14 坑道係は壁の向こうを知っている
葉月は、壁を叩く音が好きだ。
こつ、こつ、と軽く叩く。
返ってくる振動の響き方で、その先が詰まった土なのか、湿った空間なのか、崩れやすい層なのかが、なんとなくわかる。
もちろん、仁みたいに「通気の流れがどうこう」とか、「排水経路の確保がどうこう」とか、そういう難しい理屈でわかるわけじゃない。
でも、あたしにはあたしのわかり方がある。
この壁の向こうは、たぶん少し空いてる。
このあたりは柔らかいから、掘るなら補強が要る。
こっちは駄目。水を呼びそう。
そういうのが、手のひらと触角の先で、なんとなくわかるのだ。
だから今日も葉月は、巣の端の壁にぴたりと張りついていた。
まだ朝の空気が残る時間。
育房室のほうからは、幼虫たちの世話をするちいねえちゃん――千葉夜の、やわらかな声がかすかに聞こえる。栽培区画では双葉が朝から葉っぱを覗き込んでいるはずだし、一葉は探索班の準備をしているころだろう。
そんな巣の朝のざわめきから少し離れて、葉月はひとり、土壁に耳を澄ませていた。
「……やっぱり、変」
ぽつりと呟いて、もう一度こつ、と叩く。
返ってきた響きは、昨日よりはっきりしていた。
奥がある。しかも、けっこう近い。
ただの土の詰まり方じゃない。空気の逃げる感じがある。
この先、何かある。
そう思うと、胸の奥がそわそわした。
葉月はもともと、巣の拡張作業が好きだった。
ただ広くするだけじゃない。どこに部屋を作ると動きやすいか、どこを通路にすれば人の流れがぶつからないか、どこに補強を入れれば崩れにくいか。そういうことを考えるのは、なんだか妙に落ち着く。
それに最近、この巣は本当に手狭になってきている。
一葉が連れ帰ってきたアブラムシたちは、仁管理のもと、すっかり巣の一角に根を下ろした。双葉の栽培区画も広がってきたし、育房室には幼虫や蛹や、ちいねえちゃんが整えた保温材がぎゅうぎゅうに詰まっている。
女王さまのための休養区画、食料の仮置き場、蜜の保管場所、アブラムシ牧場、栽培区画、育房室。
家族が増えるたびに必要な場所も増えて、いまの巣は少しずつ、でも確実に狭くなっていた。
だから、掘るのは必要なことだ。
べつに、あたしが掘りたいから掘るんじゃない。
……まあ、ちょっとは掘りたいけど。
葉月はそっと手を壁に当て、掘削位置の見当をつける。
崩れやすい層を避けて、通気の流れを邪魔しない角度で、できれば既存の通路に負担がかからないように――と、そこまで考えたところで。
「葉月」
背後から、静かな声が降ってきた。
葉月はびくっとして振り返る。
そこには、案の定というべきか、黒い執事が立っていた。
「……仁」
「何をなさっているのですか」
「べつに」
「壁に張りついているように見えますが」
「見えてるならそれでいいじゃん」
「理由の説明になっておりません」
即答だった。
葉月はちょっと顔をしかめる。
「調査してるの」
「何の」
「壁の向こう」
「……なるほど」
仁は葉月のいる壁際まで歩いてきて、同じように土へ手を当てた。
長い指先が表面の湿り気を確かめ、触角がわずかに揺れる。
「たしかに、空隙の反応がありますね」
「でしょ」
「規模はまだ不明ですが」
「たぶん、ちっちゃい空洞じゃない。もっと奥がある感じ」
葉月が言うと、仁はちらりとこちらを見た。
感心したような、でもいつも通り表情の薄い顔だ。
「その判断根拠を伺っても?」
「勘」
「勘」
「あと、音」
「勘と音」
「文句ある?」
「いえ。葉月の勘は、現時点での実績を考えれば十分に検討に値します」
予想外に素直な返事がきて、葉月はちょっと黙った。
「……そういうふうに普通に褒められると、逆に困るんだけど」
「事実を述べただけですが」
「それが困るの」
「左様でございますか」
「ほんと、その顔で左様でございますかって言うのやめて」
仁は少しもやめる気がなさそうだった。
代わりに壁を軽く叩き、しばらく考え込む。
その横顔を見ながら、葉月は内心で舌を巻いた。あたしが“なんとなく”感じ取っているものを、この人はたぶんもっと理屈で捉えている。
それが少し悔しくて、でも少し安心もする。
「掘るなら、補強がいる」
葉月は壁に爪先で印をつけながら言った。
「このへんは柔らかいから、通路にすると崩れやすい。先に左右を固めて、それから中央を抜いた方がいい」
「ええ。私も同意見です」
「あと、もし向こうが空洞なら、いきなり穴を開けると空気が変わるかも。だから最初は細く」
「ええ」
「……なに」
「いえ。非常に頼もしいと思いまして」
まただ。
葉月は眉を寄せた。
「べつに、頼もしくなんかないし」
「そうでしょうか」
「必要だから見てるだけだし」
「ええ。葉月はいつもそう仰いますね」
「何その言い方」
「事実確認です」
「むかつく」
「それは何よりです」
「何ひとつ何よりじゃない」
この執事、たまに絶対わざとやってる。
葉月がじとっと睨むと、仁は涼しい顔で「では」と話を戻した。
「本件は女王さまへ報告の上、正式に拡張計画へ組み込みましょう」
「……いま掘っちゃ駄目?」
「駄目です」
「なんで」
「安全確認が済んでおりません」
「少しくらいなら」
「少しの崩落が巣全体に与える影響を、葉月はよくご存じでしょう」
う、と葉月は言葉に詰まる。
その通りだった。
この巣は大きくなったとはいえ、まだ安定しきってはいない。新しい部屋を増やすなら、勢いで掘るより段取りが要る。
わかっている。わかっているけど。
「……今すぐ掘りたい顔をしていますね」
「してない」
「しています」
「してないってば」
「触角が落ち着いておりません」
「見ないでよそういうとこ」
仁は少しだけ、ほんの少しだけ目元を和らげた気がした。
「では、女王さまへの説明役をお願いします」
「は?」
「葉月が発見した空隙です。葉月自身の言葉で報告する方がよろしいでしょう」
「え、あたしが?」
「はい」
「……仁が言えばよくない?」
「今回の主担当は葉月ですので」
主担当。
その言葉に、胸の奥がくすぐったくなる。
葉月は口をへの字に曲げた。
「……別に、そういうのいらないし」
「では私が“葉月は非常に優秀で、壁の向こうの気配を察知しました”と添えてご報告を」
「やめて」
「承知しました」
「絶対余計なこと言うじゃん」
「否定はいたしかねます」
「ほら!」
結局、葉月は半分むくれたまま、仁と一緒に女王さまの部屋へ向かうことになった。
女王さまがいたのは、休養区画と育房室の境目あたりだった。
ちいねえちゃんが幼虫たちの様子を見ていて、女王さまはその横で、双葉ねえの育てたやわらかい葉を使って保温材を整えている。少し前まで寝台で休んでいる時間の方が長かったのに、最近の女王さまはずいぶん顔色がよくなった。
もちろん、まだ完全ではない。
でも、一葉が集めてくる蜜や、アブラムシの甘露や、双葉の栽培の成果が少しずつ効いてきているのだろう。声にも前より張りがあるし、座っている姿にも安定感が出てきた。
「あら、葉月。仁も。どうしました?」
女王さまが顔を上げて、ふわりと笑う。
その笑顔を見ると、少しだけ肩の力が抜ける。
……報告、あたしがするんだっけ。
葉月はちらりと仁を見る。
仁は「どうぞ」とでも言いたげに、静かに一歩下がった。
むかつく。
「……あっちの通路の奥の壁の向こう、変なの」
「まあ」
第一声がそれになってしまって、葉月は自分でちょっと嫌になった。
でも女王さまは嫌な顔ひとつせず、むしろ興味深そうに首を傾げる。
「変、というと?」
「空いてる感じがする。壁の奥に、たぶん空洞がある」
「空洞」
「うん。まだちゃんと開けてないからわかんないけど、部屋になるかもしれない」
女王さまの目が、ぱっと明るくなる。
「まあ……! それは素敵ですねえ」
「まだ決まったわけじゃないし」
「でも、もし本当に空いていたら、新しいお部屋が作れるのですよね?」
「……たぶん」
そう答えると、女王さまはとても嬉しそうに笑った。
「葉月、すごいです」
「いや、だから、まだ」
「それでも、見つけてくれたのでしょう?」
「……まあ」
「すごいです」
まっすぐに褒められて、葉月は居心地が悪くなった。
こういう時どうしていいかわからない。
すると、横からちいねえちゃんがやわらかく口を挟んだ。
「新しいお部屋ができたら、育房室も少し広げられるかもしれませんねえ」
「そうですねえ。最近、みんな大きくなってきましたもの」
女王さまも頷く。
「双葉の葉っぱ置き場も増やしたいですし、一葉たちの持ち帰るものを置く場所も、もう少
し欲しいです」
そこに、ちょうど噂をすれば何とやらで、一葉が通路の向こうから顔を出した。
「呼びました?」
「呼んでない」
「でも、あたしの名前が聞こえた気がして!」
一葉は元気よく入ってきて、葉月と仁の顔を見比べる。
「何かあったんですか?」
「葉月が、新しい空洞の気配を見つけてくれたのです」
女王さまがそう言うと、一葉は目を輝かせた。
「ほんとうですか、葉月!」
「まだ気配だけ」
「それでもすごいです! 葉月、かっこいい!」
「うるさい」
反射でそう返したけれど、一葉はまったく気にしない。
「新しい通路ができたら、探索班も出入りしやすくなるかもしれませんね!」
「まだ通路になるって決まってないし」
「でも、葉月が見つけたなら、きっといい場所です」
「だからそういうのやめてってば……」
一葉は褒める時、ほんとうに遠慮がない。
ちょっとだけ顔が熱くなるのを誤魔化すように、葉月はそっぽを向いた。
そこへ、今度は双葉までやってきた。
両腕に葉っぱの束を抱えていて、どうやら栽培区画から直行してきたらしい。
「新しいお部屋のお話ですか?」
「双葉まで来た」
「だって気になります」
双葉は葉っぱを抱えたまま、わくわくした顔をする。
「もしお部屋が増えるなら、日当たり……じゃないですね、通気のいいところに、もう少し植物を置けるかもしれません」
「地下で日当たりは無理でしょ」
「気持ちの問題です」
「何その返し」
でも、双葉が植物のことになると少しだけ早口になるのは、もうみんな知っている。
女王さまがくすくす笑い、ちいねえちゃんも「ふふ」と柔らかく笑った。
にぎやかだ。
少し前まで、この巣はもっと静かだったのに。
葉月はその輪の端で、なんとなく落ち着かない気持ちになる。
悪い感じじゃない。ただ、慣れないだけだ。自分が見つけた壁の向こうの話で、こんなふうにみんなが集まって、楽しそうに先のことを話しているのが、まだ少し不思議だった。
仁が一歩進み出る。
「現段階では、葉月の発見した空隙について、調査と安全確認を優先すべきかと存じます」
「はい、仁」
女王さまが頷く。
「では、どうしましょう?」
「本日中に簡易測定を行い、明日以降、段階的に掘削を開始するのが妥当かと。主担当は葉月、補佐を私が務めます」
「主担当」
女王さまが葉月を見る。
「葉月、お願いできますか?」
「……うん」
「まあ、頼もしい」
まただ。
でもさっきより、少しだけその言葉がくすぐったくなくなっていた。
「それから」
仁が続ける。
「もし向こう側の空間が安定しているなら、将来的には新規区画として転用可能です。育房室の拡張、栽培区画の増設、貯蔵室の分離、あるいは外部接続用の中継通路にも利用できるかと」
「外部接続?」
一葉が首を傾げる。
仁は静かに答えた。
「他の地下空間と、です」
その場が一瞬だけ静かになった。
他の地下空間。
それはつまり、この巣の外にある、まだ見ぬどこかの空洞。もしかしたら別の蟻の巣かもしれないし、土の下に住む他の生き物の住処かもしれない。
葉月は、その言葉に胸が跳ねるのを感じた。
あたしが知りたかったのは、たぶんそれだ。
壁の向こうに何があるのか。
この巣の先に、どんな空間が広がっているのか。
まだ見ぬ道が、どこへ続いているのか。
「……つなげられるの?」
思わず、葉月は口にしていた。
仁がこちらを見る。
「条件が整えば」
「危なくない?」
ちいねえちゃんが心配そうに言う。
「相手によるでしょうね」
「では、危ない場合もあるのですねえ」
女王さまが少し真面目な顔になる。
仁は頷いた。
「はい。ですから軽率には進めません。ただ、選択肢として知っておく価値はあるかと」
葉月は黙ったまま、壁の向こうを思い描く。
まだ何も見えていない。空気の気配と、土の響きだけ。
でもその先に、今の巣にはない何かがあるかもしれないと思うと、身体の奥が熱くなった。
もっと広くできる。
もっと繋げられる。
この巣を、もっと大きくできる。
「葉月?」
女王さまの声に、はっと顔を上げる。
「ごめん。ちょっと考えてた」
「ふふ。どんなお部屋になるか、でしょうか」
「……まあ、そんな感じ」
女王さまは嬉しそうに微笑む。
「葉月が作ってくれる巣、わたし好きですよ」
葉月は固まった。
「……は」
「歩きやすくて、崩れにくくて、みんなが過ごしやすいですもの。葉月の通路は、なんだか安心します」
だめだ。
こういうのは、ほんとうにだめだ。
葉月はさっと顔を逸らした。
「そ、そういうの、急に言わないで」
「本心なのですが」
女王さまはきょとんとしている。
「葉月、顔が赤いですよ」
一葉が余計なことを言う。
「赤くない!」
「赤いです」
「双葉まで言うな!」
「少し赤いですねえ」
「ちいねえまで!?」
逃げ道がない。
葉月が思わず後ずさると、とどめみたいに仁が静かに口を開いた。
「照れておられるようです」
「仁!!」
巣の中に、笑い声が広がった。
一葉は声を上げて笑うし、双葉は葉っぱを抱えたままくすくすしている。ちいねえちゃんは困ったように笑いながらも「でも、葉月が頼もしいのは本当ですよ」と追い打ちをかけてくるし、女王さまは「まあまあ」と言いながら、ちっとも止める気がない。
葉月は触角をばたつかせた。
「もうやだこの家族……!」
結局その日の午後、葉月は仁と一緒に例の壁の調査をすることになった。
通路の一部を封鎖し、崩落時に備えて補強材を積み、空気の流れを確認しながら、慎重に表層を削っていく。こういう段取りをきっちり踏むあたり、仁は執事というより現場監督なのではないかと葉月は思う。
「右、もう少し上」
葉月が言う。
「このへん、薄い」
「承知しました」
仁が指定した位置を細く削る。
ぱら、と土が落ちた。
その瞬間、ひやりとした空気が、向こう側からわずかに流れ込んできた。
「……開いた」
葉月が息を呑む。
仁も目を細めた。
「ええ。空間に接続しましたね」
開いた穴はまだ小さい。
でも、その向こうに確かな空洞があるのがわかる。葉月はそっと目を寄せて、暗がりの向こうを覗き込んだ。
そこは、自然にできたらしい小さな地下空間だった。
今の巣の一室ほど広くはないけれど、通路一本分を延ばすには十分な余裕がある。壁面は比較的乾いていて、天井もすぐには崩れそうにない。
「どうですか」
仁が問う。
葉月はしばらく見つめ、それから、口元を少しだけ上げた。
「……いい部屋になる」
「ええ」
「補強はいるけど、ちゃんとやれば使える。通路も引けるし、奥側の土を見れば、まだ先があるかもしれない」
「つまり」
「掘る価値、ある」
言い切ると、胸の奥がじわっと熱くなった。
自分の勘が当たったこと。
壁の向こうに、本当に道の種みたいなものがあったこと。
そしてそれを、ちゃんと“巣の未来”として形にできるかもしれないこと。
仁が静かに頷く。
「では、正式に拡張対象として申請いたしましょう」
「申請って、誰に」
「女王さまへ」
「また報告あたし?」
「もちろんです」
葉月は顔をしかめた。
「仁、絶対面白がってるでしょ」
「いえ」
「嘘」
「否定はいたしません」
「ほら!」
でも、そのやり取りをしながら、葉月は少しだけ笑っていた。
壁の向こうには、ちゃんと続きがあった。
この巣の外側に、まだ知らない空間がある。
それは少し怖くて、でもそれ以上に、たまらなくわくわくすることだった。
あたしは、掘る。
この巣がもっと息をしやすくなるように。
みんながもっと暮らしやすくなるように。
そしていつか、壁の向こうのその先まで、ちゃんと見に行けるように。
葉月は新しく開いた小さな穴に手を当てる。
ひやりとした空気が、指先を撫でた。
その向こうに何があるのか、まだ誰も知らない。
でも、きっといつか行き着く。
別の巣かもしれない。
別の種族の住処かもしれない。
あるいは、もっと大きな地下の道かもしれない。
どれでもいい。
知らないままより、ずっといい。
「葉月」
「なに」
「触角が楽しそうです」
「うるさい」
「否定はなさらないのですね」
「うるさいって言ってるでしょ」
葉月はそう返しながら、もう一度だけ壁の向こうを見た。
その視線は、いまいる巣の中だけではなく、まだ見ぬその先へ向いている。
小さな王国の坑道係は、今日初めて、壁の向こうにある未来の輪郭を見つけたのだった。
⸻
仁の日誌
本日、葉月が新規空隙の兆候を発見。
調査の結果、小規模ながら安定した地下空間への接続を確認。
当該空間は、拡張区画・中継通路・貯蔵室候補として有望。
葉月は空間把握と掘削勘に優れており、坑道係として極めて有望です。
なお、本人は褒められると分かりやすく不機嫌そうな顔をしますが、触角は正直です。
家族一同からの賞賛に対し「もうやだこの家族」と発言しておりましたが、あれは恐らく照れです。
……神よ。
坑道係が壁の向こうへ目を向け始めました。
この巣は、想定よりずっと遠くまで伸びるかもしれません。




