15 探索班は風の匂いを追う
巣の中が手狭になってきた。
それは喜ばしいことでもあり、同時に見過ごせない変化でもあった。
育房室には卵と幼虫が増え、千葉夜が「この子はあったかい方がいいです」「この子はこっちで寝かせますね」とふわふわした顔で仕切る姿がすっかり板についている。双葉の栽培区画は葉の棚を増やし、仁の“牧場”ことアブラムシ飼育区画も、いよいよ「区画」と呼ぶには生ぬるい規模になりつつあった。葉月は葉月で、坑道の補強をしながら、最近は壁の向こうへ耳を澄ませることが増えている。
巣が育っている。
家族が増えている。
それは、蜜葉乃が何より願っていたことだった。
けれども増えれば増えるほど、食糧も、部屋も、出入りの道も必要になる。
この先、ただ今の巣に寄り集まっているだけでは足りなくなる。
もっと広い場所がいる。
もっと安全な経路がいる。
できれば、今の出入口とは別に、新しい道も必要だ。
そのためにまず必要なのは――知ることだった。
地上のことを。
巣の周囲のことを。
そして、葉月が気にしている“壁の向こう”へ繋がるかもしれない空洞の手がかりを。
だからその朝、蜜葉乃は育房室の隣の小部屋で、少しだけ胸を張って宣言した。
「本日より、探索班に正式なお仕事をお願いします」
目の前には、四人の娘たちが並んでいた。
1番左に立つのは長女の一葉。
すでに妹たちの面倒を見ることにも慣れ、最近では「お姉ちゃんらしい顔」をする時間が増えた。まだあどけなさは残るけれど、外へ出る時の一葉の目は、巣の中にいる時より少しだけきりっとする。
右隣には、六女の風葉。
今朝はじめて探索班の並びに加わった斥候係だ。薄青を帯びた灰銀色の髪が揺れるたび、空気までもが軽くなったように見える。普段はあまり喋らないが、その分、耳も鼻も触角も誰よりよく動く。足音も驚くほど静かだ。
その隣には七女の結葉。
まだ年若いながら、フェロモンの匂いを追うことと道筋を覚えることに妙な執着を見せる子である。帰り道がわからなくなった初探索の面影はもうない。少し抜けたところもあるが、集中した時の追跡能力は侮れない。
そして最後に、八女の紬葉。
小さな手先が器用で、運ぶ、まとめる、巻き取る、拾うといった細かな仕事が得意だ。結葉と並ぶと、二人でころころ転がる毛糸玉みたいに見えるが、探索に出すと意外なほどしっかりしている。
四人の前に座る蜜葉乃は、相変わらずやわらかな雰囲気のまま、けれど女王らしく背筋を伸ばした。
「今日は、遠くへ行く必要はありません。まずは巣の周囲を見て、何があるのかを知ることが目的です」
「はいっ」
一葉が真っ先に返事をする。
結葉と紬葉も続いて「はい!」と声をそろえた。
風葉だけは一拍遅れて、小さく頷く。
「……見るのは、地上の草の具合と、匂いの流れと、危ない虫の気配。あと、巣の近くに隠れられる場所」
「まあ、完璧」
蜜葉乃がぱっと顔をほころばせると、風葉は少しだけ目を伏せた。
褒められるのが得意ではないのか、細い触角の先がそわそわと揺れる。
その様子を見て、仁が壁際から静かに口を開いた。
「補足いたします。探索班の本日の目的は三つです」
すっと背筋を伸ばした仁が、床に簡易の地図を描く。湿った土の上に細い枝で引かれた線は、今の巣を中心に、地上へ出る道と周辺の目印を示していた。
「第一に、巣周辺の安全確認。捕食者や大型昆虫の通行経路がないか。第二に、食糧源の再確認。花蜜、樹液、落果、あるいは飼育に向く虫がいないか。第三に――」
枝の先が、地図の西側へ伸びる。
「このあたりの地盤状況の確認です。葉月が把握した地下の反響から、近くに空洞、もしくは空隙を含む層がある可能性が高い」
「空洞……!」
一葉の目が輝いた。
結葉と紬葉も「くうどう」と小声で繰り返す。冒険の響きがするのだろう。
ただ、仁はそこでわずかに声を低くした。
「ですが、見つけても近づきすぎてはいけません。入口らしきもの、風の流れ、土の匂い、周辺の足跡だけ確認し、すぐ戻ること」
「はあい」
「特に一葉」
「はい?」
「“面白そうだからちょっと入ってみる”は禁止です」
「まだ何も言ってないのに」
「言う前に申し上げております」
「むう」
唇を尖らせる一葉の横で、風葉が小さく視線を逸らした。
笑ったのかもしれない。
蜜葉乃はそんな娘たちを見回して、そっと手を胸の前で合わせる。
「探索班のみなさん。どうか無理はせず、でも、見つけたものはたくさん持ち帰ってきてくださいね」
「はい、女王さま!」
一葉が元気よく返す。
その声につられて、結葉と紬葉も胸を張る。
風葉は少しだけ遅れて、
「……一葉が前に出るなら、道は私が見ます」
と、静かに言った。
一葉がぱちぱちと瞬く。
「風葉」
「はい」
「いまの、すごくかっこよかったです」
「……そう?」
「はい。すごく探索班っぽいです」
「探索班だから」
「そうでした」
真顔で返されて、一葉はくすっと笑った。
そうして、その日の探索班は巣を出た。
***
地上は、巣の中よりもずっと騒がしかった。
朝露を含んだ草が揺れ、土の上には昨夜の虫たちの匂いがまだ濃く残っている。風が吹くたびに、花の香り、青い葉の匂い、遠くの樹液の甘さ、それから微かに獣めいた気配までが入り混じって流れてきた。
一葉は巣穴の近くで立ち止まり、ふうっと息を吸い込む。
「今日はいい匂いがいっぱいしますねえ」
「いっぱいあると、逆に迷います」
結葉が真面目な顔で言った。
その横で紬葉が「わかる」と頷く。
「甘いのも、青いのも、土のしっとりしたのも、ぜんぶ混ざってるもんねえ」
「だから順番に見る」
風葉が短く言って、先へ出た。
草の影から草の影へ。
石の陰から根元へ。
小さな身体が地面の凹凸をほとんど音もなく渡っていく。進み方があまりに軽いので、一葉は最初、本当にそこにいるのか不安になるほどだった。
「風葉はやい」
「足音ぜんぜんしないね」
結葉と紬葉がひそひそ囁く。
一葉も感心して頷いた。
すると少し先で立ち止まった風葉が、振り返らないまま言う。
「聞こえてる」
「わっ」
「ごめんなさい!」
「怒ってない」
風葉はそこでようやく振り返った。
無表情に近い顔のまま、でもどこか困ったように触角を揺らす。
「ただ、もう少し小さな声で。右側の草むらに、跳ねる虫がいる」
その瞬間、ぴょん、と緑色の影が跳ねた。
「ほんとだ!」
「すごい風葉!」
一葉が目を丸くする。
風葉は少しだけ視線を伏せた。
「これくらいは……普通」
「普通ではないですよお。わたし、全然気づきませんでした」
「一葉は前を見る役だから」
その言い方があまりに自然で、一葉はきょとんとした。
風葉の方はもう次の匂いを拾っているらしく、触角を細かく動かして地面に顔を近づけている。
――一葉が前に出るなら、道は私が見る。
さきほどの風葉の言葉を思い出す。
「……よし」
小さく気合いを入れ直し、一葉も周囲へ意識を広げる。
彼女の得意なのは、虫たちと仲良くなることだ。
地上に出れば顔見知りも多い。近くの葉裏で朝露を舐めていた小さな虫に声をかけ、どこに甘い花が咲いているか、危ない虫が通る道はどこか、昨日の夜に大きな足音がしなかったかを尋ねていく。
結葉はその間、匂いの筋を確かめていた。
地面に触覚を近づけ、葉の裏を覗き込み、時々首を傾げる。
「こっちは、甲虫さんの通り道。こっちは……あ、これ、昨日の夜の蛾さんかな」
「わかるの?」
「たぶん!」
「たぶん」
紬葉が少しだけ不安そうな声を出すと、結葉は「たぶん八割くらい!」と胸を張った。
信用していいのか迷う数字である。
けれども結葉の嗅覚は、確かに役に立っていた。
どの匂いが新しく、どれが古いか。
この辺りは安全に通れそうか。
水気が多い場所はどこか。
そんなことを、結葉は案外きちんと拾ってくる。
紬葉は紬葉で、見つけた葉片や細い蔓をまとめ、目印になるものをその場で小さく編んでいった。帰り道で迷わないよう、草の根元に結び目を残していくのだ。
「これなら、もし風が強くても少しはわかるよ」
「紬葉えらい」
「えへへ」
一葉が褒めると、紬葉は嬉しそうに笑う。
探索班は、こうして四人で動くとずいぶん形になるのだなあと、一葉はしみじみ思った。
自分ひとりで走り回っていた頃とは違う。
風葉が先を見て、結葉が匂いを追い、紬葉が道を整える。
その真ん中で、一葉は虫たちから話を聞き、みんなをまとめて進んでいく。
なんだか本当に、班長みたいだ。
そんなふうに少し誇らしくなっていた、その時だった。
風葉がぴたりと止まった。
「……待って」
三人も足を止める。
風葉はしゃがみ込み、地面を見つめる。草の根元、湿った土の上に、小さな裂け目のようなものがあった。そこから、ひゅう、とごく微かな風が流れている。
「風が、出てる」
一葉も近づいて覗き込んだ。
言われてみれば、たしかに冷たい空気が触角の先を撫でる。
「穴、でしょうか」
「でも入口ってほど大きくないね」
「うん……でも、下が空いてる匂いがする」
結葉が慎重に鼻を近づける。
「土の匂いが、ここだけちょっと違う。深いところの匂い」
風葉が頷いた。
「下に空間があると思う。たぶん、大きい」
一葉は思わず目を輝かせた。
「空洞の手がかりかもしれませんねえ……!」
「一葉!」
「はい?」
「近づきすぎ禁止」
風葉に真顔で釘を刺され、一葉ははっとする。
そういえば今朝、仁にも同じことを言われた気がする。
「……はい」
「えらい」
ぽん、と風葉が一言だけ褒めた。
その響きがどこか千葉夜に似ていて、一葉はちょっとだけ笑ってしまう。
四人はその裂け目の周囲を慎重に調べた。
土の崩れ方。風の向き。近くにある根の位置。小さな虫たちの出入りの痕跡。明らかに大型の捕食者が出入りしている様子はないが、だからといって安全とは限らない。
紬葉が裂け目のそばの草に目印の蔓を結ぶ。
結葉は匂いを覚え込むように何度も触角を揺らした。
「ここ、ちゃんと覚えた。たぶん帰りもわかる」
「たぶんが少し不安です」
「今のは九割!」
「上がりました」
そんなやり取りをしていると、不意に、一葉の肩へ小さな虫が降りてきた。
羽の薄い、やや丸っこい虫だ。
以前、花蜜のありかを教えてくれた顔見知りである。
「あら、おはようございます」
虫は一葉の触角にちょんと触れて、それから西の方へ向けて飛び、また戻ってきた。
「……どうしたのでしょう」
「知り合い?」
「はい。お花のことに詳しい子です」
一葉が話しかけると、その虫は何度か羽を震わせた。
それをじっと聞いていた一葉の顔が、少しずつ明るくなる。
「まあ……!」
「何?」
「どうしたの、一葉」
一葉は振り返り、声を弾ませた。
「少し先に、古い古い大木の根元があるそうです。そこに水が溜まりやすい窪みがあって、甘い匂いのする草や、小さな虫が集まりやすいんですって」
「食糧になりそう?」
「それに、根の間に隠れ場所もあるみたいです」
風葉がすぐに周囲を見た。
風の向き、匂いの流れ、日差しの位置を確認している。
「行ける。たぶん、こっち」
「では行きましょう!」
一葉が嬉しそうに歩き出す。
その少し前を風葉が進み、結葉と紬葉が後ろから続いた。
根元の窪みは、思った以上に良い場所だった。
木の根がいくつも重なって、小さな影を作っている。そこには朝露が長く残り、しっとりした土にはいくつもの虫の足跡があった。花の蜜ほど濃くはないが、甘い汁を含んだ草も生えている。今後の採集拠点のひとつにできるかもしれない。
「ここ、いいですねえ」
一葉が目を細める。
結葉は根の匂いを嗅ぎ、紬葉は持ってきた細蔓で目印を増やしていく。風葉は少し離れた場所まで足を伸ばし、危険な気配がないかを確かめていた。
しばらくして戻ってきた風葉が、短く報告する。
「大きな敵はいない。でも、上を鳥が通る。長居はしない方がいい」
「さすが風葉」
「あと、こっちの地面。少し柔らかい」
示された先を見ると、根の裏手の土がわずかに沈んでいる。
踏むと、下に空洞があるような鈍い感触が返ってきた。
結葉がそっと鼻を近づけた。
「ここも、下が空いてる匂いする」
「つながってるのかもしれませんね」
一葉は周囲を見回した。
さっき見つけた風穴の裂け目。今の柔らかい地面。木の根元の湿り気。全部が、地下のどこかへ繋がっているようにも思える。
もし本当にこの下に空洞があるなら。
そこを葉月が掘り当てられたなら。
巣は、今よりもっともっと広がるかもしれない。
女王さまがゆっくり休める部屋。
幼虫たちのための育房室。
双葉の栽培区画も、仁の牧場も、もっと余裕をもって広げられる。
一葉は胸の奥が、じわっと熱くなるのを感じた。
「……持って帰りましょう」
「何を?」
紬葉が首を傾げる。
「匂いも、場所も、風の流れも、全部です。仁と葉月に、ちゃんと伝えましょう」
それから一葉は、探索班の顔になって三人を見回した。
「今日はここまでにします。帰り道でもう一度、危ないところと隠れられるところを確認して、巣に戻りましょう」
「はい!」
結葉と紬葉が元気よく返事をする。
風葉も、こくりと頷いた。
帰り道は、行きよりずっと整っていた。
紬葉の結び目が目印になり、結葉が匂いを確かめ、風葉が先を見て、一葉が周囲の虫たちから追加の話を拾っていく。
巣穴が見えた時には、四人とも少し疲れていたけれど、それ以上に顔が明るかった。
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仁の日誌
探索班に 風葉が加入
一葉を班長に、結葉、紬葉の計4名で空洞の地上探索を開始。
今回は迷子にならず、夕方無事に帰還。蜜葉乃も胸を撫で下ろした模様。
詳細報告は明日。




