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三つの感情

 息を吹き返したミルドレットは、焦燥感で打ちひしがれていた。


 自分の命と引き換えにグォドレイを失った悲しみが、余りにも深かったのだ。


 アレッサは勿論、ニールの前でもいつも通りの元気な振る舞いをするものの、殆ど食事を口にせず、日に日に(やつ)れていった。


 魔法薬の調合に使う道具類を全て片付け、ニールはグォドレイを思い出しそうな物全てをミルドレットの前から排除しようとした。

 だが、夜になれば浮かび上がる月が、ミルドレットとグォドレイが初めて出会った日の思い出を強制的に蘇らせてしまう。


 月明かりが眩い草原を、必死に駆けていたミルドレットに、優しく手を差し伸べてくれた男の事を……。


 耳で揺れるピアスの音を聞く度。

 深い紫色を目にする度。


 ミルドレットの脳裏には寂しげに笑みを浮かべる男の姿が現れる。


 思い出したくて。

 思い出に縋りたくて。

 それだというのに彼の命を奪ってしまったのは自分なのだという、気が狂いそうな程の罪悪感に苛まれるのだ。


「お願いですミルドレット。少しは何か口にしてください。このままでは、折角グォドレイが貴方を救ったというのに、無駄になってしまいます」


 ニールに懇願され、「解った。心配かけてごめんね」と僅かに微笑んで食事を口に含んでも、受け付けず吐き出してしまう。


——情けない。折角、お師匠様が助けてくれたのに……。


 そうやって、更に自分を責めて打ちひしがれていくのだ。


 その日は雨が降りしきり、厚い雲に覆われて月の光が届かない日だった。


 雨音に耳を傾けながら、暗い部屋の中で独りベッドの上で膝を抱えて座っていると、微かに呼ぶ声が聞こえてミルドレットは応えた。


「……誰?」


『ああ、紫焔の弟子だね。私の声が届いて良かった。居場所が分からなくてね。魔道具を頼りにしてみたのだが、正解だったようだ』


 ミルドレットにはその声に聞き覚えがあった。


「ハリエットさん……?」

『ああそうだ。少し話がしたい。お前を召喚したいのだが、良いだろうか?』


 ハリエットはグォドレイ相手には否応なしに強制召喚をする癖に、ミルドレットには気遣って確認をとる様だ。


 話とはきっとグォドレイの事であるに違いないと、ミルドレットはすぐさま承諾した。

 その瞬間、パッと光がミルドレットを包み込み、暗いヒュリムトンの王城の一室から瞬時にして明るい部屋へと移動させられた為、あまりの眩しさに瞳を閉じた。


「すまない。私の(ねぐら)は魔道具で照らしているのだ。夜でも眩い程に明るいが、怖い物は何も無い。安心してくれ」


 優しくかけられた言葉に恐れを抱く事無く瞳を開けると、丸く白い石の様な物が宙に浮かび、室内を照らしている様子が見えた。

 小洒落た家具や装飾品が飾り付けられ、床には豪華な毛皮の敷物が敷かれている。


「寒くはないか? ここは人が足を踏み入れるには難儀する険しい山の頂上なのだ。紫焔は氷の城と呼んでいた」


 白銀の髪を揺らし、サファイアの様な瞳を細めてハリエットが言った。だが、ミルドレットが頷く間もなく、悲し気に眉を下げて溜息を吐いた。


「泣いては駄目だ。お前が泣くと、紫焔も泣いてしまうのだから」

「あたしが泣くと……? でも、お師匠様は……」


 ハリエットがパチリと指を打ち鳴らした。ミルドレットの胸の前に、グォドレイへと贈った指輪が現れた。大粒のアメジストに寄り添う様にサファイアが嵌めこまれた、まるでグォドレイとミルドレットの二人を象徴するかのようなデザインだ。


 だが、アメジストに亀裂が入っている様子が確認できた。輪の形も歪んでいる。


「それは、紫焔から預かったものだよ。お前の前から去った後、紫焔は私の元へと訪れていたのだ。嫌に寂しげな顔をしていたものだから、どうしたのかと尋ねたが、『愛弟子を嫁に出しただけだ』と笑っていた。『弟子に振られたのかザマミロ』と言ってやったのだが、寂しげな割にはどこか嬉しそうでもあったのでね、気になって仕方が無かった」


「違うの、ハリエットさん。あたしはお師匠様と一緒に居たかったの! でも、断られちゃったから仕方なく指輪を……」


 ハリエットは瞳を細めて唇を横に引くと、小さく頷いた。


「解っているよ。紫焔のピアスが片方無かったからね。けれど、お前が私に頼んでいたこの指輪を、紫焔は大事そうに指に嵌めていた」


 すっと人差し指を動かすと、宙に浮いていた指輪がハリエットの方へと飛んでいき、開いた掌の上へと受け止められた。


「お師匠様は、どうしてその指輪をハリエットさんに預けたの? 気に入らなかったのかな……」


「壊れてしまったからさ。修復を依頼されたのだ。この魔道具の効果は紫焔をお前から解放させる為のものだ。だが、まさかこんなに直ぐに壊れるとは思いもしなかった。紫焔のお前への愛が強すぎたのだろう」


 相手への想いが強いからこそ、その生命に危機が訪れたのならば強制的に召喚される事を望むのだ。その想いの力を弾き返すには、相当の反動がのしかかる。


「少々悔しくも思う。強固に作ったはずだというのに、私は死にぞこないとなった紫焔にすら追い付かない。それ程に、紫焔は魔導士の中でも抜きんでているのだ」


「……お師匠様、怒ってた?」


 ミルドレットの問いかけに、ハリエットは笑みを浮かべながら「ああ、とてもね」と言って頷いた。


「亀裂が入った事を不審に思ったのだろう。この指輪は一体どんな効果があるんだ、と紫焔に詰め寄られてね。仕方なく伝えたら、そんな効果は望んでなんかいない、酷い弟子だ、といじけていた」


「でも、あたしの側を離れると決めたのはお師匠様なのに。あたしはその希望を叶えたいって思ったの」

「紫焔は、自分からはお前の側を離れる事を望んだくせに、お前から自分の側を離れる事を良しとはしないのだろう。我儘な奴だ」


 声を洩らしてハリエットは笑うと、指輪を見つめながら肩を竦めた。


「だが、こうして修復を依頼しにきたところを見ると、お前からの贈り物がよっぽど嬉しかったのだろう。複雑そうな顔をしていたよ」


 ハリエットがパチリと指を打ち鳴らすと、今度はグォドレイがいつも持ち歩いていた煙管が現れた。


「それ、お師匠様が大事にしてた煙管。一体どうして……?」

「これは、お前の母オーレリアが紫焔に贈ったものだ」

「お母様が……?」


 ハリエットは丁寧に煙管を指先で持つと、寂しげに見つめた。


「紫焔は、もう忘れることにすると言って置いて行ったのだ。ここを記憶のゴミ捨て場だとでも思っているのかと不満を伝えたのだが……」


『そうじゃねぇよ。もう、俺の居場所が何処にもなくなっちまったんでな』


 そう言って笑いながら肩を竦めたグォドレイの姿を思い出し、ハリエットは溜息を吐いた。


「……少し、話をしようではないか。紫焔の弟子」


 ハリエットはパチリと指を打ち鳴らした。ミルドレットの側にあったテーブルの上にワインの瓶とグラスが現れたが、「いや、そうではないか」と呟いて再び指を打ち鳴らした。

 ワインの代わりにティーセットが現れて、ふんわりとハーブの香りが漂っている。


「さあ、椅子に掛けて」


 そう言うと、ハリエットは自らも豪華な毛皮が敷かれた椅子へと腰かけた。


「……ハリエットさん。ごめんなさい」


 椅子に掛けて開口一番、ミルドレットが謝罪した。ハリエットは片眉を吊り上げて「何故謝るのだ?」と問いかけた。


「あたしのせいで、お師匠様が……」


 ボロボロと涙を零すミルドレットに、ハリエットは溜息をついた。


「泣いてはいけないと言ったはずだ。お前が泣けば紫焔も泣くと」

「でも……止まらないの……!」


 肩を震わせて痛々しく涙を零すミルドレットを見つめ、ハリエットは自分の胸が痛んだことに驚いた。


——成程、私の中に宿る紫焔の魔力が影響しているのか。

 つまりはそれ程に、紫焔はこの娘を愛していたということか。


 ミルドレットを慰める為に触れようと伸ばした手がピタリと止まった。不思議に思って自分の手を見つめた後、もう一度ミルドレットに向けて伸ばそうとすると、触れるすんでのところでピタリと止まる。


「そうか、紫焔。それ程に私がこの娘に触れるのが嫌か!」


 突然笑いながら言ったハリエットに驚いて、ミルドレットは顔を上げた。


「よく聞け、紫焔の弟子。お前の行動次第では、紫焔は蘇るだろう」


 ハリエットの言った言葉に、ミルドレットは耳を疑った。


 脳裏に浮かぶグォドレイの様々な表情に、また出会える希望と自分のせいで失ってしまった罪悪感とが入り混じり、直ぐに言葉を発する事が難しかった。


「……本……当に?」


 やっとの思いでそう言うと、ハリエットは頷いた。


「ただ、それにはお前の努力が必要不可欠だ。何年先になるかも見当がつかない」

「なんだってするよ! お師匠様が帰って来るなら、なんだってする!! どんなにかかってもいい!!」


 ミルドレットは立ち上がり、自分の胸に手を当てて誓いをするかの如く叫んだ。


「お願い、ハリエットさん。あたしは何をすればいいの? 教えて!!」


 さらりとミルドレットの銀髪が肩から零れた。痛々しい程に涙を流すミルドレットをみつめながら、ハリエットは寂しげに笑みを浮かべた。


「まずは、泣いてはいけない。お前が泣くと紫焔も泣く」


 ミルドレットはハッとしてハンカチで顔をゴシゴシと擦ると、「もう泣かない!」と言って素早く椅子に座った。涙をこらえる為にか、膝の上でぎゅっと握りしめられた拳が震えている。

 その健気な様子が可愛らしく、ハリエットは思わず笑ってしまった。


 自分の中のグォドレイが喜んでいると感じた。


「いくつか質問をするが、それによってお前は傷つくだろう。それでも構わないか?」

「全然大丈夫!」


 何でも来いと頷くミルドレットに、ハリエットは試す様に片眉を吊り上げた。


「紫焔は何故、お前の前から姿を消したのだ?」


 ミルドレットは唇を噛みしめて、首を左右に振った。


「わからないの。あたしはお師匠様と一緒に居たいって言ったのに、ヒュリムトンの王太子妃になるべきだって拒絶されたから……」


 ミルドレットはニールとの事、ヒュリムトンの王太子妃となる為の選抜レースに、グォドレイが協力的であった事を含めて説明をした。

 ハリエットは相槌を打ちながら真剣な眼差しを向けて、少しの情報も逃さぬ勢いで聞いていた。

 グォドレイは自分の事を語ろうとしない性分だ。だからこそ、彼を救う為の手立てをミルドレットから聞き出す必要があるのだ。


 魔導士の魔力が精神的な影響を顕著に受けるのだから、何が災いしてグォドレイの魔力があれ程に低下してしまったのかを知る必要があった。


「成程ね」


 ミルドレットが話し終えた後、ハリエットはため息交じりに言った。


「解っていた事だったが、これではっきりした。やはり紫焔の『喜び』はお前が幸せになることのようだ」


 不思議そうに小首を傾げたミルドレットに、ハリエットは言葉を続けた。


「紫焔の復活には三つの感情が必要だ」


 そう言って、ハリエットは自分の胸を指さした。


「悲しみがここに」


 グォドレイがいつも持ち歩いていた煙管を指して、「怒りがここに」と言った後、ミルドレットの胸を指さした。


「そして、喜びがそこに」


 ミルドレットはそっと自らの胸に触れ、「喜び?」と呟く様に言った。


「お前の中にある『喜び』の心だけが、解放されずに留まっている。理由は解るか?」


 ミルドレットはハッとして唇を噛みしめた。


「……あたしが、泣くから? お師匠様を失って悲しくて堪らないから」


 頷いて、ハリエットは寂しげに微笑んだ。


「流石紫焔の弟子だね。その通りだよ。だから、紫焔に帰って来て欲しいのならお前が幸せになる必要がある。悲しみや怒りを捨て、喜びに満ち溢れなければならない。紫焔はお前を幸せにする為に約束した事を守る事ができなかった。そこがどうにも引っ掛かっているようだ。律儀にどんな些細な約束事も守る性分だからね」


「約束……?」


 ハリエットは頷くと、ミルドレットの背を指さした。


「紫焔は、お前と出会った日、傷を治療してやると言ったのだろう? 傷を癒す事がお前の幸せに繋がり、紫焔の喜びに繋がる」

「でも、ニールと再会しなければ、あたしは傷痕の事なんか気にしなかった。再会しなければ良かったの……?」


 もしもニールが洞窟の掘っ立て小屋を訪れなければ。あのまま、何事もなかった様にずっとグォドレイと幸せに過ごしていたに違いないと考えて、ミルドレットは眉を寄せた。


「それは違うよ」


 ハリエットは笑みを向けてそう言うと、肩を竦めた。


「紫焔の事だ、魔法障壁の検知でお前がヒュリムトン王太子に攫われた事に直ぐ気づいたはずだよ。だから、知っていてそれでも尚お前との約束を果たす為にわざと静観していたのだ」


「でも、それならどうしてヒュリムトンの王城に、お師匠様はあたしを迎えに来たのかな……?」


 ハリエットは頷くと、「私にもそこがよく分からない」と言ってため息をついた。


「お師匠様は迎えに来た割には、王太子妃選抜レースにすごく協力してくれたの」


 チラリと、ハリエットは宙を見つめた後、ミルドレットへと視線を戻した。


「お前がヒュリムトンの王城からグォドレイの元に帰ろうとした、とかはないだろうか?」


 それを聞き、ミルドレットはドキリとした。

 お茶会で背中の傷痕を晒されて、ミルドレットの心は悲しみ壊れてしまいそうな程に引き裂かれていた。そんなミルドレットを見かねて、ニールはグォドレイの元へ送ると言ったのだ。


「……そうかも。確かに、そんなタイミングだった。じゃあ、初めから迎えに来たんじゃなく、王太子妃選抜に協力してくれる為に来てくれたんだ」


 ミルドレットの言葉に、ハリエットはうんざりした様に深いため息を吐いた。


「全く。本当に厄介な奴だ紫焔は。お前を手放しておきながら、放っておくことはできず、その癖お前の心を少しは自分にも向けて欲しいとジレンマに陥っていたということか。ならば心の傷など忘れてしまう程に愛してやれば良かったものを!」


 ハリエットがそう言った途端、二人の心が妙にむず痒くなった。

 恐らく、グォドレイが自分の行動を暴かれて気恥ずかしくて堪らなくなっているのだろう。


 ミルドレットが堪らず、クスクスと笑った。


「お師匠様、なんだか可愛い」


「いつも格好つけてばかりいる紫焔が、お前相手ではこうも間抜けになってしまうのだから私は複雑だよ。だが、人との関わりを絶っていた紫焔が、お前の為に積極的に人と関わり金を稼いで国まで買った。ヒュリムトン王太子とお前との間にある強い絆は理解できるが、紫焔なりに努力したのだと認めてやって欲しい」


 ミルドレットは頷くと、「勿論、解ってる」と微笑んだ。


「お師匠様に愛されてたんだって解って、あたしは凄く嬉しいもの。だからこそ、居なくなってしまって悲しくて堪らないの」


 泣きそうになったのをぐっと堪えて唇を噛みしめたミルドレットに、ハリエットは微笑んだ。


「私と二つ程約束してくれないだろうか」


 ミルドレットが力強く頷いて、「何でも約束するよ!」と張り切った声を上げた。


「まず一つは、決してそのピアスを外さない事」

「わかった。絶対に外さない!」


 ミルドレットの頷く様子が健気で、ハリエットは口元が綻んだ。


「そしてもう一つ。ヒュリムトン王太子とお前との間に、子を儲けること」

「……え」


 ハリエットのその言葉に、ミルドレットはサファイアの様な瞳を見開いた。


「どうして……?」

「紫焔はお前の幸せだけを望んでいるからだ。そして、お前以外に紫焔を幸せにできる者などいない」

「子供を産む事が、どうしてお師匠様の幸せに繋がるの?」

「間違ってはならない。愛する者との間に子を儲けるのだ」


 ハリエットは寂しげに笑みを浮かべた。


「生命の誕生程に喜びに満ち溢れる瞬間というものは無い。それは、紫焔がまだ味わったことのない喜びだ」


 喜びに満ち溢れる……。


 愛する人の子供を産むことで…………。


「そんなこと、あたしに赦されるのかな……?」


 不安げに言ったミルドレットに、ハリエットは「勿論」と笑みを浮かべた。


「そうでなければ、紫焔は帰って来ない」


 サファイアの様な瞳を細め、ハリエットはミルドレットに懇願するように言った。


「私の為にも頼む。紫焔が居ないと寂しくて堪らない」


 悲しみに耐える様に声を震わせるハリエットに、ミルドレットは胸を痛めた。

 グォドレイとは同じ魔導士であるということもあり、随分と長い付き合いに違いない。永遠とも言える程に長寿であるが故に、孤独を分かち合って生きて来た同士を失えば、悲しみや寂しさ、喪失感に苛まれるのは当然の事だろう。


 それに、ハリエットは『私が一方的に紫焔に想いを寄せているというだけだ』と、ミルドレットに自分の心の内を明かしている。


 泣く事のできないニールの代わりに泣く必要はもう無くなった。

 今度は心の底から二人で笑い合うのだ。


「解った。ハリエットさん、あたし、あたしの中に居るお師匠様に喜びを教えるね。お師匠様は自分の幸せを蔑ろにしてばかりだったから」


 ふわりとミルドレットが微笑んだ。

 その微笑みが余りにも美しく、ハリエットの目には空から舞い降りた女神かのように思えた。


——もしかすれば、本当に女神なのかもしれない。

 彼女は紫焔だけではなく、私をも救ってくれるのだから。


「でも、なんだか複雑な気分なのは確かだね。あたしはお師匠様の事だって愛する人だと思ってるのに、お師匠様の子供を産むわけじゃないんだもの」


 ミルドレットがその言葉を放った時、ハリエットは高揚する気分を味わった。恐らくグォドレイが喜びを感じたのだろうと推測し、思わず吹き出した。


「どうしたの? ハリエットさん」


 突然笑いだした事を不思議に思って小首を傾げたミルドレットに、ハリエットは悪戯心が芽生えてニヤ付きながら問いかけた。


「紫焔の弟子、教えて欲しい事があるのだけれど良いだろうか?」

「うん、何でも聞いて」


 ハリエットは笑いを堪えながら問いかけた。


「例えばの話だが、紫焔と夫婦になったとしても、お前は『お師匠様』と呼ぶのか?」

「……へ?」


 キョトンとした後、ミルドレットは小首を傾げた。


「どういうこと?」

「紫焔は人を愛称で呼ぶのが好きだった。私の事はいつでもハリエットとしか呼んでくれなかったが」


 それは恐らく、グォドレイへの気持ちを察してわざと一線を引いていたのだろう。

 ハリエットはにやけながら、「『レイ』と呼ぶのはどうだ?」と、ミルドレットを見つめた。


 ハリエットの提案に、ミルドレットは満面の笑みで頷いた。


「それ、とってもいいかも! あたしもお師匠様に初めて愛称で呼ばれて嬉しかったもの!」

「そうだろう? 練習がてらここで告白でもしてみたらどうだろうか」


 ハリエットの悪戯心など知る由もなく、ミルドレットは素直に頷くとすぅっと息を吸い込んだ。


「レイ、愛してる!」


ドクン!!


 ハリエットとミルドレットの中で同時に心臓が強く鼓動した。


「そうか、紫焔。そんなに嬉しいか! お前の愛情は、いつも悲しみしか生まなかったが、喜びも生まれるのだということだ」


 声を上げてハリエットが笑い、ミルドレットもつられる様に笑った。


◇◇


 朝日が差し込む室内で、ミルドレットはぐっと伸びをした。

 ハリエットの魔術でヒュリムトンの王城へと送り届けて貰ったわけだが、グォドレイの話で盛り上がりすっかり話し込んでしまったのだ。


 扉のノックする音に返事をすると、一瞬躊躇った様な咳払いをした後にニールが顔を出した。


 ミルドレットは「ニール、おはよう!」と笑顔で出迎えた。


 そんな彼女の元気な姿を久方ぶりに目にした為、ニールは扉のところで足を止めたままピクリとも動かなくなってしまった。


「朝ごはん出来たの? お腹空いちゃった」


 ミルドレットの言った言葉を聞きながら夢でも見ているような気分になって、ニールは唇を噛みしめた。


「……はい。準備が整っています。何でもお好きな物を召し上がってください」

「ありがとう。一緒に食べよう?」


 頷くと、ニールの瞳から溢れた涙がポタリとカーペットに零れ落ちた。

おまけエピソード



「ねぇ、ニール。お願いがあるんだけど」


 食事をしながら問いかけるミルドレットを幸せそうに見つめながら、ニールは「ええ。何でも言ってください」と答えた。


 ミルドレットの元気な様子を再び見る事が出来て嬉しくて仕方が無いのだ。どんな願いでも叶えてやるつもりで、ニールは笑みを浮かべてミルドレットの言葉を待った。


——どんなに高価な物だろうと、どんなにか入手困難な物だろうと、貴方の為ならば必ず手に入れます!


 そう意気込んで、ニールはゴクリと水を飲んだ。


「あのね、あたし子供が欲しいの……」


ブ————ッ!!


 盛大に水を吹いて、ニールは咽た。


「ちょっ! 大丈夫!?」


 慌てて席を立ったミルドレットに、ニールはケホケホと咳き込みながら手で制した。


——冷静になれ!! 勘違いをするな。ミルドレットは恐らくいつもの天然だ!


「す、すみません。勘違いをしました。えーと、子猫か子犬ですか?」


 冷静を装って言ったニールに、ミルドレットは困った様に片眉を下げた。


「子猫? そうじゃなくて。あたし、ニールの赤ちゃんを産みたいんだけど。駄目かな?」

「……」


 ニールは押し黙ったまま席を立つと、食堂室の壁の方へと向かった。


 何をする気なのだろうかとミルドレットが不思議そうに見つめていると、突然壁に向かって頭突きを繰り広げたので、「ニール!?」と悲鳴を上げた。


 だらだらと額から血を流しながら「痛いので夢では無さそうですが、幻聴が……」とぶつぶつと呟くので、ミルドレットは慌てて首を左右に振った。


「あたし、そんなにおかしなこと言った!? ニールとの赤ちゃんが欲しいって言っただけでしょ!?」

「おかしいでしょう!!」

「どうして? もうずっと一緒に居るんだから、別にいいよね!?」


 ニールは混乱する脳内で必死に考えた。


——ずっと一緒に居るならば良いのか? いや、正式に夫婦となったわけでもなく、突然子作りしようと言い出すミルドレットが絶対におかしい!


「いいえ、やはりおかしいです!」


 ニールの言葉にミルドレットが頬を膨らませた。


「嫌なの!?」

「嫌なはずが無いでしょう!! 何を言うんです!?」


 ヒュン! と、一瞬のうちにミルドレットの側へと来て両肩に手を乗せると、ニールは諭す様に静かに言った。


「ですが、まずは貴方の体調をしっかりと戻してください。先の事はそれからです!」


 すっとミルドレットが視線を落とした。すっかりとやせ細り、鎖骨が浮き出た身体は胸のボリュームも減りドレスがスカスカに浮いている。


「あたしに色気が無いから嫌なの?」

「違います!」


 慌てて否定した後、ニールは少し考えて言い直した。


「……そうですね、もう少し肉付が良く無ければ」


 そう言った方がミルドレットは食事を摂る様に努力するだろうと踏んだのだ。


「あっそう! 解った。丸々太ってやるんだからっ!」


 ミルドレットはニールの側を離れてテーブルに掛けると、パクリと料理を口に運んだ。


——全く、急に元気になったのは良いが、言い出す事が相変わらず突拍子もない。


 ため息をついてニールはテーブルへと戻ると、ミルドレットを見つめた。

 暫くミルドレットの食べる様子を見つめた後、ふと過った疑問を口にした。


「……子を儲けたいのは、ひょっとしてグォドレイの為ですか?」

「うん。そうしたら、お師匠様が蘇るかもしれないんだって」


 サラリと答えたミルドレットに、ニールは複雑になって俯いた。


——やはりそうか。ミルドレットの気力が戻るならば何でもしたいという気持ちはあるが……。


「あたしが愛する人との子供を産む必要があるんだって」


 ミルドレットの言葉に、ニールは顔を上げた。


「愛する人……?」

「そう。だから、ニールとの赤ちゃんが欲しいの」

「……!」


 顔を真っ赤にしたニールを見つめ、ミルドレットは不思議そうに小首を傾げた。


「どうしたの? ニール」

「いえ。その……嬉し過ぎて、顔が壊れてしまいそうです」

「嬉しいと顔が壊れるの!? そしたらあたし、毎日壊れてなきゃいけなくない!?」


 素っ頓狂な声を上げたミルドレットに、ニールは笑いながら頷いた。


「ええ。毎日、一緒に壊れましょう」


 優しく微笑むニールを見つめて、ミルドレットは困った様に笑った。


 ヒュリムトン王城の離れにある食堂室で、笑い声が響くのは初めてのことだった。普段は暗く感じる室内だというのに、差し込む光が眩く感じる。


 まるで二人の門出を祝福するかのようだった。

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