第十九話 『古塔の群青、悪夢は神子を奪う』
シュライド領の城下は、表向きには何も変わっていなかった。
領主邸へ続く大通りには、交易商の声が響いている。貴族の魔獣車は昼間から石畳を叩き、金を持つ者たちは、北方の戦乱も王都の混乱も自分たちには関係がないと言わんばかりに笑っていた。
だが、路地裏に一歩入れば、その笑い声は途切れる。
汚れた水路。痩せた子供。扉を閉め切った家。壁に寄りかかる老人。
ジャックザールは、その無言の中を歩いていた。
粗末な外套を羽織り、腰の剣も目立たぬように隠している。だが、纏う空気だけは隠しきれない。
人を殺すことに迷いのない者の気配。それに気づいた者から、路地の奥へ消えていく。
ジャックザールが最初に洗ったのは、領主のカムイではなかった。
カムイの周りに群がる者たちである。
権力に擦り寄る者たちの口は軽い。酒と金と恐怖を適度に混ぜれば、王都に届かぬ南方の噂は、いくらでも零れ落ちる。
だが、そういう奴らの情報は、往々にして眉唾ものである。ナイトメアのほしい情報とは違う、そう判断しかけていた。ある噂を聞くまでは。
「おい」
ジャックザールは、酒場の裏口から出てきた男の肩を掴んだ。
男の顔が引きつる。
「さっきの話、もう一度言え」
「な、何の話だよ」
「神の血を引いた娘がいる、と言ったな」
「そんな与太話、本気にするなよ。ただの噂だ。南方じゃよくあるだろ。古い城だの、神隠しだの、呪いだの」
「誰から聞いた」
「知らねぇよ」
「なら、思い出させてやる」
ジャックザールは、男の首元へ短剣を当てた。
男は喉を鳴らし、両手を上げる。
「ま、待て! 本当に詳しくは知らねぇんだ! 領主様の周りで、そういう噂が出てただけだ!」
「カムイが知っているのか」
「さあな。耳には入ってるかもしれねぇが、あいつが本気にするような話じゃない。酒の席の笑い話だ。時計塔の鐘が夜だけ鳴るとか、南の古城に半神半人がいるとか……」
「半神半人……」
その言葉だけ、妙に浮いて聞こえた。ただの噂にしては、あまりに具体的すぎる、種族の名前のように感じられた。
「南の古城とはどこだ」
「シュライド領からさらに南だ。湖の真ん中にある古い城……城主がいるのかすら、誰も知らねえ。近寄ろうとすらしないのさ」
「なぜだ」
「夜になると鐘が鳴るんだよ」
「鐘?」
「時計塔の鐘だ。でも、あそこの時計は何年も前から止まってる。なのに夜だけ鳴る。だから皆、近づかねぇ」
男は震える声で続ける。
「それに、あの辺りに近づいたやつが帰ってこないって話もある。神の血を引いた娘を見たとか、見てないとか……だから、カムイ様の周りでも、ただの気味悪い噂として流れてただけだ。誰も本気で手なんか出してねぇ」
「カムイは動いていないのだな」
「動いてねぇよ。そんな気味の悪いところに手を出したって、いいこたぁねぇだろ。少なくとも俺は知らん!」
早く解放してくれと言わんばかりの絶叫がジャックザールの耳をつんざく。これ以上続けると、野次馬が集まってくるかもしれない。仕方なく、男から短剣を離すと、一目散に男は退散していった。
表通りでは、相変わらず交易商たちが笑っている。
だが、ジャックザールにはもう、その笑い声が耳障りでしかなかった。
『バイオレット』
『こちらに』
『シュライド領の身辺調査で妙な噂を拾った』
『内容は』
『シュライド領より南。湖に古い城がある。止まった時計塔の鐘が夜だけ鳴るらしい。そこで半神半人を見たという噂がある。場所を特定しろ。俺はシュライド領に残る。カムイが本当に手を出していないか、もう少し確認する』
『承知しました。その先の南方は私が見ます』
◇
シュライド領よりさらに南。
そこには、王都の者たちから忘れられたような湖があった。
水面は静かで、風が吹いても大きく揺れない。湖の中央には、古い石橋で岸と繋がった城が建っている。
白い城壁。蔦の這う塔。
止まった時計。
かつては南方貴族の避暑地として使われていたというが、今では人の出入りも少ない。昼間でさえ薄暗く、夜になれば湖面に映る城は、現実よりも影の方が濃く見えた。
その城の城主を務めるのが、ルーベル・アストレア子爵である。
王都では、ほとんど名を聞かない小領主だった。
バイオレットは、王都の記録官を装ってアストレア領へ入った。
まずは商館を訪れ、次に教会の分室へ顔を出し、最後に古い倉庫の帳簿を確認した。
必要な情報は、城の中にだけあるわけではない。
むしろ、隠し事は城の外に漏れる。
食料の量。薬品の種類。封印具に使う金属。教会式の古い術式に使われる聖油。
そして……十数年にわたって定期的に運び込まれている少女用の衣服。
バイオレットは、帳簿を閉じた。
「なるほど」
商館の管理者が、不安そうな顔をした。
「何か問題でもございましたか」
「いえ。非常に丁寧な帳簿です」
「そ、それは何よりで」
「ただ、一つだけ」
バイオレットは穏やかに微笑む。
「この城には、表向きの使用人の数に対して、薬と食料が多すぎますな……病人でも?」
「……さあ」
「病人でないのなら、囚人でしょうか」
「わ、私には何も」
「そうでしょうね」
バイオレットは席を立った。
「あなたは何も知らない。知っていたとしても、今ここで話せば命がない。そういう顔をしています」
その夜。
バイオレットは城の外壁近くに立っていた。
霧が出ていた。
湖面は暗く、城の灯だけが水に揺れている。
時計塔の針は、ずっと、正午の少し手前で止まっていた。古びた文字盤はひび割れ、長針も短針も、何年も動いていないように見える。
それなのに、鐘が鳴った。
低く、重い音。水の底から響いてくるような音だった。
バイオレットは塔を見上げる。
窓の奥に、淡い光が見えた。
青い。
いや、青というには深すぎる。
群青。
夜明け前の空に似た色だった。
「見つけました」
バイオレットは小さく呟いた。
『ナイトメア様』
思念交信を飛ばす。
『至急、ご確認いただきたいものがございます。シュライド領より南、湖上の古城です。可能であれば、今すぐお越しください』
◇
ナイトメアがアストレア領へ到着したのは、月が雲に隠れた夜だった。
黒い靄が湖畔に滲み、やがて人ならざる輪郭を形作る。
その傍らに、ジャックザールとバイオレットが膝をついた。
「まず聞く。イーブルとアーロンの件はどうなった」
「現時点で、イーブル・クロックに関する新たな情報はありません。カムイとの接触もなかったようです。にわかに信じがたいですが、本当に副長の報告通りなのかもしれません」
「……本命は空振りか」
ナイトメアは一瞬、悔しそうな声でつぶやいたが、すぐに取り直した。
「だが、代わりに半神半人を拾った。偶然にしては出来過ぎているな」
「噂の出所を追った結果、この城へ辿り着きました。塔に、半神半人と思われる存在が幽閉されています。教会式の封印具、聖属性反応を抑制する術式、魔力遮断石を確認しました」
「領主は」
「城内におります。逃げられぬよう、外周はすでに押さえています」
ナイトメアの眼光が城へ向く。
湖の中心には白い城壁に囲まれた城が聳え立っていた。
そして、その城から遠ざけられているかのように立っている孤独な塔も見える。
「カムイが手を出していないのなら、今はいい。あの豚の処分は後でもできる」
ナイトメアの周囲で、闇が静かに濃くなる。
「今確認すべきは、この城だ」
半神半人を王国へ届け出ず、私的に匿った。
それだけで、ナイトメアが動く理由としては十分だった。
「領主の身柄は」
「生かして連れてこい。話を聞く」
ジャックザールは短く頷いた。
「ただし、逃げようとした者は殺せ。証拠を焼こうとした者も殺せ。塔へ近づく者は、俺の許可なく通すな」
「承知しました」
城の門が破られたのは、それから間もなくであった。
叫び声は短かった。
電撃部隊は派手な戦をしない。
門番を倒し、見張りを沈め、通路を塞ぎ、伝令を潰す。
城の中にいた者たちは、目が覚めた時にはすでに逃げ道を失っていた。
湖にかかる石橋は封鎖された。
船着き場も押さえられた。
窓から逃げようとした兵は、闇に呑まれて姿を消した。
アストレア城は、一夜にして孤島となった。
◇
ルーベル・アストレア子爵は、寝衣のまま大広間へ引きずり出された。
表情は青ざめていたが、どこかに、自分だけはまだ助かると思っている者の浅ましさが残っていた。
「な、何の真似だ。ここはアストレア領であるぞ。王都の兵であろうと、正式な令状なしに――」
「黙れ」
ナイトメアが現れた瞬間、子爵の言葉は止まった。
黒い靄に仮面、その奥に怪しく光る赤い光。
王国に仕える者なら、知らぬはずがない。
「ナイトメア・フリッツ……」
「ルーベル・アストレア。貴様に確認する」
ナイトメアは、ゆっくりと大広間の中央へ進む。
「この城に、半神半人を隠しているな」
子爵の口元が引きつった。
「そ、それは誤解です」
「誤解だと?」
「私は保護していたのです。あれは危険な存在だ。人の世に出してよいものではない。神の血を引いた化け物を野放しにすれば、どれほどの災いが起きるか――」
「王へ報告したか」
「……」
「八環聖教会へ届け出たか」
「……それは」
「答えろ」
子爵の喉が鳴る。
「届け出れば、王都に奪われる」
静かな声だった。
先ほどまでの怯えが、そこだけ消えていた。
ナイトメアの眼光が細まる。
「奪われる?」
「そうだ。あれは私が見つけた。私が金を出し、学者を雇い、教会の古文書を調べさせた。何年もかけてようやく手に入れたのだ。神の血を引く存在だぞ。ただの生物ではないのだ。時を止め、傷を塞ぎ、老いすら拒む可能性がある。あれを研究すれば、南方は王都に頭を下げずに済む!」
子爵の声が熱を帯びる。
「あの愚鈍なカムイどもは、噂を噂のまま酒の肴にしているだけだった。だが、私は違う。私は見つけたのだ。南方が王都に対抗し得る切り札を!」
言葉は最後まで続かなかった。
黒い鎌が、子爵の喉元に添えられていた。
「貴様は、保護と言ったな」
ナイトメアの声は冷たかった。
「塔に閉じ込め、鎖を巻き、薬を与え、記録を漁り、神の血を調べた。それを保護と言うのか。否、それは実験だ。貴様のような下等な領主が、理解も覚悟もなく理の外側へ手を伸ばした。その時点で万死に値する」
「必要な管理だ!」
「違う」
「貴様に何がわかる! あれが何か、貴様に――」
「わかる必要はない」
闇が広間の床を這う。
燭台の火が次々と揺れ、壁に映る影が異様に膨れ上がった。
「貴様が王国へ半神半人を隠したこと、それだけで国家叛逆とする十分理由になる」
「ま、待て! 私を殺せば、あれの秘密は――」
「秘密?」
ナイトメアが、嘲るように言い放つ。
「貴様ごときが抱えられる秘密なら、初めから大したものではない」
黒い刃が振るわれた。大広間の奥で、短い悲鳴が上がる。
たった一夜にして、アストレア領は滅ぼされた。
◇
時計塔の階段は、ひどく狭く、ひどく暗かった。
「暗いですね。足がおぼつかなくなる程です」
「……転けるなよ。邪魔だからな」
古い石壁には、いつ付いたのかも分からないような血痕が数多く残っている。
塔の上階。止まった時計の裏側に、扉があった。鉄扉には鎖が巻かれ、鎖には白い封印札が貼られている。
物音はしない。だが、中に何かがいる。ナイトメアにはそれがわかった。
「下がれ」
ナイトメアのローブが揺れ、周囲に黒い靄が漂う。
封印札が一枚ずつ黒く染まり、鎖から剥がれていく。
鉄扉が内側から泣くような音を立て、崩れ落ちる。
その瞬間、光が差した。
小窓から零れる月明かりが、無機質な部屋の隅で項垂れる女を照らしていた。
女は、ゆっくりと顔を上げる。顔付きは幼く、女というより少女なのだとナイトメアは気付いた。
白い衣を纏い、細い鎖で両腕を繋がれている。長い銀髪は月明かりを受け、濡れた糸のように光っていた。
「……また、夢?」
長らく声を発していなかったのか、喉を鳴らすだけでも苦しそうだ。頬は痩せ、唇は乾ききっていた。
しかし、視線は真っ直ぐにこちらを捉えている。
その瞳は、群青色だった。夜明け前の空を、そのまま閉じ込めたような色。
「……あなたは、誰」
「ナイトメア・フリッツ」
「ナイトメア……」
少女はその名を小さく繰り返した。
「じゃあ、これは夢じゃないのね」
「何を言っている」
「夢なら、もっと優しいものが来るから。白い服を来た誰かとか、緑色の綺麗な草原とか、澄み渡った青空とか。こんな黒くて、怖いものは来ない」
意思を持った思念体など存在すら知らなかったのだろう。ナイトメアの灰色の仮面を、じっと見つめていた。
「私を攫いに来たのね?」
ナイトメアは沈黙した。
否定はできる。救いに来たのだとか、王国の為なのだと言うこともできる。
だが、ナイトメアにとってはどれも正確ではなかった。
「連れていく」
群青色の瞳が揺れた。
「それって……」
少女が問う前に、ナイトメアの闇が鎖に触れる。
鎖は、何の抵抗もなく砕けた。
「……え」
少女は、自分の手首への違和感に動揺していた。
「付けなくて、いいの?」
「必要ない」
彼女は立ち上がろうとした。しかし足に力が入らない。
「抵抗するなよ」
黒い靄が少女を囲む。もう一度踏ん張ってみると、容易に立ち上がることができた。
「私を、どこに連れて行ってくれるの?」
「ドミニオンの王城……いや、俺の管理下だ」
その答えにも、少女を支える靄にも、決して温もりはなかった。
「名前を聞かないの?」
「言いたいなら言えばいい」
「クロノス」
少女は、かすかな声で告げる。
「クロノス・レイ・メイデン」
時の名を持つ少女の瞳には、月明かりに照らされぼんやりと光る仮面だけが映っていた。
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