癒ゆる色
自国内に於ける、ルーデンベルン国王アーヴィングとその娘である第二王女ミルドレットの死亡という事件に、ヒュリムトンの王城は混乱に陥った。
至急、早馬を飛ばし状況の説明を試みたものの、一向にルーデンベルン側からは音沙汰が無かった。
不審に思い使いを出したところ、とんでもない事実が明るみとなった。
ルーデンベルンの全ての土地が、何者かに買い取られていたのである。
ヒュリムトンは総力を挙げて調査し、特徴の一致からその全ては紫焔の魔導士グォドレイによるものであると判明した。
ルーデンベルン国王がヒュリムトンへと拉致されている隙に城までもを買いたたかれ、アーヴィングの遺体と共にアリテミラも帰る場所を失った。
ルーデンベルンという国は、事実上無くなったのだ。
グォドレイはそれを武力行使することなくやり遂げる事によって、ミルドレットの心の傷の元凶である地を葬り去ったのである。
それは恐らく、グォドレイ自身のアーヴィングに対する報復でもあったのだろう。
ミルドレットはヒュリムトンにて葬儀を行う事となったが、不思議な事に、彼女の遺体は死後数日経っても美しいままで、いつ瞳を開けてもおかしくはないという程だった。
彼女の耳に付けられた師から譲り受けたピアスが、なんらかの魔術を発揮しているのだろう。
ニールは王城の離れにある王太子の私室に、ミルドレットの遺体と共に引き籠ってしまった。
愛する彼女の遺体から片時も離れずに寄り添い、冷たくなった手を握ったまま動こうとしないのだ。
白銀の仮面を被る事を止め、誰の言葉にも耳を貸さず、ただただミルドレットに寄り添うだけのニールの様子に、ドワイトはうんざりした。
これでは役に立たないと、デュアインを王太子にすると決めた様だったが、ニールにとってそんなことは最早どうでもいいことだった。
彼がヒュリムトン王太子の地位を受け入れたのは、それによりミルドレットと共に色のある世界で生きることができるかもしれないという、ただそれだけの願いによるものだったからだ。
幾筋もの涙の跡が乾ききる前に、とめどなく涙が頬を伝う。
まるで、今まで流してこなかった分を全て取り戻しているかのようだ。
ニールの脳裏に浮かぶミルドレットは、どの顔も笑顔で満ち溢れているというのに……。
彼女の居ない世界は暗黒の世でしかない。
生きる気力も失い、遺体に寄り添ったまま自分の死を待つ、最早屍となんら変わりのない状態だった。
「……よぉ、ニコニコ仮面」
窓から深い紫色の髪の男がふわりと入って来ると、縁へともたれかかった。
「お前さんが遺体を離そうとしねぇもんだから、ミリーの葬儀が上げられねぇってんで皆困ってるみたいだぜ?」
チラリとアメジストの様な瞳を向けた後、グォドレイは肩を竦めて言った。
「ニコニコ仮面が、しくしく仮面になりやがったな。どっちにしてもとてつもなく厄介な野郎だぜ」
溜息を吐いて窓の縁からひょいと飛んで室内へと入って来ると、ミルドレットの遺体の傍らで項垂れたまま身動き一つしないニールを見下ろした。
そして、暫く黙って佇んだ後、ふいにニールの服の襟首を掴んだ。
「俺様は忠告したはずだぜ? 何が何でも、死ぬ気でミリーを守れってな。アーヴィングの野郎も殺すなと散々言っただろう!! それだってのに、このザマは何だっ!? 俺の魔術すらぶち破る異常な精神力を、無駄に使いやがって!!」
ニールは一切の抵抗を見せず、グォドレイの怒りを受け入れていた。人の心を取り戻したというのに、ただただ涙を流し続けるだけのニールの様子に、グォドレイは苛立った。
「腑抜け野郎めっ!」
舌打ちし、グォドレイは投げ捨てる様に掴んだ手を離した。
「……何故、言ってくれなかったのです?」
ニールが掠れた声を発した。
「アーヴィングを殺す事で、彼女の命も失うと、何故言ってくれなかったのです?」
涙を垂れ流し、壁にもたれかかりながら言ったニールを一瞥し、グォドレイは溜息を吐いた。
「確証が無かった。お前さんにとって『最も尊く大切にしている命』が、ミリーじゃない可能性だってあっただろう。それは自分自身もよく分かってる事のはずだ。お前も自分が死ぬもんだと思ってたくせによ。俺のせいにするんじゃねぇ」
舌打ちをすると、グォドレイはアメジストの様な瞳でニールをみつめた。
「複雑な気分だぜ。お前さんのミリーに対する気持ちは証明された訳だからな。だが、そのせいでミリーは死んだ」
ニールは、ふ……と声を洩らすと、壁に拳を叩きつけた。
「私が彼女を愛さなければ……。ミルドレットは死ぬ事など無かったのですね……!」
「それは違う。例えアーヴィングと共にお前さんが死んだとしても、ミリーは深い心の傷を負って生きていけなくなっただろうからな。だから忠告したんだ」
ため息をつき、グォドレイは悔し気に言葉を続けた。
「アーヴィングを憎む気持ちも理解できるが、あの男が居なければミリーがこの世に生まれる事も無かった。そいつを、お前にも理解して欲しかったんだが」
ニールは俯くと、首を左右に振った。
「あの男には憎しみしかありません。私は、貴方の様に感謝するなど到底不可能です。出会わなければ良かったんです。私の様な暗殺者などと……!」
「ホント、お前は何でもぶっ殺しゃあ済むと思うおっかねぇ殺人鬼だった。だけどな、ニコニコ仮面」
グォドレイは悲し気にニールを見つめた。
「お前さんが居なければ、ミリーの奴はもっと昔に死んでいただろうさ。鞭打ちの苦痛に耐えられたのは、お前という存在があってこそだ。独りじゃ耐えられない程にあいつの心は深く抉られ傷ついていたんだからな。俺はずっと、感謝していたんだぜ? 『飴玉のニール』にな」
ため息を吐き、瞳を伏せると、グォドレイは言葉を続けた。
「俺は、あいつの心を救う為に記憶を薄れさせる事しかできなかった。お前さんに会って全部思い出しちまったけどな」
そして横たわるミルドレットの傍らへと赴くと、寂し気に見つめた。
「だからこそ、過去のトラウマにもお前さんと二人なら打ち克てると思ったんだが。俺の見当違いだったのか」
グォドレイの言葉に、ニールは涙を零しながら言った。
「いいえ。ミルドレットは打ち克ちました」
毅然としたサファイアの瞳を真っ直ぐとアーヴィングへと向け、勇敢に立ち向かうミルドレットの姿は美しかった。
「……ですが、オーレリア妃がアーヴィングと結んだ契約の魔術の事を聞いたのです」
「リアが、アーヴィングと契約の魔術を?」
振り返ったグォドレイに、ニールは頷いて言葉を続けた。
「ミルドレットが修道院から逃げ出したのならば、オーレリア妃の命が潰えると……」
「なんだって……?」
グォドレイは眉を寄せ、その整った顔をくしゃりと崩した。
オーレリアの国葬の時を思い出す。彼女はこれ以上無い程に安らかな死に顔だった。愛する我が子が修道院から——いや、恐ろしいアーヴィングの手から逃げ出せたのだと知り、安心して逝ったのだろう……。
皮肉なものだ。オーレリアはグォドレイの記憶を失っている。それがむしろ救いを求める術を失うことになっていたのだから。
開け放たれた窓から風が吹き込んで、ミルドレットの銀髪がさらりと額にかかり、グォドレイはそっと掻き分けてやった。
「……そうか。辛かったなぁ」
瞳を閉じたミルドレットの顔は、嫌気がさす程に安らかだった。
全ての辛さや苦しみから解放された代わりに、泣く事も喚く事も、笑う事さえもできなくなった虚無の存在となってしまったのだ。
「母親が自分を愛してくれていたと知ったと同時に、自分のせいで死んじまったなんて言われちまったら、耐えがたい悲しみだったろう……」
ため息を吐き、グォドレイは震える唇を動かした。
「俺の魔力を分けていたから、余計に干渉しちまった様だな」
オーレリアを失ったグォドレイの絶望すらをも背負い、ミルドレットはその負荷に耐えきれなくなって呼吸をすることすら難しかったに違いない。
ミルドレットの味わった苦しみを想像するだけで、グォドレイの心は潰されてしまいそうな程に痛んだ。
そっとミルドレットの頬に触れ、その冷たい感触にアメジストの様な瞳からポタリと涙を零した。
「一体、どれほど苦しんだんだよ。どれほど絶望したんだ。俺の気持ちまで背負わせちまってすまなかった。寂しくて堪らなかっただろう……」
ニールは虚ろな瞳で椅子に腰かけたままグォドレイを見つめていた。
ミルドレットはもう、二度と笑う事も泣くことも無い。どんなにか語り掛けようとも、彼女が帰って来ることなどないのだ。
「……ごめんなぁ。俺は、結局お前を救ってやれなかった。人は忘れる事が救いだったはずなのに。お前は何一つ忘れる事もできずに苦しんで、それでも必死に戦ってた。よく頑張ったと誉めてやらなきゃならねぇってのに……」
――今の俺には、お前を失った絶望しかない……。
「一人で頑張らせるつもりなんか無かった。……それなのに。くだらねぇ気持ちに居り合いが付けられず、ずっと一緒に居るって約束したってのに、手を離しちまって悪かった」
ミルドレットと出会ったあの日。グォドレイは二つの約束を交わしていたのだ。
一つは、ミルドレットの背の傷を癒す事。そして、もう一つは……。
『ずっと、あたしと一緒に居てくれるの?』
『ああ、ずっと一緒だ。お前さんが嫌にならねぇ限りな』
その約束により、ミルドレットは自らに危機が迫った時、無意識のうちにもグォドレイを召喚できるのだ。
だが、アーヴィングと対峙した時、ミルドレットがグォドレイを召喚する事は無かった。代わりに、グォドレイの右手の薬指に嵌められた指輪に亀裂が入った。
『ミルドレットからの解放』
グォドレイを束縛する事なく自由を与える事こそが、指輪の魔道具としての効果だったのだ。
もう二度と、悲しい程に優し過ぎるグォドレイを、自分のせいで傷つけたくはない。ミルドレットのその想いを知り、グォドレイは悲しみに暮れた。
「おい、ミリー……自由は、いくらなんでも悲し過ぎる贈り物だろう!!」
ポタリポタリと涙を零すと、グォドレイは言葉を続けた。
「寂し過ぎるじゃねぇか……」
安らかに眠るミルドレットは美しく、グォドレイは溢れる涙を擦っては彼女を見つめた。
——お前に求められた時、本当はどれほどに嬉しかったか。だが、愛しているからこそ、受け入れるわけにはいかなかった。
今だから痛いくらいにお前の気持ちが解る。求められない方が辛く、寂しいんだってことが。
俺は、お前が後悔しないようにと考えてばかりいたが。俺がこんなにも後悔する事になるだなんて思いもしなかったんだ。
「愛し過ぎちまったんだ。つくづく、厄介な感情だ」
ミルドレットの指に、ニールが贈った指輪が煌めいている。それを見てグォドレイは悲し気に笑い、眉を下げた。
「死が二人を分かつまでなんて言うけどな。死んだって、好きだって思う気持ちが消えるわけじゃねぇ。お前さんも言ってくれたよな? 死んじまったとしても俺の事を大好きだって。どんな気持ちでその言葉を聞いたか解るか?」
グォドレイはミルドレットの青白く冷たい頬を優しく撫でると微笑んだ。
「愛してる、ミルドレット。死んだって気持ちが変わらないのは、魔導士の俺だって同じだ」
そして、「だからこの命を、全部お前にくれてやる」と言って瞳を閉じた。
——ああ……そしたら、本当にずっと、一緒に居られるなぁ……。
すっと身を屈めると、ミルドレットに口づけをした。
ぽつり、ぽつりと、グォドレイの身体から光の粒が零れる様に宙へと浮かんだ。
——俺はこの瞬間を以前から望んでいたんだろうな。お前さんに解るか? ミリー。
グォドレイの身体は無数の光へと変わり、散る様にさらさらと消えていった。
彼の存在そのものが、まるで幻であったかのように。
ミルドレットの頬に薄っすらと赤みが差す。
「……お師匠……様……」
掠れた声を発したミルドレットに驚き、ニールは顔を上げた。ゆらゆらとダークグリーンの瞳が揺れる。
「待って、お師匠様。いやだ、消えちゃわないで!!」
「ミルドレット!!」
宙へと伸ばしたミルドレットの手を、ニールが握りしめた。
ハッとしたようにサファイアの瞳を開き、ミルドレットがニールを見つめた。
「ニール……?」
訝し気に眉を寄せるミルドレットの手を、ニールは自分の方へと手繰り寄せる様に引き寄せて、その手の平にキスをした。
「ミルドレット! すみません。貴方を苦しませてしまってすみません!」
大粒の涙をダークグリーンの瞳から零すニールを見つめ、ミルドレットは瞳を細めた。
「ニール、どうして泣いているの?」
「貴方を失ってしまったからです……」
その言葉に、ミルドレットのサファイアの様な瞳が揺れた。
「そっか、あたし……死んじゃったの……?」
ニールはぐっと唇を噛みしめて頷いた。
「私が、殺した様なものです……」
ニールの頬をつっと伝った涙が、ポタリとミルドレットの頬へと零れ落ちた。
「泣かないで、ニール」
震える手を伸ばし、ミルドレットはニールの頬に優しく触れた。その温もりを味わいながら、ニールはぎゅっと唇を噛みしめた。
「あのような恐怖を味わったのは、初めてです」
ふ、とミルドレットが力無く微笑んだ。息を吹き返したばかりで、身体が思うように動かないのだろう。
「そっか。怖がらせちゃって、ごめんね……ニール。お師匠……様」
すぅっと、ミルドレットは微睡む様に瞳を閉じると、静かな寝息を立てて眠ってしまった。
ニールはミルドレットの手をぎゅっと握りながら、祈る様に額に当てた。
「感謝します。グォドレイ……!」




