13 育房室のちいねえちゃん
巣の中が、ずいぶん賑やかになった。
最初のころは、蜜葉乃と仁、それから卵たちだけだった小さな巣も、いまではすっかり様子が違う。
一葉が地上を走り回り、双葉が葉っぱの世話に夢中になり、結葉は気がつけば誰かの後ろをちょこちょことついて歩いている。紬葉はまだよく転ぶけれど、そのたびに「だいじょうぶです……」と自分で言って立ち上がるようになった。
そして、孵ったばかりの幼い妹たちが、また少しずつ増えはじめていた。
その日も、育房室にはやわらかな熱と、幼虫たちのかすかな気配が満ちていた。
蜜葉乃は、壁際に寄せた寝床からそっと身を起こし、部屋の中を見回す。
以前よりずっと広くなった育房室には、卵の区画、幼虫の区画、蛹の区画、子蟻たちの寝床がそれぞれ分けられ、保温用の葉片や繊維もきちんと整えられていた。壁際には仁が作った小さな棚のような土台があり、その上には保湿用の葉、水気を含ませた繊維、アブラムシ用の道具まで並んでいる。
……きれい。
そして、きれいなだけではない。
ちゃんと“生き物が増えた巣”の気配がある。
小さな寝息のようなもの。
葉が擦れる音。
ときどき聞こえる、まだ幼い娘たちの小さな声。
その真ん中に、ひときわ落ち着いた声があった。
「紬葉、そっちはまだだめですよ。そちらは、ねんねの子たちのおへやです」
「う……ごめんなさい……」
「だいじょうぶです。こっちで、ふわふわをならべるお手伝いをしてくださいね」
「はい……!」
ふわり、と返事が弾む。
蜜葉乃はその声の方へ目を向けて、やわらかく目を細めた。
そこにいたのは、千葉夜だった。
他の姉妹たちに比べるとひとまわり小柄だが、お世話する手つきは驚くほど安定していて、幼虫のそばに置く繊維の位置も、葉片の重なりも、ほんの少しのずれも見逃さない。
ふわふわして見えるのに、育房室にいる時だけは別だった。
まるでここが、自分の城であるかのように。
「ちいちゃん」
蜜葉乃が呼ぶと、千葉夜はぱっと振り向いた。
「あっ、女王さま。おはようございます」
「おはようございます。今日も、にぎやかですねえ」
「はい。朝からふたり孵りまして、今は三十三番目の子がそろそろかなってところです」
「まあ、そんなに」
蜜葉乃が目を丸くすると、千葉夜はこくりと頷いた。
「なので今日は、保温を少し厚めにしています。双葉が育てた葉っぱも、やわらかいものを選んで使わせてもらいました」
「そうでしたか」
「あと、結葉がさっき寝ぼけて蛹の区画に入りかけたので、通り道も少し変えました」
「それは大変」
「はい。でももう大丈夫です」
にこ、と笑う。
おっとりしていて、声もやわらかい。
なのに「もう大丈夫です」と言う時の千葉夜は、妙に頼もしかった。
蜜葉乃がそっと幼虫の区画を覗き込むと、千葉夜がすぐ横へ来て、そっと位置を支えてくれる。
「この子たち、ちゃんとあったかいです」
千葉夜は小さな幼虫のそばへ手を添えながら、やさしく言った。
「今朝は少し冷えたので心配だったんですけど、もう平気です。お腹の張りも悪くないですし、眠りも浅くなっていません」
「……わかるのですねえ」
「はい」
「すごい」
蜜葉乃が感心すると、千葉夜は少しだけ照れたように笑った。
「好きなんです。こういうの」
その言い方が、なんだか双葉に少し似ていて、蜜葉乃は思わず頬を緩めた。
双葉が植物を見る時みたいに、千葉夜は幼虫を見るのだ。
ふわふわしていて、やさしくて、でも好きなことに関してだけは譲らない。
そこへ、入口の方から仁の声がした。
「女王さま。起きていらしたのですね」
振り返ると、仁が両手に細い葉束と、何やら小さな土器めいた器を抱えて立っていた。相変わらず黒ずくめの端正な姿だが、最近はそこに“大家族の執事”らしい慌ただしさが少しだけ混じっている。
「おはようございます、仁」
「おはようございます。本日は育房室の湿度調整を――」
言いかけた仁が、ふと足を止めた。
育房室の中央で、千葉夜がじっとこちらを見ていたからだ。
「……何でしょう、千葉夜」
「仁さん」
「はい」
「その器、育房室に置くつもりですか」
「保湿用の水皿ですが」
「深いです」
「はい」
「ひっくり返ったら大変です」
「安定は確保してあります」
「でも、結葉が足をつっこんだらどうするんですか」
ぴたり、と仁が止まる。
千葉夜はやわらかな声のまま、しかし一歩も引かない。
「あと、葉束もこのまま壁際に置くと、紬葉ちゃんが寝ぼけて顔からつっこみます」
「……なるほど」
「それから昨日の保温材、少しだけ硬かったです。あの子、おなかの下が落ち着かなかったみたいで、夜に二回も位置がずれました」
「報告を受けておりませんが」
「いま報告しています」
仁は黙った。
蜜葉乃は目をぱちぱちさせる。
仁が押されている。
しかも相手は、いつもふわふわしている千葉夜だ。
千葉夜はまったく怒っていなかった。
ただ、ごく当然のように、「育房に関して譲れないこと」を伝えているだけなのだ。
「……失礼しました」
数秒後、仁が静かに頭を下げる。
「育房室の運用については、千葉夜の判断を優先いたします」
「はい。お願いします」
あっさり頷いて、千葉夜はまた幼虫の方へ戻っていった。
その背中を見送りながら、蜜葉乃は思わずくすりと笑う。
「仁、負けましたねえ」
「勝敗の概念はございません」
「でも今、ちいちゃんの方が強かったです」
「育房に関しては、事実かと」
淡々と認めるあたりが、なんだかおかしい。
仁は水皿を持ち直しながら、小さく息をついた。
「千葉夜は、あの区画に関して非常に優秀です。観察精度が高く、幼虫ごとの状態差にも敏感です。……正直、助かっております」
「まあ」
「加えて、幼虫たちのほうも千葉夜が近くにいると落ち着く傾向があります」
「それは、ちいちゃんがやさしいからでしょうか」
「それもあるかと。あとは体温と気配でしょう」
蜜葉乃は、そっと千葉夜の方を見る。
千葉夜は、さっきから幼虫のそばに座り込んで、葉片の角を丁寧に折っていた。ときどき小さく「だいじょうぶですよ」「もう少しでおひるですよ」と話しかけている。
まるで、赤ん坊の世話をする姉のようだ。
――ああ、この子が、育房係なのだ。
最初は卵しかなかった巣に、幼虫が増え、蛹が増え、羽化した娘たちが走り回るようになって。
いつの間にか、それぞれの子に、それぞれの役割が生まれている。
一葉は外へ出る。
双葉は育てる。
そして千葉夜は、育てて、守る。
自分の巣が、家族になっていく。
そう思うだけで、蜜葉乃は少し泣きそうになる。
「女王さま?」
千葉夜が気づいて、心配そうに近寄ってきた。
「どうしました? どこか痛いですか?」
「いいえ、大丈夫です」
「ほんとうに?」
「はい。ただ、なんだか……うれしくなってしまって」
そう言うと、千葉夜はきょとんと目を丸くしたあと、ふわりと笑った。
「なら、よかったです」
「ちいちゃん」
「はい」
「あなた、いつの間にこんなに頼もしくなったのかしら」
「えっ」
千葉夜は目をぱちぱちさせる。
それから少しだけ困ったように、自分の頬へ手を当てた。
「頼もしい、でしょうか……」
「ええ。とても」
「でも、わたし、あんまり強くないですよ」
「そうかもしれません」
「すぐあわあわしますし」
「それも知っています」
「このあいだも、結葉が寝返りで転がっていって、わたし、ちょっと泣きそうになりましたし……」
「それは大変でしたねえ」
「はい……」
しゅん、としながらも、千葉夜は幼虫の様子をちらりと見やる。
その目は、やっぱりまっすぐだった。
「でも」
小さな声で、千葉夜は続けた。
「この子たちが、ちゃんとあったかくて、ちゃんと眠れて、ちゃんと大きくなれるようにするのは、たぶんわたし、好きなんです」
蜜葉乃は、そっと目を細める。
「誰かが見ていないと、ちょっとしたことで苦しくなっちゃうでしょう。乾きすぎたり、冷えたり、寝床がずれたり。だから……そういうの、見ていたいなって」
「……ええ」
「女王さまが安心できるようにしたいですし」
その言葉に、蜜葉乃は少しだけ息を止めた。
千葉夜は照れたように笑いながら、でもきちんと蜜葉乃を見る。
「女王さま、すぐ『大丈夫かしら』ってお顔になるので」
「まあ」
「だから、だいじょうぶですって、言える子になりたいんです」
その瞬間、蜜葉乃はほんとうに、泣きそうになった。
同時に誇らしくもあった。
「……ちいちゃん」
「はい」
「あなたはもう、十分そう言える子ですよ」
千葉夜は目を丸くした。
蜜葉乃はそっと手を伸ばし、そのやわらかな銀髪を撫でる。
「いつもありがとう。ちいねえちゃん」
ぴたり、と千葉夜が固まった。
「ち、ちいねえちゃん……」
「みんな、そう呼ぶのでしょう?」
「は、はい……でも、女王さまに言われると、なんだか、えへへ……」
頬を赤くして、へにゃっと笑う。
その様子があまりにも可愛らしくて、蜜葉乃までつられて笑ってしまった。
そこへ、ばたばたと足音が響く。
「女王さまー! 仁ー! ちいねえちゃーん!」
一葉だった。
後ろから双葉と紬葉もついてきている。
「どうしたのです、一葉」
「結葉が、蛹のお部屋の前で『ここあったかい……』って座り込んで動かなくなって、双葉がその横に葉っぱ植えようとして、なんか大変!」
「植えようとしてません、置こうとしただけです」
「でも土ほじってたよね?」
「ちょっとだけです」
「結葉は!?」
千葉夜が立ち上がる。
「いまどこですか!」
「廊下です!」
「だめです、連れてきてください、冷えます!」
「はいっ」
一葉がびしっと返事をして駆け戻り、双葉も「わ、わたしも行きます」と慌ててついていく。
千葉夜はその背を見送りながら、はっとしたように仁を振り返った。
「仁さん」
「はい」
「廊下の保温、足りてません」
「承知しました。直ちに対処します」
「あと、蛹区画の前に目印をつけてください。結葉がまた吸い寄せられます」
「本日中に」
「できれば今すぐ」
「……承知しました」
仁が即座に踵を返す。
その様子に、蜜葉乃はつい吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。
「ちいちゃん」
「はい?」
「やっぱり、育房室ではあなたがいちばん強いですねえ」
「そ、そんなことは……」
言いながらも、千葉夜はすでに幼虫たちの寝床を確認しはじめている。
忙しないのに、手元は少しも乱れない。
まもなく一葉が結葉を抱えて戻ってきて、その後ろから双葉と紬葉もついてきて、育房室はあっという間に賑やかになった。
「結葉、おててつめたいです」
「だって、あったかいところ探してたの……」
「蛹のおへやはだめです」
「はい……」
千葉夜が結葉の手を包み込みながら言い聞かせると、結葉はしゅんとしながらも素直に頷く。
双葉は双葉で、「この葉っぱ、保温に使えませんか」と千葉夜に見せているし、紬葉は「わたし、ふわふわ運びます」と一生懸命繊維を抱えている。
一葉はそんな妹たちを見ながら、なんだか少し得意げだ。
蜜葉乃は、その光景を眺めながら、そっと息をつく。
以前なら、これだけ騒がしければ疲れてしまったかもしれない。
けれど今は、不思議と心地いい。
娘たちの声がして、仁の足音がして、葉の匂いと土の匂いが混ざって、みんなが同じ巣の中で忙しなく生きている。
それがたまらなく愛おしい。
「女王さま」
千葉夜がふと振り返る。
「はい?」
「今日は、少し顔色がいいです」
蜜葉乃は瞬いた。
「そうかしら」
「はい。朝よりずっといいです。さっき笑ってましたし」
「まあ、見ていたのですね」
「見ています」
千葉夜は、ごく自然にそう言った。
「女王さま、疲れると、目がちょっとだけとろんとします。あと、触角が下がります」
「そんなにわかりやすいですか」
「わかります」
きっぱり言われて、蜜葉乃は少しだけ照れた。
けれども悪い気はしない。
こうして見ていてくれる子がいるのだと思うと、肩の力が抜ける。
「ですから」
千葉夜は、幼虫の寝床を整えながら続けた。
「今日は、たぶんだいじょうぶです」
やわらかな声だった。
でも、そこには確かな自信があった。
「ちゃんとあったかいですし、女王さまも少し元気ですし、みんなもいます」
千葉夜は、そっと笑う。
「だから、だいじょうぶです」
蜜葉乃は、その言葉を胸の奥でそっと受け取った。
「……ありがとう、ちいちゃん」
「はい」
育房室の中では、結葉がまだ「蛹のおへや、あったかかった……」と名残惜しそうに言い、一葉が「だからだめだってば」と呆れ、双葉が「じゃあ結葉用のあったか葉っぱを育てます」と妙なことを言い出していた。
その向こうで仁がすでに廊下の保温改修に取りかかっている気配がする。
賑やかで、忙しなくて、でもあたたかい。
蜜葉乃は笑いながら、育房室の真ん中にいる千葉夜を見つめた。
小柄でふわふわした、やさしい娘。
けれど育房に関してだけは誰よりも目が利いて、誰よりも譲らない、巣の“ちいねえちゃん”。
娘たちが増え、巣が大きくなっていくほどに、きっとこの子の役目も増えていくのだろう。
でも、たぶん大丈夫だ。
だって彼女はもう、ちゃんと知っている。
誰かを育てることのあたたかさも、守ることの責任も。
そして「だいじょうぶ」と言ってあげることの強さも。
育房室の空気は、今日もやわらかくあたたかかった。
⸻
仁の日誌
育房室の主導権が事実上千葉夜へ移行。
育房に関する観察能力が高く、幼虫・蛹の管理精度は現時点で巣内随一。
本日判明したこと:
•結葉は蛹室の保温に吸い寄せられる
•双葉は育房室でも葉を植えようとする
•一葉は緊急時の呼び出し係としても有能
•千葉夜は育房案件に限り私へ遠慮がない
なお、女王さまの顔色は確かに朝より良好。
千葉夜の「だいじょうぶです」は、女王の安定にも有効と推察される。
……育房室の改装案を再提出予定。
蛹室前の侵入防止策が急務。
結葉対策である。




