を抱え込む。
風葉は入口の前に立ち、触角をぴんと張って外の気配を探っていた。
「……来る」
「何がです?」
一葉が振り返る。
風葉は、通路の先をじっと見つめたまま短く答えた。
「蔓。こっちにも」
その直後だった。
育房室の入口脇の壁が、みし、と嫌な音を立てる。
ひびが広がり、その隙間から、一際太い緑の蔓がずるりと顔を出した。節々に白い胞子をまとい、まるで生き物のようにうねりながら、部屋の中へ入り込もうとする。
「きゃっ……!」
紬葉が小さく悲鳴を上げる。
一葉は咄嗟に妹たちの前へ出たが、次の瞬間にはっとした。
――前に出るのは、わたしの役目。
でも、道を見るのは風葉。
「風葉!」
「うん」
風葉はすでに動いていた。
足音ひとつ立てずに壁際へ走り、伸びてきた蔓の先端を避けるように身を沈める。完全に戦うというより、まずは相手の進む向きと速さを見切るための動きだった。
「速いけど、まっすぐじゃない。節で曲がる」
「節?」
「そこ、弱いかも」
言いながら、風葉は床に落ちていた細い枝を拾い、蔓の節の部分へ強く差し込んだ。
びくん、と蔓が跳ねる。
進む勢いがわずかに鈍った。
「すごい!」
「でも一本だけ。まだ来る」
その言葉通り、外の通路からはさらに、ざわざわと何かが這う音が近づいてくる。
育房室の外で、仁の声が飛んだ。
「一葉! 育房室の入口を塞ぎます! 中の状況を!」
「幼虫たちは無事です! でも太い蔓が一本、中まで!」
「節を狙って足止めを! 葉月がそちらへ向かっています!」
「はい!」
返事をした瞬間、どん、と入口の外側で土の塊が積まれる音がした。
仁が通路側から簡易の防壁を作り始めたのだろう。完全に閉じるのではなく、蔓の侵入を遅らせるための即席の堰だ。
さすが仁、こういう時の判断が早い。
けれども感心している余裕はなかった。
蔓は一本止めても、別の隙間を探してじわじわと壁を押し始めている。
「一葉、こっちの子たち運べた!」
「こっちも! でも胞子、なんかふわふわする……」
結葉が顔をしかめる。
白い胞子は、床に落ちたかと思うと、微かな風でまた舞い上がる。鼻先がむずむずするし、何より嫌な予感しかしない。
蜜葉乃は卵とまだ小さな幼虫を庇いながら、ぐっと唇を結んだ。
「千葉夜、育房室の一番奥へ、まだ動けない子たちを寄せましょう」
「はい、女王さま」
「一葉、無理はしないでくださいね」
「でも……!」
「わたしたちは大丈夫です。今は仁たちが動きやすいように、中を守りましょう」
その声はやわらかいのに、不思議とよく通った。
一葉は一瞬迷い、それから大きく頷く。
「……はい!」
女王さまが落ち着いている。
それだけで、胸の中のばらばらしたものが少しまとまる気がした。
一方その頃、暴走の中心地――双葉の実験室周辺は、もっとひどいことになっていた。
「双葉、下がってください!」
仁が声を張る。
いつもの静かな低音ではなく、緊急時の鋭い声だった。
その視線の先では、実験棚を突き破った蔓が天井を這い、床を割り、さらに壁の隙間へ根を押し込んでいる。しかもただ伸びるだけではない。双葉の力で活性化した植物と、栄養豊富な土と、廊下で増殖していたきのこの胞子が混ざったせいで、蔓は異様な速度で枝分かれし、節ごとに白いふわふわを撒き散らしていた。
「ご、ごめんなさいぃ……」
「謝罪は後で結構です。今は実験内容を簡潔に」
「蔓に元気をあげて、葉っぱを元気にして、土をふかふかにして、胞子も栄養になるかなって……」
「全部盛りではありませんか」
「よくばりました……」
「知っております」
仁は蔓の動きを見極めながら、足元の土を蹴って通路の流れを読む。
すでに葉月が横の壁を叩き、音と振動で内部の空洞を探っていた。
「葉月!」
「わかってる! 右側の壁、薄い! でも今は壊すとたぶん実験室ごと崩れる!」
「では左側の補強を優先! 蔓をそちらへ逃がします!」
「逃がすって簡単に言うな!」
文句を言いながらも、葉月の動きは速い。
壁の土を削り、崩れやすい箇所へ石片と根材を差し込み、蔓の圧力が育房室側へ向かないよう流れを変えていく。もはや半分は工事というより、暴れる植物との綱引きだった。
そこへ、育房室方向の通路から、ひとつの影が現れた。
「仁!」
落ち着いた声だった。
仁が振り返る。
通路の向こうに立っていたのは、まだ幼さを残しながらも、場の空気だけをすっと静めるような娘だった。長めの髪を後ろでまとめ、無駄のない立ち姿でこちらを見ている。身体つきは妹たちの中ではしっかりしていて、必要な筋肉がきちんとついた印象だ。
彼女は巣の中の騒ぎに飲まれることなく、まっすぐ状況を観察していた。
「危険域です。実験室区画の通路、二本先まで蔓が回っています」
「……護葉」
仁が目を細める。
五女――護葉。
まだ班として正式に前へ出ることは少ないが、身体強化と状況判断に優れた娘だ。ふだんは目立たない位置にいるが、必要な時には驚くほど静かに現れる。
「女王さまと育房室は?」
「一葉たちが守っています。もちろん千葉夜もいます」
「そうですか」
護葉は短く頷いた。
「なら、こちらを片づけます。指示をください」
「実験室前の通路を封鎖したい。ですが隣の区画に資材が残っています。あれは被害を拡げる一因です」
「回収します」
「危険です」
「承知のうえです」
あまりに即答だった。
仁が一瞬だけ彼女を見つめる。
「……三十秒で戻れますか」
「二十で」
「では二十で」
次の瞬間、護葉は走っていた。
足運びは静かだが、速い。
暴れる蔓の隙間を縫い、床を蹴り、崩れかけた棚を飛び越える。双葉が「ひゃっ」と声を上げる横を抜けて、実験室の奥へ消えた。
「えっ、今の誰ですか」
「護葉です」
「護葉!? いつのまにいたの!?」
「今は会話を省略してください」
仁が言い終える前に、護葉は戻ってきた。
抱えているのは、胞子を含んだ土の袋だ。即座に箱にしまい封印する。
「回収完了」
「二十秒未満ですね」
「通路の角に、まだ伸びる前の根があります。切るなら今です」
「葉月!」
「聞こえてる!」
葉月が床を蹴って飛び出した。
石片を打ち込んだ簡易の刃で、壁際に潜ろうとしていた太い根を叩き切る。びし、と嫌な音がして、根が大きく痙攣した。
その反動で、実験室の奥から何かが崩れる。
「っ!」
双葉が肩を震わせた。
壁だ。
実験室のさらに奥――今までただの土壁だと思っていた場所が、蔓に押され、根に裂かれ、ぼろりと崩れ落ちたのだ。
土煙が上がる。
蔓の動きが、一瞬だけ止まる。
「……仁」
護葉が低く呼ぶ。
崩れた壁の向こうから、ひやりとした風が吹いてきていた。
ただの通路ではない。
もっと乾いて、もっと古い、長く閉ざされていた空間の匂いがする。湿った巣の土とは違う、深く静かな地下の匂い。
葉月が、息を呑んだ。
「……うそ」
崩れた土の向こうに、ぽっかりと黒い隙間が見える。
人ひとりが通れるほどではないが、明らかに壁の向こう側へ空間が続いていた。
しかもその断面には、自然にできた空洞とは思えない、妙に平らな層が混じっている。
古い補強材の跡のようなもの。
朽ちた根と石が、かつて“道”として組まれていたような痕跡。
仁の目が、わずかに鋭くなった。
「……やはり」
「仁、これ」
葉月の声が震える。
いつもの勝ち気な響きではなく、見つけてしまったものへの高揚と戸惑いが混ざった声だった。
「壁の向こう、空洞どころじゃない」
「ええ」
「これ、通路の跡だ」
「その可能性が高いでしょう」
護葉が崩れた壁の縁に膝をつき、風の流れを確かめる。
「まだ奥に空間があります。かなり広いかもしれません」
「ですが、今は立ち入り禁止です」
仁が即座に言った。
葉月が「ええーっ」と叫びそうな顔をする。
「当然です。現状、蔓の暴走が止まっておりません」
「それはそうだけど!」
「双葉の実験が、思わぬ形で壁を破壊したにすぎません。安全確認も補強もなしに進めるわけがないでしょう」
「うう……」
「うう、じゃありません」
双葉まで一緒にしょんぼりした。
だが、そこで護葉がふと通路の奥へ視線を向ける。
「仁」
「何でしょう」
「蔓の成長が止まってきています」
たしかに。
さっきまで狂ったように伸びていた蔓が、崩れた壁の向こうから流れ込む冷たい空気に触れたからか、あるいは根の本体を断たれたからか、目に見えて勢いを失い始めていた。胞子の舞いも、少しずつ収まっていく。
葉月がそっと壁へ耳を当てる。
「……うん。圧も下がった。もう広がる感じじゃない」
「では収束作業に移ります」
仁はひとつ息を吐き、すぐに指示を飛ばした。
「護葉、双葉を育房室へ。胞子を吸いすぎる前に退避させてください」
「了解です」
「葉月は崩落箇所の仮固定。今見つかった古い通路には絶対に近づきすぎないよう」
「わかってるって」
「本当にわかっている方の顔ではありません」
「わかってる!」
葉月は不満そうに叫びつつも、目は完全に壁の向こうへ釘付けだった。
その様子に、仁は小さくため息をつく。
「後で図面を引きます」
「……ほんと?」
「安全が確認できれば、です」
「よし」
「まだ“よし”ではありません」
いつものやり取りだった。
こんな状況でも、少しだけ巣の空気がいつもの調子へ戻る。
護葉は半泣きの双葉の手を取った。
「双葉、行きましょう」
「みんな、ごめんなさいぃ……」
「叱るのは後です」
「叱るの確定なんだ……」
「当然です」
真顔で言い切られ、双葉がさらにしゅんとする。
けれども護葉の手つきは乱暴ではなかった。ちゃんと胞子の少ない側を選んで歩かせ、崩れた土を踏まないよう庇いながら進んでいく。
その背を見送りながら、仁は崩れた壁の向こうをもう一度見た。
冷たい風。
古い土。
そして、かつて何者かが通したらしい道の痕跡。
地下に眠る忘れられた空間。
その入口が、こんな形で顔を覗かせるとは思わなかった。
けれども今は、まだ早い。
あの向こうへ行くには、人手も物資も、何より巣全体の備えが足りない。
「仁さん」
葉月が、壁を補強しながら低く言った。
「……あたし、ちゃんと待つから」
「珍しいことを仰いますね」
「うるさい」
「ですが」
仁は少しだけ目を細める。
「その判断は賢明です」
「褒められても、今はあんまりうれしくない」
「左様でございますか」
「でも、行くんでしょ」
「ええ」
仁は崩れた先の闇を見据えた。
「いずれ必ず」
育房室へ戻る頃には、巣の中の混乱はだいぶ収まっていた。
侵入した蔓は節を切られ、勢いを失ったものからまとめて別区画へ押しやられている。胞子まみれになった通路は、一葉と結葉と紬葉が「くしゅん」「くしゅん」とくしゃみをしながら掃除していた。千葉夜は幼虫たちを一匹ずつ確認し、「だいじょうぶです、ちゃんとあったかいです」と丁寧に寝かしつけ直している。
蜜葉乃は、戻ってきた双葉を見てほっと息をついた。
「双葉、怪我はありませんか?」
「はい……女王さま、ごめんなさい」
「怪我がないならよかったです」
その一言に、双葉は目を潤ませる。
「すごく反省してます……」
「そうでしょうねえ」
蜜葉乃は困ったように笑った。
「あとで何をどう混ぜたのか、仁と一緒にちゃんと整理しましょう」
「はい……」
「ただし」
「はい」
「次から“ちょっと元気になるかな”で胞子を混ぜるのは禁止です」
「はい……」
その横で、一葉がこっそり護葉を見上げていた。
「護葉、さっきすごかったですねえ」
「そうでしょうか」
「すごかったです。気づいたら横にいて、気づいたら走ってました」
「必要だったので」
「仁さんみたいなこと言う」
「……似てましたか?」
「少しだけ!」
護葉はわずかに視線を逸らした。
褒められるのが苦手なのか、あるいは嬉しいのを隠しているのか、その表情はまだ読みづらい。
だが仁は、そんな彼女を見て静かに口を開く。
「護葉」
「はい」
「先ほどの根を切る判断、助かりました。少しでも遅ければさらに被害が広がったかもしれません。」
「……光栄です」
短い返事だった。
けれどその声音には、ほんの少しだけ、誇らしさが滲んでいた。
蜜葉乃は娘たちを見回した。
蔓だらけになった通路。
胞子まみれの床。
しょんぼりする双葉。
でも、無事だった幼虫たちと、忙しそうに働く家族の姿。
そして何より、壁の向こうに新しい道が見つかったこと。
「大変でしたけれど……」
蜜葉乃はそっと微笑む。
「またひとつ、先へ進みましたねえ」
葉月がぱっと顔を上げる。
双葉はまだしょんぼりしたままだが、護葉がそっとその背を押した。
一葉は「はいっ」と元気よく返事をして、風葉も小さく頷く。
仁はひとつ息をつき、崩れた通路の方角へ視線を向けた。
「ええ。予定外ではありましたが」
「予定外だったのですか」
「かなり」
「まあ」
「ですが、収穫はありました」
その言葉に、蜜葉乃は目を細める。
暴走は突然で、巣は大混乱で、双葉はしばらく実験内容の精査を命じられるだろう。
それでも、家族みんなで乗り越えた先には、ちゃんと次の道が見えていた。
壁の向こうは、まだ遠い。
けれどももう、ただの想像ではない。
あの先には何かがある。
広くて、古くて、誰かが通った痕跡の残る地下の道が。
小さな巣の家族たちは、またひとつ新しい秘密へ近づいていた。




