第十四話 『覇王崩御、悪夢は暁に哭く』
夜を告げる鐘は、まだ王城ヴァルメイアの空に残っていた。
低く、重く、石造りの城壁を震わせるような音である。王都オルドレアに暮らす民にとって、それは一日の終わりを告げる鐘でしかなかった。だが、この夜だけは違った。
城の奥、王族の居住区へと続く廊下には、普段よりも多くの兵が立っている。誰も声を発しない。鎧の擦れる音さえ、許されていないかのように小さかった。
王の寝所。その扉の前に、タチャンカが立っていた。
「……容体は」
短く問うた声には、いつものような鋭さがない。
治癒術師が、青ざめた顔で深く頭を下げる。
「……はっきり言うと、今の陛下は意識があるのが不思議な状態です。魔力の流れが、ほとんど戻りません。これ以上の治癒魔法は、かえって陛下のお体を傷つけます」
「つまり、どういうことだ」
「夜明けまでは……難しいかと」
タチャンカは目を閉じた。聞く前から、答えなどわかっていた。それでも言葉にされると重さが違う。頭では理解していたはずのものが、胸の奥に冷たい杭となって打ち込まれる。
「全将に通達しろ。王の寝所に集まれ、と」
「よろしいのですか。王子殿下にも……」
「当然だ」
タチャンカは低く言った。
伝令は一礼し、足早に廊下を去っていった。
◇
しばらくして、エース、マックス、ナイトメアらが現れた。続いてヤマト、ガンツ、エリカ、ミーの姿もある。
ヤマトと、ナイトメアの間に会話はない。はぁ、とため息をついてエースはナイトメアを見やる。フン、と鼻を鳴らして、ナイトメアは目を背けた。エースがにらみを利かせているせいで、下手なことは言えない。
エースもまた、叱責する気はなかった。国王の死に際して、余計なことに気を削ぎたくはなかった。ただ、扉を開けるのでさえ、躊躇するほどなのだから。
開けてしまえば、もう戻れない。そんなことを考えたのかもしれない。
エースが扉を開けるのを戸惑っているうちに、アルテミスが現れた。隣にはドラゴンが控えている。アルテミスは寝間着の上に慌てて外套を羽織ったような格好で、顔色は誰よりも悪かった。
「父上は……」
その問いに答えられる者はいなかった。誰もがわかっていたからだ。答えれば、それは認めることになる。
エースは、決意をしたかのように、指先に力を込めた。
「……行きましょう」
王の寝所は、あまりにも静かだった。
壁には、ただ一枚の巨大な肖像画が掛けられている。
若き日のファング・アレクサンドラ。大陸統一を成し遂げ、王都オルドレアへ凱旋した日の姿である。黒い鎧をまとい、片手に王剣を握り、背後にはドミニオン王国の旗が翻っている。
その肖像の中のファングは、まるで世界そのものを睨みつけているようだった。
そして今、同じ男が、寝台の上に横たわっている。
その名だけで諸侯は膝を折り、敵国は軍を引き、兵は命を燃やした。戦場に立てば、王旗の下に立つ者は死すら恐れなかった。
だが、その体は今、驚くほど小さく見えた。
頬は削げ、唇は乾き、呼吸は浅い。胸が一度上下するたびに、周囲の者たちは無意識に息を止めた。次の呼吸が来るのか、誰にもわからなかった。
だが、濁りかけた瞳の奥に、なお王の火が残っている。
「……揃ったか」
かすれた声だった。
それでも、その一言で部屋の空気が変わった。
死に瀕してなお、ファングはファングだった。
エースが膝をついた。それに連なって、各々が皆頭を下げる。
ナイトメアだけが、ファングを見下ろしていた。
エースが咎めようとしたが、ファングが先に小さく笑った。
「よい。そやつに今さら礼を教えるには、余の命が足りぬ」
「……」
ファングは一度、苦しげに息を吸った。
「戦は、どうなった」
「休戦協定を結びました。メテオ領から兵を退き、いましばらくは停戦となります」
「……そうか。余のせいで、勝ち戦を負けに変えたか」
「そんなことは……」
「慰めはいらぬ。戦とは、時の運だ……今回ばかりはメテオに運が向いた、それだけの話だ……」
タチャンカは唇を引き結んだ。否定したかった。だが、否定できなかった。
ファング・アレクサンドラという存在そのものが、ドミニオン王国の勝利だった。その男が倒れた時点で、戦場の意味は変わってしまった。
「エース」
「はっ」
「アルテミスを……頼むぞ」
「……」
「お前には、面倒ばかりをかけることになるが……」
「決して面倒などとは……」
ファングは少し笑った。本音がわかったようだ。
「父上……私は……」
アルテミスは一歩踏み出した。だが、それだけで足が止まる。ドラゴンが小さく背を押して、ようやく彼は寝台のそばまで来た。
ファングは細くなった手を伸ばし、アルテミスの手首を掴んだ。
力は弱かったが、それでも、アルテミスは息を呑んだ。
「お前に、王の器はない」
あまりにも率直な言葉だった。死の間際に、父が子へ向けるには残酷すぎる言葉だった。
アルテミスの顔が歪む。
「……わかっております」
「わかっているだけでは足りぬ」
ファングは咳き込んだ。治癒術師が駆け寄ろうとするが、彼は手で制した。
「王の器がないなら、器を借りろ。エース……マックス……狂神たちの力を借りろ。足りぬものを認め、頭を下げ、なお玉座に座れ。それが、お前にできる在り方だ」
「私に……できるでしょうか」
「できるかではない。やるのだ」
ファングの声に、わずかに昔の迫力が戻った。
「王とは、できる者がなるのではない。なった者が、できるまで血を吐くのだ。お前が弱いことなど、世界は待ってくれぬ」
アルテミスは歯を食いしばった。
「私は、父上のようにはなれません」
「……余のような王は、もう要らぬ」
その場の誰もが、息を止めた。
ファング・アレクサンドラが、自らの王道を否定した。
「……今が、こうなっているように……」
ファングはアルテミスの手首を離した。
「力なきお前にできることは、調和をとることだ。それは余にはできない。お前にしかやれぬことだ」
「……はい」
アルテミスは膝をついた。
「父上、私は……王になります」
震えた声だった。
それでも、確かに部屋へ響いた。
ファングは満足げに目を細めた。
「それでよい」
「けっ、そんなことで国がまとまるか。圧倒的力が、力が潰えるのなら、力で補うべきだろうが」
アルテミスの顔が引きつる。エースが天を仰いだ。
「ナイトメア、来い」
「嫌だ」
「……ナイトメア」
「近づいてどうする。手でも握れと言うのか。死にかけの男相手に、そんな趣味はない」
ファングは笑った。
「相変わらずだな」
「お前がそう作ったんだろう」
ナイトメアの声には、怒りがあった。苛立ちではない。憎悪でもない。もっと深く、もっと幼い場所にある感情だった。
「お前は……余の罪だ」
「ふざけるな!」
ナイトメアは少しだけ、寝台へ近づいた。
「俺はこの力を得たことに後悔はしていない! 貴様に認めてもらうために、この国に自分を認めてもらうために! この力で、まだ貴様に何も返していない!」
「ならば、それは余ではなく、ドミニオン王国に返せ……」
ファングの目が、ナイトメアを射抜いた。
「罪を……余の代わりに、償うのだ……」
「何をしろというのだ」
「アルテミスを……認めてやってくれ」
ファングは息を吸った。
「お前にしかできぬ仕事を……しろ」
沈黙が落ちた。
ナイトメアは何も言わなかった。
ファングは、そこで大きく咳き込んだ。血が唇の端から流れる。治癒術師たちが一斉に動くが、マックスが手で止めた。
もう、治す段階ではない。誰もがそれを理解していた。
ファングの呼吸が細くなる。
エースが寝台の横に膝をつき、アルテミスが反対側で手を握った。
ナイトメアだけは、最後まで王を見下ろしていた。
ファングの目が、もう一度だけ開く。
そして、壁の肖像を見た。若き日の自分が、そこにいた。誰よりも強く、誰よりも傲慢で、誰よりも国を信じていた頃の自分が。
「……余は、よく戦ったか」
誰に向けた言葉なのか、わからなかった。
「誰よりも……」
マックスが答えた。
「誰よりも強く、誰よりも長く、誰よりも誇り高く……」
「ならば、よい」
外で、風が鳴った。
王城ヴァルメイアの高塔を抜ける夜風が、まるで遠い戦場の声のように響いていた。
「聞け」
かすれた声だった。
「ドミニオンを……終わらせるな……余の名に縛られることはない……お前たちの国として、生かせ」
ファングの指先から、力が抜けていく。
アルテミスがその手を握り返す。
「父上!」
「アルテミス……王になれ……」
その場にいた全員が、息をのむ。もはや、視線を動かすことすらできないファングが、全体へ向けて最後の力を振り絞り「生きろ」とそれだけ言った。言ったように、聞こえただけかもしれない。
その言葉を最後に、覇王の瞳から光が消えた。呼吸が止まる。
誰も動かなかった。
ほんの一瞬、世界そのものも息を止めたようだった。
治癒術師が震える手でファングの首筋に触れ、しばらくして床に膝をついた。
「……ファング・アレクサンドラ陛下、崩御にございます」
その瞬間、アルテミスの喉から声にならない音が漏れた。
王になると叫んだばかりの少年は、父の手を握ったまま、子供のように泣き崩れた。涙が許されるのは、この日だけだと知っていた。
エースの翼がわずかに震えた。六枚の白翼は光を失ったように垂れ、彼は寝台の横で深く頭を伏せた。泣きじゃくるアルテミスを、見ていられないかのように目を背ける他の将と違い、エースはしっかりと見つめていた。
ナイトメアは、ただ見ていた。死体になったファングを。自分を生み、自分を捨て、自分に生きろと言い残した男を。
「……勝手なことばかり言いやがって」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
だが、エースだけは聞いていた。
ナイトメアの赤い瞳に、涙はなかった。彼は泣けない。泣き方を知らない。
だから代わりに、暗黒の拳を握った。暗い靄が闇掌に食い込み、黒い魔力が滲む。怒りなのか、悲しみなのか、自分でもわからないものが胸の奥で暴れていた。
夜明け前の王城に、二つ目の鐘が鳴った。今度の鐘は、一日の終わりを告げるものではない。
王の死を告げる鐘だった。
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