17 大暴走は突然に
巣にも太陽の香りを強く感じるようになった頃、蜜葉乃はずいぶん元気を取り戻していた。
少しづつではあるが卵の数も増えた。まだ長く立ち働けばすぐに顔色が悪くなる。けれども育房室で娘たちの様子を見たり、栽培区画や牧場の報告を聞いたり、少し離れた部屋まで自分の足で歩いて行けるくらいには回復している。
それは巣にとって、とても大きな変化だった。
「女王さま、今日はずいぶんお顔の色がいいです」
千葉夜が幼虫の寝床を整えながら、ほっとしたように言った。
育房室には、ふんわりと甘い匂いが漂っている。保温用の葉、幼虫用の餌、乾かした繊維、そして小さな身体が増えたぶんだけ濃くなった“巣の家族の匂い”だ。
千葉夜は今日も、小さな幼虫の体勢をひとつひとつ確かめていた。
この子はあたたかい場所。
この子は湿り気のある葉のそば。
この子はお腹がいっぱいだから、しばらく寝かせて大丈夫。
誰に教わるでもなく、彼女はそういうことを全部わかってしまう。
「ほんとう?」
蜜葉乃が笑うと、千葉夜はこくりと頷いた。
「はい。触角の動きも、昨日より軽いです。お声もちゃんと出てます」
「まあ……そんなところまで見ているのですねえ」
「もちろん。だって女王さまのことですから」
ふわふわした声音なのに、言うことだけはきっぱりしている。
蜜葉乃はくすっと笑って、それから育房室の中を見回した。
幼虫たちは今日もむにむにと元気で、少し大きくなった子たちは自分で寝返りのようなものまで始めている。千葉夜が忙しそうにしながらもどこか嬉しそうなのは、きっとそのせいだ。
部屋の入口では一葉が妹たちに囲まれていた。
「今日は探索班、午後からでいいって仁さんが言ってたよ」
「ほんと?」
「うん。午前中は、巣の中のお手伝い優先だって」
結葉と紬葉が「じゃあ目印の蔓まとめる」「昨日拾った種も仕分ける」ときゃっきゃしている。
風葉はその少し後ろで壁にもたれ、静かに触角を揺らしていたが、一葉が「風葉も休めますよ」と声をかけると、少しだけ目を逸らした。
「……休んでる」
「立ったままですけど?」
「見張りながら休んでる」
「器用ですねえ」
そんなやり取りを聞きながら、
――なんとか、やっていけるかもしれない。
そんな希望を抱いていたところで、育房室の外から聞き慣れた低い声が響いた。
「女王さま。少々よろしいでしょうか」
仁だった。
部屋の入口に立つ彼は、いつも通りきっちり整った姿のまま、片手に何枚かの葉片と細い木片を抱えている。どう見ても何かの作業の途中だ。
「はい、仁。どうしました?」
「本日のご報告を」
「まあ、会議ですね」
「はい。規模の小さい会議です」
「小さい会議というものがあるのですねえ」
「本日は比較的平穏ですので」
その“比較的平穏”という言い方が少し気になったが、蜜葉乃はとりあえず頷いた。
仁は育房室の隅に控え、簡潔に報告を始める。
「まず、女王栄養改善計画について。探索班が昨日持ち帰った花蜜の保存分を、朝の給餌で一部使用しました。蜜葉乃さまの摂取量は問題ありません。双葉の栽培区画も現状は順調。アブラムシ牧場については、本日未明に個体数がさらに増加しました」
「さらに?」
「はい。昨日時点で“少し増えた”と判断しておりましたが、訂正いたします。“かなり増えました”」
「まあ」
蜜葉乃は目を丸くした。
「そんなにですか?」
「はい。正直に申し上げるなら、“牧場”という表現がいよいよ誇張ではなくなってまいりました」
「仁」
「はい」
「少しだけ誇らしそうですね」
「……管理が軌道に乗ってきた実感はございます」
やっぱり少し誇らしいらしい。
蜜葉乃が笑うと、仁はひとつ咳払いをして続けた。
「ただし、それに伴い区画の再編が必要です。葉月にも相談のうえ、壁際の空き通路を一部、飼育補助区画に転用する予定です」
その名前が出た途端、部屋の外からむすっとした声が飛んできた。
「転用はいいけど、あたしの掘る予定だった場所まで取るのはやめてよね」
葉月である。
次の瞬間、ずかずかと育房室へ入ってきた彼女は今日も土まみれだった。髪にも肩にも細かな土粒がついていて、片手には削ったばかりらしい石片まで持っている。
「おはようございます、葉月」
「おはよ、ちい。……女王さまも、おはようございます」
「おはようございます、葉月。今日はずいぶん早くから掘っていたのですねえ」
「掘ってたっていうか、掘れないから別のとこいじってた」
葉月は不機嫌そうに頬を膨らませた。
最近の彼女は、どうにも機嫌が安定しない。
理由は明白だった。巣の西側――例の“壁の向こう”へ続くかもしれない空洞の調査を、仁に止められているからである。
危険だから。
今はまだ人手も補強材も足りないから。
まずは足元を固めるべきだから。
仁の言い分は正しい。
正しいのだが、葉月にとってはまったく面白くない。
「壁の向こう、絶対なんかあるのに」
「葉月」
「わかってる、わかってるって。今はダメなんでしょ。補強が足りない、護衛も足りない、出入り口も足りない、仁が百回くらい言った」
「百回は申し上げておりません」
「体感では百回」
葉月はふいっとそっぽを向く。
その様子に、千葉夜が「葉月、壁を叩きすぎると育房室に振動がきます」と小さく釘を刺した。
「う」
「幼虫さんたち、びっくりしちゃうので」
「……ごめん、ちい」
葉月は素直に謝った。
育房室での千葉夜には、だれも頭が上がらない。
「あなたが壁の向こうに興味を持つこと自体は理解しています。ですが現時点であちらは、地盤状況も構造も不明です。巣内に幼虫と女王を抱えた状態で、無計画に手を出すべきではありません」
「無計画にやるつもりはないし」
「計画を立てる前に掘ろうとするのが問題です」
蜜葉乃はそのやり取りに目を細めながら、仁へ問いかける。
「では、今は壁の向こうより、巣の中を広げる方が先なのですね?」
「はい。現状、育房室周辺の人口密度が高くなっております」
「じんこうみつど」
「家族が増えた結果、部屋と通路の余裕が不足しているということです」
「まあ、そう言ってくださればわかります」
蜜葉乃が頷くと、仁は床に簡単な図を描いた。
「よって本日より、壁の向こうへ直接向かうのではなく、東側の比較的安定した地盤を使って新しい通路を掘り進めます。目的は三つ。第一に、居住区画の拡張。第二に、予備の避難経路の確保。第三に、将来的に西側空洞へ接続する際の迂回路確保です」
「つまり遠回りだけど、結局いつかは行くってこと?」
「行くための準備です」
「よし」
「本日は“よし”ではなく、東側の補強をお願いします」
「むう」
葉月は口を尖らせたが、完全に反抗する気はないらしい。
壁の向こうへ行くための準備だと言われれば、掘る理由はちゃんとある。
その時、部屋の外からぱたぱたと足音がした。
「女王さまー! 仁さーん!」
飛び込んできたのは双葉だった。
頬に土をつけ、両腕にしおれかけた葉と小さな鉢代わりの殻片を抱えている。いつもはおっとりしている次女だが、植物が絡むと目の輝きが違う。
「双葉、どうしました?」
「実験です!」
開口一番それだった。
仁の触覚が、ほんの少しだけ動く。
「……詳細を伺っても?」
「この前しおれた葉っぱ、少し元気にできたでしょう? だから今度は、根っこ同士を仲良くさせたらもっと育つかなって思って」
「仲良く」
「はい! それで蔓と、保湿用の苔と、ちょっとだけ胞子のついた土を合わせてみたんです」
「ちょっと待ってください」
仁が即座に制止した。
「最後の一項目が不穏です」
「えっ」
「胞子のついた土とは」
「廊下の端にあった、きのこの出たところの土です」
「双葉」
「はい」
「それを、なぜ」
「栄養が多いかなって……」
仁は無言になった。
蜜葉乃にも、なんとなくよくないことを言ったのだろうという気配だけは伝わる。
双葉はそんな空気に気づかず、きらきらした目で続けた。
「それでですね、最初はちょっと元気になったんです! 葉っぱもしゃんとして、蔓もするする伸びて、すごいなあって思ってたんですけど……」
「けど?」
葉月が眉をひそめる。
双葉はそこで、へにゃりと困った顔になった。
「……ちょっと、伸びるのが止まらなくなっちゃって」
一瞬、育房室が静まり返った。
「止まらない?」
「はい」
「どの程度でしょうか」
「えっと……実験室の棚、ひとつ分くらい?」
「蔓が?」
「はい」
「現在進行形で?」
「はい」
仁がすっと立ち上がる。
その動作だけで、空気が変わった。
「ご案内を」
「えっ、でも、そんなに大したことじゃ――」
「双葉」
「はい」
「今、“止まらなくなった”と仰いましたね」
「はい」
「それは大したことです」
「そうなんですか?」
「大したことです」
きっぱり断言され、双葉がしゅんとする。
けれど仁はもう動いていた。
「葉月、東側通路の作業を中断。双葉の実験室周辺の壁強度を確認してください」
「は? なんであたしが」
「蔓が壁を圧迫した場合、即座に補強が必要です」
「……わかった」
「一葉、結葉、紬葉は、周辺の卵や蛹及び資材の移動準備。風葉は外周警戒をしつつ、異臭や土の変化があればすぐ報告を」
「はい!」
「……うん」
「千葉夜」
「はい」
「育房室の入口を一時閉鎖。幼虫の保温を優先しつつ、揺れに備えて寝床を寄せてください」
「だいじょうぶです、すぐやります」
「蜜葉乃さまは――」
「わたしはここにおります」
蜜葉乃はきっぱりと答えた。
「助かります。どうか動かず、何かあればすぐお呼びください」
仁は一礼し、そのまま双葉を伴って部屋を出ていく。
葉月も「なんで毎回こうなるの」とぶつぶつ言いながら後を追った。
育房室に残された蜜葉乃は、娘たちがばたばたと動き出すのを見送りながら、小さく首を傾げる。
「双葉の実験……そんなに大変なことなのでしょうか」
「たぶん、大変です」
一葉が真顔で答えた。
「双葉、植物のことになると時々すごいことをします。前に廊下でキノコが増えた時も、双葉が『ちょっと元気にしたかっただけ』って言ってた」
「ちょっとどころじゃなかった」
風葉までぽつりと言う。
どうやら前科があるらしい。
蜜葉乃が「まあ」と瞬いたところで、遠くの方で、どたどたと慌ただしい足音が響いていた。
それは、実験室のある区画の方角だった。
しばらくして。
「仁さーん! その鉢、触っちゃだめですー!」
「先に仰ってください!」
「今言いました!」
「遅いです!」
そんな声が、坑道の向こうからかすかに聞こえてきた。
皆が顔を見合わせる。
千葉夜は育房室の入口を塞ぎながら、少しだけ不安そうに触角を伏せた。
次の瞬間。
――ずるり。
とても嫌な音がした。
何か太いものが、湿った土の上を這うような音だった。
しかも一本ではない。二本、三本、もっと。うねりながら、壁の向こうを這い回る気配。
育房室の床が、わずかに震える。
「……え」
蜜葉乃が目を見開く。
天井から、ぱら、と乾いた土が落ちた。
続いてもう一度、どん、と鈍い衝撃。
その直後、坑道の奥から葉月の声が響く。
「ちょっ、待って待って待って! なんでそっちまで伸びるの!?」
「葉月!?」
一葉が思わず入口へ駆け寄ろうとして、千葉夜に腕を掴まれた。
「だめです、一葉。今出たら危ないです」
その声とほとんど同時に、育房室の外壁が、みし、と鳴った。
細いひびが一本、土壁の表面を走る。
そこから、緑色のものがにゅるりと顔を出した。
「…………蔓?」
紬葉が呆然と呟く。
蔓だった。
けれど普通の蔓ではない。妙に太く、妙に勢いがよく、まるで巣の中を我が物顔で進軍してくる生き物みたいに、壁の隙間を押し広げながら伸びてくる。
しかも、その蔓の節々には白っぽい胞子のようなものがふわふわと付着していた。
「き、きのこまで混ざってる……?」
結葉が青ざめる。
壁の向こうで、何かがばきばきと折れる音がした。
そのあと、仁の声が飛ぶ。
「全員、実験室区画から離れてください! 蔓が複数経路へ侵入しています!」
「えええっ!?」
一葉たちが声を上げる。
育房室の入口の向こう、通路の天井を這うようにして、さらに別の蔓がするすると伸びてきた。
しかも一本では足りないとばかりに、次々に。
まるで地下に埋まっていた根と蔓が一斉に目を覚まし、巣の中へ押し寄せてきたかのように。
「双葉、何を混ぜたんですかあ!?」
「ちょっと元気になるかなって思ってえええ……!」
半泣きの声が遠くで響く。
葉月の怒鳴り声と、仁の指示と、何かが崩れる音が重なった。
その瞬間。
どんっ、と巣全体を揺らす衝撃が走った。
育房室の壁が大きく震え、積んであった保温材がばさりと落ちる。
蔓がひときわ大きくうねり、土壁を押し広げた。
白い胞子が、ふわ、と空気中へ舞い上がる。
「っ、みんな伏せて!」
一葉が叫ぶ。
蜜葉乃は咄嗟に卵と幼虫を庇うように身を丸め、千葉夜は小さな子たちの寝床を抱え込んだ。結葉と紬葉が顔を覆い、風葉が入口の前へ飛び出しかける。
そして巣の奥から、仁の鋭い声が響いた。
「総員、緊急対応に移行します――!」
次の瞬間、実験室のある方角から、何かが完全に弾けるような轟音が響いた。
蔓が暴れ、土が舞い、胞子が広がる。
静かだったはずの巣は、一瞬で大混乱の渦へ叩き込まれていた。




