10 執事さんは夜に報告する
巣の夜は静かだ。
もちろん、まったく音がないわけではない。
育房室では孵化したばかりの幼虫たちが、ふにふにうごいているし、アブラムシの飼育区画からは、ごく小さく葉を喰む気配が絶えず聞こえ、通路の向こうでは、昼間に双葉が「ちょっと元気になあれ」と触れた苔が、まだ微かに青い匂いを放っていた。
それでも、昼間に比べればずっと静かだ。
蜜葉乃も、一葉も、双葉も、ほかの妹たちも、みな休んでいる。
女王の寝息は浅くやわらかく、子どもたちの呼吸はまだひどく小さい。土の中の小さな王国は、夜になると、ひとつの大きな揺り籠のように穏やかだった。
その静けさの中で、仁だけが起きていた。
育房室と女王室をつなぐ細い通路の途中。
昼間のうちに彼が「執務用」と称して壁を均し、平らな石片を据えた小さな一角がある。机というにはあまりに簡素だが、仁にとっては十分だった。
石片の上には、乾かした葉を薄く伸ばした紙もどきが一枚。
その傍らには、露を溜めた小さな器と、煤を混ぜた樹液を煮詰めて作った黒い液。
仁は細い棘を筆のように持ち、今日一日の報告を、淡々と記していた。
――女王の体調は前日比で回復傾向。
食餌量、安定。
活動時間、微増。
ただし依然として長時間の立位・掘削作業は禁止。
――第一子・一葉は外勤補助に移行。
判断力に未熟さは残るが、責任感は強い。
妹たちへの保護意識も高く、将来的な中核個体として有望。
――第二子・双葉は植物への感応能力を示唆。
葉片、苔、菌糸に対し高い反応あり。
通路脇にて発生した茸については、現在隔離・観察中。
そこまで書いて、仁はひとつ息をついた。
ほんのわずかに肩の力を抜く。
昼間なら決して見せない、誰にも見せる必要のない仕草だった。
報告書は、毎夜書く。
それがいつから習慣になったのか、仁自身ももうよく覚えていない。
ただ、書かなければ一日が終わらない。そういう種類のものになっていた。
彼は筆先を整え、最後の行へ視線を落とす。
――なお、アブラムシ飼育群は本日さらに増加。
給餌葉の消費量が当初想定を上回るため、栽培区画の拡張を検討中。
現状、私は執事であると同時に、育房係、営繕係、衛生管理係、警備係、記録係、臨時看護係、そして半ば牧場主です。
そこまで書いたところで、ふと手が止まった。
少し考えてから、仁は最後の一文を付け足す。
――……牧場主の比重が日に日に増しております。いかがなものでしょうか。
そして、棘筆を置く。
「……送信」
小さく呟いて、報告書の端へ指先を添えた。
次の瞬間。
葉の表面に書かれた文字が、ふわりと淡く光る。
光は一度だけ脈打つと、薄い膜が風にさらわれるように、紙面から静かに消えていった。文字だけが抜け落ちるように、夜のどこかへ溶けていく。
それで終わるはずだった。
いつものように、返事などなく。
ただ報告だけが、届くべき場所へ届いて終わるはずだったのに。
――ぽん。
と。
目の前の空間に、唐突に小さな光の粒が落ちた。
仁はぴたりと動きを止める。
光はふわふわと浮かびながら膨らみ、やがて掌に乗るほどの大きさの球になった。淡い金色の膜の内側で、何かがごそごそと身じろぎしている。
嫌な予感がした。
非常に嫌な予感がした。
次の瞬間、その光の球がぱかっと割れて、中からひょいと顔を出したのは――
「やあ、仁。見に来たよ」
ひどく気軽な声だった。
髪とも雲ともつかない白金色のものをふわふわと揺らし、夜露を溶かしたような色の目を楽しげに細めた、妙に若々しい存在。男とも女ともつかない、けれども人ならざる整い方をした顔が、光の殻の中からにこにことこちらを見ている。
この世のものではないくせに、やたら親しげだ。
仁は一拍置いて、静かに目を伏せた。
「……神様」
「うん」
「夜分に何をなさっているのですか」
「君の報告がおもしろかったから、ちょっと現地視察に」
「お帰りください」
「えっ、早い」
神はしゅんとしたふりをした。
ふりだ。絶対にふりである。目がまったく懲りていない。
「せっかく来たのに」
「こちらはせっかく皆が寝静まった時間なのですが」
「大丈夫大丈夫、気配は消してるよ。僕、そこそこ高性能だから」
「高性能を自称する神ほど信用ならないものはありません」
「辛辣だなあ」
けれども神はまるで堪えていない様子で、ひらりと光の殻から抜け出した。
足が地に着くことはなく、ふわふわと浮いたまま仁の執務台の周りを一周する。
「わあ、これが例の巣か。前の報告より広くなってる」
「増築しました」
「通路の角がきれい。几帳面だねえ」
「ありがとうございます。褒めても何も出ません」
「アブラムシは?」
「奥です」
「見たい」
「寝ておりますので」
「アブラムシって寝るの?」
「少なくとも今は静かにしております」
「じゃあ見たい」
仁は無言で額に手を当てた。
神はそんな彼の反応など意に介さず、楽しそうに辺りを見回している。
この神は、出会った頃からこうだった。
気まぐれで、好奇心旺盛で、面白そうなものにはすぐ首を突っ込む。人の営み、虫の営み、芽吹く植物、壊れかけた巣、そういう小さな命のあれこれが好きで、気になるとすぐ見に来る。
そのくせ、助ける時も助けない時も基準が曖昧で、本人に悪気はないのがなお困る。
仁がこうして報告を書いているのも、もともとは「何かおもしろいことがあったら教えて」と、この神に軽い調子で言われたのが始まりだった。
報告の義務など本来ない。
ないのだが、なぜかいつのまにか習慣になり、今に至る。
「それで、どう? 家族が増えた感想は」
神がにこにこと訊ねる。
仁は一瞬だけ黙った。
「……騒がしいです」
「うんうん」
「想定外のことが頻発します」
「そうだろうねえ」
「本日も双葉が通路脇に茸を生やしました」
「見たかったなあ」
「私は見たくて見たわけではありません」
「でも対処したんでしょう?」
「しました」
「えらい」
「ありがとうございます」
「一葉も頑張ってるみたいだね。あの子、外に出る時ちょっと胸を張るようになった」
神の言葉に、仁はわずかに目を上げた。
「……ご覧になっていたのですか」
「たまたまね。葉っぱを抱えて、すごく得意げだったよ。途中で重くてよろけてたけど」
「危険ですので見守るだけにしてください」
「手は出してないよ。ちょっと風向きを整えたくらい」
「それを手出しと言います」
「えー」
神は不服そうに頬を膨らませた。
見た目だけなら妙に幼い仕草だが、相手は神である。騙されてはいけない。
「でもさあ、君も嬉しいんじゃないの?」
「何がです」
「一葉が育ってきたこと。双葉が変な才能を見せ始めたこと。蜜葉乃が、少しずつ笑う回数を増やしてること」
仁は答えなかった。
「ねえ、仁」
「……何でしょう」
「君、最初の頃よりずっと“この巣の者”みたいな顔をするようになった」
その一言だけで、空気が少し変わった。
仁の手が止まる。
視線は落ちたままなのに、神にはわかるのだろう。わざと軽く言ったくせに、その目だけが少しだけ静かになっていた。
「そうでしょうか」
「うん。最初はもっと、借り物みたいな顔だった」
「借り物」
「与えられた役目をこなすためだけに立ってる感じ。きっちりしてて、綺麗で、でも自分がそこに住む気はなさそうだった」
神はふわりと浮いたまま、女王室の方を見る。
壁の向こうには、眠る蜜葉乃と、子どもたちがいる。
「今は違う」
神の声は、やっぱりどこか楽しげなのに、ほんの少しだけやさしかった。
「君、ちゃんと困ってるじゃないか。女王が無理しないかとか、一葉が転ばないかとか、双葉が通路を畑にしないかとか、娘たちがアブラムシに指を突っ込まないかとか」
「全部実際にありました」
「うん、報告書に書いてあった」
「三女が飼育区画に侵入し、二葉が止め、結果として葉餌が散乱しました」
「賑やかだねえ」
「大変です」
「でも嫌ではない」
断定するように言われて、仁はまた黙った。
否定しようと思えばできた。
面倒です、と。非効率です、と。予定外の連続で、管理対象が増えすぎている、と。
そう言うこともできたはずなのに、喉元まで出かかった言葉は、結局どれも口から出なかった。
神はにやにやしている。
「図星?」
「……神様」
「はい」
「ご用件がそれだけでしたら、そろそろお帰りください」
「照れたな」
「照れておりません」
「じゃあ本題にしようか」
神はころりと声音を変えた。
軽いままだが、その中にだけ、神らしい底知れなさが混じる。
「双葉のことなんだけど」
仁の目がわずかに細まる。
「植物への感応、でしたか」
「そう。あの子、たぶん思ってるより伸びるよ。葉を元気にするだけじゃ済まないかもしれない」
「どの程度まで」
「そこは育ち方次第かなあ。環境がよければ、子どもの可能性は無限大だから」
仁は一瞬で思考を切り替えた。
双葉。植物。食料。栽培区画。通路の湿度。茸の暴走リスク。根の侵食。アブラムシとの共生効率。
神はそんな彼の顔を見て、楽しそうに笑う。
「今、頭の中で設計図ひいたでしょ」
「必要ですので」
「ほんと好きだねえ、そういうの」
「好きでやっているわけでは」
「あるでしょ、少しは」
返しに詰まり、仁は口を閉ざした。
神はますます面白そうだ。
「あと、これはただの気まぐれなんだけど」
「ろくでもない前置きですね」
「失礼だなあ」
神は指先をひとつ鳴らした。
すると、机の上にころんと何かが落ちてくる。
丸く透き通った、小さな雫玉のようなものだった。月光を閉じ込めたみたいに淡く光っている。
仁は眉を寄せる。
「……何ですか、これは」
「朝露の雫玉。栽培区画の隅に埋めると、周囲の湿度が少し安定するよ。ほんの少しだけね」
「随分都合のいい代物ですが」
「気まぐれの産物だからね」
「対価は」
「いらない」
「なおさら怪しいのですが」
「ひどいなあ。純粋な応援だよ」
神はくるりと宙返りしてみせる。
その動きに合わせて、白金の髪が光を散らした。
「蜜葉乃、頑張ってるでしょう。あの子、もう少し体力が戻れば、たぶんまた卵を増やす。子どもたちも増える。そうしたら食料も、栽培も、飼育も、今よりもっと必要になる。君ひとりで全部抱えるの、さすがに大変そうだから」
「……」
「だから、ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ手伝う。僕が見たいから」
最後の一言で、仁は半眼になった。
「結局そこですか」
「うん。だってこの巣、今いちばんおもしろい時期なんだもの」
悪びれない。
本当に悪びれない神だった。
けれども、仁は机の上の雫玉を見下ろしたまま、しばらく黙る。
たしかに怪しい。神の気まぐれなど、ろくなものではない可能性もある。
それでも、蜜葉乃の消耗はまだ完全には抜けていない。娘たちは増え続け、一葉は頑張り屋で、双葉は放っておくと通路に茸を生やす。
少しでも栽培環境が安定するなら、価値はある。
「……使用可否はこちらで判断します」
「うん、いいよ」
「女王と子どもたちに害があると判明した場合は即時破棄します」
「慎重だなあ」
「当然です」
「でも受け取るんだ」
仁は答えず、そっと雫玉を器の横へ移した。
それだけで、神は満足そうに笑う。
「素直じゃないねえ」
「神様にだけは言われたくありません」
「はは」
神はひとしきり笑ってから、不意に静かになった。
そのまま、女王室の方へ視線を向ける。
「蜜葉乃、いい女王だね」
唐突なその言葉に、仁は少しだけ目を瞬いた。
「……はい」
自分でも驚くほど、答えはすんなり出た。
神はその返事を聞いて、目を細める。
「うん。君がそう言うなら、本当にそうなんだろうな」
それは妙な言い方だった。
けれど神はそれ以上何も説明せず、ただ満足したように頷いた。
「じゃ、今日はこのへんで帰るよ。あんまり長居すると君に嫌な顔されるし」
「すでにしておりますが」
「知ってる」
神はにこりと笑う。
それから、ふと思い出したように付け足した。
「ああそうだ。次に報告書を送る時、双葉の茸の経過も詳しく書いてね」
「なぜです」
「気になるから」
「お帰りください」
「はーい」
返事だけは素直だった。
神の姿が、ふわりと光へ溶ける。
最初に現れた時と同じように、金の粒になって空気へ散っていき、やがて夜の匂いの中へ完全に消えた。
あとに残ったのは、静かな巣と、机の上の小さな雫玉だけ。
仁はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて小さく息をつくと、報告用の葉紙をもう一枚引き寄せた。
棘筆を取り、今度はさっき送ったものとは別の、追記のような形で書き足していく。
――追伸。
神が現地視察と称して来訪。
目的は野次馬半分、干渉半分と推測される。
双葉の能力に興味を示し、栽培補助用と思しき物品を一つ残置。
使用については慎重に検討する。
そこで少しだけ止まり、仁は考える。
それから、ほんの少しだけ迷って、最後にこう書き足した。
――なお、女王さまおよび子どもたちは本日も概ね健やか。
巣は騒がしく、予定外の連続で、管理対象は増加の一途です。
それでも、悪くありません。
書き終えて、仁は静かに目を伏せた。
悪くない。
たしかにそう思った。
最初はただ、崩れかけた巣を立て直すためだった。
女王を守り、卵を保ち、最低限の営みを繋ぐため。そういう役目の延長に過ぎなかったはずなのに、今は違う。
一葉が外から戻れば無事を確認したくなる。
双葉が新しい葉を抱えていれば、今度はどこで何を育てるつもりかと身構える。
妹たちが騒げば叱る前に怪我がないかを見てしまうし、女王が笑えば、少しだけ巣の空気がやわらかくなる気がする。
面倒だ。
手間がかかる。
予定は崩れるし、静かな時間は減るし、アブラムシは増える一方だ。
それでも。
「……悪くありませんね」
誰に聞かせるでもなく呟いて、仁は筆を置いた。
通路の向こうでは、眠る家族の気配がする。
土の下の、小さくて頼りない王国。
けれどもそこはもう、守るべき“場所”というだけではなく、帰るべき“家”になり始めていた。
仁は灯り代わりの燐粉石をひとつ覆い、夜の執務席から立ち上がる。
女王室へ戻る前に、アブラムシ区画をひとまわりし、双葉の茸が勝手に増殖していないかを確認し、一葉が寝ぼけて蹴飛ばした葉束をそっと積み直し、それから最後に女王の寝顔を見に行くつもりだった。
今夜も忙しい。
忙しいが、たぶん、嫌いではない。
そうして執事は、誰にも知られぬ夜の報告を終え、今日もまた家族の眠る巣へ戻っていくのだった。




