11 長女は極上の蜜をさがす
巣の朝は、前よりずっと賑やかになった。
通路のあちらこちらから小さな足音がして、育房室では孵ったばかりの娘たちがもぞもぞと動き、栽培区画では双葉が朝から葉の様子を見に行っている。
少し前まで、女王と執事だけの静かな創設巣だったとは思えないほどだ。
その中心で、蜜葉乃は久しぶりに、ほんの少しだけ肩の力を抜いていた。
体調が万全とはまだ言えない。けれど、以前のように立っているだけでふらつくことは減り、卵と幼虫の世話をしながら、妹たちの様子を見ていられるくらいには回復してきている。
それもこれも、一葉たちが働き始め、仁が食糧と巣の管理を引き受けてくれているおかげだった。
「……とはいえ」
育房室の壁にもたれながら、蜜葉乃は小さく息をついた。
目の前には、仁が今朝まとめてくれた「現在の備蓄状況」がある。
乾いた種子片、植物の汁を含ませた繊維、双葉が育てた柔らかな若葉、そして――仁が牧場主のように世話をしているアブラムシたちから得られる甘露。
以前に比べれば、食糧事情は格段に改善した。
けれども娘たちが増えた今となっては、それでもまだ「余裕がある」とは言いがたい。
とくに、蜜葉乃に必要な栄養は別だ。
女王である彼女が卵を産み続けるには、ただ腹を満たすだけでは足りない。
身体を回復させ、次の産卵に備えるには、もっと質の良い甘味――花の蜜のような、濃くてやさしい栄養がほしい。
仁もそれはわかっているらしく、昨夜の報告でも「女王の栄養改善は最優先課題です」と書いていた。
その時だった。
「女王さま!」
ぱたぱたと軽い足音を立てて、一葉が駆け込んできた。
羽のない小さな妖精のような姿は、働きはじめたばかりの頃より少しだけしっかりして見える。
柔らかな髪は蜜葉乃に似た黒で、触角はまだ幼い短さのまま。それでも目元には、仁のようなきりっとした集中の色が宿る瞬間があって、最近の蜜葉乃はそれを見るたび、ひそかに「まあ、頼もしい」と思っていた。
「どうしたのです、一葉」
「すごい情報が入りました!」
「情報」
「はいっ。おそとのお友だちが、おいしいお花の場所を教えてくれたんです!」
蜜葉乃は目を瞬いた。
「お花の場所?」
「とっても甘くて朝にいっぱい蜜が出るお花なんだそうです。今の時期しか咲かないらしくて、早く行った方がいいって」
一葉はぐっと拳を握る。
「だから探索班で採りに行きたいです!」
きらきらした目だった。
単に外へ出たいという顔ではない。ちゃんと“誰のために行くのか”をわかっていて、それを果たしたいと思っている目だ。
蜜葉乃はその顔を見て、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
「わたしのために?」
「はい!」
一葉は即答した。
「仁が言ってたんです。女王さまは前より元気だけど、まだもっと栄養があった方がいいって。だから、いい蜜があるなら持って帰りたいんです。女王さまに、いっぱい元気になってほしいから」
あまりにもまっすぐな言葉で、蜜葉乃は一瞬だけ返事を失った。
自分が産んだ、最初の娘。
まだ小さくて、失敗もして、時々妹たちに振り回されるのに、それでもこうして「女王さまのため」と言ってくれる。
うれしい、と思うのと同時に、くすぐったいような、照れくさいような気持ちになる。
「……まあ」
蜜葉乃は少し困ったように笑って、一葉の頭をそっと撫でた。
「そんなことを言われたら、断れませんねえ」
「では!」
「ただし、仁の許可が出たら、です」
一葉の動きがぴたりと止まる。
「……仁の?」
「はい。探索班を出すなら、危険がないか、道順はどうするか、誰が行くかを決めないといけませんから」
「うっ……」
どうやら、一葉はそこまで考えていなかったらしい。
けれどすぐに気を取り直して、こくりと頷く。
「わかりました。仁に、ちゃんとお願いしてきます!」
「ええ。がんばってください」
するとちょうど、その噂の仁が通路の向こうから現れた。
両手には、どこから運んできたのか、小さく切り分けた茎片と葉の束。どう見てもまた何か増築か設備改善をしようとしている顔である。最近の仁は、巣が少し落ち着くとすぐ新しい計画を立て始めるので、蜜葉乃は半ば諦めていた。
「お呼びでしょうか」
「呼んでませんけど来ましたねえ」
「何となく嫌な予感がしましたので」
「嫌な予感とは何ですか」
「十中八九、新規案件の匂いです」
そう言ってから、仁は一葉を見る。
一葉はぴんと背筋を伸ばした。
「仁! 探索班を出したいです!」
「やはり」
「お花の蜜を採りに行きたいんです! すごく甘くて、女王さまにいい蜜なんだそうです!」
仁の目が、ほんの少しだけ細められる。
「情報源は」
「地上のお友だちです」
「具体的には」
「テントウムシさんと、ハナアブさんと、あと途中で会ったちょうちょさんです!」
「情報網がふわふわしていますね」
「でもみんな、ほんとうにあるって言ってました!」
仁は腕を組み、少しだけ考え込んだ。
その横顔を見て、蜜葉乃はなんとなく察する。
危険があるから即却下、という顔ではない。たぶん、実行する前提で、どこをどう整えるかを考えている顔だ。
「……条件付きで許可します」
「ほんとうですか!」
「はい。ただし探索班は三名まで。行動範囲は既存の安全圏内の延長。正午までには必ず帰還。危険を感じた場合は蜜の回収を諦めて撤退。異論は」
「ありません!」
「返事が早すぎて不安です」
「大丈夫です!」
「その“大丈夫”が大丈夫だった試しが少ないのですが」
「今回は大丈夫です!」
仁は無言になった。
だいぶ不安そうだった。
「誰を連れていくのです?」
蜜葉乃が尋ねると、一葉はぱっと振り返った。
「ええと、わたしと……双葉は葉っぱ係で忙しいから、お留守番してもらって、あとは紬葉ちゃんと、結葉ちゃんを!」
名前を呼ばれて、育房室の奥から二人の妹が顔を出した。
ひとりは、小柄な娘で、蜜葉乃似の目元が少し眠たげだ。結葉と呼ばれたその子は、おっとり首を傾げている。
もうひとりの紬葉は、一葉より少しだけ背が高く、きびきびして見えるのに、どこか落ち着きがない。
「紬葉は力持ちだから荷物持ちに向いてるんです!」
「まあ、ありがとう一葉……」
「結葉は足が速いから!」
「うん、まかせて!」
そこまではよかった。
だが、仁が次の問いを口にした瞬間、問題が発覚した。
「結葉、復路のフェロモン追跡は問題ありませんね」
結葉は、ぴたりと固まった。
「……えっと」
「結葉?」
「…………」
「まさかとは思いますが」
仁の声が一段低くなる。
結葉は目を泳がせ、触角をしゅんと下げた。
「……ちょっとだけ、苦手です」
沈黙が落ちた。
一葉が「えっ」と目を丸くする。
蜜葉乃も、思わず「まあ」と声を漏らした。
「ちょっと、というのは」
仁が確認する。
「匂いはすごくわかるんだけど、向きがわからなくて。たまに……」
「たまに?」
「逆に行っちゃうことが……」
「逆」
「あります」
「帰路において致命的では」
仁の指摘は正しかった。
蟻にとって、フェロモンを辿れないのはかなり深刻である。
しかも探索班である。地上で迷子になるのは笑い事ではない。
結葉はしゅんとしてうつむいた。
「ご、ごめんなさい……」
すると一葉が慌てて前に出た。
「でも結葉、鼻――じゃない、触角はすごくいいんです! お花の匂いとか、甘いものの匂いを見つけるのは上手で!」
「それは事実ですか?」
仁が結を見る。
結葉はこくこくと頷いた。
「甘い匂いは、わりとすぐわかります」
「帰れない可能性があることを除けば有用ですね」
「除かないでほしいです……」
結葉がしょんぼり言うと、蜜葉乃は思わず笑ってしまいそうになって、慌てて口元を押さえた。
仁は少し考え、それから結論を出す。
「結葉は参加可。ただし単独行動禁止。必ず一葉と行動してください」
「はい!」
「加えて、帰路の主導は一葉が担当」
「えっ、わたし?」
「一葉は虫との意思疎通能力があります。現地で案内役を確保できる可能性が最も高い」
「あっ」
一葉は目をぱちぱちさせたあと、胸を張った。
「できます!」
「ではお願いします」
「はいっ!」
そうして、急ごしらえの探索班が結成された。
班長は一葉。
荷物持ち兼護衛役に紬葉。
匂い探知担当に結葉。
仁は出発前、三人の前にしゃがみ込んで、驚くほど真剣な顔で言った。
「よろしいですか。目的は『蜜の確保』であり、『冒険』ではありません」
「はい!」
「寄り道禁止。知らない穴に入らない。大きな影が見えたら即退避。怪しい虫に“もっと奥にいい花があるよ”と誘われてもついていかない」
「そんなのいるんですか?」
「世の中にはおります」
「こわい」
「あと、拾った木の実をその場で食べない」
「それは紬葉です」
「なんでわかったの!?」
紬葉がぎくりとした。
仁はため息をつく。
「顔に書いてあります」
「書いてないよぅ……」
「書いております。『おいしそうなら少しくらい』と」
「……ちょっとだけ思った」
「思ったのですね」
一葉は真面目に頷いた。
「紬葉には見張りが必要です」
「その認識で正しいです」
「ひどくない?」
紬葉が抗議し、結葉が「まあまあ」となだめる。
その様子を見て、蜜葉乃はおかしくてたまらなくなった。
こんなふうに娘たちが並んで、役割を持って、わいわい話している。
それだけで胸がいっぱいになる。
「みんな」
蜜葉乃が声をかけると、三人が一斉に振り返った。
「気をつけて行ってきてくださいね」
「はいっ!」
「女王さま、待っててください!」
一葉はきゅっと拳を握る。
「いちばん甘い蜜、持って帰ります!」
⸻
地上は、今日も明るかった。
土の裂け目から顔を出すと、風が一気に身体を撫でていく。
葉の匂い、土の匂い、花の匂い、遠くの水の匂い。巣の中では感じられない、たくさんの気配が混ざり合っている。
「では、こっちです!」
一葉は触角をぴんと立てて走り出した。
その後ろを、紬葉と結葉が追いかける。
「一葉、そんなに急がなくても……」
「でも朝の方が蜜がいっぱいなんです!」
「わ、わかった!」
最初の案内役は、通路のそばで待っていてくれたテントウムシだった。
『おはよう、一葉ちゃん』
「おはようございます! 昨日教えてくれたお花、まだ咲いてますか?」
『咲いてるよ。ちょっと遠いけど、あっちの石の向こう』
テントウムシが示した方向へ、一葉はぱっと笑う。
「ありがとうございます!」
そのやり取りを、後ろの二人はすっかり見慣れた顔で見ていた。
一葉が虫たちと話せることは、もはやこの巣では「そういうもの」として受け入れられている。
途中、双葉が育てているのとは違う種類の草むらを抜け、少し湿った土の斜面を登り、丸い石の影を回り込む。
結葉はしきりに空気を嗅いでいた。
「うん、こっち、甘い匂いする」
「ほんとう?」
「する。すごくする。たぶんもう近い」
「結葉、すごいです!」
褒められて、結葉はえへへと笑った。
帰り道さえ迷わなければ、本当に優秀なのだ。
やがて三人の前に小さな花畑が現れた。
草の陰にひっそり咲く薄い桃色の花々。
朝露をまとった花弁の奥に、透き通るような蜜が溜まっている。
「わあ……」
一葉が思わず声を漏らす。
花はどれも大きくはない。けれど近づいた瞬間、ふわりと甘い香りが広がった。
アブラムシの甘露とは違う、もっと華やかでやさしい香り。たしかにこれは、蜜葉乃に食べてもらいたいと思う味がしそうだった。
「きれい……」
紬葉がうっとりと呟く。
「匂いすごい」
結葉も目を丸くした。
一葉は花の根元にそっと近づき、そこにいたハナアブへ声をかける。
「こんにちは。少しだけ、蜜を分けてもらってもいいですか?」
ハナアブは羽音を鳴らして一葉を見た。
『ぜんぶ取らないならいいよ。朝はたくさんあるし』
「ありがとうございます!」
許可が出た。
一葉は振り返り、きりっとした顔で妹たちに告げる。
「採取開始です!」
とはいえ、まだ幼い探索班である。
最初から順調、というわけにはいかなかった。
「紬葉、受け皿お願い!」
「う、うん……あっ」
紬葉は蜜を受けるための葉片を持とうとして、うっかり手を滑らせた。葉片がくるりと回って、せっかく垂らした蜜が地面にぽたりと落ちる。
「ああっ」
「ご、ごめんね……!」
「大丈夫です、まだいっぱいあります!」
気を取り直して次へ。
「結葉、次の花いけますか?」
「うん、あっちの方が濃い匂い――あっ」
結葉は匂いに気を取られたまま、花の根元のくぼみに片足を突っ込み、その場で見事につまずいた。
受け皿代わりの葉片がふわっと舞う。
「結葉!」
「だ、大丈夫……っ」
大丈夫ではあるが、だいぶ危なっかしい。
一葉は両手を腰に当て、ちょっとだけお姉さんらしい顔をした。
「結葉、匂いを追う時ほど足元も見てください」
「は、はい……」
「紬葉は、葉っぱを持つ時は端っこをつまむと安定します」
「はい……」
二人が揃ってしょんぼり返事をすると、一葉は少しだけ慌てた。
「あっ、怒ってるわけじゃないんです。ええと、その……みんなでちゃんと持って帰りたいから」
「うん、わかってる」
紬葉がふわっと笑う。
「一葉、班長さんだねえ」
その一言に、一葉はぱちりと目を瞬いた。
それから少しだけ照れたように頬を染める。
「班長ですから」
「えらい」
結葉が真面目に頷く。
「でも班長、帰り道はわかる?」
一葉の動きが止まった。
「…………」
「一葉?」
「………仁、帰りはわたしが主導って言ってましたよね」
「言ってたねえ」
「……虫さんに聞けば、なんとか」
「なんとか、なんだ……」
結葉が不安そうに言った、その時だった。
風が吹いた。
ふわりと花の香りが広がり、周囲の匂いが一瞬だけかき混ぜられる。
結葉の触角がぴくりと動いた。
「あっ」
「どうしました?」
「こっち、もっと甘い匂いがする」
「もっと?」
結葉が指したのは、花畑の奥だった。
少し背の高い草に隠れて見えにくいが、その向こうにも別の花が咲いているらしい。
一葉は迷った。
けれど次の瞬間、近くにいた小さな蝶がひらひらと飛んできて言った。
『あっちの白い花、朝だけすごく蜜が出るよ』
「白い花!」
一葉の目が輝く。
「行きます!」
「えっ」
「行くんだ」
「女王さまに、いちばんいいのを持って帰りたいので!」
そうして探索班は、花畑の奥へ進んだ。
そこに咲いていたのは、白くて丸い花弁を持つ、少し背の高い花だった。
近づいた瞬間、甘い香りがまるで波みたいに押し寄せてくる。
「これは……すごいです」
花の奥には、透明に近い黄金色の蜜がきらきらと溜まっていた。
量も多い。香りも濃い。見るからに栄養がありそうだ。
「これだ……」
一葉は思わず呟いた。
「女王さまに、これを持って帰りましょう」
今度は三人とも、さっきよりずっと慎重に動いた。
紬葉は葉片をしっかり持ち、結は足元を見ながら匂いの強い花を探し、一葉は蜜をこぼさないよう少しずつ集めていく。
そうして、ようやく小さな葉の器が、花蜜で満たされた。
「できた……!」
三人は顔を見合わせた。
朝露みたいにきらめく蜜が、葉の上でゆらゆら揺れている。
「帰りましょう!」
一葉が言う。
「うん!」
「……で、どっち?」
結葉の一言で、全員が固まった。
風がまた吹く。
花の匂いがふわっと流れる。
その瞬間、一葉は悟った。
――仁の言う通り、帰り道が問題だった。
「ええと……」
一葉は触角をそわそわ動かした。
行きは虫たちに聞きながら来た。
けれども帰り道となると、景色が似ていて少し自信がない。結葉はまだフェロモン追跡が苦手だし、紬葉は方向感覚がふんわりしている。
「だ、大丈夫です」
一葉は自分に言い聞かせるように言った。
「誰かに聞けば……」
その時、近くの葉の上から、聞き覚えのある声がした。
『迷ったの?』
見上げると、行きにも出会ったテントウムシがいた。
「あっ」
『巣の方ならあっちだよ。さっきからずっと、そわそわしてる黒いのが迎えに来てるし』
「黒いの?」
一葉たちが顔を見合わせた次の瞬間、草の向こうから聞き慣れた声がした。
「やはり」
現れたのは、仁だった。
朝とまったく同じ、隙のない黒衣。
だがその額には、ほんのわずかに疲労の気配がにじんでいる。おそらく探索班が戻らないので、本当に迎えに来たのだろう。
「仁!」
「予想通り、帰路で停滞していましたか」
「停滞って言わないでください」
「では遭難の一歩手前」
「もっとだめです!」
仁は深くため息をついた。
けれどその視線は、すぐに一葉の持つ葉の器へ落ちる。
「それは」
一葉は胸を張った。
「採れました。いちばん甘そうな蜜です」
仁が少しだけ目を見開く。
結葉も紬葉も、誇らしそうにうなずいた。
「結葉が甘い匂いを見つけて、紬葉がちゃんと支えてくれて、みんなで集めました」
「なるほど」
「寄り道はちょっとしましたけど」
「したのですね」
「でも、ちゃんと目的のものを持って帰れます」
一葉は葉の器をそっと抱え直す。
「女王さまに、食べてもらいたいです」
仁はしばらく黙っていた。
それから、いつもの落ち着いた声で言う。
「3人とも、えろうございました」
3人の触覚がピンとたった。
「探索班としては反省点も多々ありますが、成果は十分です。女王さまも、お喜びになるかと」
「はい!」
その声は、さっきまでよりずっと弾んでいた。
⸻
巣へ戻ると、蜜葉乃は通路の入り口まで出て待っていた。
本当は安静にしていてほしい、と仁は言いそうな顔をしたが、今はそれどころではない。
一葉たちが無事に戻ったのを見た瞬間、蜜葉乃の顔がふわっとほどけたからだ。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました、女王さま!」
一葉は両手の葉を差し出した。
「これ、どうぞ」
蜜葉乃はそっと受け取る。
葉の上で揺れる蜜は、ほんのり白い花の香りをまとっていた。
「まあ……きれい」
「一葉たちが採ってきてくれたんです。すごく甘い花の蜜だそうですよ」
仁が補足すると、蜜葉乃は少し驚いたように目を瞬き、それから一葉たちを見た。
「三人で?」
「はいっ」
「紬葉も結葉も、いっぱいがんばってくれました!」
「そうなのですか」
蜜葉乃は嬉しそうに笑う。
「では、あとで三人とも、たくさん褒めなくてはいけませんねえ」
その言葉に、紬葉は照れ、結葉はにへっと笑い、一葉は少しだけ誇らしそうに胸を張った。
蜜葉乃は、蜜をひとくち舐める。
甘い。
けれど甘いだけではなく、花の香りがふわりとほどけて、疲れた身体の奥へやさしく染み込んでいくようだった。
「……おいしい」
ぽつりとこぼれたその一言に、一葉の顔がぱっと輝く。
「ほんとうですか!」
「ええ、とっても。身体がほどけるみたいです」
「よかった……!」
一葉は心底ほっとした顔をした。
蜜葉乃はそんな娘の頭を、空いた手でそっと撫でる。
「ありがとう、一葉。紬葉も、結葉も。わたしのために行ってくれたのですね」
「はい」
「みんな、もう立派な働き蟻さんです」
そう言われて、一葉は一瞬だけ目を見開いた。
それから、なんだか泣きそうな、でもうれしそうな顔で笑った。
「はいっ」
その夜、巣の中はいつもより少しだけ華やいでいた。
妹たちは「一葉たちすごい」「お花の蜜ってどんな味?」と騒ぎ、双葉は「その花、種はありませんでしたか」と植物担当らしいことを言い出し、結葉は「次は帰り道もがんばる」と決意を固めている。
仁はそんな騒がしい食卓――というほど立派なものではないが、甘露と花蜜と若葉が並ぶ一角――を見回しながら、静かに息をついた。
「探索班の運用については改善の余地がありますね」
「まあ、反省会ですか?」
蜜葉乃がくすりと笑う。
「はい。班長は優秀ですが、同行者の方向感覚に難があります」
「結葉のことですね……」
「あと、一葉も帰路の想定が甘い」
「うっ」
「ですが」
仁はそこで言葉を切り、賑やかな妹たちの方を見る。
「初回としては、上出来かと」
その声音は、いつもよりほんの少しだけ柔らかかった。
一葉はその言葉に照れたようにうつむき、でもすぐに顔を上げる。
「次はもっと上手にできます」
「期待しております」
「今度は帰り道もちゃんとします!」
「そこは最低条件です」
「はい……」
しゅんとする一葉の頭を、蜜葉乃がそっと撫でた。
「でも今日は本当にありがとう」
蜜葉乃の声は、花の蜜みたいにやわらかい。
「あなたたちのおかげで、とても元気が出ました」
一葉はその言葉を胸いっぱいに受け止めて、ふわっと笑った。
長女として。
探索班の班長として。
まだ失敗も多いけれど、それでも少しずつ自分にできることを増やしていく。
そんな一葉を見ながら、仁は静かに思う。
この巣は、もう女王と執事だけの場所ではない。
娘たちが育ち、役割を持ち、失敗し、笑って、少しずつ“家族の巣”になっていく。
その賑やかさは、管理する側からすれば手間も増える。
実際、明日から探索班の再教育と安全規定の整備が必要だろう。
だがそれでも――悪くない、と思った。
⸻
仁の日誌
・女王の栄養状態、花蜜の補給により改善傾向
・第一探索班を試験運用
・班長(一葉)は有望、ただし帰路設計に課題あり
・結葉は嗅覚に優れる。フェロモンを感じる能力も優れているが、どちらかに向いているかわからないので帰巣が怪しい。
・紬葉は安定感あり。荷重運搬に向く
・今後、地上協力虫との情報連携網を一葉経由で整備予定
・探索班が増える前に「迷子対策マニュアル」を作成すべきと判断




