第十五話 『国葬の鐘、悪夢は喪失を知らない』
思念体は、眠らない。だから、夢など見るはずがない。
しかし、これが夢か現か、ナイトメアにはわからなかった。
王都オルドレアの大通りの両脇には、黒衣を纏った市民たちが列を成していた。誰もが頭を垂れ、誰もが言葉を失い、ただ覇王ファング・アレクサンドラの棺が運ばれていく方角を見つめている。
俯いた参列者たちの顔は、ひどく歪んで見えた。
住民たちの声は確かにある。だが、その全てが、胸の奥で鳴り続ける重低音に遮られて、うまく聞き取れなかった。
「……ア……ま……イト……さ……!……トメア様! ナイトメア様!」
「誰だ!」
反射的に怒鳴った声が、葬列の静寂を裂いた。近くにいた市民たちが、一斉にナイトメアの方を見る。その視線には驚きよりも先に、恐怖が浮かんでいた。
自分が怒鳴った。
それを、遅れて認識した。
『ナイトメア様、バイオレットでございます。定期報告のため、思念交信を使用しております』
「……あ、あぁ」
ナイトメアは短く答えた。
『市民エリア、貴族エリア共に、直近一時間で不審な動きをしている者はおりません。特にナイトメア様が警戒しておられていたメテオ自治領の幹部たちは、ジャックの部隊が監視しています』
「そうか」
『はい。引き続き監視を継続いたします。何か動きがあれば、即座にご報告いたします』
「分かった」
『では、また連絡いたします』
思念交信が切れる。
ナイトメアは改めて周囲を見渡した。
王都オルドレアには、かつてないほど民が溢れていた。市民たちは大通りの両側に隙間なく並び、王城へ続く道を黒く染めている。だが、不思議と圧迫感はなかった。
覇王が死んだ。
その事実が、王都オルドレア全体を沈めているのだ。
ナイトメアにとって、市民の絶望とは、本来ならば身体を健全にする養分であるはずだった。悲哀、恐怖、不安、喪失。それらは全て、ナイトメアという存在を満たす。
「気持ち悪い……」
ナイトメアは、誰にも聞こえないほど低く呟いた。
市民たちの顔を見ていると、沼に引きずり込まれるような感覚になる。
この感覚に名前を付ければ、もう、戻れなくなる気がした。
◇
貴族エリアは、市民エリアと違い絶望以外の何かが渦巻く世界だった。
黒を基調とした喪服の中に、わざとらしい刺繍や宝石を忍ばせる者。涙を拭う仕草をしながら、隣の貴族と小声で今後の勢力図を話す者。棺に頭を下げながら、その視線だけはアルテミスの立つ壇上へ向けている者。
「ナイトメア殿ではないか」
背後から、滑らかな声がした。
振り向くと、イーブルが立っていた。その横には、白銀の髪を静かになびかせながら、アルバートがどこか寂しげな表情をして立っている。
ドミニオン王国に刃を向け、覇王ファング・アレクサンドラの時代を揺るがした男である。
弔問、という名目で、メテオ自治領の幹部たちは国葬への参列を許されている。休戦協定が結ばれた直後である以上、表向きは拒むことができなかった。
「貴様まで来るとはな、アルバート」
ナイトメアの声が、僅かに低くなる。
「当然だ」
アルバートは静かに答えた。その表情に、挑発の色はなかった。
「耄碌された陛下には随分と失望させられたが……英雄には、英雄への敬意を持たねばならん。晩節を汚したからと言って、王のこれまでの功績がすべて消え去るわけでもない」
こともなげに、アルバートはそう言った。怒っているわけでも、ファングを侮辱したいわけでもなさそうだった。
「晩節を汚しただと……!?」
ナイトメアにも、それはわかったらしい。だが、わかったからこそ、はらわたが煮えくり返る思いを抱いたのだ。
「貴様に陛下の何がわかると言うのだ!? 貴様ごときに陛下を語る資格などない! 弔意を示す気がないのなら今すぐにでも俺が殺してやるぞ!」
「慌てるな。戦いに来たわけではない」
アルバートは、王城ヴァルメイアの正門へ視線を向けた。そこには、覇王の棺が運ばれていく道がある。
「私は、あの男の重さを知っている……」
ナイトメアは答えなかった。
「戦場で、一度顔を合わせた。死の、ほんの少し前の話だ」
イーブルは珍しく口を挟まなかった。アルバートの瞳を見て、何も言えなくなったのだろう。
その瞳にあるのは、偉大なる王を見送る者の、静かな敬意だった。
「耄碌したといえ、あの覇気はやはりただ者ではなかった。私はかのようなものを“王”と呼ぶのだと、そう思ったのだ。故に……残念だったよ」
押し黙るナイトメアに対して、アルバートはさらに問いかける。
「逆に聞くが、お前には王のすべてがわかるのか?」
ナイトメアの赤い眼が、僅かに細くなる。
「……」
アルバートは静かに頭を下げた。
「覇王ファング・アレクサンドラに、弔意を」
その瞬間、ナイトメアは何も言えなくなった。
敵だ。憎むべき相手だ。王国を揺るがし、今なおこの国の隙を狙っているメテオの頭領だ。ナイトメアは、そう思っていても、言い返せない。胸の奥に沈んでいた重低音が、さらに深く響くのを感じた。
「……その言葉に偽りがあれば、ここで貴様を殺す」
「我が主の言に嘘偽りはない。お前もわかっているだろう?」
「貴様は黙って頭を垂れていろ」
それは、ナイトメアに許された最後の抵抗だった。
「まさか、ナイトメア殿に弔問の作法を教わるとは」
「黙れと言ったはずだが?」
ナイトメアは、イーブルが少し薄ら笑みを浮かべたことに気が付いた。
確信した。イーブルは、弔意を示す気などかけらもないのだ。
だが、アルバートは違った。彼は本気で弔意を示し、本気で王の死を悲しんでいる。その事実が、余計に不愉快だった。
そんなアルバートとイーブルの対照的な姿を見て、ナイトメアの“心”にふと現れてきたものがある。自分は、果たして悼んでいるのだろうか。
その問いが、思考の底から這い上がりかけた瞬間だった。
「だから、夕飯は何時だと聞いている」
場にそぐわない声が、貴族エリアの端から聞こえた。
「まだ昼食をお召しになって一時間も経っておりません。夕食を用意するのは我々ではないので、聞いて参ります」
「早くしろ。私は腹が減った」
葬儀には相応しくない豪華な衣装に、丸々と肥えた身体。宝石のついた指輪をいくつも嵌め、喪服というより祝宴にでも出るかのような格好をした男が、従者に向かって不満を漏らしていた。
周囲の貴族たちは、見て見ぬふりをしていた。顔には嫌悪が浮かんでいるが、誰も注意しようとはしない。
ナイトメアは、遠目に見ても葬儀には適さない服装をしている男を認識した。
「……あれが南方の領主カムイ、か」
声には、明確な侮蔑が滲んでいた。
「噂通り、随分と豪快な奴らしい」
「豚の間違いだろう」
「あれが豚だとしたら、それを食いたいと思うのか? ああ失礼、ナイトメア殿は食事を必要としないんだったか。我らの気持ちもそれではわからんな」
「黙れ。死者の前で腹を鳴らす者に、他の呼び方があるなら教えろ」
イーブルは薄く笑ったが、ナイトメアはそれ以上カムイを見ようとはしなかった。
怒りを向けるには、あまりにも浅ましい。
だが、見過ごすには、あまりにも目障りだった。
それでも今、この場の中心にいるのはカムイではない。アルテミスでもない。貴族でも、メテオでも、ナイトメア自身ですらなかった。
王城ヴァルメイアの鐘が鳴った。
一度、二度、三度。
重く、低く、王都全体の胸を押し潰すような音だった。
貴族たちの囁きが止まる。市民たちのすすり泣きも、その鐘の音に飲まれていく。壇上にはアルテミスが立っていたが、誰もが彼を見ているようで、実際にはその奥に安置された棺を見ていた。
黒布に覆われた棺。その上に置かれた王冠。その隣に立てかけられた、覇王ファング・アレクサンドラの剣。
それだけで、この場の主が誰であるかは明白だった。
「静粛に! 皆さま、これより、ファング・アレクサンドラ王の葬儀を執り行います故、皆々様方、各々のお席に着席なされますよう」
深く、味わい深い、それでいてどこかに説得力のある、そんな声が響いた。参列者たちは一律に息をのみ、平伏する。
「教皇……聖大天使レオニエル・ヴァルハイト聖下が、まさか直々に顔を出されるとは……噂には聞いていたが……」
普段から余裕の笑みを崩さないイーブルが、直立したまま動けなかった。
「イーブル、何をしている。早く自分の席へつけ」
「何を言うか……貴様こそ動けないくせに」
今回ばかりは、ナイトメアもイーブルに何も言い返せなかったらしい。圧倒的な“聖”のオーラが、ナイトメアを包むと、今にもこの世から消えてしまいそうな感覚に襲われる。これこそが、八環聖教会を束ねる首魁の姿であった。在りし日のファングに、勝るとも劣らない威厳の持ち主である。
王権に仕えるだけの組織ではない。王国の冠婚葬祭を司り、神殿を管理し、禁忌を監視する者たち。王が死した今、この場において王国の沈黙を支配しているのは、玉座ではなく祭壇であった。
ナイトメアは、赤い眼を細めた。
「聖下」
壇上の脇から、エースが一歩前へ出た。
白い翼を畳み、黒の礼装に身を包んだその姿は、いつもの戦場での彼女とは違って見えた。彼女の顔には、涙はなかった。だが、その眼差しには、泣くことを許されない者だけが持つ静かな痛みがあった。
「弔辞を述べさせていただきます」
「構わぬ……エース・バジリスタよ。弔辞を」
「はっ」
恭しく礼をしたエースを見た瞬間、ナイトメアの“心”の奥で、またあの重低音が鳴った。
エースが王を悼む。それは当然のことのはずだった。彼女は王国の将であり、八環聖教会の“火”を司る熾天使である。
ファング・アレクサンドラに忠義を尽くしてきた者である。弔辞を読む資格がある。むしろ、この場に立つのに最もふさわしいはずであった。
それなのに、胸の奥が騒がしい。
死者のために泣くことも、棺の前で祈ることも、本来ならば理解の外にある行為である。王が死んだ。ならば、次の王を守ればいい。国に敵がいるならば殺せばいい。秩序を乱す者がいるならば潰せばいい。それが道理であり、それが王命であり、それがナイトメアに許された存在理由であるはずであった。
陛下の遺言も、耳に残っている。「自分にしか出来ぬ仕事をしろ」とそう命じられたはずである。
ならば自分が悼む必要も、悲しむ必要もない。ましてや、喪失を知る必要など何もない。
そう思った瞬間、気づいてしまった。自分は今、必死に言い訳をしている。
エースが息を吸う。葬儀場に、彼女の声が響いた。
「覇王ファング・アレクサンドラ陛下。今、王国の民、諸侯、将兵、そしてこの大陸に生きる者たちの前で、謹んで弔辞を申し上げます」
声は震えていなかった。
それは戦場で号令を下す声ではない。死者に向けられた、あまりにも静かな言葉であった。
「陛下は、常に時代の中心におられました。混沌に沈んでいた大陸に道を示し、争いに疲れた民に秩序を与え、幾多の戦場において、誰よりも前に立たれました。陛下の歩まれた道が、決して血の流れぬ道でなかったことも、陛下の覇道が、すべての者にとって優しい道でなかったことも我々は知っております」
一瞬、場にざわめきが起こる。だが、エースは言葉を止めなかった。
「それでもなお、陛下は王でした。痛みを知らぬ者ではなく、痛みを背負ってなお進まれた方でした。憎まれることを恐れず、孤独を恐れず、ただこの大陸に一つの秩序を築くために、その身を削り続けた方でした」
ナイトメアは、棺の上の王冠を見つめた。ファングは、痛みを背負っていたのか。
その問いがすっと自分の中に入り込んできた瞬間、ナイトメアの中で何かが軋んだ。
自分は王の怒りを知っている。王の威圧を知っている。王の命令を知っている。王の罪も、王の闇も、王の孤独も、少しは知っているつもりだった。
だが、本当に知っていたのか。アルバートに問われた言葉が、今さらになって蘇る。
―お前には王のすべてがわかるのか―
わかるはずがない。わかるはずがなかった。
棺の中にいる男のすべてを、誰も知らない。それが、急に恐ろしくなった。
「陛下は、我々に強さを示されました。しかし、強さだけを遺されたのではありません。守るべき国を、支えるべき民を、そして、次代へ繋がねばならぬ秩序を遺されました」
エースの視線が、ほんの一瞬だけアルテミスへ向いた。
だが、それは新しき王を讃えるための視線ではなかった。王位を継いだ者へ、重さを渡すための視線であった。
アルテミスは何も言わない。
ただ、棺の前に立ち尽くしている。
その姿はまだ若く、あまりにも軽い。ファングの棺が放つ存在感の前では、次代の王の影さえ霞んで見えた。
「陛下。貴方が築かれた王国は、今、大きな悲しみの中にあります。民は泣き、将は膝をつき、敵でさえも貴方の死に頭を垂れております。それほどまでに、貴方は大きな王でした」
ナイトメアの視界の端で、アルバートが静かに目を伏せた。
イーブルは動かない。だが、その表情からいつもの薄笑いは消えていた。
「私には、陛下の孤独も、陛下の罪も、陛下が最後まで見ていた景色も、私には到底わかりません。ただ一つ、申し上げられることがあります」
エースは、深く息を吸った。
「貴方は、我々の王でした」
市民のすすり泣きが、貴族たちの沈黙が、将たちの硬い表情が、全てその言葉に集約されていく。
「その事実だけは、誰にも奪えません。戦乱も、陰謀も、死さえも、貴方がこの大陸に刻んだものを消すことはできません。故に我々は、ただ嘆くのではなく、貴方の遺したものを背負い、次の時代へ進まねばなりません」
エースは、棺へ向かって膝をついた。
「覇王ファング・アレクサンドラ陛下。どうか、安らかにお眠りください。貴方の歩まれた覇道の果てに、せめて静かな眠りがあらんことを。我々は、貴方の名を忘れません。貴方の王冠の重さを、決して忘れません」
ややの間を持って、最後の一言が放たれる。
「……長きにわたる御政道、誠に、お疲れ様でございました」
その瞬間、ナイトメアの中で何かが崩れた。涙は出ない。出るはずもなかった。喉が震えることもない。胸を掻きむしることもない。人間のように泣き崩れることなど、ナイトメアにはできない。
それなのに、立っていることが苦しかった。
(陛下)
心の中で呼んだ。返事はない。
当然だ。死者は答えない。棺の中の王は、もうナイトメアに命じることも、叱ることも、冷たい目で見下ろすこともない。
それが、どうしようもなく不愉快だった。
怒りならよかった。憎しみならよかった。誰かを殺せば済む感情なら、いくらでも扱えた。
だが、これは違う。
斬る相手がいない。壊す対象がない。命令に変換できない。王国の敵という名を与えることもできない。
ただ、王がいない。その事実だけが、ナイトメアの中に残っている。
ナイトメアは初めて、自分の内側に空洞があることを知った。
「神よ」
レオニエルの声が、静かに響いた。
エースが下がると、教皇は祭壇の前に立ち、棺へ向かって両手を広げた。
「この混沌とした大陸に平和と秩序をもたらした、ファング・アレクサンドラという偉大なる王の御魂を救いたまえ。火の神よ、その魂に再生の灯を。水の神よ、その歩みに浄化を。氷の神よ、その眠りに静寂を。風の神よ、その名を遠き地まで運びたまえ。土の神よ、その遺した国を支えたまえ。聖の神よ、その罪と功績を等しく照らしたまえ。闇の神よ、その孤独を抱きたまえ。雷の神よ、その覇道に最後の裁きを与えたまえ」
神々の名の下に、死者を送る言葉であった。
ナイトメアは、ただ黙って聞いていた。
―闇の神よ、その孤独を抱きたまえ―
その一節だけが、耳の奥に残った。
覇王とは孤独なものだ。王とは、民の上に立ち、将の上に立ち、敵の怨嗟を背負うものだ。だから孤独であることなど、当然だと思っていた。
だが、当然と思うことと、悼むことは違う。
「この大陸、この世界に住まうすべての生命に、神々の祝福があらんことを」
レオニエルがそう締めくくると、葬儀場に深い沈黙が落ちた。
誰もすぐには動けなかった。
「アルバート」
「なんだ、イーブル。聖下のお言葉を聞かんか」
「教会は何が狙いだ?」
「……その話は後にしよう。ここではまずい」
「……すまん」
イーブルの取り乱し方を見て、アルバートもさっさとこの空間から立ち去りたくなったらしい。やけに落ち着かない様子の彼らを、ナイトメアはじっと見つめていた。
胸の奥に残っていた空洞が、少しだけ形を変えた。これは悲しみではない。悲しみであってはならない。
王が死んだ今、必要なのは涙ではない。必要なのは、己にしか出来ぬ仕事を全うすることだけ。
ならば、それでいい。それだけでいい。
ナイトメアは棺から目を逸らした。
だが、王冠の残像だけが、いつまでも赤い眼の奥に焼き付いていた。
『LASTDAY』をお読みいただき、ありがとうございます!
少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです!
ご感想もお待ちしております。皆様からのお声や応援が、執筆を続ける大きな励みになっています。
これからも『LASTDAY』を、どうぞよろしくお願いいたします!




