サウナーと雪女の気配
サウナーと雪女の気配
その夜、ゴーウ村には見張りが立てられた。
見張りの場所は、村の南門とサウナ小屋の周り。
理由はひとつ。
森の奥に現れた白い影。
雪女。
彼女は襲ってこなかった。
けれど、確かにこちらを見ていた。
サウナ小屋から立ち上る湯気を見つめ、風に乗せて言葉を残した。
――あたたかい。
そして。
――返して。
その言葉が、頭から離れなかった。
返して。
いったい何を。
熱をか。
春をか。
それとも、もっと別の何かか。
俺はサウナ小屋の前に座り、消えかけたサウナストーンを見つめていた。
火は落としてある。
それでも石の奥には、ほんのわずかな赤い光が残っていた。
『返して、か……』
つぶやくと、背後から声がした。
「まだ寝てないのかい」
振り返ると、ルミ婆さんが毛皮を羽織って立っていた。
『ルミさんこそ』
「年寄りは眠りが浅いんだよ」
そう言いながら、ルミ婆さんは俺の隣に腰を下ろした。
寒さのせいか、まだ体調が戻りきっていないのか、少しだけ息が荒い。
『無理しないでください』
「それをあんたに言われる日が来るとはね」
『俺も少しは反省してます』
「少しじゃ足りないね」
即答だった。
俺は苦笑いする。
ルミ婆さんはサウナ小屋を見る。
「雪女が出たんだって?」
『はい。ダグも見ています』
「何か言ったのかい」
『あたたかい。それと、返して、と』
ルミ婆さんの表情がわずかに変わった。
『心当たりがあるんですか?』
「……昔話ならある」
ルミ婆さんはゆっくりと話し始めた。
「このあたりには、昔から雪女の話がある。冬の夜に現れて、人の熱を奪う。山で迷った者を凍らせる。そんな話だ」
『それは前世の話と少し似てます』
「だが、ゴーウ村の昔話には、少し違うものもある」
『違うもの?』
「雪女は、最初から魔物だったわけじゃないという話だよ」
俺は息を呑んだ。
「昔々、冬が厳しかった年に、山で命を落とした娘がいた。村のために薬草を取りに行き、吹雪に巻かれて戻れなかった娘だ。その娘が、村を恨んで雪女になったとも言われている」
『村を恨んで……』
「ただの昔話だよ」
ルミ婆さんはそう言ったが、声は重かった。
『でも、今回の雪女は“返して”と言った』
「そうだね」
『何かを奪われた側なのかもしれない』
「かもしれない。けれど、村人を凍らせていることに変わりはない」
ルミ婆さんの声が少し鋭くなる。
「同情するなとは言わない。でも、忘れるんじゃないよ。イルの父親は砕けた。村人の何人も消えた。今も寝床で凍っている者がいる」
『……はい』
その通りだった。
雪女に事情があるとしても、イルの父親は戻らない。
村を凍らせた現実は変わらない。
それでも。
あの声は、ただの魔物のものには聞こえなかった。
「あんたはきっと、あれを助ける方法を考えるんだろうね」
ルミ婆さんが呆れたように言った。
『まだ、わかりません』
「顔に書いてあるよ」
『そんなにですか』
「馬鹿サウナーは、温められそうなものを見ると放っておけない顔をする」
『ひどい言い方ですね』
「褒めてるんだよ」
そう言って、ルミ婆さんは小さく笑った。
「だが、今はまだ森に入るんじゃないよ」
『わかってます』
「本当に?」
『本当に』
「ならいい」
ルミ婆さんは立ち上がる。
「明日は、湯気隊と大人たちに役割を覚えさせる。あんたがいなくてもサウナ小屋を回せるようにするんだ」
『サウナーLv4の条件にも、それが入ってました』
「条件?」
『スキルが次に進むには、村人の安全な自立運用が必要みたいです』
「なるほどね」
ルミ婆さんは少し考えたあと、にやりと笑った。
「じゃあ、明日は試験だ」
『試験?』
「あんたは手を出さない。村人だけで、サウナ小屋を動かす」
『いきなりですか?』
「もちろん、危なくなったら止める。だが、あんたが全部やってる限り、村人は覚えない」
それは正しい。
正しいが、不安しかない。
ルミ婆さんは俺の顔を見て、鼻で笑った。
「人に任せるのも、サウナーの修行だね」
『サウナーの修行、範囲広すぎません?』
「熱くして、冷まして、休ませるんだろう? なら、任せて見守るのも休ませるうちだよ」
言い返せなかった。
俺はサウナ小屋を見た。
明日、この小屋を村人たちだけで動かす。
サウナストーンは俺しか出せない。
そこは仕方ない。
だが、温度を見る。
薪を足す。
水を管理する。
患者を見る。
ヴィヒタを準備する。
外気浴で休ませる。
それらは村人たちにもできる。
できるようにならなければならない。
『わかりました。明日、やりましょう』
「よし」
ルミ婆さんは満足そうに頷いた。
そして去り際に、森の方をちらりと見た。
「雪女のことを知りたいなら、まず村を整えな」
『村を?』
「あんたが森に行っている間に村が崩れたら、何もかも終わりだよ」
それだけ言って、ルミ婆さんは家へ戻っていった。
俺は一人、サウナ小屋の前に残された。
村を整える。
人を整える。
そして、たぶん。
雪女も。
俺は空を見上げた。
星は見えない。
けれど、サウナ小屋から立ち上るわずかな湯気だけが、暗い空に向かって静かに伸びていた。
⸻
翌朝。
サウナ小屋の前に、村人たちが集められた。
子どもたちは湯気隊。
大人たちはサウナ番見習い。
そして俺は、見守り役。
「今日は、レンがほとんど手を出さない」
ルミ婆さんが宣言すると、村人たちがざわついた。
「大丈夫なのか?」
「石はレンにしか出せないだろ」
「患者を悪くしたらどうする」
不安の声が上がる。
俺も不安だった。
だが、ルミ婆さんはまったく揺れなかった。
「だから練習するんだよ。レンが倒れたら終わり、では困るだろう」
その一言で、村人たちは黙った。
俺は前に出る。
『サウナストーンは俺が出します。でも、その後の管理はみんなにやってもらいます』
ダグが腕を組んで聞く。
「温度はどう見る?」
『まずは俺が確認して伝えます。その感覚を覚えてください。熱すぎる時、ぬるすぎる時、ちょうどいい時。体で覚えるしかないです』
「体で覚えるのか」
『はい。でも、我慢じゃないです。危ない熱さは危ない。そこは間違えないでください』
ノルが手を挙げる。
「湯気隊は何する?」
『水とヴィヒタの準備。あと、患者さんの顔色を見る。ただし、熱い石には近づかない』
「はい!」
イルも真剣に頷く。
「私は、患者さんの呼吸を見ます」
『頼む』
村長が一歩前へ出た。
「本日の治療は二人。重症者ではなく、足から膝まで凍っている者を選んだ。練習も兼ねるため、無理はしない」
ルミ婆さんが頷く。
「今日は治す日じゃない。流れを覚える日だ」
治す日じゃない。
その言葉は大事だった。
村人たちは、どうしても一度で良くなることを期待してしまう。
でもサウナ治療は、今のところ少しずつ進めるしかない。
温める。
浮かせる。
冷ます。
休ませる。
焦れば、逆に危ない。
『じゃあ、始めましょう』
俺は炉の前に立ち、サウナストーンを出した。
『サウナ』
赤い石が現れる。
ここから先は、村人たちの番だ。
ダグが薪を整える。
「このくらいか?」
『少し多い。今日は温度を上げすぎない』
「なるほど」
ダグは薪を一本抜いた。
ルミ婆さんが蟒蛇草の煎じ水を用意する。
「濃さは薄めだ。今日はこれでいい」
イルがヴィヒタを確認する。
「葉っぱは柔らかいです。黒ずんでいません」
ノルが水桶を持ち上げる。
「こぼしてません!」
『それは偉い』
ノルは誇らしげに胸を張った。
最初の患者は、年配の男性だった。
足首から膝にかけて薄く氷が張っている。
意識はあり、自分で話すこともできる。
「本当に入るのか、この小屋に」
不安そうだった。
『苦しくなったらすぐ出ます。今日は短くいきます』
「わかった。レンを信じる」
『今日は俺じゃなくて、みんなを信じてください』
男性は少し驚いた顔をしたあと、村人たちを見た。
ダグ。
ルミ婆さん。
イル。
ノルたち湯気隊。
村長。
そして、小さく頷いた。
「そうだな。村のみんなを信じる」
俺は一歩下がった。
治療が始まる。
ダグが扉の幕を調整する。
ルミ婆さんが煎じ水を少しだけ石にかける。
ジュワ。
蒸気が上がる。
イルが患者の顔を見る。
「顔色、大丈夫です」
ノルが外から声を出す。
「水、準備できてます!」
ダグが緊張した顔でヴィヒタを持つ。
「これで叩くのか?」
『軽く。叩くというより、触れるくらい』
「こうか?」
ぽん。
少し強い。
患者が「おう」と声を出す。
『もう少し優しく』
「難しいな」
ぽん。
今度はちょうどいい。
白霜樺の香りが広がる。
患者の足元から、細い黒いもやが浮かんだ。
ダグがぎょっとする。
「出たぞ!」
『慌てない』
ルミ婆さんが言う。
「ヴィヒタで受けるんだ。強く追い出そうとするな」
ダグは息を吐き、もう一度軽くヴィヒタを振った。
黒いもやが葉先に絡む。
葉が少し黒ずむ。
イルが言う。
「呼吸、少し早いです」
『出そう』
ダグと村人たちが患者を外へ運ぶ。
冷却浴へ。
ノルたちが水の準備をする。
「冷たすぎません!」
「青脈石、入ってます!」
「白霜樺も浮かべてます!」
患者は足先を冷却浴へ入れた。
「おお……変な感じだ」
『痛くないですか?』
「痛くはない。冷たいが、嫌じゃない」
水面に黒い糸が浮かぶ。
青脈石が淡く光る。
イルがそれを見て、小さく息を呑んだ。
「水が、受け取ってる……」
その表現は、妙にしっくりきた。
水が呪いを受け取り、薄めている。
冷却浴の意味が、少しずつ形になってきている。
最後に外気浴。
丸太の椅子に座らせ、毛皮をかける。
ノルが得意げに言った。
「休むのも仕事です!」
患者は目を閉じて、深く息を吐いた。
「……ああ。これは、いいな」
その一言で、周りにいた村人たちの表情が少し緩んだ。
俺は何もしていない。
いや、サウナストーンは出した。
でも、それ以外は村人たちがやった。
サウナ小屋が、少しだけ村のものになった気がした。
⸻
二人目の治療も、大きな問題なく終わった。
もちろん完璧ではない。
ダグは一度、温度を上げすぎかけた。
ノルは水を一度こぼした。
イルは患者の変化に気づいて止めたが、その判断が早すぎるか遅すぎるかでルミ婆さんと話し合っていた。
でも、それでいい。
失敗しながら覚えていくしかない。
治療が終わったあと、村長がサウナ小屋の前に立った。
「今日の流れを、村の決まりとしてまとめる」
村人たちが集まる。
村長は木板に炭で書かれた文字を読み上げた。
一、熱い石には素手で触れない。
一、患者を一人にしない。
一、苦しそうならすぐ出す。
一、冷却浴の水は毎回確認する。
一、外気浴では必ず休ませる。
一、レンに無茶をさせない。
最後の一文で、村人たちが頷いた。
『そこ、村の決まりに入ります?』
「入る」
村長が即答した。
ルミ婆さんも言う。
「最重要項目だね」
ノルが元気よく叫ぶ。
「レンを休ませる!」
子どもたちが続く。
「休ませる!」
『俺、そんなに信用ない?』
イルが真顔で言った。
「ないです」
村人たちが笑った。
その笑い声は、昨日よりも大きかった。
サウナ小屋の周りに、少しずつ人の声が戻っている。
それが何より嬉しかった。
その時だった。
頭の中に、静かな声が響いた。
条件:村人の安全な自立運用。進行中。
達成率:三割。
『三割か……』
イルがこちらを見る。
「どうしました?」
『スキルの条件が少し進んだみたい』
「サウナーLv4ですか?」
『うん。でもまだ三割』
「じゃあ、あと七割ですね」
『簡単に言うなぁ』
イルは少し笑った。
「でも、進んでるなら大丈夫です」
その言葉に、俺も少し笑った。
そうだ。
進んでいる。
少しずつでも。
⸻
夕方。
俺はルミ婆さんの家で、今日の記録を書いていた。
患者二名。
一人目、足首から膝まで凍結。
低温サウナ四分。
ロウリュ少量一回。
ヴィヒタ接触三回。
冷却浴、足のみ二分。
外気浴八分。
氷が足首まで後退。
二人目、足先からすねまで凍結。
低温サウナ三分。
ロウリュなし。
室内蒸気のみ。
冷却浴一分。
外気浴十分。
痛み軽減。
こうして記録すると、少しずつ形になっているのがわかる。
『治療っていうより、手順になってきたな』
「手順は大事だよ」
ルミ婆さんが薬草を刻みながら言った。
「奇跡は一度きりだが、手順は繰り返せる」
『いい言葉ですね』
「年寄りはたまにいいことを言うんだ」
俺は木板に新しい見出しを書いた。
サウナ小屋手順書
サウナ室。
ロウリュ。
ヴィヒタ。
冷却浴。
外気浴。
水分。
休息。
それから、最後にこう書いた。
無理をしない。
ルミ婆さんがそれを見て笑う。
「自分に一番読ませたいね」
『はい……』
その時、扉が開いた。
入ってきたのは村長だった。
表情が硬い。
『どうしました?』
村長は俺とルミ婆さんを見た。
「森の見張りが戻った」
ルミ婆さんの手が止まる。
「何かあったのかい」
村長は低く言った。
「森の入口に、凍った花が置かれていた」
『花?』
「白い花だ。茎も葉も凍っていたが、砕けずに形を保っていた」
ルミ婆さんの顔色が変わった。
「まさか……」
『知ってる花ですか?』
村長は懐から布に包まれたものを取り出した。
そっと開く。
中には、白く凍った小さな花があった。
花びらは透明に近い氷になっている。
だが、中心だけが淡く青く光っていた。
頭の中に文字が浮かぶ。
霜還りの花
凍呪により変質した花。
強い記憶の残滓を宿す。
熱に反応する。
『記憶の、残滓……?』
俺が呟くと、ルミ婆さんが息を呑んだ。
「それは、昔この村で葬いの時に使っていた花だよ」
『葬い……』
「亡くなった者に手向ける花だ。冬になる前は、村の南の丘に咲いていた」
村長が続ける。
「今はもう、丘ごと雪に埋もれている。咲くはずがない」
『それを雪女が置いた?』
「おそらくな」
俺は凍った花を見る。
返して。
雪女の声がよみがえる。
返してほしいもの。
それは、誰かの命なのか。
記憶なのか。
村の春なのか。
花の中心の青い光が、わずかに揺れた。
その瞬間、部屋の空気が一気に冷えた。
サウナストーンもないのに、俺の指先が冷たくなる。
ルミ婆さんが鋭く叫んだ。
「布を閉じな!」
村長が慌てて花を包む。
空気の冷たさが少しだけ和らいだ。
『今のは……』
「雪女からの誘いか、警告か」
ルミ婆さんは低く言った。
「どちらにせよ、向こうもこちらに触れてきた」
俺は布に包まれた花を見つめる。
霜還りの花。
記憶の残滓。
熱に反応する。
サウナの熱で、何かが見えるのだろうか。
それとも、思い出してしまうのだろうか。
村長が重い声で言った。
「レン。森にはまだ入るな」
『わかってます』
「本当にか」
『本当にです』
疑われすぎである。
だが、今はそのくらいでいい。
俺は無茶をしがちだ。
それはもう、村全体にバレている。
ルミ婆さんはしばらく考え込み、やがて言った。
「その花は、明日サウナ小屋で調べる」
『サウナ小屋で?』
「熱に反応するんだろう。なら、あそこが一番制御しやすい」
村長が頷く。
「見張りを増やす。今夜は森へ近づくな」
話は決まった。
村長が帰ったあと、俺はもう一度手順書を見た。
サウナ小屋手順書。
そう書いたはずだった。
だが、木板の横には、ノルがいつの間にか落書きしたらしい文字があった。
湯気小屋のきまり
『……湯気小屋?』
俺が呟くと、ルミ婆さんが笑った。
「ああ、村の子どもたちはもうそう呼んでるよ」
『サウナ小屋じゃなくて?』
「レンにはサウナ小屋なんだろうけどね。村の連中には、湯気が立つ小屋だから湯気小屋だ」
俺は少しだけ黙った。
サウナ小屋。
前世の俺にとっては、その名前がしっくりくる。
熱い部屋。
水風呂。
外気浴。
ととのう場所。
でも、この村の人たちにとって、最初に見えたのは白い湯気だった。
凍った村に立ち上る、温かい湯気。
それはきっと、彼らにとって希望の形だったのだ。
『湯気小屋か……』
悪くない。
むしろ、この村にはその方が合っている気がした。
俺は木板の見出しを少しだけ書き直した。
サウナ小屋手順書
その下に、小さく付け加える。
ゴーウ村では、湯気小屋と呼ぶ。
ルミ婆さんがそれを見て、満足そうに笑った。
「ようやく村の言葉になってきたね」
俺は頷いた。
サウナは、俺の世界の言葉だ。
でも湯気小屋は、この村の言葉だ。
ならきっと。
この場所は、少しずつ俺だけのものではなくなっている。
ゴーウ村のものになり始めている。
そのことが、俺には少しだけ嬉しかった。




