12 女王さまの台所会議
花蜜は、効果てきめんだった。
それはもう、仁が「効果あり」と報告書に太字で記したくなるくらいには、てきめんだった。
数日前まで、蜜葉乃は少し動くだけで肩で息をしていた。
卵や幼虫たちの様子を見て、双葉の育てた葉を眺めて、一葉の報告に笑って――それだけで、巣の隅へもたれて目を閉じる時間が必要だったのに。
今朝の蜜葉乃は違う。
「仁、見てください」
「はい」
「歩けます」
「存じております。今朝、寝床から卵室までご自身で移動なさいましたので」
「しかも、ふらつきが少ないのです」
「喜ばしいことです」
「あと、今日は二回も立ち上がれました」
「三回です」
「まあ、数えていたのですか」
「女王の体調管理は執事の重要任務ですので」
仁はそう言って、いつものように淡々と葉片を選り分けていた。
通路脇の作業台代わりの平らな土の上には、朝の点検で集めたらしい植物の切れ端、小さな種子、双葉が試験的に育てている若芽の記録札、そしてアブラムシ牧場の管理表まで整然と並んでいる。
創設巣の一室にあるには、どう考えても事務量が多い。
蜜葉乃は、少し離れた寝床からその様子を眺めて、ふふっと笑った。
「仁」
「はい」
「最近、巣の中に紙と筆が見える気がするのですが」
「気のせいではありません」
「やっぱり」
「記録体制を強化しました」
「何の」
「女王の栄養状態、幼虫の発育状況、双葉の栽培進捗、一葉率いる探索班の採集経路、アブラムシ牧場の増殖速度と蜜量、その他諸々です」
「まあ」
「巣が賑やかになってまいりましたので、情報の整理が必要かと」
その言い方があまりにも真面目で、蜜葉乃はとうとう肩を揺らした。
傷はもうほとんど痛まない。笑っても、前のようにすぐ「いたた」とならない。
それがうれしくて、なおさら笑ってしまう。
「つまり仁は今、執事さんであり、書記さんであり、牧場主さんであり、監督さんでもあるのですねえ」
「栄養管理責任者も兼務しております」
「大忙し」
「光栄です」
本当にそう思っているのかはわからない声音で言いながら、仁はひとつ咳払いをした。
「――そこで本日、女王さまにご相談がございます」
「ご相談」
「はい」
「事実上の決定事項ですか?」
「本日はきちんとご相談です」
「まあ、珍しい」
蜜葉乃が目を丸くすると、仁はすっと居住まいを正した。
その瞬間、いつもの創設巣の一室が、妙に会議室めいて見えるから不思議だ。
「女王さまの体調改善に伴い、今後は食糧管理を一段階進めるべきと判断いたしました」
「食糧管理」
「はい。名付けて――」
仁は一拍置いた。
「女王栄養改善計画です」
蜜葉乃はしばらく黙った。
それから、こてんと首を傾げる。
「……そのままですねえ」
「わかりやすさを優先しました」
「そういうところ、嫌いではありません」
「恐れ入ります」
そこへ、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
「女王さまー!」
最初に飛び込んできたのは一葉だった。
羽化してから少し経ち、身体つきはまだ小柄ながらも、動きはだいぶしっかりしてきている。淡い銀髪のあいだから覗く触角は元気よく立ち、顔つきにも、ただ愛らしいだけではない働き蟻らしいきりっとした色が混じり始めていた。
その後ろから、両手に葉っぱを抱えた双葉がとてとてついてくる。
「仁さま、これ、さっきのです……あ、会議ですか?」
「かいぎ!」
「はい。ちょうど皆をお呼びしようと思っておりました」
仁はそう言って、通路脇の空いた場所へ視線を向けた。
そこにはすでに、小さな丸葉を敷いた簡易座席が人数分用意されている。
いつの間に。
蜜葉乃が瞬くあいだに、一葉は「わあ」と目を輝かせ、双葉は「すごい……」と素直に感心していた。
「本日の議題は、今後の食糧供給体制についてです」
「ごちそうの話ですか?」
「広い意味ではそうです」
「やったあ」
「一葉、会議で“やったあ”はたぶん違うと思います……」
「でもごちそうなんでしょう?」
「ごちそうではありますが」
仁は微妙に困ったような、しかしそれを表情に出すほどでもない顔で、皆が座るのを待った。
蜜葉乃は寝床から少し移動して、卵と幼虫たちが見える位置に腰を下ろす。
最近孵った妹たちも、部屋の隅の保温区画で丸くなっていたり、双葉の葉っぱをかじっていたり、思い思いに過ごしている。まだ名前のない子も多いが、巣の中は以前とは比べものにならないほど賑やかだ。
仁は全員が落ち着いたのを確認すると、土壁に立てかけた平たい木片を手に取った。
「まず現状確認から。現在、巣の食糧供給は大きく三系統あります」
とん、と木片の先で床を示す。
「第一に、探索班が持ち帰る外部採集物。花蜜、花粉、種子、小型昆虫など」
「はい!」
一葉が元気よく手を挙げた。
「第二に、双葉の栽培区画で育成中の葉物および芽類」
「はい……」
双葉が控えめに手を上げる。
「第三に、巣内で飼育中のアブラムシ牧場から得られる蜜露です」
その瞬間、一葉がぱっと胸を張った。
「わたしのアブラムシさんたち!」
「現在の管理責任者は私です」
「仁のアブラムシさんたち……」
「正確には共同事業です」
一葉は少し考え、それから満足げにうなずいた。
「じゃあ、わたしと仁のアブラムシさんたち!」
「異議はございません」
双葉が小さくくすっと笑い、蜜葉乃も目を細める。
仁は木片を持ったまま続けた。
「この三系統を、それぞれ独立して運用するのではなく、今後は連携させます」
「れんけい?」
一葉が首を傾げる。
「はい。たとえば双葉が栽培した植物は、女王さまと幼虫の補助食になるだけでなく、アブラムシ牧場の餌場にもなります」
「葉っぱを、アブラムシさんに?」
「そうです。植物の状態が良ければ、アブラムシの状態も良くなり、結果として蜜露の量と質も安定しやすくなります」
「まあ……」
双葉の目が、じわっと丸くなる。
植物の話になると、彼女の反応はいつも少しだけ大きい。
「それから探索班には、花蜜だけでなく、栽培に向く芽や種子、牧場向きの柔らかい茎を優先的に集めていただきます」
「できます!」
一葉はまた元気よく答えた。
「虫さんたちにも聞いてみます。どの葉っぱが甘いの出やすいかとか、アブラムシさんが好きそうなのとか!」
「助かります」
仁はそこで、ほんのわずかに視線を蜜葉乃へ向けた。
「そして最終的に、それらを組み合わせて、女王さまの栄養状態を安定させる」
静かな声だった。
「花蜜は即効性があります。蜜露は継続的な糖分供給に向いています。栽培区画が安定すれば、双葉の育てる若葉や茸も食糧として活用できます。女王さまのご負担を減らしつつ、幼虫たちへの分配にも余裕が生まれるはずです」
蜜葉乃は、しばらく黙ってその言葉を聞いていた。
――女王のご負担を減らしつつ。
仁はいつもそうだ。
巣のことを、数字や効率や仕組みの形で語る。けれど、その中心には必ず、自分や子どもたちがいる。
それがなんだか、胸の奥をあたたかくする。
「……すてきですねえ」
ぽつりとそう言うと、仁が顔を上げた。
「すてき、でしょうか」
「はい。みんなでごはんを集めて、育てて、分け合って……家族で台所をしているみたいです」
「だいどころ」
「ええ。うちの巣の台所会議です」
一葉が「だいどころ会議!」と楽しそうに繰り返し、双葉も「なんだかいいですね」と頬を緩める。
仁だけが、少しだけ言葉を探すように黙ったあと、諦めたように小さく息をついた。
「……では、本日の会議名は『女王さまの台所会議』ということで」
「まあ、かわいい」
「採用された」
「採用されましたね……」
「正式名称ですか?」
「正式名称です」
仁が真顔で断言すると、一葉は「やったあ!」と飛び上がった。
どうやらこの巣では、会議の正式名称にかわいさが採用されるらしい。
⸻
会議は、思いのほか本格的に進んだ。
「まず探索班ですが」
「はいっ」
「一葉には班長を継続してお願いしたく」
「はんちょう!」
一葉はぴんと背筋を伸ばした。
最近、妹たちが増えたことで、自然と彼女が先頭に立つ場面も多くなっている。まだ幼さは残るが、任されることがうれしい年頃でもあるらしい。
「本日の班長任務は三つです。第一に、花蜜採取班の経路確認。第二に、栽培向きの種子や若芽の探索。第三に、地上で得た虫情報の共有」
「虫情報」
「はい。どの辺りに甘い樹液があるか、どの花が長持ちするか、どの茎にアブラムシがつきやすいかなど」
「できます! てんとうむしさんには気をつけます!」
「それは非常に大事です」
一葉は真剣にうなずいた。
班長の顔である。
次に、仁は双葉へ向き直る。
「双葉、栽培区画についてですが、現状は葉物中心ですね」
「はい……。まだ、うまくいくのと、だめになるのと、半分くらいで……」
「十分です」
きっぱり言われて、双葉がぱちりと瞬く。
「巣内でここまで根付かせられている時点で、十分に成果です。今後は用途別に区画を分けましょう」
「用途別?」
「女王用、幼虫用、アブラムシ牧場用、観察用です」
「かんさつよう」
「双葉は実験するでしょう」
「……します」
「でしょうね」
仁の断言に、蜜葉乃は思わず笑いそうになった。
双葉は植物のことになると、途端に目の色が変わる。しおれた葉に話しかけたり、きのこを増やしすぎたり、夜中にこっそり芽の伸びを見に行ったりと、最近すでに前科がいくつかある。
「なので、実験は専用区画でお願いします」
「怒ってますか……?」
「予防策です」
「よかった……」
「なお、廊下で茸を増やすのは今後禁止といたします」
「うっ」
「前科扱い」
一葉が小声で囁き、双葉がしょんぼりとうつむく。
けれど仁の声色は、叱るというより本当に管理上の問題として述べているだけだった。
「通路の通行に支障が出ますし、湿度管理も乱れます。増やすなら養殖部屋へ」
「はい……」
「ただし、味は悪くありませんでした」
「ほんとうですか?」
「はい。女王さまもよく召し上がっておられました」
「……!」
双葉の顔がぱっと明るくなる。
その単純さが可愛らしくて、蜜葉乃はつい口元を押さえた。
「おいしかったですよ、双葉。やわらかくて、少しだけ甘くて」
「よかった……!」
それだけで双葉はすっかり元気になってしまう。
ほんとうにわかりやすい子だ。
最後に、仁は自分の前へ木片を置いた。
「そして、アブラムシ牧場についてですが」
ここだけ妙に声が引き締まった。
一葉がそっと蜜葉乃の耳元で囁く。
「きた」
「きましたねえ」
「仁、ここだけすごく本気なんです」
「そうみたいです」
仁はもちろん全部聞こえていたはずだが、顔色ひとつ変えず続けた。
「現在、牧場第一号区画は順調に拡張中です。先日、一葉が連れ帰った個体群は環境に適応し、すでに増殖傾向にあります」
「ふえてるのです?」
蜜葉乃が目を丸くする。
「はい。かなり」
「かなり」
「かなりです」
「まあ……」
「このまま管理が安定すれば、女王さまへの糖分供給は大幅に改善される見込みです」
仁はそこで、壁際に積んであった小さな土板を一枚取り出した。
表面には細かな線が引かれていて、どうやら区画図らしい。
「つきましては、本日中に牧場第二号区画を増設します」
「増設」
「さらに、双葉の栽培区画と隣接させ、植物の入れ替えがしやすい導線を確保します」
「導線」
「加えて、清掃用通路を一本追加し、病個体の隔離スペースも設けます」
「隔離……」
「アブラムシは数が増えると病気や黴の管理が必要になりますので」
「牧場主さんが、遂に本物の牧場主さんに」
「以前から本物です」
真顔で言い切られて、一葉が「つよい」と呟いた。
「また、蜜露の回収担当についても見直します。今後は一葉も含め、年長の子どもたちから順に補助へ入っていただく予定です」
「むずかしそう……」
「ですので、最初は私が同伴します」
「仁がいっしょ!」
「指導役です」
「それって、牧場のおしごとを教えてくれるってことですか」
「はい」
「やったあ!」
一葉はすっかりご機嫌である。
蜜葉乃は、その様子を見ながらふっと目を細めた。
不思議で、あたたかくて、少しくすぐったい。
「女王さま」
仁の声に、はっと顔を上げる。
「最後に、女王へのお願いがございます」
「はい」
「本計画の中核は、女王さまにきちんと召し上がっていただくことです」
「まあ」
「花蜜、蜜露、柔らかい葉、必要に応じて昆虫由来の補助栄養。いずれも、無理のない範囲で摂取量を増やしていただきたく」
「がんばります」
「加えて、休養」
「う」
「睡眠」
「うう」
「無理な労働の禁止」
「それは……」
「禁止です」
「まだ何も言っていません」
「言う前に申し上げました」
一葉が横で「先手を打たれてる」と感心し、双葉が「仁さま、つよい……」と小さく呟く。
蜜葉乃は、むうと唇を尖らせた。
たしかに最近、身体が少し軽くなったせいで、幼虫たちの世話も、葉の整理も、つい自分でやりたくなっていたのだ。
「でも、少しは働きたいのです」
「お気持ちは理解いたします」
「ほんとうに?」
「はい。しかし女王さまの“少し”は、たいてい少しでは終わりません」
「そんなことありません」
「昨日、幼虫の保温材調整を“少しだけ”の予定で始めて、一時間経過しておりました」
「……」
「一昨日は双葉の栽培区画を“少し見学”のつもりで入り、そのまま植え替えを手伝おうとなさっておりました」
「…………」
「前科があります」
「前科扱いされました」
「管理上、重要事項ですので」
完全に言い負かされてしまい、蜜葉乃はしゅんと肩を落とした。
すると、隣から一葉がそっと手を伸ばしてくる。
「女王さま」
「はい」
「じゃあ、女王さまは“食べる係”と“ほめる係”をしてください」
「ほめる係」
「はい! わたしたち、がんばったら、女王さまに見てもらいたいです」
「わたしも……」
双葉もおずおずと続ける。
「葉っぱ、うまく育ったら、女王さまに一番に見てほしいです……」
「まあ……」
蜜葉乃は、目を丸くしたまま二人を見た。
そして、ふっと表情をほどく。
「……それは、とても大事なお仕事ですねえ」
「はい!」
「はい……!」
仁が、ほんのわずかに息をつく気配がした。
安堵なのか、計画通りに話がまとまった満足なのかはわからない。
けれどその口元が、ほんの少しだけやわらいだのを、蜜葉乃は見逃さなかった。
「では、本日の会議をまとめます」
仁が木片を置き、いつもの静かな声で告げる。
「探索班は、一葉を中心に花蜜・種子・有用植物の採集を継続」
「はいっ」
「栽培区画は双葉が管理し、用途別に拡張。実験は専用区画に限定」
「はい……!」
「アブラムシ牧場は第二号区画を増設し、私が引き続き管理。一葉には補助をお願いします」
「はい!」
「そして女王さまは」
「はい」
「きちんと食べて、きちんと休んで、元気になること」
「……承知しました、執事さん」
蜜葉乃が少しだけおどけて言うと、仁は一礼した。
「ありがとうございます、女王さま」
その瞬間だった。
保温区画の方から、ちいさな声が上がる。
「おなかすいたー」
「わたしもー」
「葉っぱ、やわらかいのがいい……」
「一葉、だっこ……」
どうやら、起きた妹たちが一斉に騒ぎ始めたらしい。
一葉が「はーい!」と飛び起き、双葉も慌てて葉束を抱え直す。
「仁、会議どころじゃなくなりましたねえ」
「ええ。通常営業です」
「通常営業」
「はい。家族が増えた巣の、通常営業です」
言いながら仁は、すでに次の行動へ移っていた。
幼虫区画の確認、妹たちへの分配、双葉の葉の振り分け、一葉への指示――そのどれもが、相変わらず無駄なく速い。
一葉は妹たちのもとへ駆けていき、双葉は「こっちはやわらかい葉です……!」と小さな手で配り始める。
蜜葉乃はその様子を眺めながら、胸の奥がじんわりと満たされていくのを感じていた。
花蜜が効いたからだけではない。
お腹が少し楽になったからだけでもない。
この巣にはもう、自分ひとりではない営みがある。
自分のために走ってくれる娘たちがいて、真顔で会議を開く執事がいて、誰かの得意が、ちゃんと別の誰かを支えている。
それがうれしくて、ありがたくて、少しだけ誇らしい。
「仁」
「はい」
「ごちそう会議、とてもよかったです」
「それは何よりです」
「うちの巣、ずいぶん立派になってきましたねえ」
「まだ道半ばです」
「そうでしょうか」
「はい。ですが」
仁は妹たちへ葉を渡す双葉と、幼い子を背負って走る一葉を見て、それから蜜葉乃へ視線を戻した。
「ようやく、“回り始めた”とは思います」
その言葉に、蜜葉乃はやわらかく目を細めた。
「ええ。わたしも、そう思います」
土の下の小さな巣で。
女王の台所会議は、にぎやかな中で幕を閉じた。
花蜜を集める子がいる。
葉を育てる子がいる。
アブラムシを増やして蜜露を守る執事がいる。
そして、食べて元気になることを任された女王がいる。
まだ小さく、まだ頼りなく、けれどたしかに。
この巣は今日も、家族の手で少しずつ大きくなっていくのだった。
⸻
仁の日誌
花蜜の効果は顕著。
女王の顔色、歩行、会話時の反応速度、いずれも改善傾向あり。
ただし本人は体調が上向くとすぐ働こうとするため、引き続き監視が必要。
本日より女王栄養改善計画を開始。
食糧供給源を以下の三本柱として運用する。
•一葉率いる探索班による外部採集
•双葉の栽培区画
•アブラムシ牧場
三系統の連携が成立すれば、女王さまおよび幼虫への安定供給が可能となる見込み。
なお、一葉は班長任命に大変ご満悦。双葉は用途別栽培に意欲的。
家族経営の小規模農園としては、まずまず順調。
追記。
「台所会議」という名称が正式採用された件については、私の意思ではありません。
……いえ、完全に否定もできませんが。




