サウナーと雪女の気配3
サウナーと雪女の気配3
村に残る名前
霜還りの花を通して見た記憶は、しばらく頭から離れなかった。
春のゴーウ村。
水田のきらめき。
道端に咲く白い花。
村人たちの笑い声。
そして、薬草を抱えて走る少女。
シェラ。
かつて、この村にいた娘。
村のために山へ入り、帰れなくなった少女。
寒さの中で命を落とし、黒い塔から流れた凍呪に触れ、雪女になってしまった存在。
俺はサウナ小屋の中で、しばらく何も言えなかった。
イルも同じだった。
小さな手で服の裾を握りしめたまま、じっと俯いている。
「シェラさん……」
イルがぽつりと呟いた。
その声には、恐怖だけではないものが混じっていた。
悲しみ。
そして、少しの共感。
きっとイルは、シェラの姿に自分を重ねている。
家族のために山へ行く。
村のために薬草を採る。
危険だとわかっていても、行かずにはいられない。
イルも、同じ道を歩いていたかもしれないのだ。
ルミ婆さんは、布に包んだ霜還りの花を見つめていた。
その手は、かすかに震えている。
「まさか、あの子だったとはね……」
『ルミさんは、シェラさんを知っていたんですよね』
「ああ。よく知っているよ」
ルミ婆さんは目を細めた。
「口うるさくて、よく笑って、よく走る子だった。薬草の名前を覚えるのも早くてね。わしの後を継ぐんじゃないかって、村のみんなが言っていた」
村長も静かに頷いた。
「シェラは、村の誰からも好かれていた」
『それなら、どうして……』
言いかけて、俺は口を閉じた。
どうして忘れたんですか。
そう聞きそうになった。
けれど、それはあまりにも残酷な言葉だった。
人は忘れる。
忘れたくなくても、日々を生きるうちに、少しずつ口にしなくなる。
最初は毎日泣いていたことも、やがて月に一度になり、年に一度になり、名前を呼ぶことさえ減っていく。
それは悪意ではない。
生きている人間が、生き続けるために必要なことでもある。
でも、忘れられた側からすれば。
あの雪の中に置き去りにされたシェラからすれば。
それは、二度目の死だったのかもしれない。
ルミ婆さんは、俺が言いかけた言葉をわかっていたのだろう。
「忘れたわけじゃない」
そう言った。
「忘れたわけじゃないんだよ。ただ……口にしなくなった」
サウナ小屋の中に沈黙が落ちる。
炉の中のサウナストーンが、赤く小さく光っていた。
「シェラの名を出すと、皆つらくなる。助けに行けなかったことを思い出す。だから、いつの間にか誰も言わなくなった」
村長が低く続ける。
「わしも同じだ。村長でありながら、あの日、山へ行く判断ができなかった」
『吹雪だったんですよね』
「ああ。行けば捜索に出た者まで死んでいたかもしれん」
村長の声は固かった。
「それでも、行けなかった事実は残る」
ルミ婆さんは目を伏せた。
「わしも止めきれなかった。あの子が山へ行くと言った時、もっと強く止めるべきだった」
「でも」
イルが顔を上げた。
「シェラさんは、誰かを助けたかったんですよね」
誰もすぐには答えられなかった。
イルは続けた。
「私も、山に行くのを止められても、きっと行ってました。お母さんとお姉ちゃんが待ってるなら、怖くても行ってました」
その言葉は、サウナ小屋の中に重く響いた。
ルミ婆さんが小さく息を吐く。
「そういうところも、似てるね」
イルは少しだけ寂しそうに笑った。
『村のみんなに、話した方がいいですよね』
俺が言うと、村長の表情が険しくなった。
「簡単ではない」
『わかっています』
雪女が昔の村の娘だった。
それを聞いて、村人たちがどう思うかはわからない。
同情する者もいるだろう。
怒る者もいるだろう。
「だから何だ。家族を返せ」と言う者もいるはずだ。
実際、その怒りは正しい。
イルの父は戻らない。
砕けた村人たちも戻らない。
雪女がどれだけ悲しい過去を持っていても、被害を受けた人たちの痛みは消えない。
ルミ婆さんが言った。
「話すなら、半端に話すんじゃないよ」
『はい』
「シェラが可哀想だった、で終わらせるな。あの子が村を凍らせたことも、村があの子を忘れかけていたことも、全部話すんだ」
村長が頷く。
「村人たちを集めよう」
⸻
昼過ぎ。
サウナ小屋の前に、村人たちが集められた。
子どもたちも、大人たちも、寝込んでいる者の家族も。
湯気隊のノルは、いつになく静かだった。
ダグは腕を組み、森の方を警戒するように立っている。
イルは俺の隣にいた。
その手は少し震えていたが、逃げようとはしていない。
村長が前へ出る。
「皆に話がある」
ざわめきが止まった。
村長は、森の入口に置かれていた霜還りの花のことを話した。
それをサウナ小屋で調べたこと。
花が記憶を見せたこと。
そして、雪女の正体が、かつてこの村にいたシェラという娘だったこと。
最初、村人たちは静かに聞いていた。
だが、シェラの名が出た瞬間、年配の者たちの間にざわめきが走った。
「シェラ……?」
「薬師見習いの?」
「あの山で消えた子か」
「そんな、まさか」
若い者たちは、名前すら知らない様子だった。
ノルが近くの大人に聞く。
「シェラって誰?」
その問いに、大人は答えられなかった。
村長は続けた。
「シェラは村のために山へ行き、戻らなかった。その後、黒い塔から流れた凍呪に触れ、雪女になったと思われる」
沈黙。
そして、ひとりの女性が声を上げた。
「だから何だっていうんですか」
その声は震えていた。
「シェラが可哀想だったから、私たちは家族を凍らされても仕方ないんですか?」
空気が凍った。
女性の夫は、凍呪で胸まで凍っている。
昨日、治療の順番を待つことになった家の者だった。
「うちの人は、今も寝たきりです。子どもたちは毎晩泣いています。雪女が昔の村人だったからって、それが何だって言うんですか」
誰も責められなかった。
その怒りは正しい。
別の男も言った。
「俺の兄は砕けた。姿も残らなかった。シェラだろうが魔物だろうが、やったことは同じだ」
村人たちの間に、低い声が広がっていく。
同情と怒りが混ざり合い、空気が重くなる。
イルが俺の袖を掴んだ。
俺は一歩前に出た。
『俺は、雪女を許してくださいと言いたいわけじゃありません』
村人たちの視線が俺に集まる。
『シェラさんに悲しい過去があったから、被害を受けた人たちが我慢しなきゃいけない。そういう話じゃないです』
言葉を選びながら、続ける。
『でも、雪女が何者なのかを知らないまま戦えば、たぶん俺たちは間違える』
「間違える?」
ダグが聞く。
『ただ倒せば終わる相手なのか。それとも、凍呪に歪められているのか。そこを見誤ると、村の冬は終わらないかもしれない』
ルミ婆さんが頷く。
「シェラが凍呪の源を抱えているなら、ただ傷つけるだけでは呪いが散る可能性もある」
村人たちがざわつく。
俺は続けた。
『俺は、シェラさんを助けたいと思っています』
怒りの気配が強くなる前に、俺はすぐに言った。
『でも、それは村人を犠牲にしてでも助けるという意味じゃありません』
俺はサウナ小屋を見る。
『この村を救うために、シェラさんの中にある凍呪をどうにかしなきゃいけない。そう考えています』
「どうにかって、どうするんだ」
男が言う。
『まだわかりません』
正直に答える。
『でも、俺のサウナは凍呪に干渉できます。村人の体から少しずつ呪いを外に出せた。霜還りの花の記憶も、サウナの熱で見えた。なら、シェラさんの凍った記憶や呪いにも、届くかもしれない』
女性が唇を噛んだ。
「そんな都合よく……」
『都合よくはいかないと思います』
俺は言った。
『怖いです。正直、俺も何ができるかわかりません。でも、何も知らずに森へ入って戦うよりは、少しでも知ってから向き合いたい』
沈黙。
その時、イルが前へ出た。
「私、シェラさんの記憶を見ました」
小さな声だった。
けれど、村人たちは静かに聞いた。
「シェラさんは、村のために山へ行きました。私が、お母さんとお姉ちゃんのために山へ行ったのと同じです」
イルの声が震える。
「でも、シェラさんがしたことも、怖いです。お父さんが砕けたことも、消えません」
イルは涙をこらえながら続けた。
「だから、私はシェラさんを許せるかはわかりません。でも……」
一度言葉が止まる。
「でも、もしシェラさんがまだ寒いところにいるなら、レンさんの湯気で、少しでもあたためてあげたいです」
その言葉に、村人たちは何も言えなくなった。
イルは被害者だ。
父を失い、母と姉が凍っている。
そのイルが、そう言った。
重すぎるほどの沈黙が落ちた。
やがて、ダグが頭をかいた。
「俺は難しいことはわからん」
みんながダグを見る。
「雪女が村を凍らせたなら、倒すべきだと思ってた。今も、あいつを許したわけじゃない」
ダグは森の方を見る。
「でも、レンの言う通り、ただ斧で殴って終わる相手じゃないなら、考えるしかない」
村長が深く頷いた。
「村として、シェラを許すかどうかは今決めない」
その声は重かった。
「だが、雪女を知ることは必要だ。村を救うために」
ルミ婆さんが続ける。
「まずは治療を続ける。湯気隊とサウナ番を育てる。見張りを強める。森へ行く準備をする」
村人たちは、少しずつ頷き始めた。
怒りは消えていない。
悲しみも消えていない。
だが、少なくとも、ただ恐れるだけではなくなった。
雪女。
シェラ。
その名前が、村に戻ってきた。
⸻
その日の夕方。
サウナ小屋の前に、小さな木の札が立てられた。
誰が置いたのかはわからない。
そこには、炭で不器用に名前が書かれていた。
シェラ
その下に、霜還りの花が一輪、置かれていた。
もちろん、本物ではない。
ノルたち湯気隊が白霜樺の枝を削って作った、白い木の花だった。
『これ、ノルたちが?』
イルが頷く。
「たぶん」
『怒られないかな』
「わかりません」
イルは木の花を見つめる。
「でも、名前を忘れないようにって」
俺は胸が少し熱くなった。
許すことと、忘れないことは違う。
怒りを消すことと、名前を呼ぶことも違う。
この小さな木の花は、答えではない。
でも、村が一歩だけ進んだ証のように見えた。
その時、森の方から冷たい風が吹いた。
木の花が、かすかに揺れる。
そして風の中に、微かな声が混じった。
――シェラ。
それは、誰かが名前を呼ばれて驚いたような声だった。
イルが俺を見る。
『聞こえた?』
「はい」
森の奥は暗い。
白い影は見えない。
だが、確かに何かがこちらを見ている気がした。
俺はサウナ小屋から立ち上る湯気を見る。
湯気はまっすぐ空へ昇り、途中で冷たい風に溶けていく。
『シェラさん』
俺は森へ向かって、小さく言った。
『俺たちは、あなたのことを知りたい』
返事はない。
だが、森の奥の冷気が、ほんの少しだけ揺らいだ気がした。
そして俺の頭の中に、静かな声が響く。
条件:凍呪の源泉への接触。進行中。
条件:村人の安全な自立運用。進行中。
サウナーLv4への道が開き始めています。
俺は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
まだ、何も解決していない。
村人たちの怒りも。
イルの悲しみも。
シェラの孤独も。
黒い塔の呪いも。
全部、まだそこにある。
でも、名前が戻った。
忘れられかけていた名前が、湯気の立つ村に戻ってきた。
それはきっと、凍った記憶を溶かすための、最初の熱だった。




