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サウナーと雪女の気配2

サウナーと雪女の気配2


霜還りの花


翌朝。


サウナ小屋の中は、いつもより静かだった。


いや、正確には静かすぎた。


いつもなら、ノルたち湯気隊が水を運んだり、白霜樺の枝を選んだり、ダグが薪を割ったりしている。


だが今日は、誰も小屋の中には入っていない。


いるのは、俺とルミ婆さん。

それから村長とイルだけだった。


中央の炉には、まだ火を入れていない。


その前に置かれた木の台の上には、布に包まれた小さなものがある。


昨日、森の入口に置かれていた花。


霜還りの花。


凍った白い花びら。

中心だけが淡く青く光っている、不思議な花。


これが雪女からの誘いなのか。

警告なのか。

それとも、助けを求めるものなのか。


まだわからない。


ルミ婆さんは俺を見た。


「レン。始めるよ」


『はい』


「ただし、危ないと思ったらすぐ止める。いいね?」


『わかってます』


「本当に?」


『本当にです』


最近、このやり取りが増えている気がする。


信用がない。


いや、実際ないのかもしれない。


村長が低い声で言った。


「この花は、昔ゴーウ村の葬いに使われていたものだ」


『亡くなった人に手向ける花、でしたよね』


「ああ。霜還りの花は、本来なら春先に丘に咲く。冬を越えた者が、春に戻る。そういう意味を持つ花だった」


『春に戻る……』


凍りついた今の村には、あまりにも皮肉な名前だった。


ルミ婆さんが布を開く。


霜還りの花が、サウナ小屋の空気に触れた。


その瞬間、室内の温度が少しだけ下がった気がした。


イルが小さく身を震わせる。


『イル、大丈夫?』


「はい……」


そう答えたが、顔色は少し悪い。


俺はサウナストーンを炉の中へ出す。


『サウナ』


赤く熱を帯びた石が現れる。


ただし、今日は治療ではない。


温度は上げすぎない。


三十度。


範囲、この小屋。


ゆっくり。


慎重に。


サウナストーンが淡く光り、室内にやわらかな熱が広がる。


霜還りの花は、溶けなかった。


普通なら、氷の花などすぐに水になるはずだ。


だが、花びらは透明な氷のまま、中心の青い光だけが強くなっていく。


『熱に反応してる……』


ルミ婆さんが息を呑む。


「蟒蛇草の水を少しだけ」


俺は頷き、サウナストーンへ蟒蛇草の煎じ水を一滴だけ垂らした。


ジュ。


小さな音。


白い蒸気が、細く立ち上る。


その蒸気が、霜還りの花に触れた。


次の瞬間。


花の中心から、青白い光がふわりと広がった。


『……っ!?』


視界が揺れる。


サウナ小屋の壁が遠ざかる。


ルミ婆さんの声も、村長の息づかいも、イルの手が袖を掴む感触も、すべてが白い霧の向こうへ消えていく。


そして俺は、知らない場所に立っていた。


いや。


知らないはずなのに、どこかで見た場所だった。


ゴーウ村だ。


ただし、雪はない。


空は明るく、風は暖かい。


田んぼには水が張られ、光を反射してきらきらと輝いている。


道端には小さな白い花が咲いていた。


霜還りの花。


それが、村のあちこちに咲いている。


『ここは……昔のゴーウ村?』


声を出したつもりだったが、誰にも届いていないようだった。


目の前を、一人の少女が走っていく。


年は十六か十七くらいだろうか。


長い黒髪を後ろで結び、腕いっぱいに薬草を抱えている。


笑顔が明るい。


村人たちが彼女に声をかける。


「シェラ、また薬草かい?」


「ルミさんに頼まれたの。今日は熱を出した子がいるんだって」


シェラ。


それが彼女の名前らしい。


少女は元気よく笑った。


その笑顔に、なぜか胸が痛くなった。


シェラは村の中をよく走っていた。


薬草を運び、子どもをあやし、畑を手伝い、老人の荷物を持つ。


誰かに頼まれれば、すぐに動く。


まるで、村全体の妹のようだった。


場面が揺れる。


次に見えたのは、ルミ婆さんの若い頃だった。


今より背筋が伸び、髪にもまだ黒が混じっている。


その隣で、シェラが薬草を刻んでいる。


「ルミさん、この葉っぱは?」


「蟒蛇草だよ。毒消しにはならないが、冷えた体にはよく効く」


「うわばみそう……変な名前」


「名前で薬効が決まるわけじゃないさ」


若いルミ婆さんは、そう言って笑った。


シェラも笑う。


俺はそこで気づいた。


シェラは、薬師見習いだったのだ。


村のために薬草を採り、村のために薬を覚え、村のために走っていた少女。


場面がまた変わる。


空が暗い。


春のはずなのに、冷たい風が吹いている。


村人たちは不安そうに空を見上げていた。


王都の方角。


そこには黒い影があった。


遠すぎて形はわからない。


だが、空に突き刺さるような何か。


黒い塔。


『この頃からもう……』


その夜、村に病人が出た。


寒気に震える子ども。


体の末端が冷え、唇が紫になっている。


若いルミ婆さんが診ているが、表情が険しい。


「ただの風邪じゃないね」


シェラが不安そうに聞く。


「何が必要?」


「山の奥にある霜灯草だ。熱を戻す薬になる」


「私、取ってくる」


「駄目だ。夜の山は危ない」


「でも、このままじゃ間に合わない」


「シェラ」


「大丈夫。山道は知ってる。すぐ戻るから」


シェラはそう言って笑った。


それは、村人を安心させるための笑顔だった。


俺はその顔を見て、イルを思い出した。


病気の家族のために、毎日山へ向かったイル。


この少女も同じだったのだ。


誰かを助けるために、危険な場所へ向かう。


場面が吹雪に変わる。


山道。


雪が横殴りに吹きつけている。


シェラは腕に薬草の包みを抱え、必死に歩いていた。


「戻らなきゃ……」


唇が青い。


指先が震えている。


それでも歩く。


「みんな、待ってるから……」


足元が崩れた。


シェラの体が斜面を転がる。


薬草の包みが雪の中に散らばった。


彼女は起き上がろうとした。


だが、足が動かない。


雪が降り積もる。


体温が奪われていく。


「誰か……」


声は吹雪に消えた。


「ルミさん……」


誰も来ない。


「お母さん……」


誰も来ない。


「寒い……」


シェラは震えながら、散らばった薬草へ手を伸ばした。


その指先に、白い花が触れた。


霜還りの花。


「春に……戻る花……」


彼女はかすかに笑った。


「帰りたい……」


その言葉が、胸を締めつけた。


返して。


あの雪女の声が、頭の中で重なる。


返して。


春を。

村を。

自分の時間を。

帰る場所を。


場面がさらに暗くなる。


シェラの体が雪に埋もれていく。


だが、その時、山の奥から黒い光が差した。


黒い塔の方角から流れてきたような、冷たく濁った光。


それがシェラの体に触れる。


彼女の閉じかけた目が、青く光った。


「……あたたかいところに、帰りたい」


その声は、もう人の声ではなかった。


雪が渦を巻く。


白い花が凍る。


シェラの黒髪は白く変わっていく。


肌は雪のように白くなり、体から冷気が溢れ出す。


そして。


少女は、雪女になった。


場面が変わる。


村では、シェラの帰りを待っていた。


若いルミ婆さんが、何度も山の方を見ている。


村人たちは言う。


「この吹雪じゃ探しに行けない」


「朝になったら行こう」


「シェラなら大丈夫だ」


「山に慣れているからな」


だが、朝になってもシェラは戻らなかった。


探しに行った者たちが見つけたのは、雪に埋もれた薬草の包みだけ。


そして、そのそばに咲いていた、凍った霜還りの花。


シェラの体は、見つからなかった。


村人たちは彼女を悼んだ。


葬いの丘に霜還りの花を手向けた。


けれど、時間は流れる。


春が来て、夏が来て、秋が来て。


村は少しずつ彼女の名前を口にしなくなった。


ルミ婆さんだけが、時折山を見ていた。


場面が最後に揺れる。


雪女となったシェラが、森の奥から村を見ている。


村には明かりがある。


人の声がある。


食事の湯気がある。


家族の笑い声がある。


だが、彼女はそこへ戻れない。


近づけば、人の熱を奪ってしまう。


触れれば、凍らせてしまう。


誰も彼女に気づかない。


誰も彼女を呼ばない。


やがて、黒い塔から流れた凍呪が、彼女の中で膨らんでいく。


寂しさが、恨みに変わる。


帰りたいという願いが、返してという呪いに変わる。


そして、白い光が村を包んだ。


春が消えた。


ゴーウ村が、冬になった。



『……っ!』


俺は息を吸い込んだ。


サウナ小屋に戻っていた。


額には汗がにじんでいる。


いや、汗だけではない。


頬が濡れていた。


泣いていたのかもしれない。


隣を見ると、イルも震えていた。


彼女も見ていたのだろう。


村長は固まったように花を見つめている。


ルミ婆さんだけが、静かに目を閉じていた。


だが、その手は強く握られている。


『ルミさん……』


ルミ婆さんは目を開けた。


「シェラ……」


その声は、今まで聞いたことがないほど弱かった。


「やっぱり、あの子だったのかい」


『知ってたんですか』


「昔、薬師を手伝ってくれていた子だよ」


ルミ婆さんは苦しそうに笑った。


「よく走る子でね。誰かが困っていると、すぐに飛び出していった」


イルが小さく言う。


「私みたい……」


ルミ婆さんはイルを見た。


そして、ゆっくり頷く。


「そうだね。あんたによく似てる」


その言葉に、イルは唇を噛んだ。


『雪女は、村を恨んでるんですか』


俺が聞くと、ルミ婆さんは首を横に振った。


「恨みだけじゃない」


村長が重い声で言う。


「帰りたかったのだな」


誰も何も言わなかった。


帰りたかった。


ただ、それだけだったのかもしれない。


寒い山の中から。

死んでしまった自分から。

忘れられていく時間から。


あたたかい場所へ、帰りたかった。


けれど、黒い塔の凍呪がその願いを歪めた。


帰りたいという想いは、返してという呪いになった。


『返してって……春を返してじゃなくて』


俺はゆっくりと言った。


『自分の居場所を返して、だったのかもしれない』


イルが涙を拭った。


「シェラさんは、悪い人じゃなかったんですね」


ルミ婆さんは何も答えなかった。


ただ、霜還りの花を見つめていた。


「悪い子じゃなかったよ」


それだけ言った。


花の中心の青い光は、少しだけ弱まっていた。


頭の中に文字が浮かぶ。


霜還りの花

記憶の残滓を一部解放。

凍呪の根に接触。

サウナーLv4条件:凍呪の源泉への接触 一部達成。


『……条件が進んだ』


俺の声に、イルが顔を上げる。


「サウナーLv4ですか?」


『うん。でも、まだ一部だけ』


ルミ婆さんが言う。


「当然だね。記憶を見ただけじゃ、あの子は救えない」


『はい』


「それに、忘れるんじゃないよ。シェラが可哀想だからといって、村人を凍らせたことが消えるわけじゃない」


『わかってます』


「ならいい」


ルミ婆さんは霜還りの花を布で包んだ。


「レン。あの子を救うには、たぶん戦うだけじゃ駄目だ」


『俺も、そう思います』


「でも話し合うだけでも駄目だ」


『……はい』


雪女の中には、凍呪がある。


黒い塔から流れた、何か。


それがシェラの願いを歪めている。


なら、やるべきことはひとつ。


凍った記憶を、温める。


歪んだ呪いを、蒸気で浮かせる。


そして、冷まして、休ませる。


『雪女を、ととのえる……』


思わず呟くと、ルミ婆さんが眉をひそめた。


「また変なことを言い出したね」


『でも、たぶんそういうことです』


イルは真剣に頷いた。


「シェラさんにも、外気浴が必要なんですか?」


『いや、そこまではわからないけど』


村長が重々しく言う。


「だが、レンの言うことはわかる。あれはただ斬れば終わる相手ではない」


ルミ婆さんも頷いた。


「なら準備だね。あの子のところへ行くなら、まず村をもっと安定させる。治療も、見張りも、サウナ小屋の運用も」


『はい』


「それと、霜還りの花についてもっと調べる。これは鍵になる」


俺は布に包まれた花を見る。


シェラの記憶。


雪女の悲しみ。


ゴーウ村の冬の始まり。


そのすべてが、この小さな凍った花に残っていた。


サウナ小屋の外では、湯気隊の子どもたちの声が聞こえている。


「水、こぼすなよ!」


「ノルが一番こぼしてる!」


「レンを休ませる係、今日は誰?」


その声が、やけに温かく聞こえた。


シェラが帰りたかった場所。


あたたかい声がある場所。


もし、まだ間に合うなら。


俺は彼女に見せたいと思った。


この村には、まだ湯気が立っている。


まだ、帰ってこられる場所があるのだと

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