第二十話 『群青の聖痕、悪夢は檻を許さない』
クロノスの群青色の瞳は、湖を見つめていた。
水面に映るアストレア城は炎に包まれ、時計塔の止まった時計はひび割れて、今にも崩れ落ちそうである。視界の隅では、ナイトメアが指揮を執っていた。
「必要な生け捕り以外は、全員殺せ。生き残りは別々に運べ。口裏を合わせられぬようにな」
指示を終えたナイトメアと、クロノスの目が合う。ほどなく、兵士二人が黒ずんだ金属箱を運んできた。
箱の表面には白金の線で八つの環が刻まれ、中央の留め具には乾いた聖油がこびりついている。城内の炎に晒され、箱は煤だらけに汚れていたが、環の紋様だけは焦げ跡さえついていなかった。
「塔の地下にあったものです。中身はまだ確認しておりません」
クロノスには、それが何か分かっていた。猛烈に中身を欲する胸の高鳴りと、それを拒む痛みを同時に感じている。
「どうした、クロノス」
ナイトメアはすぐにクロノスの異変に気付いた。バイオレットも箱とクロノスを交互に見て、口を開きかける。
「塔の地下……? まさか」
その瞬間、箱に刻まれた八つの環が光り始めた。中央の環から白金の光が伸び、クロノスの白い衣へ触れる。衣の下に隠れていた紋様が呼応し、群青色となって浮かび上がった。
群青の線は、ところどころで途切れていた。その切れ目を覆うように重なった紋様も、箱の光を受けて激しく明滅している。やがて重なった線の一部が弾け、隙間から溢れた魔力が、彼女と箱を繋ぐ白金の光へ流れ込んだ。
「箱を離せ!」
兵士たちは金属箱を石橋の下へ放り出した。
音が途切れた。城壁の崩れる轟音も、燃え広がる炎の音も、湖を渡っていた風も同時に消えている。宙を舞う火の粉と黒い灰は空中で止まり、湖面に生まれた波紋も広がる途中で固まっていた。
「え……?」
クロノスの見開いた目がみるみるうちに濁り、深紅に染まった。
兵士たちもナイトメアも、その場で静止している。ただ、ナイトメアの生み出した黒い靄だけは完全には止まらず、水の中を進む影のように遅く歪んでいた。
少女の視界がぼやける。目の前の光景に、今より背が低かった頃の記憶が重なった。
「やめて……!」
白金の光が、内側から押し広げられるように膨らんだ。流れ込む魔力に耐え切れず、箱に刻まれた八つの環へ亀裂が走る。
箱が爆ぜる。
同時に時が動き始めた。城壁の崩れる音が響き渡り、石橋を強い風が吹き抜ける。クロノスは瞳を灰色に染め、石畳へ崩れかけた。その身体を、広がった黒い靄が受け止めようとする。
「!?」
靄は、クロノスの身体に少し触れただけで消し飛んだ。鋭い痛みに、仮面の奥の赤い眼光が一瞬揺らぐ。
「私が!」
即座に前へ出たバイオレットが、代わりにクロノスを受け止める。
「ナイトメア様。大丈夫ですか?」
「ああ……」
かつてないほどに強力な聖の魔力に対して、ナイトメアは何もできず、眠るクロノスを見つめていた。
◇
朝の光が、中庭に面した療養室へ細く差し込んでいた。
クロノスは見慣れぬ天井を見上げたまま、しばらく瞬きもできなかった。辺りを見渡しながら、ゆっくりと身を起こす。寝台の脇に置かれた水差しを見つけ、手を伸ばしかけたところで、その動きが止まった。
「毒でも入っていると思ったか?」
部屋の隅から声がして、クロノスの肩が強張った。黒い靄の奥、仮面と赤い眼光が、朝の光を拒むようにそこにあった。
「……ここはどこ」
「王城ヴァルメイアだ」
「なぜあなたがいるの」
「王城だからな。貴様が目を覚ますまでは、俺もここを離れられん」
「見張ってたの?」
「違う」
「それなら、なぜ」
ナイトメアは答えなかった。
クロノスは窓へ視線を向ける。格子はない。扉にも、塔にあったような重い錠は見当たらなかった。
「鍵は?」
「掛けていない」
「どうして」
「必要ないからだ」
その言葉の意味を測るように、クロノスの冷たい視線がナイトメアを貫く。
「……ここから出てもいいの?」
「王城の外へは出るな。貴様を探している者が、どこにいるか分からん」
「じゃあ、やっぱり閉じ込めるのね」
「何故そうなる。部屋の外には出てもいい。だがお前の力の詳細がよく分かっていない以上、自由に出歩かれては困る」
クロノスは少しだけ目を伏せ、ため息をついた。
「同じじゃない……」
その小さな呟きを、ナイトメアは聞き逃したふりをした。
しばしの沈黙を打ち破るように、扉が三度、控えめに叩かれる。
「エースです。お邪魔してもよろしいでしょうか」
ナイトメアは、すぐには扉を開かなかった。
「クロノス」
「……なに」
「昨夜、お前の封印を確かめた熾天使だ。この部屋に入れるかどうかは、お前が決めろ」
クロノスは扉を見つめた。
「私に触らない?」
「触れない。あいつは相手が拒むことをしない」
クロノスは一度だけナイトメアを見て、小さく頷いた。
「入ってください」
「では、失礼します」
エースは扉をゆっくり開けた。室内へ入ると、翼を覆っていた炎を一つずつ消していく。両手には、小さな盆があった。
「お粥と、カボチャのスープです。南方ではカボチャは馴染みがあると聞いたのですが、いかがですか」
「毒は?」
「……信用できないのであれば毒味役でも呼びますが、私としては早めに何かを食べていただきたいところです。とりあえず、ここに置きますね」
エースは盆を寝台の脇へ置くと、クロノスへ向き直った。
「昨日の一件を、覚えていますか?」
「昨日……」
クロノスの瞳が揺れた。
「お城が燃えてた……塔も?」
「はい」
「それから……白い箱……箱は?」
「箱は……爆ぜて消えたそうです」
「私が、あそこにいたせいよね」
「それは分からん」
ナイトメアが鋭く話に割り込む。
「少なくとも、仮にそれが理由だったとして、そんな簡単に爆発するようなものを近くに置いていた奴が悪いのだ。貴様のせいではない」
クロノスは何かを言いかけてやめた。代わりに水差しを手に取り、指先を震わせながら、一口だけ水を口に含む。
「……あの人たちは、死んだの?」
「死んだ。もう、お前をあの塔へ戻す者はいない」
ナイトメアは、それ以上を語らなかった。説明したところで、クロノスが楽になる話ではない。
「そう」
エースはその様子を見て一息つく。
「……少しだけ、お話ししてもよろしいでしょうか」
「私のこと?」
「そうです」
クロノスの指が、水差しを強く握った。
「聞きたくなければ聞かなくてもいい。知っても――」
「聞く」
ナイトメアの言葉を遮って、クロノスは顔を上げた。
「知らないまま、勝手に決められるのはもう嫌」
「そうか。なら勝手にしろ」
ナイトメアは吐き捨てると、黙って窓の外へ顔を向けた。
「承知しました」
熾天使の周囲に、淡い火の粒が浮かんだ。火は寝台へ近づくことなく、エースの周囲をゆっくり巡っている。
「昨夜確かめた限りでは、クロノスさんの中には、少なくとも三つの封印があります」
「三つ」
「一つ目は、クロノスさん自身の、時を操る能力を封じるものです」
クロノスの群青の瞳が、わずかに揺れる。
「時を……操る?」
「術式から何の力を封じているのかはわかりますが、その力がどこまで及ぶのかはわかりません。ですから、むやみに封印を解くわけにもいきません」
「私、そんなこと……」
「封じられていたのなら、使った覚えがなくても不思議ではありません」
エースは続ける。
「二つ目は、魔力を封じるものです。こちらは特定の能力ではなく、魔法を使うための力そのものを、使えない状態にしています」
「なぜ2つも必要なの」
「どちらかの封印が何らかの形で解けたとしても大丈夫なように、でしょう。時を操る魔法の封印が解けても、魔力の封印が残っていれば魔法は使えない。その逆も、然りです」
クロノスは自分の胸元を見下ろした。衣の下には、昨夜、群青色に浮かび上がった紋様がある。
「どうして、そこまでしないといけないの?」
「クロノスさんが持つのは、神族の膨大な魔力だからです」
「神様の……魔力」
「はい。私の持つ魔力をはるかに超えています。その魔力を制御する術を知らないまま解放すれば、身体にも大きな負担がかかる。さらに時の力まで勝手に動けば、周囲を巻き込むおそれもあります。少なくとも、魔力を抑えることは、クロノスさん自身を守る働きもしているのです」
クロノスはかろうじて表情を保ちつつも、手先が忙しなく動いている。
「ただ、その二つが今、どちらも完全には機能していません」
クロノスの手が止まった。
「膨大すぎる魔力を封印が抑えきれていません。その漏れ出た魔力が、時を操る魔法の封印にも影響を及ぼしています」
昨夜、石橋の上で見た光景が蘇った。止まった火の粉。動かなくなった人々。音の消えた世界に、一人だけ取り残されたような恐怖が、まだ身体に残っている。
「昨日、みんなが動かなくなったのも……私が?」
エースはナイトメアへ目を向けた。仮面の奥の眼光が、クロノスを捉えている。
「どのくらいの間だ」
「分からない。でも、火も、湖の波も止まってた。あなたも……」
クロノスは言いかけて、ナイトメアの靄を見た。あの闇だけは、僅かに動いていた気がする。
「……時を操る力が不完全ながら発動した、ということでしょうね」
エースの声を聞きながら、クロノスは水差しを寝台の脇へ戻した。これ以上握っていると、取り落としてしまいそうだった。
「……三つ目の封印は、二つの封印だけでは抑えきれない、クロノスさんの力を抑えるために後から足されたもので、いわば補強です」
エースは一度言葉を切り、クロノスの表情を確かめた。
「古い術式の傷を覆うように、新しい術式が重なっていました。二つの封印の破損は、昨夜初めて起きたものではありません。二つでは保たなくなった後に、この補強を付け足したのでしょう」
「ああ。だから不完全だ」
ナイトメアが短く言った。
「元の封印は壊れたままだ。そこから溢れようとする力を、上から無理やり押さえつけている。そんなものが安定するわけがない」
「その通りです。今はそれで保っていますが、内側の力が消えたわけではありません。補強した箇所も力を受け続け、すでに一部が壊れかけています。昨日不完全に時を操る力が作動したのもそのせいでしょう」
クロノスの表情が、ゆっくりと固まっていく。
「じゃあ……私が苦しかったのは」
「全てが封印のせいだとは断言できません。ただ、綻びから溢れようとする力と、それを押し戻す術式の負担が、クロノスさんの身体にかかっています。苦痛の原因の一つである可能性は高いです」
「でも、耐えるしかないってことよね」
「放っておくつもりはありません。まずは、今も残っている封印を保ちながら、力の流出を抑える方法を探します。その上で、クロノスさんが力を扱えるようにする手順を考えなければなりません」
クロノスは視線を落とした。塔から出れば、身体の中にあるものまで消えてなくなるわけではない。自分を縛るものが、同時に自分の身体を支えてもいる。その説明は、簡単には飲み込めなかった。
「昨日、箱が爆ぜたのも、その力のせい?」
「封印から漏れた魔力が箱へ流れ込み、箱が耐え切れなかったためだと考えています」
「私が近くにいたから?」
「近くに来た箱の聖紋と、クロノスさんの紋様が光で繋がった、と聞いています。その呼応によって傷んだ封印が揺さぶられ、補強していた箇所まで一時的に押し破られたのでしょう。昨夜の術式には、綻びがさらに広がり、そこを強い魔力が通った痕がありました」
箱が運ばれてきた時の、胸の高鳴りと痛みが蘇る。近付いてほしいと思うのと同時に、近付けてはいけないとも思っていた。
「箱は壊れたんでしょう。それでも、私の封印は残っているの?」
「はい。三つの封印は、クロノスさんの身体に刻まれています。箱と呼応したからといって、箱が壊れれば身体の術式まで全て消えるわけではありません」
「じゃあ、今も機能しているのね」
「不完全ながら、力を抑えています。昨夜、全てが解けたわけではありません。今は力の噴出が収まり、残った術式が働いています。ただ、破れた箇所が元に戻ったわけではないのです」
クロノスは、衣の上から自分の腕を握った。箱が消えても、身体の中の危険は消えていない。先程、ナイトメアが城から出るなと言った理由の一つは、これだったのだ。
「箱は、何のためにあったの?」
「本来どのような役割を持っていたのかは、残された情報だけでは確かめられません。封印の一部と呼応する仕組みだったことは分かりますが、箱そのものが失われていますから」
「どうして私にこんな封印が?」
エースは、すぐには答えなかった。
「クロノスさんや周囲を守るためだったのか、それともクロノスさんに力を使わせないことが目的だったのか。封印に身体を守る働きがあることと、施した者がクロノスさんを守るために封印を施したのかということは、分けて考えなければなりません」
「じゃあ結局、何もわからないってこと?」
「……」
自分を縛り付けてきたものの大きさに呆然とするクロノス。クロノスの顔が微かに曇ったのに気付いたエースは、目を合わせて微笑んだ。
「いずれにせよ、私たちが必ず守りますよ」
エースの真っ直ぐな瞳の逞しさに、クロノスは久々に気が緩むのを感じた。何を考えているか分かりづらいナイトメアに比べ、エースの態度はどれも直球だったのだ。
「回答をぼかすな、エース。何も分かっていないのかと聞いているだろう」
「……術式の出所について、一つだけ分かっていることがあります」
苦々しい顔をしながら、エースが口を開く。淡い火の粒が、その指先で静かに消えた。
「クロノスさんの封印には、八環聖教会の正式な術式が、ほぼ間違いなく使われています。術式の組み方と、残された聖紋が一致しています。末端の司祭や、どこかの学者が形だけ真似して作れるものではありません。少なくとも、教会の内部に、この封印へ関わった者がいます……」
ナイトメアの闇が、床を薄く這った。
「場合によっては、敵が宗教権威そのものだということもありうるということか?」
「何も敵と決まったわけではないでしょう。半神半人を隠していたというだけで、教会が王権の敵とは、早計ですよ、ナイトメア」
「だから、場合によってはと言っているだろうが。そもそもお前は熾天使、教会の大司教だ。クロノスの件に教会が関わっていると分かった以上、そう簡単に信用できると思うなよ」
エースは愕然とした。
「ナイトメア……」
「信用を取り戻すには、どうするべきか分かっているだろうな?」
エースは何も言わない。誤解は解かなければならないが、今この場で、自分が関与していないと証明できるものは何もなかった。
そんな事情すら知ったことではないというふうに、ナイトメアはクロノスへ向き直る。
「甘い言葉にやすやすと騙されるなよ、クロノス」
「騙されてなんか……ないわ」
「待ってください。そもそも騙してなどいません」
すぐに反論するエースだが、ナイトメアは揺るがない。
「本当に、何も知らないのですかな? 猊下」
「……はい。神に誓って」
真っ直ぐな目でナイトメアを見るエースだったが、視界の隅にいるクロノスの目線が、先程とは違うことにも気付いていた。
ナイトメアの靄が、笑うように揺れる。
「教会が王権の敵だとして、王国の将としてお前は戦うのだな?」
「……はい」
クロノスは、自分がまだ闇から抜け出せていないのだと思い知らされた。
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