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サウナーと呪い

サウナーと呪い


霜還りの花を湯気小屋に置くようになってから、村の空気は少し変わった。


雪女。


いや、シェラ。


その名前が村に戻ったことで、何かが劇的に解決したわけではない。


凍呪に侵された人たちは、今も寝床で眠っている。

食料は少ない。

薪も限りがある。

森の奥には雪女がいる。

王都の方角には、黒い塔があるらしい。


何も終わっていない。


けれど、村人たちはシェラの名を口にするようになった。


「あの子はよく走っていたな」


「薬草を抱えて、ルミ婆さんの後ろをついて回っていた」


「うちの子が熱を出した時も、シェラが薬を持ってきてくれた」


年配の村人たちが、ぽつりぽつりと記憶を語る。


若い者たちは、それを初めて聞く。


子どもたちは、湯気小屋の隅にある小さな棚を時々見ていた。


そこには、霜還りの花が置かれている。


布に包まれた氷の花。


湯気に触れるたび、中心の青い光がわずかに揺れた。


ノルたち湯気隊は、その棚の前を通るたびに少しだけ静かになる。


「シェラさん、今日も湯気出てるよ」


ノルがそう声をかけているのを見た時、俺は少し泣きそうになった。


名前を呼ぶこと。


忘れないこと。


それだけで、凍ったものが少しだけ緩むのかもしれない。


だが同時に、村人たちの怒りが消えたわけではなかった。


それも当然だ。


家族を失った者がいる。

今も家族が凍っている者がいる。

シェラの過去を知ったからといって、その痛みが消えるはずがない。


その重さを抱えたまま、村は前へ進もうとしていた。



その日の治療は、朝から始まった。


正式にはサウナ小屋。


けれど村人たちは、もうすっかり湯気小屋と呼ぶようになっていた。


俺も最近は、あまり訂正しなくなっている。


湯気小屋の前では、ダグが薪を割っていた。


ノルたち湯気隊は、水桶を運んでいる。


イルは白霜樺のヴィヒタを確認していた。


「レンさん、これは少し葉が硬いです」


『じゃあ治療用じゃなくて、香り用にしようか』


「香り用?」


『サウナ室に吊るしておくと、少し匂いが出るかもしれない』


「さうな室……湯気小屋の中ですか?」


『そう。湯気小屋の中』


イルは少し嬉しそうに頷いた。


こうやって、俺の知っているサウナの言葉と、村の言葉が少しずつ混ざっていく。


それが不思議で、少し楽しかった。


今日の患者は三人。


うち一人は、胸の下まで凍呪が進んでいる重めの患者だった。


名前はベイル。


村の炭焼き職人らしい。


三日前までは歩けていたが、昨夜から急に進行が早くなったという。


ルミ婆さんは慎重な顔をしていた。


「今日は無理に抜ききろうとするんじゃないよ」


『はい。浮いた分だけ』


「そうだ。あんたはすぐ全部どうにかしようとするからね」


『そんなことは……ありますね』


「あるんだよ」


俺は素直に頷いた。


最近、無茶をする前に周りから止められるようになった。


ありがたいことだ。


少し恥ずかしいけど。


ベイルは湯気小屋の低い台に寝かされた。


顔色は悪い。

唇も紫色に近い。


胸の下から足先まで、薄い氷に覆われている。


見ているだけで、体が冷たくなるようだった。


『温度、三十六度。範囲、この小屋。湿度、高め』


サウナストーンの熱が、ゆっくり広がる。


蟒蛇草の煎じ水を、ほんの少しだけかける。


ジュワ。


白い蒸気が立つ。


白霜樺の香りが混ざる。


俺はヴィヒタを手に取り、ベイルの凍った部分の近くへそっと当てた。


ぽん。


黒いもやが、すぐに浮かんだ。


『早いな……』


ルミ婆さんの顔が険しくなる。


「濃いね」


黒いもやは、これまで見たものよりも濃かった。


糸というより、細い蛇のようにうねっている。


ヴィヒタの葉先に絡みつき、黒く染めていく。


『一度止めます』


「そうしな」


だが、その瞬間。


ベイルの胸元の氷が、ぴしりと音を立てた。


『まずい』


黒いもやが一気に広がる。


小屋の空気が冷えた。


イルがベイルの顔を見て叫ぶ。


「呼吸が浅いです!」


『出そう!』


ダグがすぐに動いた。


ベイルを持ち上げようとする。


だが、黒いもやが床を這い、ダグの足元へ伸びた。


「なんだこいつ!」


『触るな!』


俺は反射的に熱波を送ろうとした。


しかしルミ婆さんが鋭く叫ぶ。


「強くやるな! 患者ごと持っていかれる!」


『っ……!』


俺は歯を食いしばる。


熱波で吹き飛ばせば、黒いもやは散るかもしれない。


だが、ベイルの体に残る凍呪も荒れる可能性がある。


無理に引き剥がせば、体に負担がかかる。


サウナは我慢大会ではない。


治療も、力任せでは駄目だ。


『温度、少し下げる。三十二度』


サウナストーンの熱を落とす。


同時に、湿度を保つ。


蒸気を消しすぎず、熱を強くしすぎず。


黒いもやは動きを鈍らせた。


『イル、ベイルさんの呼吸は?』


「まだ浅いです。でも、さっきより少し……」


『ダグ、今のうちに外へ』


「おう!」


ダグがベイルを抱え、外へ運ぶ。


俺も後に続く。


冷却浴へ足だけを入れる。


水面が黒く濁った。


青脈石が淡く光る。


だが、濁りはすぐには消えない。


ノルが不安そうに声を出した。


「レン、これ大丈夫?」


『わからない。でも、水を替える準備をして』


「はい!」


ノルたち湯気隊が走る。


イルはベイルの手を握り、顔色を見ている。


「ベイルさん、聞こえますか?」


ベイルのまぶたが少しだけ動いた。


「……さむ、い……」


イルが俺を見る。


俺は頷く。


『冷却浴はここまで。外気浴へ』


「でも、まだ黒いのが」


『長く入れすぎても危ない』


水風呂も冷却浴も、長く入ればいいわけじゃない。


締めるためのものだ。

壊すためのものじゃない。


ベイルを外気浴の椅子へ移す。


毛皮をかけ、風よけの白霜樺の囲いを調整する。


しばらくすると、ベイルの呼吸が少し落ち着いた。


俺は長く息を吐く。


『危なかった……』


ルミ婆さんが水面を見つめている。


「今のは、ただの凍呪じゃないね」


『違うんですか?』


「ああ。まるで、何かが奥から引っ張っているみたいだった」


『奥から……』


俺は冷却浴の水を見る。


黒い濁りは、青脈石に薄められながらも、完全には消えていない。


今までの凍呪は、患者の体から浮かせて、水やヴィヒタで受け取ることができた。


でも今のものは違った。


抜こうとすると、奥からさらに引っ張られる。


まるで、根がついている。


いや。


根というより、どこかと繋がっている。


『呪いの本体は、ここにはない……?』


思わず呟く。


ルミ婆さんが俺を見る。


「どういう意味だい」


『患者さんの中にある呪いは、たぶん一部だけです。根っこみたいなものが、別の場所に繋がってる』


「森か」


村長が低く言う。


『おそらく』


森の奥。


雪女。


シェラ。


そしてさらにその奥にあるかもしれない、凍呪の源。


俺は湯気小屋の隅に置かれた霜還りの花を見る。


青い光が、ほんの少しだけ揺れていた。



その日の治療を終えたあと、俺は冷却浴の水面を見つめていた。


水はすでに取り替えた。


だが、さっきの黒い濁りの感覚が、頭に残っている。


強い。


あまりにも強い。


雪牙狼を呪化させる。

村の水を濁らせる。

温めたスープをすぐに冷やす。

人の体を内側から凍らせる。


そんな力があるなら、もっと簡単に村を壊せてもおかしくない。


なのに、ゴーウ村はまだ残っている。


家は建っている。

人は生きている。

湯気小屋には人が集まっている。


もちろん、村人にとって凍呪の進行は遅くなんてない。


イルの父親は砕けた。

何人もの村人が消えた。

今も苦しんでいる人がいる。


けれど、呪いの力そのものを考えると。


『……やっぱり、変だ』


イルが近くで白霜樺の枝を束ねていた手を止めた。


「何がですか?」


『この呪い、かなり強いはずなんだ』


「はい……」


『でも、進み方が妙に遅い』


イルの顔が少し強ばる。


『いや、苦しんでる人にとっては十分早い。怖いくらい早い。でも……本当に雪女が村を滅ぼしたいなら、もうとっくに終わってる気がする』


自分で言って、背筋が冷えた。


そのくらい、凍呪の力は強い。


村全体を一瞬で氷漬けにすることだって、できそうに思えた。


だが、そうはなっていない。


『雪女は、どうして直接村に入ってこないんだろう』


イルは何も言わなかった。


『どうして、森の奥から見ているだけなんだろう』


サウナ小屋の中に、静かな湯気が漂う。


俺は続ける。


『どうして、呪いは少しずつ漏れるように村へ広がってるんだろう』


「漏れる……」


イルがその言葉を繰り返す。


俺は森の方を見る。


白い影がいた場所。


『わからない。ただ、何かがおかしい』


その時だった。


湯気小屋の隅に置かれた霜還りの花が、ほんの一瞬だけ青く光った。


『……今の』


「光りました」


イルも気づいていた。


花の光はすぐに弱まる。


まるで、答えを教えたいのに、まだ言葉にならないようだった。


俺は花のそばへ近づく。


『シェラさん……?』


返事はない。


ただ、花びらの奥で青い光が揺れている。


その光を見ていると、胸の奥がざわついた。


まるで、誰かが遠くで必死に何かを押さえているような。


そんな感覚。


「考えすぎるんじゃないよ」


ルミ婆さんの声がした。


振り返ると、彼女が入口に立っていた。


「雪女に事情があるのはわかった。だが、村人を凍らせている事実は変わらない」


『……はい』


「同情で目を曇らせるな。でも、怒りだけで見るな」


ルミ婆さんは霜還りの花を見る。


「どちらかに傾いたら、たぶん見えるものも見えなくなる」


その言葉は、重かった。


俺は頷く。


『わかりました』


わかった、と言いながら、本当にわかっているのかは自信がない。


雪女はシェラだった。


村へ帰りたかった少女だった。


でも、村人を凍らせた存在でもある。


どちらかだけを見れば楽だ。


可哀想な被害者として見るか。


恐ろしい加害者として見るか。


でも、たぶんどちらでも足りない。


サウナと同じだ。


熱だけでも駄目。

冷たさだけでも駄目。

休ませる時間もいる。


見方もきっと、ひとつでは整わない。



夕方。


村長とルミ婆さんは、見張りの配置を増やす相談をしていた。


ダグは南門の補強をしている。


ノルたち湯気隊は、治療に使った水桶を洗っていた。


俺はイルと一緒に、霜還りの花の棚を整えていた。


ノルたちが作った白い木の花も、そこに置かれている。


本物の霜還りの花は布に包まれ、その隣にあった。


『この棚、少し暖かすぎるかな』


「花は溶けないんですよね?」


『溶けないけど、反応しすぎるのも怖い』


「じゃあ、少しだけ湯気が当たる場所にしますか?」


『うん。その方がいい』


イルは白霜樺の枝を小さく組み、棚の周りに風よけのようなものを作った。


手先が器用だ。


『イル、こういうの上手いな』


「お母さんに、細かいことは丁寧にって言われてました」


そう言って、イルは少し笑う。


その笑顔を見ると、やはり早く母親とリナを目覚めさせたいと思う。


焦るな。


自分に言い聞かせる。


焦れば、壊す。


熱を上げすぎた時のことを思い出す。


九十二度の家。


イルが飛び出したあの失敗。


あれと同じことを、治療でやってはいけない。


その時、外からノルの声が聞こえた。


「レン! 水桶きれいにした!」


『ありがとう。こぼした?』


「ちょっとだけ!」


『ちょっとなら偉い』


「やった!」


基準が甘くなっている気がする。


でも、今はそれでいい。


湯気隊も少しずつ成長している。


村全体が、少しずつサウナ小屋を動かせるようになっている。


サウナーLv4の条件。


村人の安全な自立運用。


まだ三割程度だが、進んでいる。


問題はもうひとつ。


凍呪の源泉への接触。


こちらは、霜還りの花で一部達成した。


でも、まだ足りない。


シェラ本人と向き合わなければならないのだろう。


森の奥で、雪女になった少女と。



夜。


サウナ小屋の見張りを交代する頃、村は静まり返っていた。


雪は降っていない。


代わりに、細かな氷の粒のようなものが空気中を舞っている。


南門の方では、ダグたちが焚き火を囲んでいる。


湯気小屋の中では、サウナストーンが弱く赤く光っている。


俺は外気浴用の椅子に座り、森の方を見ていた。


イルも隣にいる。


「レンさん、寝なくていいんですか?」


『少ししたら寝るよ』


「本当ですか?」


『本当』


「ルミ婆さんに言いますよ」


『信用がない』


「ないです」


いつものやり取りに、少しだけ笑う。


その時だった。


森の方から、冷たい風が吹いた。


湯気小屋の入口の布が、小さく揺れる。


俺はすぐに立ち上がった。


イルも森を見る。


風の中に、声が混じっていた。


――止めて。


俺は息を呑む。


『今……』


イルが小さく頷いた。


「返して、じゃなかったです」


そう。


今の声は、前とは違った。


返して。


忘れないで。


そして今度は。


止めて。


森の奥は暗い。


白い影は見えない。


けれど、確かに誰かがそこにいる。


俺は拳を握った。


雪女は、何を止めてほしいのか。


自分自身か。


呪いか。


それとも、黒い塔なのか。


答えはまだ見えない。


ただ、俺の中の違和感は、少しずつ形を持ち始めていた。


『イル』


「はい」


『明日、もう一度霜還りの花を調べよう』


「また記憶を見るんですか?」


『たぶん。でも今度は、シェラさんが何を止めてほしいのかを探す』


イルは森を見つめたまま頷いた。


「私も見ます」


『怖いかもしれない』


「怖いです」


イルは正直にそう言った。


「でも、知らないままの方がもっと怖いです」


その言葉に、俺は何も言えなかった。


八歳の少女に、また重いものを背負わせている。


それでも、イルはもう逃げない。


俺も逃げられない。


森の奥から、もう一度だけ冷たい風が吹いた。


今度は声は聞こえなかった。


ただ、湯気小屋の隅に置かれた霜還りの花が、布の中でかすかに青く光った。


まるで、助けを求める合図のように。


俺は深く息を吸った。


冷たい空気が肺に入り、ゆっくり吐き出すと白く広がる。


『止めるよ』


誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


シェラにか。

凍呪にか。

黒い塔にか。


それとも、何も知らずに怖がっている自分自身にか。


『何を止めればいいのか、必ず見つける』


森は答えなかった。


けれど、遠くで何かが泣いたような気がした。


その夜、湯気小屋の白い蒸気は、いつもより少しだけ長く空へ昇っていた。

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