表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
葉音を紡ぐ ――世界樹の麓で  作者: 葉森かなで
一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/53

10 執事さんは夜に報告する

 巣の夜は静かだ。

 もちろん、まったく音がないわけではない。


 育房室では孵化したばかりの幼虫たちが、ふにふにうごいているし、アブラムシの飼育区画からは、ごく小さく葉を喰む気配が絶えず聞こえ、通路の向こうでは、昼間に双葉が「ちょっと元気になあれ」と触れた苔が、まだ微かに青い匂いを放っていた。


 それでも、昼間に比べればずっと静かだ。


 蜜葉乃も、一葉も、双葉も、ほかの妹たちも、みな休んでいる。

 女王の寝息は浅くやわらかく、子どもたちの呼吸はまだひどく小さい。土の中の小さな王国は、夜になると、ひとつの大きな揺り籠のように穏やかだった。


 その静けさの中で、仁だけが起きていた。


 育房室と女王室をつなぐ細い通路の途中。

 昼間のうちに彼が「執務用」と称して壁を均し、平らな石片を据えた小さな一角がある。机というにはあまりに簡素だが、仁にとっては十分だった。


 石片の上には、乾かした葉を薄く伸ばした紙もどきが一枚。

 その傍らには、露を溜めた小さな器と、煤を混ぜた樹液を煮詰めて作った黒い液。

 仁は細い棘を筆のように持ち、今日一日の報告を、淡々と記していた。


 ――女王の体調は前日比で回復傾向。

 食餌量、安定。

 活動時間、微増。

 ただし依然として長時間の立位・掘削作業は禁止。


 ――第一子・一葉は外勤補助に移行。

 判断力に未熟さは残るが、責任感は強い。

 妹たちへの保護意識も高く、将来的な中核個体として有望。


 ――第二子・双葉は植物への感応能力を示唆。

 葉片、苔、菌糸に対し高い反応あり。

 通路脇にて発生した茸については、現在隔離・観察中。


 そこまで書いて、仁はひとつ息をついた。


 ほんのわずかに肩の力を抜く。

 昼間なら決して見せない、誰にも見せる必要のない仕草だった。


 報告書は、毎夜書く。

 それがいつから習慣になったのか、仁自身ももうよく覚えていない。

 ただ、書かなければ一日が終わらない。そういう種類のものになっていた。


 彼は筆先を整え、最後の行へ視線を落とす。


 ――なお、アブラムシ飼育群は本日さらに増加。

 給餌葉の消費量が当初想定を上回るため、栽培区画の拡張を検討中。

 現状、私は執事であると同時に、育房係、営繕係、衛生管理係、警備係、記録係、臨時看護係、そして半ば牧場主です。


 そこまで書いたところで、ふと手が止まった。


 少し考えてから、仁は最後の一文を付け足す。


 ――……牧場主の比重が日に日に増しております。いかがなものでしょうか。


 そして、棘筆を置く。


「……送信」


 小さく呟いて、報告書の端へ指先を添えた。


 次の瞬間。

 葉の表面に書かれた文字が、ふわりと淡く光る。


 光は一度だけ脈打つと、薄い膜が風にさらわれるように、紙面から静かに消えていった。文字だけが抜け落ちるように、夜のどこかへ溶けていく。


 それで終わるはずだった。


 いつものように、返事などなく。

 ただ報告だけが、届くべき場所へ届いて終わるはずだったのに。


 ――ぽん。


 と。


 目の前の空間に、唐突に小さな光の粒が落ちた。


 仁はぴたりと動きを止める。


 光はふわふわと浮かびながら膨らみ、やがて掌に乗るほどの大きさの球になった。淡い金色の膜の内側で、何かがごそごそと身じろぎしている。


 嫌な予感がした。


 非常に嫌な予感がした。


 次の瞬間、その光の球がぱかっと割れて、中からひょいと顔を出したのは――


「やあ、仁。見に来たよ」


 ひどく気軽な声だった。


 髪とも雲ともつかない白金色のものをふわふわと揺らし、夜露を溶かしたような色の目を楽しげに細めた、妙に若々しい存在。男とも女ともつかない、けれども人ならざる整い方をした顔が、光の殻の中からにこにことこちらを見ている。


 この世のものではないくせに、やたら親しげだ。


 仁は一拍置いて、静かに目を伏せた。


「……神様」


「うん」


「夜分に何をなさっているのですか」


「君の報告がおもしろかったから、ちょっと現地視察に」


「お帰りください」


「えっ、早い」


 神はしゅんとしたふりをした。

 ふりだ。絶対にふりである。目がまったく懲りていない。


「せっかく来たのに」


「こちらはせっかく皆が寝静まった時間なのですが」


「大丈夫大丈夫、気配は消してるよ。僕、そこそこ高性能だから」


「高性能を自称する神ほど信用ならないものはありません」


「辛辣だなあ」


 けれども神はまるで堪えていない様子で、ひらりと光の殻から抜け出した。

 足が地に着くことはなく、ふわふわと浮いたまま仁の執務台の周りを一周する。


「わあ、これが例の巣か。前の報告より広くなってる」

「増築しました」

「通路の角がきれい。几帳面だねえ」

「ありがとうございます。褒めても何も出ません」

「アブラムシは?」

「奥です」

「見たい」

「寝ておりますので」

「アブラムシって寝るの?」

「少なくとも今は静かにしております」

「じゃあ見たい」


 仁は無言で額に手を当てた。

 神はそんな彼の反応など意に介さず、楽しそうに辺りを見回している。


 この神は、出会った頃からこうだった。


 気まぐれで、好奇心旺盛で、面白そうなものにはすぐ首を突っ込む。人の営み、虫の営み、芽吹く植物、壊れかけた巣、そういう小さな命のあれこれが好きで、気になるとすぐ見に来る。

 そのくせ、助ける時も助けない時も基準が曖昧で、本人に悪気はないのがなお困る。


 仁がこうして報告を書いているのも、もともとは「何かおもしろいことがあったら教えて」と、この神に軽い調子で言われたのが始まりだった。

 報告の義務など本来ない。

 ないのだが、なぜかいつのまにか習慣になり、今に至る。


「それで、どう? 家族が増えた感想は」


 神がにこにこと訊ねる。


 仁は一瞬だけ黙った。


「……騒がしいです」


「うんうん」


「想定外のことが頻発します」


「そうだろうねえ」


「本日も双葉が通路脇に茸を生やしました」


「見たかったなあ」


「私は見たくて見たわけではありません」


「でも対処したんでしょう?」


「しました」


「えらい」


「ありがとうございます」


「一葉も頑張ってるみたいだね。あの子、外に出る時ちょっと胸を張るようになった」


 神の言葉に、仁はわずかに目を上げた。


「……ご覧になっていたのですか」


「たまたまね。葉っぱを抱えて、すごく得意げだったよ。途中で重くてよろけてたけど」


「危険ですので見守るだけにしてください」


「手は出してないよ。ちょっと風向きを整えたくらい」


「それを手出しと言います」


「えー」


 神は不服そうに頬を膨らませた。

 見た目だけなら妙に幼い仕草だが、相手は神である。騙されてはいけない。


「でもさあ、君も嬉しいんじゃないの?」


「何がです」


「一葉が育ってきたこと。双葉が変な才能を見せ始めたこと。蜜葉乃が、少しずつ笑う回数を増やしてること」


 仁は答えなかった。


「ねえ、仁」


「……何でしょう」


「君、最初の頃よりずっと“この巣の者”みたいな顔をするようになった」


 その一言だけで、空気が少し変わった。


 仁の手が止まる。

 視線は落ちたままなのに、神にはわかるのだろう。わざと軽く言ったくせに、その目だけが少しだけ静かになっていた。


「そうでしょうか」


「うん。最初はもっと、借り物みたいな顔だった」


「借り物」


「与えられた役目をこなすためだけに立ってる感じ。きっちりしてて、綺麗で、でも自分がそこに住む気はなさそうだった」


 神はふわりと浮いたまま、女王室の方を見る。

 壁の向こうには、眠る蜜葉乃と、子どもたちがいる。


「今は違う」


 神の声は、やっぱりどこか楽しげなのに、ほんの少しだけやさしかった。


「君、ちゃんと困ってるじゃないか。女王が無理しないかとか、一葉が転ばないかとか、双葉が通路を畑にしないかとか、娘たちがアブラムシに指を突っ込まないかとか」


「全部実際にありました」


「うん、報告書に書いてあった」


「三女が飼育区画に侵入し、二葉が止め、結果として葉餌が散乱しました」


「賑やかだねえ」


「大変です」


「でも嫌ではない」


 断定するように言われて、仁はまた黙った。


 否定しようと思えばできた。

 面倒です、と。非効率です、と。予定外の連続で、管理対象が増えすぎている、と。


 そう言うこともできたはずなのに、喉元まで出かかった言葉は、結局どれも口から出なかった。


 神はにやにやしている。


「図星?」


「……神様」


「はい」


「ご用件がそれだけでしたら、そろそろお帰りください」


「照れたな」


「照れておりません」


「じゃあ本題にしようか」


 神はころりと声音を変えた。

 軽いままだが、その中にだけ、神らしい底知れなさが混じる。


「双葉のことなんだけど」


 仁の目がわずかに細まる。


「植物への感応、でしたか」


「そう。あの子、たぶん思ってるより伸びるよ。葉を元気にするだけじゃ済まないかもしれない」


「どの程度まで」


「そこは育ち方次第かなあ。環境がよければ、子どもの可能性は無限大だから」


 仁は一瞬で思考を切り替えた。

 双葉。植物。食料。栽培区画。通路の湿度。茸の暴走リスク。根の侵食。アブラムシとの共生効率。


 神はそんな彼の顔を見て、楽しそうに笑う。


「今、頭の中で設計図ひいたでしょ」


「必要ですので」


「ほんと好きだねえ、そういうの」


「好きでやっているわけでは」


「あるでしょ、少しは」


 返しに詰まり、仁は口を閉ざした。

 神はますます面白そうだ。


「あと、これはただの気まぐれなんだけど」


「ろくでもない前置きですね」


「失礼だなあ」


 神は指先をひとつ鳴らした。


 すると、机の上にころんと何かが落ちてくる。

 丸く透き通った、小さな雫玉のようなものだった。月光を閉じ込めたみたいに淡く光っている。


 仁は眉を寄せる。


「……何ですか、これは」


「朝露の雫玉。栽培区画の隅に埋めると、周囲の湿度が少し安定するよ。ほんの少しだけね」


「随分都合のいい代物ですが」


「気まぐれの産物だからね」


「対価は」


「いらない」


「なおさら怪しいのですが」


「ひどいなあ。純粋な応援だよ」


 神はくるりと宙返りしてみせる。

 その動きに合わせて、白金の髪が光を散らした。


「蜜葉乃、頑張ってるでしょう。あの子、もう少し体力が戻れば、たぶんまた卵を増やす。子どもたちも増える。そうしたら食料も、栽培も、飼育も、今よりもっと必要になる。君ひとりで全部抱えるの、さすがに大変そうだから」


「……」


「だから、ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ手伝う。僕が見たいから」


 最後の一言で、仁は半眼になった。


「結局そこですか」


「うん。だってこの巣、今いちばんおもしろい時期なんだもの」


 悪びれない。

 本当に悪びれない神だった。


 けれども、仁は机の上の雫玉を見下ろしたまま、しばらく黙る。

 たしかに怪しい。神の気まぐれなど、ろくなものではない可能性もある。

 それでも、蜜葉乃の消耗はまだ完全には抜けていない。娘たちは増え続け、一葉は頑張り屋で、双葉は放っておくと通路に茸を生やす。


 少しでも栽培環境が安定するなら、価値はある。


「……使用可否はこちらで判断します」


「うん、いいよ」


「女王と子どもたちに害があると判明した場合は即時破棄します」


「慎重だなあ」


「当然です」


「でも受け取るんだ」


 仁は答えず、そっと雫玉を器の横へ移した。

 それだけで、神は満足そうに笑う。


「素直じゃないねえ」


「神様にだけは言われたくありません」


「はは」


 神はひとしきり笑ってから、不意に静かになった。

 そのまま、女王室の方へ視線を向ける。


「蜜葉乃、いい女王だね」


 唐突なその言葉に、仁は少しだけ目を瞬いた。


「……はい」


 自分でも驚くほど、答えはすんなり出た。


 神はその返事を聞いて、目を細める。


「うん。君がそう言うなら、本当にそうなんだろうな」


 それは妙な言い方だった。

 けれど神はそれ以上何も説明せず、ただ満足したように頷いた。


「じゃ、今日はこのへんで帰るよ。あんまり長居すると君に嫌な顔されるし」


「すでにしておりますが」


「知ってる」


 神はにこりと笑う。

 それから、ふと思い出したように付け足した。


「ああそうだ。次に報告書を送る時、双葉の茸の経過も詳しく書いてね」


「なぜです」


「気になるから」


「お帰りください」


「はーい」


 返事だけは素直だった。


 神の姿が、ふわりと光へ溶ける。

 最初に現れた時と同じように、金の粒になって空気へ散っていき、やがて夜の匂いの中へ完全に消えた。


 あとに残ったのは、静かな巣と、机の上の小さな雫玉だけ。


 仁はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて小さく息をつくと、報告用の葉紙をもう一枚引き寄せた。


 棘筆を取り、今度はさっき送ったものとは別の、追記のような形で書き足していく。


 ――追伸。

 神が現地視察と称して来訪。

 目的は野次馬半分、干渉半分と推測される。

 双葉の能力に興味を示し、栽培補助用と思しき物品を一つ残置。

 使用については慎重に検討する。


 そこで少しだけ止まり、仁は考える。


 それから、ほんの少しだけ迷って、最後にこう書き足した。


 ――なお、女王さまおよび子どもたちは本日も概ね健やか。

 巣は騒がしく、予定外の連続で、管理対象は増加の一途です。

 それでも、悪くありません。


 書き終えて、仁は静かに目を伏せた。


 悪くない。

 たしかにそう思った。


 最初はただ、崩れかけた巣を立て直すためだった。

 女王を守り、卵を保ち、最低限の営みを繋ぐため。そういう役目の延長に過ぎなかったはずなのに、今は違う。


 一葉が外から戻れば無事を確認したくなる。

 双葉が新しい葉を抱えていれば、今度はどこで何を育てるつもりかと身構える。

 妹たちが騒げば叱る前に怪我がないかを見てしまうし、女王が笑えば、少しだけ巣の空気がやわらかくなる気がする。


 面倒だ。

 手間がかかる。

 予定は崩れるし、静かな時間は減るし、アブラムシは増える一方だ。


 それでも。


「……悪くありませんね」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、仁は筆を置いた。


 通路の向こうでは、眠る家族の気配がする。

 土の下の、小さくて頼りない王国。

 けれどもそこはもう、守るべき“場所”というだけではなく、帰るべき“家”になり始めていた。


 仁は灯り代わりの燐粉石をひとつ覆い、夜の執務席から立ち上がる。

 女王室へ戻る前に、アブラムシ区画をひとまわりし、双葉の茸が勝手に増殖していないかを確認し、一葉が寝ぼけて蹴飛ばした葉束をそっと積み直し、それから最後に女王の寝顔を見に行くつもりだった。


 今夜も忙しい。

 忙しいが、たぶん、嫌いではない。


 そうして執事は、誰にも知られぬ夜の報告を終え、今日もまた家族の眠る巣へ戻っていくのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ