第126話 終わりは、次の始まり・・・それぞれの安息日
ジラクス族のミスモズとの和平交渉もスムーズに終え友好条約を結んだアラン達は、マリナシス卿とエイディオス卿と別れ、その足でハバド族とニンダラ族の村へ向った。
どちらもパドリアヌスが支配下に置いていたが、どちらも信心深く素朴でおとなしい部族なので、メメチャンバとして竜に乗って飛来したふたりを、畏怖の念を持って歓迎してくれた。
これで、パドラル国内の全27部族と和平友好条約を結ぶという、スチュアートリア帝国の使者としてのアランの任務は完了し、「オセロ作戦」は完全勝利の元に終了した。
しかし、ここからが本当の統一された独立国家パドラルとしての国造りの始まりとなる。
まずは、正式にスチュアートリア帝国との友好条約の契約書を持ってそれぞれの部族を再訪問せねばならない。
その時は、メメチャンバとしてではなくスチュアートリア帝国の内政執務大臣のアラン・クレオ・ハイデルベルト・スチュアートリア・レッドリオン公爵として皇太子のウィリアムを伴って訪問する予定である。
「ひとまず、ジャンバラン砦に戻りシオンに報告して祝杯をあげよう」
流石にタフなHoly Mageのトゥルリーとアランも、任務を完遂したという解放感からか、いつになく疲労感を感じていた。
だが、その疲労感も決して嫌なものではなく、心地の良いものに思えた。
「ああ、そうだな。トゥルリーとふたりでメメチャンバで良かったよ。俺ひとりだったら荷が重かった」
と、竜の背に乗りながらアランはトゥルリーに感謝した。
「そうか?俺はほとんど後ろに控えていただけだったぞ?」
「いや、トゥルリーが傍に居てくれると思うだけで心強かった。万が一、俺がミスをしたり、見逃していたりしたら、すぐに知らせくれるだろう?」
「ああ、それは昔からの俺の役目だからな」
いつだってトゥルリーは、当たり前のようにアランに付き従っているが、それは臣下して当然のことだと思っている。
だが、アランはそれを当然のことと思わずに感謝してくれる。
それだけでトゥルリーは満足だった。
先ほどまで全身を覆っていた心地よい疲労感ですらも、すっと軽くなるように思えるトゥルリーだった。
= ジャンバラン砦 =
「なんとか、暗くなる前に砦に帰還できそうだな」
足元の雲が徐々にうっすらと赤く染まり出し、砦に向かうアランとトゥルリーを乗せたの金鱗竜を、斜下から金色の陽の光が包む。
日暮れ少し前に、ふたりはジャンバラン砦に辿り着いた。
「オセロ作戦」の完了は、彼らよりいち早く砦に戻っていたアランの使徒のルークにより、シオン参謀長に伝わっていた。
彼らが金鱗竜を降下させ騎竜の着陸場に帰着させると、そこには、砦の全ての者が隊列を組み、見事に作戦を成功させて帰還した上官に敬意を示しながら待っていた。
その中には、オスカーとキース、ノアの顔もあった。
アランとトゥルリーが、竜の背から降りると、騎竜専属の騎士達が進み出て竜たちの手綱を取り、おつかれさまの竜たちを竜舎へ連れて行った。
アランが、出迎えの騎士たちの隊列の前に進み出ると
「無事ご帰還、および作戦成功おめでとうござます」
と、全員が敬礼してレッドリオン総司令官の帰還を出迎えた。
アランは軽く手を上げて
「出迎えありがとう。新年祭の休暇の期間だというのに異国のこの地に来て任務を遂行してくれた諸君もご苦労だった。諸君のおかげで無事にオセロ作戦を遂行できた。心から感謝する。今夜は、存分に食べて騒いでくれ!」
と、部下たちの働きに感謝を述べた。
すると、アランの到着と同時に後ろの施設内から現れて、トゥルリーと並んでアランの後方に控えていたシオン参謀が総司令官の横に進み出て言った。
「レッドリオン総司令官からの有難いお言葉です。今宵は、双子満月ではありませんが、料理長が存分に腕を振るってくれます。|深夜≪メディアノクス≫まで食堂を解放するので、好きなだけ酒を酌み交わして下さい。ここが異国の砦だということを忘れず、羽目を外し過ぎない程度に騒ぐことも許可します。」
新年の祭り期間もこの砦で任務に当たっていた騎士達は大いに喜んで歓声をあげた。
騎士達の歓喜の声を背にアランとシオンが施設の中に入って行き、その後ろからトゥルリーも付いて歩き出すと、背後から聞き覚えのある声がした。
「おかえりなさい、先生!」
と、言いながら嬉しそうにトゥルリーへ駆け寄って来たのは彼の教え子でもあるノアだった。
「先生、ご無事でなによりでした。ルークからトゥルリー先生たちがパドリアヌスと直接に対峙したと聞いて心配しちゃいました」
と、恩師であるトゥルリーを安堵の表情で迎えたノアは、いつの間にか背が伸び、トゥルリーより少し低いくらいにまでになっていた。
そんなノアの成長に気づいたトゥルリーだが、それには触れずに言った。
「ただいま、ノア。お前に話してやりたい話が沢山あるぞ。まずは、この空腹を満たしてからだな。もう腹ペコだ。その後に一緒に風呂に入ろう」
「いいですねぇ。僕も先生と公爵閣下にご報告したいことがあるんです」
ノアは、嬉しそうにトゥルリーの横に着いて砦の中に入った。
「マリア先生も間もなく戻られるそうですよ」
「そうか、マリアにも話したいが一緒に風呂は無理だな」
と、トゥルリーが言うと師弟は顔を見合わせて愉快そうに笑った。
「キース先輩と、オスカー様も一緒に宜しいですか?」
「ああ、もちろんだ!彼らにも随分手助けして貰ったからな。ふたりにも伝えておいてくれ」
本来、上官と湯を共にすることは無礼とされており、アランやシオンたち上級士官の湯殿は別になっている。
しかし、アランとトゥルリーは特に気にせず他の騎士達と同じ浴場を利用することもあった。
「いつもなら、長風呂する連中も今夜は、酔って騒ぐことに夢中で風呂なんてカラスの行水だろしな?」
と、言いながら、いつも冷静沈着でクールなトゥルリー先生には珍しく、ノア側の片目を閉じてウィンクをしみせた。
ノアは、砦での生活を通して、ここではトゥルリーは帝国神聖魔術士養成大学の教師では無く、帝国軍の任務にあたるトゥルリー大佐なんだと実感し、先生の時とはまた違った尊敬の念を抱いていた。
そのトゥルリー大佐が重責を果たしトゥルリー先生の顔を見せてくれたことが、ノアにはたまらなく嬉しかった。
ジャンバラン砦の浴場には広い湯殿がいくつも有り、また岩盤浴を水風呂を楽しめるスペースもある。
くつろぐには持ってこいの場所だ。
ルデ・トロア宮殿内の浴場施設には、マッサージやヒーリングをしてくれる湯殿の専用の施術師もいるが、ここは国外の仮設の砦である。
ノアは、僕のメンテナンス魔法が役立つレベルだったら良いのになぁと思っていた。
一方のシオン参謀は、部下の達の前ではクールに決め込んでいたが、アランとふたりきりになったとたん
「アラン様!あまり無謀なことは止めて下さい!!いくらトゥルリーと一緒でもパドリアヌスというBlack Mageと直接会ったというじゃないですか!」
と、夫を待っていた妻のようにアランに不安をぶちまけた。
「いや、あのパドリアヌスというBlack Mageも、根は悪いやつではなかったぞ?」
と、当のアランはけろっとした顔で答えた。
心配性な妻と、鈍感夫のやりとりのようである。
「また、そんなことを!あなたからすれば、皆それなりに良いヤツになってしまいます。世の中、心底悪い人間もいますから少しは用心して下さい。わかってますか?あなたはスチュアートリア帝国の皇族というだけでなくレッドリオン公国の唯一の公子なんですよ!」
本当はトゥルリーのようにアランと一緒に行動したいが立場的に出来ず、ただこの砦でヤキモキすることしか出来なかったシオンの不満大爆発である。
「わかった、わかった。でも、皇帝ご夫妻も、父上たちも、まだまだ現役。俺に何かあっても後継ぎのひとりやふたり作れるぞ?」
そう言って笑うアランに呆れながらも怒り心頭のシオン参謀だった。
「そういう事を言ってるのではありません!」
「わかった、わかった。以後、自粛するように心がけるよ」
「そうおっしゃりながら、また無茶するんですよね?あなたって人は!」
そんなふたりの後ろを歩きながら、微笑ましく見守る姿があった。
「相変わらずね~」
言う聞き覚えのある声に振り返りながら
「なんだか久しぶりな気がするね!お帰りマリア!」
と、笑顔で言うアランに対して、
またマリアに子供っぽいことを言っていると揶揄われるのではないかと焦りつつ、冷静を装って
「お疲れさまです。予想より早いご帰還ですね」
と、言うシオンであった。
「ええ、金鱗竜にお願いして超特急でゴザガントから戻って来たわ。だって、今夜は祝杯でしょ?」
と、マリアも嬉しそうに言った。
「後でゆっくりとジラクスでの話を聞かせてちょうだい」
「ああ、でも自分も行きたかったと拗ねるなよ?」
と、アランはいたずらっぽく笑った。
やっとこのジャンバラン砦にも、新年祭の休日が到来したようである。
まさか再び怒涛の日々が到来するとは、この時は誰も予想していなかった。
= ブルーフォレスト城 =
さて、長かった新年祭の休暇も終わりに近づき、ブルーフォレスト城での日々を満喫していた三人娘と、ジャンバラン砦から、オスカーに連れられたアンナとクリストファーの五人に、そろそろ帝国神聖魔術士養成大学の学生寮、ミラ・ローズ宮へ戻る日が近づいて来ていた。
スチュア・トロア大陸の最南端にあるジャンバランと違い、北方に位置するブルーフォレスト城は、まだまだ真冬。
暖炉には火が入りパチパチと隅が焼ける音がしていた。
その近くに置かれた二つの籐で編まれた籠にはふかふかの毛布が敷かれており、その中にはそれぞれ黒と白茶の猫がスヤスヤと眠っていた。
冬の澄んだ空が夕暮れに染まる中、由緒正しき名城であるブルーフォレスト城も赤く染まっている。
その城の談話室の窓辺に立って夕暮れに染まる空のあかね雲を眺めながらアンナが言った。
「そろそろミラ・ローズへ戻らないとだわね」
「そうだねぇ。なんだか学生だったことを忘れるところだったよ。ここから見る景色は美しいね」
と、言いながらクリストファーはアンナに近づき同じ窓から外の景色を見た。
「キースの白鳥の翼城から見る景色、特に庭園は圧巻だったが、この城から見る景色はまた趣がるよね?」
「ええ、いかにも冬景色って感じもロマンチックよね?」
木々に積もった雪や城の周囲を埋め尽くす雪に夕陽が射して、あたりは薔薇色に染まっていた。
談話室の窓からは、城から城下町へ続く道だけが一本の筋のように見える。
そんなふたりの後姿を、リリアーナ、アイラ、ポリアンナの三人娘が羨ましそうに見つめていた。
「いいなぁ。先輩たちってツインレイなのかしら?」
と、アイラが言うと
「どうだろう?でも、あんまり恋人同士って感じもしないのよね」
と、ポリアンナがそっけなく答えたので、
「オスカー様とポリーちゃんのような関係にも見えるものね?」
アイラも同じテンションでそっけなく答えた。
するとポリアンナが声を荒げて
「えー!お兄様と私?そんなに仲良くないわよ?」
と、叫ぶように言ったのでアイラはニンマリとしていた。
ふたりの横で、そちらの方にはちょっと鈍いリリアーナが
「そうかなぁ」
と、顎に手を当てて真剣に考え込んでいた。
ポリアンナの声で、三人の騒ぎに気づいたアンナとクリストファーが振り向いて言った。
「何を騒いでいるの?」
「なんだか楽しそうだね」
ふたりの噂をしていたことを誤魔化すようにポリアンナが慌てて言った。
「みんなと一緒じゃなかったら、早くミラ・ローズに戻りたくて仕方なかったと思うけれど、五人でいると楽しくて、そんな気持ちにもならないわ!」
「そうだねぇ。しかもここは、寮よりも快適だしね?」
と、クリストファーが明るく答えた。
そんなクリストファーとは反対に、自分たちの我儘でブルーフォレスト伯爵家の世話になった事を心苦しく思っているアンナは
「ほんと、私たちまで押しかけちゃってごめんなさい。本来なら、キースとシュヴァーネンフリューゲル城で休暇を過ごすはずだったのに、こんなことになってしまって…反省しているわ」
と、申し訳なさそうに言った。
貴族の出身であるクリストファーと違い、平民出身のアンナにとって今は、心苦しい状況なのだった。
同じく平民出身のリリアーナとアイラは、そんなアンナの気持ちが理解できたが、貴族のクリストファーとポリアンナは理解できず驚いたように言った。
「あら、そんなこと全く気にしないで下さい、アンナ先輩!むしろ大歓迎なんですから!部屋は余るほどありますし、むしろノア君にも来て欲しかったくらいですから!」
と、ポリアンナは、うっかり本音をぽろりと口走ってしまい、ハッとしてアイラを見ながら慌てて口を押えた。
笑顔でこちらを見ているアイラは、しっかりそのことに気づいているらしく視線がポリアンナに刺さる。
ポリアンナは、その視線に気付かぬふりをして
「もし、私ひとりでこの城に帰省したら、とっくにミラ・ローズ宮へ戻りたくなっていたけれど、みんなが来てくれたおかげで寮に居るのと変わらなくて、ずっと皆さんとここに居たいくらいよ!」
と、明るく言ってアイラに「余計なことを言わないように」と、目配せをした。
アイラは、「心得ているわ」と、言うようにオスカーの妹のポリアンナに笑って頷いてみせた。
「それなら良いんだけれど…」
と、アンナはまだ少し気にしているようだったが
「そんなことを気にしていたの?俺は、全く気にせずに歴史ある名城であるブルーフォレスト城を満喫していたよ」
と、言うクリストファーの呑気な一言でそんな暗い気持ちが吹っ飛んだ。
「やぁねぇクリス。図々しい!」
「そうかい?」
相変わらずのふたりのやりとりを、羨ましく見ていたお年頃の三人娘。
ポリアンナはノアを、アイラはオスカーを思い出していた。
リリアーナは、「もう随分アラン様にお会いしていないけれど、今はパドラルで重大に任務に当たっておられるらしいから、私も頑張らなくては!」と考えていた。
そして、なにかを思い立ったかのようにリリアーナが突然
「明日、ライナスとロザリーの使い魔の訓練をしに森へ行かない?」
と、みんなに提案した。
「森はまだ寒いわよ?」
と、アンナが言うと
「温度を保つ魔法をかけた外套を着て行くので大丈夫です」
と、リリアーナに代わってアイラが答えた。
ブルーフォレスト城へ来てからリリアーナとアイラのふたりは、毎日のように自分たちの使い魔候補であるライナスとロザリーを連れて森で訓練を続けていた。
使い魔の訓練は、主人であるWhite Mage自身の訓練でもある。
ふたりは、出来れば自分たちがHoly Mageになってライナスとロザリーを使徒にしたいと思っていた。
その為に、Holy Mageクラスへの進級を目指していた。
リリアーナは、憧れのアランに一歩でも近づく為にも頑張りたかったのだ。
「リリアちゃんとアイラちゃんは、この城へ来ても毎日のようにお勉強していたんですよ」
と、言って、ポリアンナはふたりが城の図書館に通って魔導書や魔術師夜を読みふけったり、天気の良い日は森で魔法の訓練や使い魔の訓練をしたりしていた事をアンナたちに話して聞かせた。
「だからか!午前中はふたりの姿をみかけないなと思っていんだよ。ここのところ天気が悪かったから図書館で勉強していたんだね?偉いなぁ!」
と、クリストファーが感心したように言った。
「私たちがこの広いブルーフォレスト城をポリアンナ嬢に案内して貰っている間に、ふたりは勉強していたのね」
負けず嫌いのアンナは、後輩のふたりの努力に自分も負けていられないと思っていた。
「私も、レッドリオン閣下から教わった広域浄化の魔法の練習をしようかしら?」
「え?そんな魔法が?初めて聞きました」
と、ポリアンナが驚いたように言った。
リリアーナも「レッドリオン閣下から教わった」という言葉に敏感に反応していた。
「結局、私には完全にはマスター出来なかったのだけれど、閣下が独自に開発された神聖力を使う魔法で、滞ったダークエナジーを浄化する魔法を広域に広げるものなのよね?クリス。クリスはマスターしていたわよね?」
と、アンナは、ちょっと悔しそうにクリストファーを見た。
「うーん、完ぺきではないし、閣下ほど広域に広げるにはまだまだ力不足だけどね」
クリストファーもあの時は、マスターして役立とうと必死だったが、今は成功する自信は無いなと思っていた。
「でも、オスカー様は完璧にマスターしていたと思うよ」
「えっ?オスカーお兄様が?」
と、ポリアンナが言うと、今度はアイラがオスカーの名前を聞いて敏感に反応して
「さすがオスカー様ね!」と、言った。
そこへ給仕の者が談話室の扉をノックして言った。
「お嬢様、お夕食の用意が整いました。食堂へお越しください」
「はーい、今参ります」
ポリアンナが返事をすると、リリアーナとアイラは大喜びで叫んだ。
「わーい!お食事、お食事!」
「ブルーフォレスト伯爵家の料理はみんな美味しくて太っちゃいそうだわ」
と、言いながら慣れたように食堂へ向った。
「明日は、森で訓練の後は、ジムで運動かしらね?」
と、言いながらポリアンナとアンナが続いた。
女の子たちの後ろに居たクリストファーが
「マエル、ノエル。ご飯の時間だよ」
と、声をかけると、暖炉の近くの猫用ベッドで寝ていたノエルとマエルが飛び起きて女の子たちの後に続いて談話室から出て行った。
最後に残ったクリストファーは、魔法で暖炉の火を消し
「点けたら消すまでが1セット」
と、つぶやきながら談話室を後にした。
= ジラクス族村 =
「パドリアヌス殿、この度は本当に世話になりました」
と、部落長がパドリアヌスの盃に酒を注ぎながら言った。
「闘い続きで粗末なものしかありませんが、腹いっぱい食べて下さい」
と、言うテーブルの上に乗っている料理を指差して言った。
確かに粗末なものだったが、この部落で用意できる精一杯のご馳走なのだろう。
パドリアヌスは、久しぶり全くの他人から受けるもてなしに心が熱くなるのを感じていた。
思えば、故国を追われ、山中の隠れ里で貧しいながらもそれなりに暮らしていたのに、唆されてまんまとこのスチュア・トロア大陸へ渡って来た自分。
それ以来、心休まる日もなく、感謝されたり、赤の他人に持て成されたりすることなどあったろうか?
「それは、心も荒むな」と、心の中で苦笑いをするパドリアヌスだった。
そこに、やっと立って歩けるようになったばかりの幼児を抱いた母親と、その夫がパドリアヌスの横に来て言った。
「本当にありがとうございました」
「おかげで、この子は無事に大きくなるまで生きられます」
と、涙ながらに感謝の言葉を述べた。
パドリアヌスは、その幼子の小さな手を取って言った。
「良かった。健康で無事に育つのだぞ!」
幼児は、パドリアヌスに手を持たれたことを嫌がることもなく、嬉しそうに両手をパタパタさせてキャッキャッと笑った。
「ああ、こんな平和な日々もあるのだな。俺はなんと無駄なことを…」
と、嘆かずにはいられなかった。
そして、部落長に向かって言った。
「きっとあのメメチャンバがジラクスもパドラルも良くしてくれるだろう。スチュアートリア帝国は、羨ましいくらい本当に平和で豊かな国だ。奴隷なんて馬鹿な制度も無くなるに違いない。もちろん、生贄の儀式など二度とさせてはならない」
パドリアヌスの目には怒りと共に新たな決意が宿っていた。
彼にとっても今宵が束の間の安息日だった。




